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熱が下がり1日だけ休んだ後はだるい体に鞭打って無理をして出勤した。仕事のミスや遅れを取り戻そうと集中してパソコンに向かっていた。
気が付けば定時はとっくに過ぎていて、私以外の社員はもう誰もいない。
まだきちんと回復もしていないのに残業をするなんてバカだと自覚しているけれど、今の私には仕事に没頭するしかない。少しでも時間ができると考えてしまうのだ。正広のことを。
暗い気持ちにならないように仕事に没頭した結果、ビルの警備員のおじさんが巡回に来てしまう時間になっていた。
フロアのドアから顔を覗かせた愛想のいい警備員に「帰るときは警備室に寄ります」と声をかけて、再びフロアに1人になると「はぁ……」と大きな溜め息をついた。
恋愛で仕事が手につかないなんて社会人失格だ。わかっている。けれど私の26年間の人生の内5年も付き合った正広の存在は大きかった。
デスクに置いたスマートフォンが突然静かなフロアに鳴り響き、ビクッと体を震わせた。画面には正広からの着信を知らせる表示が出ている。待ちに待った連絡に嬉しいような怖いような複雑な思いでスマートフォンを手に取った。
「もしもし……」
「美優」
数日振りに聞いた正広の声に早くも目が潤み始めた。連絡をくれて嬉しい。そしてついに現実と向き合わなければいけない時が来たと恐怖する。
「今大丈夫?」
「うん……」
プライベートな電話だけどここが会社だろうと気にしない。だって今はもうフロアに私しかいないのだから。
「ごめん、しばらく連絡しなくて」
「うん……」
「あのな」
「………っ」
思わず目をつむった。正広の言葉の続きは聞けない。聞きたくない。連絡を待ち続けたのに、できればこのまま何も言わず電話を切ってほしいとさえ願った。
「実は俺、他に好きな人ができた」
思いがけない告白だった。
「え? えっ?」
間抜けな声で聞き返した。
「他に、好きな人ができた」
正広は残酷な言葉をもう1度繰り返した。
「だって……え?」
頭が混乱する。疑問が次々と湧いては言葉にならずに消えていく。
「だからもう美優とは付き合っていけない」
「何言って……だって……」
正広に好きな人ができたって、私以上にその人を好きだってこと?
「いつから?」
「出会ったのは何年も前から。でも好きかもしれないって思ったのはこの数ヶ月くらい」
ついに涙が溢れた。
理解させられた。どうして正広が私に触れないのか。避けられているとさえ感じていた。一緒にいる意味が分からなくなりかけていた。あからさまに誘っても正広は私を抱こうとしなかった。
「なんでっ……」
好きかもしれないと思い始めたのが数ヶ月前なら……。
「じゃあどうして!? だってあのとき抱いたじゃない!」
酔った勢いとはいえ正広と身体を重ねた。抵抗する間もなく強引に服を開かれ、身体中を貪るように舐められて吸われた。他に好きな人ができたというなら、なぜあの時あんなにも激しく求めてきたのだ。
「確かめたかったんだ。自分の気持ちを」
嗚咽を堪えながら泣く私とは反対に、正広の声はどこまでも冷静だ。
「俺にとって美優の存在の大きさを量った。これからも俺は裏切らないで美優を愛していけるのかって」
「うっ……」
「男としては美優を抱けた。けど美優を抱きながら俺は……」
「それ以上は言わないで!」
正広の言葉を遮った。聞きたくなかった。正広が私を抱きながらも他の女のことを考えていたなんて。酔わないと抱けないほどに正広の中で私の存在は危うくなっていたんだ。
「その人が夢にまで出てくるんだ。俺の意識の中にいるのはもう美優じゃない……」
信じられないほど残酷な言葉に声が出ない。電話の向こうの正広にも私が泣いているのは気づかれてしまうだろう。でもこれが泣かずにいられるか。
私を抱きながら正広は違う女のことを想っていた。私だけが幸せだと思い込んでいた。
「美優、ごめん。別れほしい」
