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 今日はいつもより早い出勤だ。基本、制服は出社してから着替えるのを推奨されているんだけれど、お客さまの都合で出社前に直接、出向くこともあるし、そんなときは制服のまま家を出る。今の私がそうだった。

 ヒールの音を響かせないように、静かにエレベーターを目指す。あんなにも空が白むのが早かったのに、いつのまにか夜の支配する時間が長くなってきている。こんなときに時間の流れの早さを感じた。

 エントランスからエレベーターが上がってきて、そのドアが開いた。もちろん、中には誰も乗っていない。乗り込んで一階のボタンを押した後、ぼんやりと扉が閉まるを待っていると、ゆっくりと狭まる向こう側に人影を見た。

 あっ、と思ったときには完全に世界は遮断され、エレベーターは独特の機会音ともに下降を始める。

 見間違いでなければ、山田くんだった、ような気がする。心臓がどくどくと痛みを伴って音を立て始めた。確信はもてない。

 けれど、一瞬だけ目が合った。私がそう思うなら、彼も私に気づいたかな。だからってどういうこともないのだけれど。

 あれこれ考える暇もなく、あっという間にエレベーターは一階に着き、扉が開くのと同時に外に出ようとした。しかし、一歩踏み出たところでその足が止まる。

「え?」

 今度は声をあげた。なぜなら、そこにはスーツを着て、息を切らしている山田くんの姿があったから。膝に手をついて肩で息をしていて、表情までは読めない。

「どうしたの? 大丈夫!?」

「よかっ、た。間に合って」

 近寄って尋ねると、切れ切れな声が返ってくる。おそらく全力疾走したのだろう。下りとはいえ、四階から一気に階段を降りるのはどう考えてもきつい。

「市子、さんに、どうしても訊きたいことが、あったんです」

 大きく息を吐いてから、彼は勢いよく顔を上げて姿勢を戻した。

「なに?」

「昨日、大丈夫でしたか? 何時に帰って来ました?」

「大丈夫って……」

 どうしても訊きたいこと、ってそんな内容!? あまりにも切羽詰まった彼の物言いに、逆に拍子抜けしてしまう。それは顔に出ていたらしく、山田くんはむっとした表情を見せた。

