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 赤坂の細い路地の奥に、その料亭はあった。
 歴史を感じさせる老舗旅館のようにな大きな店構えで、ぽっかり空いた入り口の上で白い暖簾が静かに風に揺れている。
 門の足元に据えられた灯篭が、夜闇の中でぼんやりと白っぽくアスファルトを照らしていた。
 こんな場所、自力では一生、来ることもないだろう。
 入り口の横で、私より四つ先輩の木原さんが腕時計に視線を落として待っていた。
 直前まで見ていた直之くんとは違い、木原さんの外見は中の中。
 見たものを不快にさせない程度の造形の顔で、どこにでもいる、普通の男。
 体形だけは中肉中背なはずなのに背筋がぴんと伸びて、すらっとして見える。
 その姿勢の良さは、体幹が強くなるようなスポーツでもやっていたのかと思うほどだ。
 ヒールの音でこちらに気付いたようで、木原さんと目が合った。

「木原さん、お疲れ様です」
「おつかれ。悪いな、突然」

 本当にそう思っているのか怪しい無表情の木原さんを先頭に暖簾をくぐる。

「ホントですよ。私、渋谷で合コンしてたのに抜け出してきたんですからね。しかも相手は医者ですよ、医者。こんな好条件、なかなかないのに」

 彼が切れ長の目で、ちらっと私を見やった。

「そういうの同じ会社の男に平気で言うけど、恥ずかしくないのか」
「なんでですか?私、一刻も早く結婚したいんで」

 合コンに行って自分を売り込むのなんて、会社でやっているような営業活動と何が違うっていうのか。
 恋愛対象になりうる相手なら話は別だけど、なんとも思っていない会社の先輩に言ったところで別に恥じるようなことではない。
 しかもこの木原さんは、営業職なのにあまり愛想も良くないし、表情も乏しくて何を考えているのか読めない人だ。 
 いつだったか、うちの部署の三大お局の一人であると自称する酒井さんに「こういう無表情なやつこそ、草食系に見えて実は野獣だったりするのよ。ロールキャベツよ、ロールキャベツ」なんていじられた時には、それこそニコりともせずに「そういうの男に言ってもセクハラになるらしいですよ。問題になってるってニュース、ご存じありませんか」と淡々と返していた。
 
「え、待って、部長に言うとかやめてよね。冗談だからね。私、訴えられるの?左遷?」

 いつもサバサバしている酒井さんがおどおどするのを、あの時、私は初めて見た。

「別に訴えませんよ」

 ちょっとだけ片方の口角を吊り上げて見せて、木原さんはあっという間にスケジュール表の自分の欄に直帰の印をつけてオフィスを出て行ってしまった。
 彼なりの冗談のつもりだったのかもしれないけれど、あの場にいた社員はみんな気まずいような可笑しいような、いたたまれない思いだった。
 良く言えば寡黙。だけど、きっと第一印象は、とっつきにくい人。
 こんな人を恋愛対象にすることは、まずない。
 白い玉砂利の上に均等に並ぶ飛び石をそろそろと歩いた先に、間口の広い立派な玄関があって、着物姿の仲居に出迎えらた。
 木原さんは案内しようとする彼女に、そっと右手をあげて断ると、玄関ホールからまっすぐ伸びる廊下を進む。

「さっき高坂さんが電話で言ってたんですけど、年齢NGだったって本当ですか?」

 そんなことを何の気なしに木原さんに訊いてしまったのは、自分でも気付かない内に非現実的な高級店に浮足立っていたからかもしれない。
 愛想のない彼が楽しく世間話のキャッチボールをしてくれるとも思ってはいなかったけれど、結果は想像よりもずっと酷かった。
 急に立ち止まった木原さんが、私を振り返る。
 相変わらず無表情だ。ガラス玉みたいな瞳が廊下に灯る橙色の灯りを反射している。

「そうだとしたら、何?」

 いつも感情の読めない木原さんのバリトンに、いつも以上に温度がない。
 何、と聞かれて、ぱっと言葉が出てこなかった。
 答えを期待していたわけでもないし、まさか疑問形で返されるとも思っていなかった。
 一拍おいて答える。

「やっぱり、おばさんになるって大変なんだなって」

 こんな率直すぎる言葉を口にしてしまったのは、木原さんがじっと私を見ていたせいだ。
 なんだか居心地が悪くて、気付けば思った通りの言葉が口を滑っていた。

「沢井は高坂さんの何を知っている?」

 また疑問形を投げかけられて、喉の奥が苦しくなった。 
 入社して一年。高坂さんのことなんて、正直、ろくに知りはしない。
 私が知っているのは営業部で酒井さんともう一人、三大お局と自称しているということと、社内で犬扱いされている男性社員にやたらと懐かれていることくらいだ。
 何も答えられずにいると、一拍おいて今度は木原さんが口を開いた。

