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急展開

 「社長が倒れた……!?」

 吉波さんと服部くん、芝さんと昼食を食べた日の一週間後。
 朝礼で衝撃の情報が伝えられた。社長が、そんな……。
 小さな会社なだけに、社員のことはもちろん、社長がどんな人かも分かっている。
 いつも優しくて穏やかで、怒ったところなんて見たことがない社長。
 私みたいな若い社員にも良くしてくれて、ずっとこの人のもとで働きたいと思った、そんな社長が……。
 それに、何より社長が倒れたことで、この会社はどうなってしまうのか。その不安は自分だけでなく、ほかの社員にもあった。
 決して誰も言葉にしないが、不安や動揺、焦りが入り混じった、ピリピリとした重苦しい雰囲気。
 そんな雰囲気が、広くない社内を包み込んでいた。

 「うちの会社、これからどうなっちゃうんでしょうねぇ……」
 芝さんが重い口を開く。
 「そうねぇ……。誰かが交代で社長の代わりをつとめるとか、ひとまず応急処置がなされるじゃないかしら」
 「そんな……」
 その後、社長の代わりに朝礼をつとめた副社長の話によると、社長は昨夜、自宅で奥さんと晩酌中に倒れたという。打ち所が悪く、今も意識不明の状態が続いているそうだ。
 社長、どうか無事で。その日はただそれを祈ることだけしかできず、心ここにあらずの状態だった。

 その翌日――
 「昨日の7時頃、社長の意識が戻った。命に別状はないそうだ」
 「……!」
 副社長からの報告に、社内が深く安堵する。……もちろん、私も社長が無事だと分かって嬉しい。本当に、よかった……。
 「それじゃ、社長の仕事も代理はナシで、今まで通り社長が行うんですか?」
  服部が質問する。こういうとき、突破口を開くかのように発言できるところが、服部の長所だ。自分にはできない、後輩の尊敬すべきところだ。
 「それがだな……。倒れて頭を打った時に後遺症が残ってしまったみたいでな。今まで通りとというのがどうやら難しいらしい」
 「「「えっ……」」」
 安堵から一転、社員たちからどよめきの声が漏れる。
 私も、社長が無事で、それで良かったとばかり思っていただけにこの展開は予想していなかった。それだけにショックが大きく、うなじから背中にかけて、ヒヤリとした汗が流れた。
 「そ、それじゃ、誰が社長をやるんですか?」
 「それに関してなんだが……。この会社を、譲渡する話が進んでいる」
 静かな社内から「じょうと」、とつぶやく声が微かに聞こえた。
 会社、譲渡。かいしゃじょうと。
 言葉は分かるけれど、それがおういうことなのか分からない。口の中で副社長の言葉を反芻してみるが、やはりピンとこない。意味が分かっていたとしても、今、まともに理解できるような状況ではないが。
 
 「すみません、譲渡って、うちの会社がどこかに買収されるってことですか?」
 男性社員たちが一斉に副社長を質問攻めにする。
 女性社員たちは、その様子を固唾を飲んで見守っている。
 大好きな会社が、混乱に満ちている。その空気が、光景がとても見ていられなくて。ただ俯くことしかできなかった。
 すると、ふいに右肩が温かさを感じた。
 「大丈夫っすか、先輩?」
 「服部くん……」
 服部くんが心配して、私の顔を覗きこむ。
 不謹慎ではあるが、まるで子犬が反省しているようで、何だか可愛らしいと思ってしまった。
 「心配かけてごめん。何だか、こういう空気好きじゃないな……って思って」
 「自分も、こんな会社好きじゃないっす……。会社譲渡って、うちの会社どうなっちゃうんですかね」
 「どうなるんだろうね……」
 ごめん後輩。今はうまいこと返事を返せる気がしない。心の中でそう謝りつつ服部くんを見ると、まったく気にしていないという風だった。こういうとき、服部くんの明るさに助けられる。 「それで、相手の会社はどこなんですか!?」
 「教えてください、副社長!」
 詰め寄る社員をたしなめつつ、副社長がいよいよ話し出すかと思われた、そのとき。
 「僕の会社ですよ」
 そのテノールは、場にいる全員の耳にすっと入ってきた。私も、服部くんも、ほかの社員たちも、芝さんも。全員が声のするドアの方に注目した。
 社員全員が注目する中、颯爽と入ってきたのは――浜崎 俊だった。

