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思いきって聞いた質問に修一さんは目を見開いた。
「………ごめんなさい、変なこと聞いて。答えたくなかったら答えなくていいんですけど……」
元カノのことを聞くなんて重たい女かな……?
修一さんは迷った顔をしたけれど「お互い仕事が忙しくて、プライベートでなかなか会えない生活をするうちに気持ちがすれ違ったんだ」と言った。
「一緒に住んでも生活リズムが違ってきてたし、家事分担も揉めた。そのうち価値観が違うって気づいた」
「そうですか……」
「宇佐見が気になる?」
「今も修一さんと同じ部署ですし……」
私を見る目が怖いです。なんて言いたいけれど言いにくい。
「心配ないよ。もう完全に終わってるから」
修一さんは見慣れた優しい顔で笑う。
「夏帆が一番だよ」
「はい」
なら大丈夫だよね。完全に終わってると彼が言うから。宇佐見さんを怖いと感じるのは、私が修一さんの恋人でいることに自信が持てないからだよね……。
修一さんが隣で動く気配で目が覚めた。枕元のスマートフォンを見るともう朝の9時を回っている。今日は日曜だからいいものの、普段なら発狂する時間だ。
昨夜も修一さんと体を繋げた。初めての時ほどではないけれど、鈍い痛みがまだ下腹部にある。
体を丸めて寝ている修一さんに寒いかなと毛布をかけるとゆっくり目を開けた。
「おはようございます」
「おはよう……今何時?」
「9時です」
「もうそんな時間なんだ。お腹すいたね」
「何か作りますか?」
「うん……パンがあれば」
「分かりました……」
昨日カレーの材料と一緒にパンも買っておいた。また朝ごはん作ることになるんだろうな、なんて思っていたから。
「そうだ、今度また煮物作って。あとハンバーグも食べたい」
「分かりました……」
修一さんが気に入るような味のハンバーグにできるかな? これでも料理って結構気を遣うんだよね……。
朝ごはんを食べてまた洗濯をした。
そうして修一さんは忙しいからできないのではなく、家事が苦手で嫌いなのだと気づいた。
宇佐見さんと別れたのは「家事分担も揉めた、価値観が違うって気づいた」と言っていたけれど、少しだけ原因が分かった気がした。
彼がだらしなくても、適当でも、私がカバーすればいいか。
このときの私はそう思った。
◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇
早峰フーズに一番近いアサカグリーンの店舗からアレンジメントを受け取った。
これから早峰に向かうが新しく生花アレンジメントも契約されたので、メンテナンスの度にこの店で作ったアレンジメントを取りに来て入れ換えなくてはいけない。
俺はグリーンの専門だから、切り花に関しては店舗にお願いする。重要な取引先だから仕方のないことだが、このせいで早峰の作業だけで半日を要することになってしまった。
早峰のビル前のロータリーに車を停めると、台車にアレンジメントを載せてエントランスに入った。受付で作業許可証をもらい、自動ドアのすぐ横の台座にアレンジメントを飾る。
横を出入りする女子社員が「綺麗ですね」と当たり前で面白くもない言葉を俺にかける。それに一つ一つ応えながら今度は台車に観葉鉢を載せると再びビルの中に入った。
今月からいくつかの観葉の種類を変えようと思っている。前任者は種類を変えることはしなかったようだが、同じ場所に置いてあっても種類が変わるだけで気分も変わるはずだ。
壁一面ガラス窓という日当たりのいい通路に置いてあったベンジャミンをモンステラと交換する。
「こんにちは」
後ろからの声に振り返ると女が一人立っていた。いつだったか母の日のリーフレットを渡した内の一人だ。
「こんにちは」
俺はいつもと変わらず愛想よく挨拶した。
「植物変えるんですね」
「ええ、種類を変えると気分も違いますから」
「本当に。最近社内の植物に癒されるって評判ですよ。弊社のレストランにもいっぱい置いてるそうですし」
「ありがとうございます」
この女は気味の悪いくらいの笑顔を向けてくる。対応には慣れているからこそ警戒してしまう。
「あの、私の担当するエリアの店にも生花をお願いしたいと思ってるんですけど、カタログありますか?」
「はい。今は持っていないんですが、車にありますのでお持ちしますか?」
「嬉しいです。でも作業中でしょうから、またの機会にいただきます」
「恐れ入ります」
女は上目使いで俺を見た。こいつがどういう期待を込めて俺を見ているかは言われなくたって分かる。
「では、次の機会がありましたらこちらに」
女は名刺を俺に差し出した。受け取った名刺には営業推進部の宇佐見と名前があり、会社の番号と社用らしき携帯の番号が書かれている。
「ではもし近くに来ましたらご連絡させて頂きます」
「お待ちしております」
宇佐見という女は意味ありげに俺を見ると、軽く頭を下げて通路の奥に行ってしまった。
宇佐見の気配が遠ざかったのを感じると名刺を見た。
早峰に出入りするようになって名刺をたくさんもらったが、俺は営業じゃないし正直必要ない。この名刺も事務所の名刺入れに取りあえず入れておくか。
何となく裏を見ると手書きで携帯の番号とメールアドレスが書かれていた。番号は表のものとは違うからプライベートの番号だろう。
本当に分かりやすい。でも連絡しねーし。
今までの俺なら予備のセフレにはしていたかもしれないが、興味のない女は相手にしないと決めていた。
台車を押して渡り廊下の先の通路に来た。ここに置きたい種類は前から決めていた。
俺は置いてあるサンセベリアを台車に載せると、代わりにマッサンゲアナを通路に置いた。
マッサンゲアナの別名は『幸福の木』。この通路の奥にいる夏帆が毎日見えるように。
突然後ろの給湯室らしき部屋のドアが開き女子社員が三人も出てきた。
「あ、こんにちは」
「こんにちは……」
目の前にいるのが俺だと気づくと三人はニコニコと話しかけてきた。またか、と溜め息をつきそうになるのを堪える。
「植物を新しいのに変えるんですね」
「はい、種類が変わるだけで気分も違いますから」
俺は機械のように同じ台詞を繰り返した。
静かに仕事をさせてほしい。早峰の社員は暇なのだろうか。
もう愛想振り撒くのはやめよう。誰かさんのように下を向いて目立たないよう地味に仕事してやろうか。
通路の角の向こうから足音が近づいてくる。俺も他の三人も話ながら何となく角を見た。
角を曲がってこちらに歩いてくるのは夏帆だった。
下を向いてぼーっとしている。俺たちが先にいるのに気づいたのか夏帆は顔を上げた。
その顔は今にも泣き出しそうで、不安で潰されそうな顔だった。
目の前にいるのが俺だと認識しただろう瞬間、夏帆は来た方向に慌てて戻って角を曲がった。
なんだ? 今のは?
「ねえねえ、今のって……」
「そう、あの子だよ噂の」
夏帆の姿を見ると三人は顔を見合わせてクスクス笑った。
「あの人がどうかされたんですか?」
俺は思わず聞いてしまった。今の夏帆の様子と噂のことを知りたかった。
「えっと……」
「今の子、うちの会社の人に付きまとってるらしいんです……」
は? 夏帆が?
「勝手にお弁当を作ってきて無理矢理押し付けてるみたいで」
「横山さんを会社の近くで待ち伏せしてるらしいよ」
「えー! 怖い!」
何だそれ……あの内気な夏帆がそんなことするはずがない。完全にデマだろう。
「それはその二人がお付き合いしてるからじゃないんですか?」
横山と付き合っているんだから自然なことだと思うのだが。
俺が夏帆の話に突っ込んできても三人は不審に思わないほど面白がっている。