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「武藤さんには関係ありません!」

「ありますよ」

そう言い放った武藤さんは私をまっすぐ見て逃がそうとはしない。

「僕はあなたが好きです。あなたが辛いなら、僕は助けてあげたいと思います」

枯れたと思った涙が再び溢れるのを感じた。最愛の人に別れようと言われたすぐあとに、私を好きだと言う男性に捕らわれている。

「別れてほしいって言われたんですよ! 彼氏に!」

至近距離で武藤さんに向かって怒鳴った。その勢いで私の涙が床に何滴も落ちた。

「もう私なんて好きじゃないんですって!」

涙で視界がぼやけ武藤さんの顔が見えない。喉が痛くて声は掠れる。

「私なんて結婚を考えてたのに電話で別れ話! あんなふざけた男を好きだったなんて笑える! 自分が情けない!」

自重しながら涙はどんどん溢れる。武藤さんの前で泣き喚く自分は惨めだった。

「正広の気持ちに気づかなかった私はバカで……」

言い終わらないうちに腕を引かれて抱き締められた。

「やだ!」

抵抗してもがいても武藤さんはぎゅうぎゅうと抱き締める。

「放して!」

「嫌です」

「こんな私にそんな価値なんて……」

価値なんてない、そう言いかけると「もう黙って」と唇を塞がれた。

「んー! んー!」

肩を押し返そうにもびくともしない。胸を叩いても唇が離れない。武藤さんの舌が口の中に侵入し私の舌に荒々しく絡みつく。涙で濡れた私の頬と武藤さんの頬が触れてお互いの顔がぐちゃぐちゃになる。

「ふっ……あ……」

うまく息ができない。社員旅行で酔ったとき以上の強引なキスに私は抵抗するのをやめた。体のどの部分にももう力が入らない。肩にかけたカバンを床に落としてしまったけれど、もうそんなことはお互いに気にしていられなかった。足の力が抜けて倒れそうになる私の腰を武藤さんの腕が支えた。

「戸田さんはバカではありません。自分を卑下しないでください……」

ほんの少し唇を離して言った。

「こんなに傷つくほどに相手の人が好きだったんですよね」

囁かれた言葉はじんわりと胸に染みた。
そうだ、私は正広を大切に思っていたのだ。
武藤さんの腕の中で私はこくりとうなずいた。

「こんなにも想われていたのにバカなのは彼の方ですね」

「いい気味だと思いましたよね」

「何がですか?」

武藤さんは私を抱いたまま顔を覗きこんだ。

「私が彼氏にふられて武藤さんはざまあみろって感じですよね」

今私が傷ついているのが愉快に違いない。武藤さんを無下にしてきた私への罰だと。

「チャンスだと思ってます」

それはどういう意味だと顔を上げた。私の顔を優しく見下ろす武藤さんと目が合った。

「戸田さんが僕を好きになってくれる可能性が出てきました」

あっけらかんと言う武藤さんに目を見開いた。

「あの……」

「僕はもう我慢しません。いつだって戸田さんに気持ちを正直にぶつけますし、あなたのために力の限りを尽くします」

「………」

驚いて返す言葉が出ない。正広に別れたいと言われたばかりの私には状況が整理できない。

「辛いときには遠慮なく抱き締めてあげることができる」

「どうしてそこまで……こんな私を?」

「あなたが好きで仕方がないからです」

何度も好意をぶつけてくれる武藤さんに私はなんと言ったらいいのだ。この人の腕に包まれていなかったとしても私はもう逃げることはできない。体だけでなく言葉でも武藤さんに縛り付けられてしまったようだ。

「ゆっくりでいいです。でもいずれは僕と付き合ってください」

ひたすら口をパクパクさせるだけの私に武藤さんは笑った。

「別れたばかりの今だからこそ呪いのように気持ちを植えつけます。僕はあなたが欲しくてたまらない」

熱烈な想いを聞かされても私の反応はどこまでも薄い。武藤さんはそんな私を見てますます笑う。

「私が……武藤さんを好きになることはないかもしれません……」

やっとのことで言葉を出した。それは武藤さんの気持ちへの否定だった。

「好かれたからって僕を好きにはなってくれませんか?」

武藤さんは相変わらず笑っている。けれど目だけは真剣だ。

「わ……かりません……」

私の答えに武藤さんは満足そうな顔をした。圧倒的な目力に「好きにはならない」と言いきることができなかったのだ。
武藤さんの顔が再び近づいてきた。これはまたキスをされるのだと気づいた瞬間顔を背けた。いつだってこの人に思い通りにされるがままなのが悔しかった。
私の迷う様子に武藤さんは耳元で微笑んだ。吐息が耳にかかりくすぐったい。