「俺のときみたいに酔って大変なことになってるんじゃないか、って心配してたんです。坂下さんも一緒だし、そんな市子さんにつけこんで、なにかあったらって」

「ないない。私と坂下は、どう考えてもなにもないって」

「そんなの、分からないじゃないですか」

 必死に訴えかけてくる彼には申し訳ないが、坂下となんて想像するだけで鳥肌が立つ。冗談にしても面白くなさすぎだ。

 しかし彼は本気のようで私から目を逸らさない。無理もないか。なんたって私と彼との、この妙な関係の元を正せば私の信用がないのも頷けてしまう。

「心配かけてごめんね。でも山田くんのときは、本当にちょっと羽目をはずしたというか、超例外的というか」

 おかげでなぜか言い訳する事態に陥ってしまう。そもそも私より山田くんはどうだったんだろう。

「山田くんこそ、西野さんを送っていって……それだけだったの?」

 この流れで訊いてもおかしくはない、よね?。かなり、曖昧な訊き方ではあるけれど。

「ええ。それだけです。ちゃんと送っていきましたよ」

「本当に?」

「ほかになにがあるんですか」

 よほど興味がないのか、触れてほしくないのか。ぶっきらぼうに返され、『それより市子さんですよ』なんてまた話題を戻されてしまった。

 私のことこそ、どうでもいいと思うのだけれど。時計を確認すると、山田くんも状況を把握したのか、急に申し訳なさそうに眉尻を下げた。

「呼び止めてしまって、すみません」

「いいよ。山田くんは、こんなに早くどうしたの?」

「いえ、ちょっと」

 言葉を濁されたが、そこは深くは突っ込まなかった。スーツを着ているということは、出社するつもりだったのだかな。

 お互い、どこか気まずい雰囲気を感じながらも、距離をとった。言葉を発しないまま、エントランスから外へ向かおうとしたそのとき、私は思い切って口を開く。

「麻婆豆腐が食べたい」

「麻婆豆腐?」

 脈絡のない要望に山田くんも面食らったようで、おうむ返しをしてくる。

「うん、できればすごく辛いのがいい」

「市子さん、意外と辛いもの平気ですよね」

 そこで彼がかすかに笑った。苦々しいものだったけれど。

「レトルトのでもいいけれど、花椒をたっぷりかけたい」

「分かりました。じゃぁ、お口直しに甘いものも用意しておきます」

 今度こそ彼は笑顔になった。その顔を見て、心から安堵する。私たちの関係がすごく微妙だからか、こんな曖昧なやりとりで次に会う約束を段取る。

 仕事では許されない不確かさ。でも、彼は自然と私の言いたいことを汲んでくれる。それが素直ではない私には有り難くて、心地いい。

『俺、明日は早く上がれるんですよね』

『暑いけどお肉が食べたいので冷しゃぶ、というのはいかがでしょう?』

『ネットで見つけた半熟卵のドリアに挑戦したいんですけど』

 いつも、そう。彼が提案混じりに、こちらを窺いながら誘ってくれる。そういう言い方だから、私も軽く返して応じられる。

 とはいえ、いつまでこんな曖昧な関係を続けるのか、続けていけるんだろうか。

 そんな考えを巡らせながら彼も一緒に駐車場まで足を進めると、いきなり右手に温もりを感じた。

「気をつけて、いってらっしゃい」

「うん。山田くんも気をつけてね。昨日も言ったけれど、定期点検の時期が近づいているから、武田(たけだ)さまにもう一度電話しておいて」

「了解です」

 そんなやりとりをしながらも彼は私の手を取ったままだった。いつもならすぐに振り払うのに、今は自分から離したりはしなかった。

 だからか、いつの間にか彼が私とさらに距離を縮めてくる。さすがに後ろに一歩引こうとしたけれど、その前に目の前に整った彼の顔が寄せられた。

「市子さん」

 名前を呼ばれ、目を見開いて固まっていると、至近距離でとびきりの彼の笑顔が輝いた。

「ご希望通り、すごく辛いのを用意しますね。泣かせますから、覚悟してください」

 そう言って彼は私の手を離し、再度いってらっしゃい、と告げ頭に触れてきた。たったそれだけのことに、柄にもなく顔が熱い。

 そして次に溢れてきたのは、どんな辛いものが用意されるのかという不安だった。でもこの不安は、昨日抱いていたものに比べるとなんでもない。

 とにかく気持ちを切り替えて私は車に乗り込み、予定通りお客さまのところに向かうことにした。


 外回りを終えて昼時に会社に戻り、ホワイトボードの自分の欄の予定を訂正してから席に着いた。空席が目立つ中で、サインしてもらった契約書などを鞄から取り出して確認する。

 しばらくすると複数人ががやがやと部屋に戻ってきた。

「お、御手洗帰ってきてたのか、お疲れ」

「お疲れさまです」

 声をかけてきたのは、中心にいた永野部長だった。どうやらみんなでお昼を食べに行っていたらしい。そこには坂下や山田くんの姿もあった。

「残念だったな、せっかく愛しの永野部長の奢りだったのに」

 突っかかってくる坂下の声はこの際、無視だ。視線をパソコン画面に戻そうとすると、意外にも言葉を継いだのは永野部長だった。

「しょうがない、御手洗は、今度別にご馳走するか」

「ありがとうございます、でもお気遣い、無用ですよ」

「そう言うな、少しは(ねぎら)わせろよ。あの御手洗に後輩ができて、指導している姿を見ると、そりゃ俺も年を取ったって実感するさ」

 わざとため息混じりに漏らされる。すると周りが「部長もこれからですよー」と囃し立てて、場がどっと沸いた。それを尻目に改めてデスクに向き直っていると、輪の中から山田くんがこちらに歩み寄ってきた。

「お疲れさまです」

「お疲れ。食事はどうだった?」

「いえ、俺はご一緒してないので」

 どうして?と訊き返す前に、山田くんの肩に突然、腕が回された。

「山田。お前、昨日は西野ちゃんと、なにがあったんだよ?」

 恨みがましく山田くんに迫っているのは、坂下である。その絡み方は先輩というより酔っ払いだ。

「なにが、って。坂下さんの代わりに、ちゃんと送りましたよ」

「部屋に上がったりとかしてないだろうな」

「してませんって」

 山田くんは珍しくも不快そうな顔をしている。無理もない。美人ならともかく、なんだって坂下みたいな男に顔を近づけられなくてはならないのか。

 徐々に近くなる坂下の顔を背けようと、山田くんはもがきながら返している。しかし坂下はさらに肩、ひいては首に回した腕に力を込めて、声にも迫力を滲ませた。

「だったらなんで、さっきふたりで仲良く昼飯なんて食ってるんだよ」

 まさかの事実に私の心は、軽く揺れた。

「あれは、いいって言ったのに、西野さんがお礼したいって言って。何度も断ったんですけれど」

「自慢か? お前、それは自慢なのか!?」

 いつの間にか坂下が山田くんにヘッドロックをかけているようになっている。山田くんの柔らかい髪が振り乱されていた。

「御手洗」

 そんなふたりをよそに、名前が呼ばれたのですぐさまに立ち上がる。その声は永野部長のもので、席に着いている彼の元に私はそそくさと向かった。

「なんでしょうか?」

「例の自動車学校の件、順調に進んでいるみたいだな。さっきはああ言ったけれど、上手くいったらなにか祝ってやる。お前が直接、指導に当たっている山田の成績も新人にしてはなかなかいいしな」

「それは私の力ではなく、彼が優秀だからですよ」

「一人前に言うようになったなぁ、お前も」

 相好を崩し、いつもの笑い皺ができた部長の顔を私は直視できなかった。ふと視線を落とせば、いつもしていた結婚指輪が左手の薬指に嵌められていないのを、意識せずとも視界に捉えてしまう。

「出会った頃はまだピチピチの大学生だったよなぁ」

「部長、そういう言い方おじさんっぽいです」

「しょうがない、もうおじさんだ」

「訂正します、オヤジですよ」

「それはなかなかくるなぁ」

 そこで私もなんとか笑うことができた。なにかあったら遠慮なく言えよ、と言われ素直に頷く。部長とは、この会社の中では誰よりも付き合いが長い。だから上司ではあるのだけれど、少しだけ私にとっては特別だった。

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