「ええっ!? 浜崎さん!?」
 芝さんが思わず声を上げる。
 突然の登場に嬉しい気持ち、けれどもどうしてここに?というような困惑の気持ち、両方が入り混じるような声だった。
 「この度は、皆さんを混乱させてしまって申し訳ありません。“ファッションロジック社”社長の浜崎と申します」
 本当に申し訳ない、といった態度で深く頭を下げる。二人きりのときとはまるで違う殊勝な態度。その態度に、おそらくこの会社にいる私だけが違和感を覚えた。
 「浜崎さん……! わざわざお越しくださるとは、いやはや申し訳ない……」
 副社長としても、この登場は予想していなかったようだ。浜崎さんがオフィスに入ってきた瞬間、顔色をサッと変えて自ら応対をする。
 「いえ、僕から直接お話したいと思いまして。10分だけ、皆さんの時間を僕にください」
 「「「……」」」
 社員たちもまた、ただならぬ雰囲気を感じ取ったのだろう。時計の針以外の、すべての音が止まったかのような静寂が社内を包み込む。

 それから私たちは、これからの会社の話を聞いた。
 譲渡?合併?買収?
 深い話はちんぷんかんぷんだったが、要するにこれから私は、ファッションロジック社の社員になるらしい。
 結果的には突然の急病が引き金になったが、もともと「社長自らが高齢になったこと」「会社の未来を考えたときに、希望が持てなかった」という理由からだそうだ。
 つまり、自分の引き際について少しずつ考え始めていたところだったらしい。
 確かに、今後発展が見込める業種とは言えないし、何なら現に少しずつ売り上げは落ち着ている。社長としては、自分が思うように動けなくなった今、会社を存続させる意味を見失ってしまったのかもしれない。
 ……それでも、私は。ううん、きっと。吉波さんや服部くんも。この会社が好きだから。
 ただのわがままだとは分かっているけれど、最後の瞬間まで、この会社で仕事を続けていたかった。
 その「最後」がこんなにも早くやってくるなんて、誰が想像できただろうか。社長ですら、きっと想像できていなかっただろう。
 会社譲渡といっても、今日いきなり譲渡されるわけではないらしい。5月末、あと1ヶ月ほどの猶予が残された。
 あと1ヶ月、かぁ……。6月からの私はどうなっているんだろう?先のことが全く読めない。
 もちろん、自分に特別な力があるわけでもないし、未来のことなんてわかりっこない。
 でも、会社が譲渡される前は。
 平和な日常を確かに過ごしていたはずだ。そのころの私は、会社譲渡なんて夢にも思わなかった。
 それだけに、この状況から自分がどんな仕事をして生きていくのか、本当に分からなかった。
 ファッションロジック社といえばアパレル業界の大手だ。この会社に限らず、ほかの企業も買収や合併などを重ね着実に大きくなっている。扱うブランドもトレンドの最先端、若者ウケを狙ったアイテムが多く、ファッションロジック社に入社したいという10代・20代の男女はとても多いだろう。
 でも、私にとってはこの会社が一番だから……。
 ……けれども、浜崎が会社譲渡の話を受けなければ、もっと早くにこの会社はなくなっていたかもしれない。
 そうなれば、大好きな場所どころか仕事そのものを失っていた可能性だってある。
 どちらにせよ、自分のような一社員にはどうすることもできない。会社の行く末に従うか、抗って自分自身の道を切り開いていくしかないのだ。
 浜崎の話が本当に10分間だったのか、分からない。けれども、これまででどんな時間よりも長く、苦しく感じた10分間だった。

