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 胃の中がやけに熱くて、心なしかいつもより活発的なのが分かる。頑張って消化してくれているんだな、と部屋のソファに横になって勝手に自分の胃を応援していた。

「市子さん、本当に辛さに強いんですね」

 上から降ってきた声に、そちらを見ないまま私は声をかける。 

「なんで、そんなにがっかりそうに言うの?」

「がっかり、だなんてとんでもない。市子さんの希望に応えられたか不安になっただけです」

 おどけた口調で返され、私は大きく息を吐いた。辛くないわけがない。唇も舌も、どこか自分のものではないかのように、まだ少し痺れている。

 何事も見た目で判断してはいけない。けれど、これは判断ではなく事実だ。山田くんお手製の麻婆豆腐は、想像以上だった。

 見るからに辛そうな赤は、豆腐の白さもすっかり自分色に染め上げていて、放つ香りは、十分に刺激的なのが伝わってくる。

 食べる前からじんわりと汗をかきそうで、私のリクエスト通り花椒もたっぷりとかかっていた。

「山田くんって優しい顔して意外とSなんだ」

 吐く息さえ辛みを伴っている気がする。

「いえいえ。市子さんを失望させてはいけないと思って、本気で頑張ってみました」

 あの麻婆豆腐は間違いなく、四川風とつけるのが正しい。サニーレタスときゅうりのサラダ、パプリカのマリネなど冷たく口に優しそうなものたちが付け合わせとして並び、いつも通り私の部屋で彼と食卓を囲んだ。

 いただきます、と手を合わせてレンゲを使って恐る恐る麻婆豆腐を口に運んでみると、口に入れた瞬間、熱さと辛さで体中から汗が噴き出そうになった。

 体温が一気に上昇するのを感じて、しばらく口元を押さえたまま動けない。自分では作らないような辛さだ。けれど、それが辛さだけではなく、ちゃんと美味しくもあるのだから、すごい。

 泣かせます、と言われてはいたけれど涙よりも汗で水分が失われてしまった。おかげで今は体がポカポカで行儀悪いのも承知で私はソファでごろごろしている。

 仮にも後輩男子が家にいるというのにこのありさま。彼に対する遠慮もなにもない。

 ごろんと仰向けに体勢を変えれば、見下ろしていた山田くんと視線が交わった。彼はおかしそうに腰をかがめて、ソファの背もたれから顔を出したまま、こちらに手を伸ばす。

「残念。泣かせられませんでしたね」

 前髪を掻き上げるようにして触れられる。汗をかいているのに、と思ったけれどもう今更だった。優しく、地肌に触れた彼の手に意識を集中させる。

 まるで、犬か猫にでも触れるかのような。彼にとって私に触れるのはどういう意味があるのかな。そもそも意味なんてないのかも。彼にとってはこれくらい――

「ひとつ訊いてもいいですか?」

 悶々とする考えの霧を一瞬にして晴らすような凛とした声だった。

「なに?」

「市子さんって、永野部長のことをどう思ってるんですか?」

 その名に、質問に、私は勢いよく身を起こした。ソファの背もたれ越しに投げかけられた言葉は、私の心をはっきりと揺さぶった。

「え、坂下の言ったこと、真に受けてる? 部長のことはべつに」

「でも、なにかしら特別な思いはあるんですよね?」

 迷いのない瞳、口調だった。だから、しばらく迷った挙句に私は正直な気持ちを口にする。べつに疚しいことなんてひとつもない。

 私はゆっくりと語り始めた。

「私がここに就職しようと思ったのは、元々大学生の頃にバイトでここに来てたからなんだ」

 週末のイベント開催のときに人手が必要ということで、基本土日のみという条件だったので決めた。最初はそんな理由だった。

 内容は事務的な仕事が多く、いわば雑用だった。来店した客さまに声をかけて席に案内したり、営業の人を呼んだり、飲み物を出したり、フライヤーを配ったり。

 仕事自体は楽しかった。そのとき、当時は部長ではなかったけれど、営業部に所属していた永野部長が、なにかと気にかけて色々話しかけてくれた。

『車を売るのって大変ですね。金額も金額だし』みたいな内容を世間話程度で振ったら『そうだな。だからその分、責任もってお客さまに勧めるようにしているよ』って。

「正直ね、みんな売るのに必死だな、なんてどこか冷めた目で見ていた自分もいたんだけれど、そんなふうに言われてね。多くの人にとって車は、家の次くらいに高い買い物になるんだ、って聞かされて、納得と同時にすごく感動したの。素敵な仕事だなって。それで就職まで決めちゃうんだから、影響受けすぎでしょ? でも、大学生だった自分にとっては、ものすごく大きな衝撃だった」

 苦笑しつつ話していると当時の自分まで思い出され、なんとも気恥ずかしい。実際入社してみれば、ノルマもあるし、覚えることもたくさんある。

 売らなきゃいけないのは車以外にも多くて、綺麗ごとばかり言ってられないし。

 全然売れなくて落ち込んだ経験も山ほどある。自分にとっていいお客さまばかりというわけでもなく、上から目線の物言いや、傷つくこともたくさん言われたり。

 けれど、なにを言われてもお客さまの前では笑っていないといけない。

 もうこの仕事向いてないから辞めよう、なんて何度も思った。でも、そのたび永野部長が話を聞いて励ましてくれた。

 入社前からの知り合いというのもあるし、営業では少ない女性だからというのもあったからだとは思う。そうやって今でもなにかと気にかけてくれている。

 淡い恋心、そんなものを抱いたりした。とはいえ出会ったときから永野部長にはすでに付き合っている彼女がいた。

 そして、私が入社してしばらくしてから結婚された。少なからず複雑な感情にとらわれたりもしたけれど、全部自分の中で折り合いもつけられたし、尊敬する上司として変わらずに接してこられた。

「つまりね、私がここで働いているのは、永野部長のおかげというか、なんというか。それくらい影響を受けた人だから、山田くんが言うように特別といえば特別なんだけれど、べつに異性としてどうこう、なんて気持ちはないからね。上司として尊敬してるし、頼りにしているだけだから」

 訊かれてもいないのに必死に弁明している自分がおかしかった。坂下に対して否定するのと、山田くんに対して否定するのとでは、なんだか違う。

 その微妙な違いがなんなのかは明確にできない。思いつめた顔をしたまま黙りこくっている山田くんに対して、私は一方的に言葉を続けた。

「だから、山田くんがなにか困ったこととか、仕事で辛いことがあったら、遠慮なく言ってね。これでも私は先輩なんだから。もちろん私に話しづらいことなら、他の社員や同期でもいいし」

 勝手に話題をまとめあげ、先輩らしく振る舞ってみる。私もたくさん支えてもらった分、今度は後輩に返していく番だ。

「なら、市子さんは……」

 やっと山田くんが硬い表情のまま重々しく口を開いた。しかし、その先が続けられない。

「私が、どうしたの?」

「いえ……デザートでも食べましょうか。シャーベット用意してますよ」

 彼がおもむろに立ち上がり、私に背を向けた。なんだろう、無理やり話を終わらせられた気もする。でも、自分で話を戻す勇気も、どうしたの?と突き詰めるほどの強引さも今の私には持ち合わせていなかった。

 彼の用意してくれたシャーベットはレモン味で、正直辛さで味自体はあまり分からなかったものの、口の中から染み渡って体の熱と辛さを奪ってくれた。

 おかげで、体に残っている辛さはすっかり引いた、はずなのに、なんだか違う痺れがまだ残っているかのようで、私の心はまだ不透明だった。

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