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タバコの臭い

 もう一つの事件は午後一に起きた。

「あっ、ヤベ」

 加藤さんがいきなりつぶやいたかと思うと、ふらっと立ち上がり、タバコ休憩に行ってしまった。

「どうしたんですかね?」

 隣の席の佐々木君が、加藤さんが行ったのを見計らい、話しかけてくる。

「さぁ?」

 何らかのミスが発覚したのかもしれない。ただでさえタバコ休憩に行くと、三十分は帰ってこなかったが、これは長くなりそうだと思った。

 加藤さんは一日に何回もタバコ休憩に行くから、正味二時間しか席にいなかった。

「俺は管理職だから、残業つかねーから。だから、自由にタバコ休憩行ってもいいんだよ」

 以前、電話口で大声で笑いながらそう話していたのを聞いたことがある。その分のしわ寄せが二人の課員に来ていても、お構いなしだった。

「けど、精神的には楽っすね」

 そう言って、佐々木くんは鼻で笑った。

「そうね」

 確かに、加藤さんがいない時のほうが、変に抑圧されていない感じがして楽だったし、その分仕事もスムーズにこなせた。二人で軽口を叩けるほどに。

「ぼく、まさか会社に入っても、こんな感じとは思いませんでしたよ~」
「わたしも」

 それは強く共感するところだった。

 幼稚園の時は小学校に期待し、小学校の時は中学校に期待し、中学校の時は高校に期待し、高校の時は大学に期待してきた。

 もちろん、大学の時には会社に期待した。会社、というか、社会にかもしれない。

 一体何を期待していたのかと言えば、自由、ということになるだろう。大人になればなるほど、自由に近づけるものだと思っていた。

 けれど、どれも期待外れだった。中にはひどく期待はずれな時期もあったし、もっとも良かったのはやはり大学ということになるのだろう。

 けれど、大学に居続けるにはお金がかかりすぎる。

「なんか、中学くらいの感じに戻っちゃった気分です」

 佐々木くんは結構こういう話をする。多分、おおっぴらには私の味方にはなれないけれど、敵ではないよ、と言いたいのだろう。

 立場上、加藤さんに付き従うことは多くても、本当は不本意なんだと言いたいのだ。

 理解る気がした。だって、それこそ中学なんかで誰もが経験した、身を引き裂かれるような嫌な気分だもの。

 自分は別にイジメに加担したいわけないのに、いつの間にか止めない自分も加害者の側になっていて、勝手に罪悪感を刺激されて悶々とするような。

 勝手に汚されて、自分ってなんてズルイんだろうって思わされるような。

 実際、ズルイのかもしれないけれど、本当に嫌になるよね。

 私は佐々木くんに同情した。新卒一年目でこんなことに巻き込まれているのは、たしかにかわいそうだ。

「ホントだよね。今日はさっさと仕事終わらせて、ノー残業で帰ろう」
「ハイっす」

 佐々木くんは大学生のような笑顔を見せると、黙々と仕事をし始めた。

 かと思ったが、数分後「あ~、そういえば、夏休みって何か予定あるんですか?」と急に聞いてきた。

瞬時にカズナリ君の顔が浮かび、「あー、うん。一応」と私は曖昧に答えた。

「あっ、そうなんですね・・・」

 佐々木くんはそれからは黙って仕事を進めた。

 電話が掛かってきたので私が取ると、営業の三田さんからの電話だった。なんだか随分焦っている。

「加藤課長いますかっ?」
「あっ、すいません。今席を外してまして」
「またタバコ休憩?」
「はぁ、まぁ」

 加藤さんのタバコ休憩は有名だった。三田さんは舌打ちを惜しみなくした。

「昨日頼んだクラットチーズさんの件なんだけど、ドライアイス入ってなかったんじゃないかってお客さんから連絡あって」
「え」
「昨日、加藤課長にお願いしたんだよ。スポットで頼まれたんだけど、新規案件でお菓子用の香料なんだけど。ドライアイス入ってないからダメになっちゃったって連絡きて」
「わかりました。確認して、折り返します」

 私は急いで喫煙室に向かった。三田さんはずいぶん慌てていたから話の要領は中途半端だったが、とにかく加藤さんに話を聞かなければならないだろう。

「加藤さん」

 私は喫煙室に入る前に、煙っている部屋がガラスの向こうに見えてげんなりしたが、息を大きく吸ってから入室した。

 加藤さんは違う部署の男性と談笑していた。

『あっ、ヤベッ』と言って出ていってから、もう一時間近くになる。おそらく三田さんに頼まれていたことを関係部署に伝達し忘れていたのだろう。

 そして、そのことにさっき気づいたのだ。

『あ~あ、見つかっちゃったよ』とでも言いたげな、ふてくされたような、ウザそうな顔がすべてを物語っていた。隣の男性社員と目配せする。

 二人は小さく鼻で笑うような仕草を見せると、男性社員の方は「じゃ、そろそろ仕事するか~」と言って出ていってしまった。

 加藤さんは小太りで髪の毛も坊ちゃん刈りで、見た目は子どものようだが、表情はとても世間擦れしていた。

 タバコをふかして「何?」とだけ短く言った。

 白々しいとは思ったが「三田さんから連絡ありまして、クラットチーズさんの品物にドライアイスが入っていなかったそうです。ご存知ありませんか?」と私は言った。

「ああ~、その件ね。あれ?俺言ってなかったっけ?」
「は?」

 肺に、タバコの煙が混入する。

「カスタマーサービス課にドライアイス入れるよう連絡しといてって言ったじゃん」
「いえ、聞いてませんけど」

 いけしゃあしゃあと言うものだ。

「いやー、俺は言ったと思うけどなぁ」

 どうやら言った言わないの水掛け論に持ち込んで、責任を擦り付けたいらしかった。

「・・・とにかく、ドライアイスは入ってなかったということで、確定ということでよろしいですね?」

 私はなるべく息をしないように、肺から空気を絞り出すように声を出した。

「ああ、山田さんがそういうなら、そうなんでしょ」

 加藤さんは吹き出してタバコの煙を吐いて、ニヤニヤ笑った。ニコチンが染み付いたような笑顔だった。

 私の肺が限界だったので、軽く会釈して、急いで喫煙室から出た。

ドアを閉めて、すぐにタバコの煙を追い出すように息を吸って、吐いた。冷えていた血も頭に上ってくるが、とにかく三田さんに連絡しなきゃと思った。

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