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(2) 高嶺の部下

『おう、休憩時間中に悪いな』

 電話は上司の石本部長からだった。

『すまんが、立花くんと一緒に謝りに行ってくれないか』

 ランチに出遅れる原因となったクレーム先へ、担当者と一緒に謝罪に行けという。

『直帰でいいぞ。金曜だし、正式な報告書は週明けでいいから。終わったら電話だけ入れてくれ』
 
 定期的にクレームを入れてくる有名な顧客だった。午前中の状況からして、こういう事態は十分に予測はできた。ただ、担当の立花絵里子(たちばなえりこ)は部長お気に入りの女子社員なので、クレーム先へも部長が帯同するのではないかと思っていた。お鉢が回ってきたことは嫌ではないし、彼女と部長を行かせるよりもむしろ良かったと思う。気が進まない最大の理由は、そのクレーム先が遠方にあるということだ。

「すみません。手を煩わせてしまって」

「気にすることはないよ。誰が担当しても文句を言う人なんだから。文句が言いたいんだよ、あの社長は。立花さんが上手に相手をしてくれているから、これでもまだおとなしい方だと思うよ」

 それは本音だった。彼女を担当につけた当初は、若い女が担当なんてとしつこく文句を言っていたのだ。それを収束させたのは誰の手柄でもない。彼女が若くて美人だからという側面もあるかもしれないが、それよりも彼女の仕事や顧客に向かう真摯な姿勢の賜物だ。

 二月二十九日生まれの彼女は入社五年目。長身痩躯(ちょうしんそうく)のモデル体型。細面で整った目鼻立ち。男女を問わず誰もがおっと思って目を止めるほどに美人だ。狙っている男性社員は多いものの、あまりに高い(みね)に咲く花の如く、手が出せない存在になっている。

「昼は食べたのか?」

 食べる暇などなかったと分かっていての質問だった。
 クレーム対応などという仕事は相手方との折衝はもちろん、顛末(てんまつ)の報告まで(わずら)わしさだけで構成されている。しかも、いかに上手く収束させたところで誰も褒めてはくれない。
 でも、それだけに——。

「腹ごしらえは必要だぞ」

 二人して駅の売店でおにぎりを買い、車内が空いて二人掛けの席が確保できたところで、遅く短いランチを済ませた。

「不快な思いをさせてしまったのであれば、その点はお詫び申し上げます」

 実はこちら側の対応に落ち度はない。だから具体的に謝罪を要する点などないのだが、それを主張しても(らち)は明かない。正論だけでは世の中は回らない。だからこのようなお詫びの文言になる。

 隣に座った彼女は神妙な表情を崩さず、黙って頭を下げていた。極力口は開くなと、事前に指示をしておいた。相手が飽きるまで同じ謝罪を繰り返すのみ。これは暗黙の式次第に則ったセレモニーなのだ。

 相手が飽きたあとは今度はくだらない世間話を一頻(ひとしき)り聞かされて、それに二人でいちいち大袈裟な相槌を打ってご機嫌を取って、ようやく解放されたときには陽が沈みかけていた。
 帰りの駅のホームから、部長に報告の電話を入れた。何やら忙しいらしく、心ここにあらずという感じで、形式的にご苦労さんと言われただけだったが。

「部長から立花さんにも、ご苦労さんってさ」

 強引さの目立つ上司だが、上層部への根回しが巧みなので害は少ない。ドラマに出てくるような百点満点の理想の上司など、現実には存在しないから仕事の面では良しとすべきなのだろう。ただ、この部長の場合、懸念は別のところにあった。

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