バナー画像 お気に入り登録 応援する

文字の大きさ

 それからしばらく、エステや美容院、ネイルサロン、アロママッサージに通い、洋服や靴を新調した。
 自分のためにお金を使うのは気持ちがいいし、ちやほやしてくれる男も増えて、わりとすぐに直之くんのことなど頭から消えた。
 だって私は直之くんのことが好きだったわけじゃない。
 あくまでも彼の医者という肩書、そしてその妻という人生を手に入れられなかったことが悔しく、虚しかったのだ。

 会社では町田くんがやたらと気を遣ってきて、うざったかった。
 スタバのクッキーとかスコーンなんかを、なにかにつけて差し入れしてきたし、地雷を踏まないように気をつけながら話しているのが見え見えだった。
 高坂さんは「最近、沢井さん綺麗になったね」と自分への投資を褒めてくれて、やっぱり木原さんの言うように周りをよく見ているんだなと気付いた。
 それも含めて、私にずけずけと言ってのけた当の本人はというと、いつもと変わらず飄々としている。
 町田くんのように気にかけられるのも面倒だったので、むしろその態度にホッとした。

 婚活の方は合コンを切り捨てて、婚活パーティーにシフトした。
 合コンは結婚相手を探しにくる人が少ないことを、今更ながら認識した。
 我ながら遅いと思う。そんなことは考えればすぐに分かるはずなのに。
 でも、きっと、本当は。
 貧乏暮らしを経験しすぎたせいで、第一目標が裕福な相手と結婚することになってしまっただけで。
 本当は誰よりも、夢をみてしまっているのかもしれない。
 幸せな結婚の前に待っている、幸せな恋に。
 お金持ちの王子様が、私を一目で見初めて、求愛し、一生安泰で幸せな生活が待っているお城に連れて帰ってくれることに。
 初恋とか、甘酸っぱい恋を、目的のために知らず知らずのうちに封じ込めてしまっていた。

 だから自分でも気付かずに、結婚相談所や婚活パーティーに申し込むのではなく、合コンや会社での出会いに希望を見出そうとしていたのかもしれない。
 そんなことに気付くと、幼少期、父という、たった一人の男に愛されることの叶わなかった母とディズニー映画のプリンセスを見比べて、泣きたくなったのを我慢した記憶まで甦った。
 木原さんに言われてから、驚くほど自分自身を見つめ直す時間が増えている。
 彼の言うことは悔しいけれど的を得ていたし、最初は「こんな唐変木に言われたくない」などと思っていたのに、もうそんな風に怒りも湧かなくなった。
 きっと木原さんも何を考えているのかよく分からないように見せかけて、高坂さんに負けず劣らず周りをちゃんとよく見ている。
 そして四つ上の年齢のせいもあるかもしれないけれど、私よりも、幾分、大人だった。

 年収八百万円以上、四十歳未満のくくりのある婚活パーティーに参加しても、年齢のせいか私はモテた。
 回転寿司のように代わる代わる自己紹介を終えると、やってくるフリータイム。
 会場を見回しても、どの女性のところよりも一番、人だかりができている。
 男たちは口々に私を「可愛いね」とか「良い奥さんになりそうだね」と言った。
 でも私は彼らに微笑みかけながら、素直に喜ぶことができずにいる。
 以前なら、この中から一番爽やかなタイプを捕まえて、さっさとデートの約束にこぎつけるくらいのバイタリティーはあったはずなのに。
 口々に私を褒めちぎる高そうなジャケットや腕時計を身につけた男たちを眺めながら、耳の奥にはあの日の木原さんの言葉が響いていた。

「沢井は上辺でしか相手を見ない。だから、お前自身も上辺でしか見てもらえないんじゃないのか」

 だって、上辺でしか見ない以外の方法を、私は知らない。分からない。
 この人たちの中身なんて、分からないし、分かりっこない。
 木原さんの言う正論は、私の心を侵していく。迷いが生じて、判断能力が鈍る。
 最後に今日の一番の相手を用紙に書く段になっても、私は誰の名前を書いていいのかも、そもそも今日出会った人たちの名前すら分からなかった。
 おかしい。
 木原さんのあのガラス玉みたいな目が、脳裏をよぎった。
 ――今日の参加費、無駄になっちゃったな。
 いっそ、今日のために使った美容院代も含めて、木原さんに全額請求してやりたいくらいだった。

 例の大企業との取引は無事に成立し、今後は私と木原さんで担当することになった。
 けれど、あんな「若い子と飲みたい」なんて平気で言っちゃうような前時代的なセクハラオヤジが部長だからなのか、取引相手としては最悪だった。
 無理難題を押し付けられたり、突然、今から打ち合わせしたいとあちらに呼びつけられたりと、こちらを低く見ている姿勢が透けて見えていた。
 だから定時間近に、突然、立川にある支店に行って打ち合わせしてきてくれと言われても驚かなかった。
 西新宿のオフィスから電車で片道四十分ほど。
 私は「またか」と思いながらも、お互いにもうアポのなかった木原さんと連れ立って新宿駅からJR中央線の快速電車に乗り、立川に向かう。