「っ……うっ……」
突きつけられた現実に怒りや悲しみ、正広を罵る言葉が頭をめぐるけれど、口から溢れるのは嗚咽する声だけだ。
「私を抱いてから、私よりも……その人がす、好きだって、再確認しちゃったんだ?」
言葉が途切れ途切れになる。会話を続けようと必死だ。
「私が……嫌いになった?」
「違う。美優以上に大切な人ができたんだ」
正広ははっきり告げた。涙が頬を伝う。私を嫌いになってくれた方がよかった。その方が正広を嫌いになれたのに。
「最低だね……」
声が震える。もう平静を保つのが難しい。
「ごめん……美優ごめん」
正広の謝罪が聞きたいわけじゃない。切ない声で「美優」と呼んでほしいわけじゃない。
「無理……急に別れようだなんて……受け入れらんないっ……」
5年なのだ。正広と付き合って5年の思い出や安心感を急に手放すなんて無理だ。何度2人の幸せな未来の想像をしただろう。私は正広と結婚したかった。
「うん……急だよな。ごめん」
「無理っ……いや……嫌だよ正広……」
どこの誰かも知らない女に正広の気持ちが向いてしまった。受け入れるのは簡単じゃない。この気持ちを抱えたままでは何もできない。離れないでと願うことしかできないのだ。
「美優、俺を恨んでいいから」
この言葉に私は鼻で笑った。今更正広を恨んだって意味なんてないのに。
「正広を恨んでも私のそばにはいてくれないんでしょう?」
「………」
無言は肯定だ。ほらね、いくら恨んでも罵っても、泣いて懇願しても正広の気持ちは変わらない。
「落ち着いたらまた話そう」
その言葉を聞いた瞬間、私は自分から通話を切った。これ以上正広と話をしたくなかった。後日落ち着いたところでまた別れ話をする自分を想像できない。その気力すら湧くとは思えない。
2人の5年間の終わりを電話で告げられた。私の存在はもう正広にとってその程度なのだ。
気持ちを繋ぎとめる努力をもっとすればよかったのだろうか。正広の気持ちが離れる前より早く私からプロポーズしていれば今頃家族だって増えていたかもしれない。
「うっ……ひっく……うえっ……」
誰もいないフロアで声を抑えないで泣き喚いた。
正広を批難する言葉は次々頭に浮かぶのに、涙には限りがあるのだと思い知らされる。一頻り泣くと涙は徐々に出なくなる。頭はズキズキするし喉も痛い。
重い瞼を強引に動かして時計を見ると終電の時間が迫っていた。焦る気持ちに反して体は重くてゆっくりとしか動かない。カバンに荷物をつめて肩にかけ立ち上がり、フロアの電気を消すために壁まで行くとフロアの曇りガラスのドアの向こうに誰かが立っていた。
一瞬驚いたけれど警備員さんだったら待たせるのは申し訳ないと思ってドアを開けた。
「っ!」
言葉を失った。ドアの向こうに立っていたのは武藤さんだったのだ。
「あの……お、お疲れ様です」
武藤さんはばつが悪いという顔をして私と目を合わせずに声をかけてきた。
「………」
私は返事ができなかった。武藤さんの顔でこちらの今の状況を理解しているように感じたから。
「いつからいたんですか?」
「今帰ってきたところですよ……」
嘘だ。目が泳いでいる。武藤さんはきっともっと前からここにいたのだ。私が電話をしていたことも知っていて、私が泣いていたことも、正広との電話の内容もきっと悟ったかもしれない。
「まだ残られるなら、帰るときに警備室に寄ってください」
それだけ言って武藤さんの横を抜けようとしたとき腕を捕まれた。
「待ってください」
私の腕を強く掴んで放す様子のない武藤さんの目は怒りを含んでいるようにも感じて、私は思わず固まってしまった。
「あの……放してください」
武藤さんはいつもこうだ。私に突然触れてくる。
「何があったんですか?」
「………」
「どうして泣いているんですか?」
答えたくない。私の傷をえぐってほしくない。武藤さんは何があったのかを察している。それなのに強引に引き留めて私の口から状況を聞こうとする態度に腹が立ってきた。