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(15)折り入って1

「そうか。絵里子の気持ちは分かったよ。話はそれだけ?」
 
 別れを切り出したときの彼の反応だ。
 端的に別れましょうとだけ告げた。
 それだけ? なんて問い返されても、それ以上はない。
 こちらこそ反応はそれだけなのかと、問い返したいくらいだった。
 
 黙って頷いたら、彼はもう何も言わず、少しだけ不機嫌そうに背を向けて立ち去ってしまった。
 あ、いや、ちょっと、と思わず呼び止めそうになった。
 少しくらいは抵抗してくれたり、そうでなくても理由くらいは訊ねてくれるものと思っていたのに。

 もともと感情表現が得意なタイプではないのは知っているけれど、こんなときくらいもっと驚くなり、取り乱すなりしてくれてもいいのではないか。
 もちろん身勝手で我儘なことだは分かっているし、修羅場を期待したわけでも予想していたわけでもないけれど。

——涙すら出ないよ。

 半ば呆然としながらうしろ姿を目で追っていると、彼は歩きながらスマホを取り出して誰かと話し始めた。まるでもう誰か他の女の子とデートの約束でも取り付けようとしているかのようだった。

 なんだろう?
 こっちがふられたような気分。
 きっぱり別れて終わりにするつもりだったのに。
 未練のようなものが消化しきれずにずっと(くすぶ)り続けているのは、あんな彼の態度のせいでもある。

 でも。
 おかげで。

——やっぱりこの街から離れよう。

 その気持ちは固まった。

 実は少し前から、友人から仕事の誘いを受けていた。新しいプロジェクトが始まるのに合わせて、信頼できる女性スタッフを探しているのだとか。
 そのオファーを受ければ、今の会社は辞めて東京へ行くことになる。
 会社を辞めることにも、彼との物理的な距離が広がることにも抵抗はあったけれど、一方でその方がいいという思いもあった。いや、むしろこれは渡りに船ではないかと。

 残る懸案は石本部長がどういう行動に出るのか、ということだった。弱みを握られ、いわば脅迫によって関係を強いられてきた。
 会社を辞めて街も出る。そうして完全に関係を断ち切ると告げれば、部長は脅し文句を実行に移すかもしれない。とはいえ、部長とてそれなりに立場のある人間だ。あまり無茶なことはしないのではないかという希望的観測もなくはなかった。

 だが、もうどちらでもいい。
 部長の行動がどれほどの影響を及ぼすものなのか、正直なところ判然とはしない。もしかしたら、そのせいで次の仕事も続けられなくなるかもしれないけれど、そうなったとしても部長のせいばかりではない。全ては自分が蒔いた種だ。その種が芽を出して大きく育って、醜い花を咲かせてしまったということだ。
 ならば、どうなろうと受け入れるしかないではないか。
 彼の態度がダメ押しになった。

 今の仕事に不満があるわけではない。むしろ逆だ。主要な取引先も担当させてもらえるようになってきたし、派遣社員である千佳の指導も任せてもらった。
 それは目をかけてくれている上司――各務次長のおかげでもある。あの人の期待を裏切るようなことをしたくはなかった。
 したくはないけれど——、もうこのままでは自分がもたない。

 覚悟を決めて、まずは次長に退職の意思を伝えることにした。

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