 「それでは、また改めて」
 「あ、待っ……」
 そう言って去ろうとする浜崎の声に、弾かれるように反応した。彼に何を聞くって言うの。心の中のもう一人の自分が叫ぶ。でも、どうしようもなく、どうすることもできない。どうしたいいのか、分からなくて。気付けば、浜崎の背中を追いかけていた。
 「……浜崎さんっ!」
 私よりも大きな歩幅で歩く浜崎さんに追いつくのは、並大抵のことではなかった。浜崎さんは普通に歩いているはずなのに、思わず駆け出してスーツの裾をぎゅっと掴む。
 裾を掴んだ衝撃に反応した浜崎さんが、こちらを振り向く。表情一つ変わらないように見えるが、ほんの少し驚いているようにも感じる。
 「……神崎」
 「浜崎さん、あのっ」
 何を言いたいか、なんて考えもせずに飛び出してしまった。 
 「あの、私……。この会社が大好きで、それで、ずっとここで働きたいって思って……。でも、社長のことがすごくショックで……」
 私は、何を言って、るんだ。どうしよう。目頭が熱く、なってくる。本当の想いを伝えようとするほど、涙が止まらない。
 私は、焦っているんだ。混乱しているんだ。でもそれを、浜崎さんに言ったってどうしようもないのに。ていうか相手は社長さんだし、すごく失礼極まりないことをしている。そう頭で考えることはできても、行動が止まらなかった。もしかすると、この焦りや気持ちを、誰かに聞いてほしかったのかもしれない。
 「会社譲渡、って私には……正直よくわからないんですけど、でも、きっといいことなんだって、信じてます……」
 会社がなくなるのは寂しい、悲しい。でも、浜崎さんは何も悪くないのだ。
 むしろ今の会社という形でなくとも、大好きな皆と一緒に働けるのは、きっと……。
 「あり、がとうございます、会社のこと……」
 涙があふれて止まらない。そんな顔で浜崎さんを見上げるわけにもいかず、掴んだ裾を握りしめながら、ぽろぽろと涙をこぼす。
 どうしよう、止まらない。
 仕立てのよさそうな、いかにも高そうなスーツを涙で汚してしまっている。おまけに必死に掴んだものだから、ちょっとシワになってしまった。
 もういい大人なのに。相手は取引先の社長なのに。頭の中ではそう思いつつも、流れる涙を止めることなんてできなかった。思えば昨日から、不安で仕方がなかった。社長が倒れてしまったこと。自分の未来が全く見えなくなってしまったこと。突然の会社譲渡。
 たった1日あまりで色々なことが起き過ぎた。あふれる涙は、一度決壊するともうダメだった。

 すると、スーツがするりと指先から離れていき、かわりに温かな手で包み込まれる。
 そして、涙で濡れた頬にも、大きくて温かな手のひらが添えられる。
 「え……」
 「もう泣くな。お前に涙は似合わない」
 指先を繋ぐ手、頬にそっと添えられる手。その手はどちらも、浜崎のものだった。
 いつの間にか向かい合わせで、あれほど顔を見せたくないと思っていたのに、呆然として浜崎の顔を見上げてしまった。うう、カッコ悪いところを見られている。
 「お前の居場所は、俺が守る。大丈夫だ。安心して俺のところへ来い」 そんなの、まるで恋人みたいじゃないか。浜崎さんは、私にとって取引際の相手であって、それ以上、それ以下でもない……はずなのに。なのに、どうして、こんなにもこの手にすり寄りたくなってしまうんだろう……?
 今、不安だからだろうか。それを差し引いても、こんなに優しくて、温かな手は初めてだった。恋人ができたことがないわけじゃない。手のひらの温かさくらい、知っているはずだった。それでも、こんなにも触れていて安心できる手は、初めてだった。もうしばらく、こうしていてほしい。そう願わずにはいられなかった。
 
 決して言葉にはできない思いを察してくれたのだろうか、涙でぐちゃぐちゃになった顔の私が「……もう大丈夫です」と言うまで、その手はずっと離れなかった。

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