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(4) 希 ——Nozomu——

 彼女の視線を感じて、無意識のうちに右手で左手首を抑えている自分に気がついた。

「どこか痛めたの?」

「あ。いや。これはさっき部活でちょっと怪我しただけだから関係ないよ」

「手首を痛めたの?」

 左手首を軽く曲げ伸ばしして見せた。
 大したことないっていうアピールをするつもりが、やはり痛みが走り、少しだけ顔をしかめてしまった。

「手当しなきゃ」

「大丈夫だよ、これくらい。保健の先生もいないみたいだし」

「駄目だよ。最初が肝心なんだから。湿布くらいならわたしがやってあげる」

「いや。でも」

 意外と強引な彼女に押し切られる形で保健室へ戻ることになったけど、断りきれなかったのは彼女の強引さだけが理由じゃない。
 これは、それから少し時間が経ってから自覚したことではあるけれど、このとき僕は彼女に恋をした。初対面でこそなかったものの、それはほとんど一目惚れに近かった。

「わたし、保健委員なの」

 彼女はどこからか湿布薬と包帯を探し出してきた。
 どう見ても大き過ぎる湿布を程良い大きさに切ることもせず、そのまま手首に巻き付けるようにして貼ってくれた。
 彼女の手の柔らかさと、湿布の冷たさ。どちらが高止まりしていた鼓動をさらに大きく鳴らしたのかは言うまでもない。

「ちょっと大きいかな。ま、大は小を兼ねるって言うし。いいでしょ、これくらい」

 一瞬だけ舌を出しておどけて見せたその表情も追い討ちをかけた。
 あとは黙って真剣な表情で包帯を巻いてくれていたその間、ずっと彼女のことをちらちらと盗み見し続けていた。

 長い睫毛。
 小さな耳朶。
 窓からの光に浮かび上がる産毛。
 愛らしい唇。
 制服の襟元から少しだけ見えていた白い肌と鎖骨。
 スカートから覗く膝小僧。

「はい。出来上がり」

 慌てて視線を自分の手首に移した。
 どうやら本来は適度な長さに切って使うはずの包帯を、これまた切らずにそのまま全部使ったらしい。随分と分厚く膨らんで不格好になってはいたけれど、彼女はまたしても反省よりも前向きに評価する姿勢を見せた。

「このくらいの方が手首の保護になっていいかもよ」

 さすがにこれは判断ミスだろうと、今なら突っ込める自信もあるけれど、このときの自分には無理だった。
 ただお礼を言って、そそくさと保健室をあとにするしかなかった。

 包帯が(こぶ)のように膨れ上がった左手首を見て目を丸くした顧問から、今日は帰れと言われたのでおとなしく帰ることにした。
 放課後の校舎やグラントには、そこかしこに部活動中の生徒たちの声が響いていた。
 歩きながら、それらの中に彼女の姿を探してはみたものの、見つけることは出来なかった。
 彼女は合唱部だと知ったのは、翌日のことだ。

 中学生になって、女子との距離感が小学生のときとは明らかに違ってきていた。小学校高学年ともなると成長の早い女子もいたけれど、それでも男女の垣根はさほど高いものではなかったのに。小学生だったのは、つい二月(ふたつき)ほど前のことに過ぎなかったのに。
 女子を女性として認識し始めた時期だったのかもしれない。白いシャツにブレザーの制服の効用もあったかもしれない。あるいは、彼女がそのきっかけを与えてくれたのかもしれない。

 悲しいかな。二人の関係はクラスメイトという以上には進展しなかった。
 振り返れば、包帯を巻いてもらった次の日にお礼のひとつも言えばよかったのだ。
 そういう堂々と話しかける材料があったにもかかわらず、チキンな僕には朝から下校時まで、休み時間も授業中も、彼女のことを目で追いかけることしかできなかった。
 クラスメイトだった一年間を通しても、ほかの女子たちと比べて特に彼女との距離を縮めることができたわけでもない。特別多くの言葉を交わしたわけでもない。ただ一方的に僕が視界に入れている時間が、ほかのどの女子よりも圧倒的に長かった。それだけだ。

 彼女は保健室での一件からも分かるように、男子とも物怖じせずに分け隔てなく話せる女の子だった。なので彼女の様子を窺っていると、ほかの男子と楽しそうに話している場面なども自然と目にすることになる。
 笑っている彼女を見て可愛いなあと思うと同時に、お門違いな嫉妬心も芽生えていた。
 あの笑顔を僕にだけに、とは言わない。せめてもっとたくさん僕に向けてくれればいいのにと。

 バレンタインに人生最大のドキドキとがっかりを味わった年でもあった。
 二年になると、違うクラスになった。
 バレンタインに次ぐ消沈。
 二人の関係を表す言葉はクラスメイトに元が付いただけの小さな変化だけれど、彼女の姿を目にする機会はめっきり少なくなってしまった。
 それでも彼女への想いが希薄になることはなく、それどころか時間の経過と共に余計な成分が蒸発してどんどんと濃縮されるかのごとく、純度が増すばかりだった。

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