「次は戸田さんの方からキスを求めてほしいですね」

背筋がゾクゾクした。その声音はまるで私からキスを求めろと命令されているように感じた。綺麗な顔で、スタイルもよくて、仕事もできる完璧な男。その武藤さんに口説かれているだけでも夢のようなのに、このままこの人のそばにいたら私はいつか本当に武藤さんにキスを求めてしまいそうだ。

「絶対に求めません!」

この人の思い通りになるものか。失恋の余韻に浸る間もなく私を惑わせないでほしい。武藤さんは怒る私に微笑むと「僕の言ったことをじっくり考えてください」と囁き、私の体を解放した。

「いつも逃げられるから今日は僕が戸田さんをおいていきます」

武藤さんは動揺して固まる私をその場において「帰るとき警備室に寄ってくださいね」と笑いながら言って非常階段の扉を開けて出ていった。
私はその場に崩れ落ちた。
正広に別れたいと言われてすぐに武藤さんに好きだと改めて言われた。気持ちの整理がつかないのに武藤さんと付き合うだなんて考えられない。
私を嫌いなのではなかったのか。少し前まで挨拶もしてくれなかったではないか。これまで目を合わせようとしなかったのに、吸い込まれそうなほど力強い目を向けるようになった。
私の何が彼をこんなにも変えたのだろうか。



◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆



あれから武藤さんは何事もなかったように私に接した。恐れていた四六時中抱きつかれるという状況にはならずにほっとしている。さすがに他の社員のいる仕事中にそんなバカなことをするとは思っていないけれど、最近の武藤さんならやりかねないのではと内心恐れている。
私は武藤さんへの態度を固くしていた。何度も抱き締められて強引にキスをされれば警戒して避けたくなるのも無理はないと思う。それなのに武藤さんは私が避けるのを面白がっているようで、わざと無意味なことでも話しかけてくるのだ。

「明日は古明橋の視察に行ってきます」

「え、明日武藤さん出勤されるんですか?」

「はい。視察に行けるのは明日しかないので」

明日は土曜日で会社は休業日のはずだ。休日出勤する社員もいなくはないけれど、営業部の社員も基本的には休みのはずだ。

「じゃあ私も資料を作成しなきゃいけないので出勤します」

「そんな必要ないです。戸田さんは休んでください」

「武藤さんが出勤してるのに私が休むことはできません」

引き下がらない私に武藤さんはしばらく考えたあと視線を私に合わせた。

「では一緒にいきませんか?」

「え?」

「明日、古明橋に一緒に行ってください」

予想外の申し出に言葉を失った。武藤さんと一緒に出掛ける……たとえ仕事だとしても抵抗がある。以前山本さんと外出したことはあったけれど、今の武藤さんとは遠慮したい。

「業務命令です」

武藤さんは笑顔で言い放つ。こんなときだけ上司面するなんて反則だ。

「あの……」

「イベント当日は戸田さんも会場に行くんですから今現地を見ておかないと。それとも、古明橋公園に行ったことがありますか?」

「ないです……」

「なら行きましょう」

武藤さんは私の返事を待っている。その顔は笑顔だけれど目が笑っていない。私が断ることを許さないと言っているようだ。

「わかりました……」

私が渋々承諾したことに満足したのか武藤さんはニコニコと手帳に何かを書き込んだ。

「では明日11時に古明橋駅で待ち合わせでいいですか?」

「はい……」

そう決めたあとの武藤さんは積極的に話しかけてくることはなくなったけれど機嫌が良いことは言われなくてもわかった。他の部署の人にまで無駄に笑顔を向けたり、外線も私よりも積極的にとっている。女性社員に笑いかけて相手を高陽させるのを見るとなぜだか胸がざわつく。
今まで苦手だと思っていた自分が信じられないほど武藤さんに意識を持っていかれている。私の言動に一喜一憂している武藤さんに私も振り回されていた。



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