 帰宅ラッシュの始まっている電車内で、二人でドア付近に立った。
 窓のむこうを薄紫の夕焼けを背景に、灯りをともし始めた家々が流れていく。
 最近は随分と日が伸びた。
 窓ガラスに映る、飄々とした木原さんの横顔を眺める。
 黙っているのも気が引けて、なんとはなしに世間話をしかけた。
 不思議と木原さんの前では、彼の言うところのあけすけになる。

「大手だからって完全に馬鹿にしてますよね。こんな時間でなくてもいいはずだし、急を要するならWEB会議でも良くないですか?」

 木原さんが無表情のまま鼻で笑った。

「理不尽だと思うか?」
「思います。今回のことだけじゃなくて、今までの扱い全部」
「でも、これも仕事だろう」
「理不尽なことがですか?」

 彼の横顔が小さく頷く。揺れる車内でも、彼の背筋は伸びていた。

「そうだ。金を稼ぐことは簡単なことじゃない。理不尽なことでも耐え忍んでいれば、うちの会社にとっては利益になるんだ。納得がいかなくても、みんな、何かしらそういう思いを抱えながら働いている」
「それが働くってことなら、やっぱり私は早く寿退社したいです」
「したければ、すればいい。医者でも社長でも、金持ちを捕まえられるといいけどな」
「意地悪ですね」

 私が感情を隠しもせずに苦々しくつぶやくと、木原さんはため息をついた。

「沢井が望んでいることだろう。それで? 良い相手は見つかったのか?」

 首を振って、頭の中で最近の婚活を振り返った。
 あんな状態で見つかるわけがない。

「木原さんは以前、私が上辺でしか人を見ていないといいましたね」
「あぁ」
「相手のことを、上辺で以外に、どう見ていいのか分からないんです。どうしたら、ちゃんと恋ができるのかも」

 木原さんは静かに私を見ている。

「恋なんて、しようとしてできるもんでもないだろう。……沢井は上辺だけを愛されて、本当の意味で求められない人生で満足なのか?」
「木原さんは、いつも全部分かったようなことを言いますね」

 愛されない人生なんて壮大なことを言う彼の態度にちょっと苛立って、私は唇を尖らせた。

「じゃぁ、木原さんは本当の恋、したことがあるんですか?誰かをちゃんと愛したこと、ありますか?」

 その瞬間、私たちの乗る電車が立川駅のホームに差し掛かり、大きく揺れた。
 混雑した車内でつり革に掴まっていたものの勢いに足を持っていかれて、ぐらっとバランスを崩す。
 ――うそ。
 私は一瞬で真っ直ぐに立つ木原さんの胸の中にいて、意外にも力強い腕にしっかりと支えられていた。
 ドクドクと心臓が激しく音をたてる。耳が、頬が、全身が熱い。
 ――木原さん、意外と胸板あるんだ……。
 一呼吸の間に身体を押し戻されて、彼の体温が離れていく。
 木原さんは何もなかったような顔でこちらを見ると、私を抱きとめたことなどまるでなかったような口ぶりで「あるよ」と呟いた。
 その声が、エコーがかかったみたいに頭に響いて、動けなくなる。
 木原さんが本気で愛した人。
 まわりの光景がスローモーションになって、自分でも予想していなかった現象が私の中で起こった。
 胸の奥がチリっと焦げたように、ちょっと痛む。
 ――なに、これ。
 そう思った時には感覚が戻ってきて、到着を告げるアナウンスが耳に流れ込んでくる。
 ドアが開いて、木原さんは私を振り返りもせずに電車から降りてしまった。
 降車する乗客の波に押されて、私もよろよろとホームに降り立つ。
 ちょっと先を歩いていく彼の背中は、やっぱりぴんと伸びていた。

 昭和記念公園のそばにある事務所で打ち合わせを終えると、もう二十一時を回っていた。
 長い一日だったし、お腹もすいた。ここから都内の自宅に帰ることを考えると、余計に疲れが増す。
 IKEAの横を多摩モノレールが通過するのを眺めながら、立川駅まで歩く。 
 電車の中での一件のせいで、打ち合わせ中もずっとそわそわしてしまったけれど。
 時間帯のせいか少し静かで暗い道を木原さんと二人で歩くのは、なんだか落ち着かなかった。
 木原さんは誰かに本気で恋をして、愛したことがあるんだ。
 アラサー男性で恋愛経験が一度もないわけがないと、ちょっと考えたら分かるはずなのに、衝撃が大きかった。
 だって、木原さんはどこまでも底が見えないから。
 無表情で、何を考えているか分からなくて、空気の見えないようなことを言うくせに、きっと人一倍、周りを見ていて。
 そんな人が本気で愛した人って、どんな人なんだろう。
 私が喋りかけるまでずっと無言で帰るつもりなのか、隣を歩く彼は何も言わない。
 ――なんでこんなに木原さんのことばっかり考えないといけないの。
 なんだかまた少し腹が立ってきて、私は深いため息をついた。
 すると木原さんがこちらをちらっと横目に見て、立ち止まる。