「沢井は上辺でしか人のことを見ていないし、上辺だけ良く見せることができればいいと思っているんだろ」
「はぁ?」

 相手が会社の先輩だというのに、咄嗟にそんな風に聞き返してしまうくらいに、一気に頭に血が上った。
 ――この人こそ、私の何が分かるっていうの。

「上辺で何が悪いんですか?人の印象なんて上辺が全てじゃないですか。実際、おばさんになったら、こうやって冷遇されるんでしょ」

 早口でまくしたてた私を無視して、木原さんは背中を向けて歩き出してしまう。
 なんなの、この男。
 なんで、こんなこと言われないといけないの。
 こんな、何を考えているかも分からないような、愛想もない、うだつもあがらないやつに。
 年収だって、きっと私の未来の結婚相手より下のくせに!
 脳内で言えるだけの罵詈雑言を、木原さんのスーツの後ろ姿に向かって投げ続ける。

「とりあえず、その上辺だけでいいから今日はちゃんと仕事しろよ。高坂さんのこれまでの努力を無駄にしないようにな」

 部長のわざとらしい大笑いが聞こえてくる襖の前で、ちらっと私を振り返って木原さんはそう言った。
 その無表情の横顔を、思わずキッと睨みつける。
 腹が立って腹が立って、仕方がなくて。
 何か言ってやろうと口を開いた瞬間、もう木原さんが襖を開いてしまうから、ぐっと堪えた。
 煮えたぎる怒りを喉の奥に押し込んで「沢井ちゃーん、待ってたよー」と手を振る部長と、その隣でニヤニヤと私を品定めするクライアントの男性二人に頭を下げる。
 これで役割をまっとうできず、木原さんにまた何か言われるのも癪なので「遅くなって申し訳ございません。沢井 恵と申します」と最大級の笑顔で言って、日本酒の徳利を掴んだ。

 その夜、私はたっぷり飲ませたし、飲まされた。
 あのエロオヤジ。下心が見え見えの脂ぎった笑顔は思い出しただけで鳥肌がたつ。
 セクハラ寸前の下ネタに「なんて時代遅れなの。こんな仕事、早く結婚して辞めてやる」と、むしろ今後の婚活にも気合が入った。
 意外だったのはクライアント側の部長が私に物理的に触れようとする度、木原さんが助けてくれたことだ。
 部屋に入る直前まで、あんなに嫌味なかんじだったのに。
 男が私の肩を抱こうとすれば、無表情で「僕、手品ができるんですけど、見ていただけませんか」と間に割り込んでトランプを差し出したり。
 お酌の最中に私の太ももに男の手が触れそうになった時も、いきなり「あ!」と大声を出してみんなを驚かせた。
「どうしたんだ!」と慌てる部長に「すいません。蚊が顔の前を横切った気がして」と木原さんは、まだ春なのに大真面目な顔ですっとぼけたことを言う。
 この人、もしかして本当はものすごく空気が読める人なんじゃ……。
 そう思ってしまうほど、タイミングがばっちりで、私は困惑していた。
 普段の空気を読まないような不思議なキャラと、部屋に入るまでのムカつく顔。
 ギャップがすごくて、ついていけない。

 エロオヤジが上機嫌でハイヤーで帰っていくのを見送って、その日は解散になった。
 お酒は弱い方ではないけれど、さすがに足がふらつく。
 部長もかなり酔っ払ったようで、いつの間にか木原さんが呼んでいたタクシーに彼の手によって押し込められた。
 この後、二人きりになると思うと、途端に宴会前の木原さんの言葉が思い出されて、気まずい。

「沢井も乗って帰れ」

 部長を後部座席の奥までおいやって、木原さんが抑揚のない声で言った。

「駅まですぐなので、大丈夫です」
「その足で帰れるか?何かあっても俺の夢見が悪い」
「なんですかそれ。うち、ここからだとけっこう料金いきそうだし、まだ電車ありますよ」

 実際、今月はけっこうピンチだった。
 木原さんは私の言葉を聞くなり、ふんっと鼻で笑った。

「そんなものはお前の家に先に寄ってしまえばいいだけだ。部長はこうなると、もう家で奥さんに怒鳴られるまで起きない」
「それって、部長にタクシー代、全額払わせるってことですか? ひどい」
「部長だって、どうせ経費で落とすだろ。沢井は要領よく生きたいのか、そうでないのか分からないな」
「はぁ? 木原さんって本当に……」

 思わず暴言を吐きそうになった私を木原さんが遮った。

「うるさい。早く乗れ」

 背中をぐいぐいと押され、結局、タクシーに乗せられてしまった。
 奥で部長が窓にもたれかかって、いびきをかいている。
 木原さんがドアに手をかけて、感情の読めない瞳で私を見下ろした。

「お疲れ。大事な合コンを中座させて悪かったな」
「嫌味ですか?」
「別に」

 彼はそっけなく言ってドアを閉めると、さっさと駅までの道を歩き始めた。
 ――なんなの。絶対、嫌味でしょ。
 私はまた心の内で毒づいて、ガラス越しに彼のやたらとしゃんとした背中を睨んだ。
 その夜、眠りに落ちる直前に瞼の裏に浮かんだのは、直之くんじゃなくて、その時に見た木原さんの背中だった。

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