「どうしました?」

 私の問いかけを無視して、彼は空を見上げて視線を巡らせている。
 首を傾げながら、木原さんの視線の先を追った。
 新宿のオフィス街や、ごみごみと住宅が密集し、遠くににょきにょきとそびえる高層ビルやタワーマンションを臨む自宅マンションから見る空と全然違う。
 空が広い。
 星、こんなに見えるんだ。

「見ろ」

 木原さんの凛とした声がする。
 彼が人差し指を伸ばして、ひしゃく型に並んだ星々を指示している。
 星座なんて小学校の理科で学んで以来だ。
 それでもこの有名な星座の名前くらいは、さすがに知っている。

「北斗七星ですか?」
「そうだ。その取っ手の先から少し移動して……」

 言いながら、木原さんの指が夜空をすーっとなぞる。
 ゆるくカーブを描きながら移動した先で、その細い指が止まった。

「あそこにオレンジ色に光る星が見えるか?」

 木原さんの指の先に、ちょうど淡く橙色に輝く星があった。
 頷くと「あれがうしかい座のアルクトゥールス。そして、そのちょっと先……」とまた指が移動していく。
 さっきのようにカーブを描きながら、少し下に向かってすぐに止まる。

「あの白く明るい星が、スピカだ」
「急にどうしたんですか?」

 木原さんは私の言葉に構わず続ける。

「スピカはおとめ座の中で、一番明るく光る星だ。スピカとアルクトゥールスは春の夫婦星と呼ばれている。スピカの真珠星とも言われる白い光と、アルクトゥールスのオレンジ色の光。その対照的な輝きを男女に見立て、夫婦星と呼ぶようになったんだ」

 ――なに、うんちく?

「……夫婦っていうわりに、ずいぶん離れてませんか?」

 隣を見やると、私のその言葉に木原さんが満足そうに頷いていた。

「そうだろう。でも実はアルクトゥールスはスピカに向かってどんどん近付いているんだ。六万年後には二つの星はまさに夫婦のように隣り合って並ぶと考えられている」

 それがなんだっていうの。私のため息と、婚活に重要な話?
 木原さんが私をじっと見つめた。いつもの、感情の読めない三白眼。

「お前自身が強く清廉に輝いていれば、ゆっくり時間をかけてでもお前の良さに気付いて歩み寄ってくれる男は必ず現れる。なにも焦ることはないんだ」
「清廉に輝くって……」

 そんなの、どうしろって言うのよ。
 途方に暮れて今にも泣きだしたくなる。
 それなのに、スピカと呼ばれているというその星の光をしばらく見つめていると、木原さんの言葉がじわじわと心に染みわたり、温もりをもつようだった。
 ――綺麗な光。

「スピカを抱くおとめ座のように、一つでいい。しっかりと輝くものを持った女性になれ。そして自分に相応しい相手がそばにくるのを待つんだ。ゆっくり相手を知れば、おのずと表面だけじゃなく中身もよく見えるようになるだろう」

 おとめ座。スピカ。
 私の生活には縁のなかった単語たちが、驚くほど自然に緩やかに溶けていく。

「……木原さん、もしかして、私のこと慰めてます?」
「……別に」

 もしかしなくても、きっとそうだ。
 この無表情で、飄々とした背筋の通った先輩は、きっと気持ちにも一本筋が通っていて、この先の未来とか恋愛とか、そういったものに迷っている私に、自分のもちうる限りの励ましの言葉をかけてくれている。
 真面目な顔でつらつらと語る木原さんが、なんだか可笑しくなって思わず吹き出した。

「あははは」

 声をあげて笑うと木原さんが鬱陶しそうに眉間に皺を寄せる。
 彼のポーカーフェイスが自分のせいで崩れたことが、ちょっと嬉しい。

「もしかして、木原さんって星を見るのが趣味なんですか?」
「……まぁな」

 ふと、木原さんの愛した人も彼と一緒に星を見たりしたのかな、なんて考えが頭をよぎって、また胸の奥がちょっと疼いた。

「ねぇ、木原さん。今度、一緒にプラネタリウムに行きませんか?」
「俺が? 沢井と? なんで?」
「なんでもです。好き放題言ってくれたお礼……です」

 くすくす笑う私を残し、今度は木原さんがため息をついて歩き出す。

「星のこと、もっと知りたくなりました!」

 彼の背中にそう投げかけると、肩越しに振り返った口角がちょっとだけ上がっていて。
 私はまた少し嬉しくなって、隣に並んだ。
 あんなに複雑に落ち込んでいた気持ちが、今ではすっかり浮上している。
 すぐに、お金持ちと早く結婚したいとか、そういう気持ちが消えてなくなるわけじゃないし、子供の頃に生まれた決意が完璧に変わるまでは時間がかかるだろう。
 けれど、いつか。
 春の空に煌めく、この真珠のように美しい星になれたら。
 この、なかなかに難攻不落そうな先輩のそばにいたら。
 そうすれば、いつかきっと、見つかるかもしれない。
 おとぎ話のように憧れた、本物の恋が。

『私はスピカ』

しおり