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20話 マリーゴールド

 黒崎流奈は鬼に追いかけられているかのような勢いで、学校から家までの道を駆け抜けた。マンションのエントランスを抜け、エレベーターの「上」のボタンを押す。十階建てのマンションの五階が流奈と英司の住む部屋だ。エレベーターは最上階に止まったままで、降りてこない。流奈は「上」を何度も何度も押した。それでエレベーターの速度が上がるわけがないことはわかっていた。けれど、じっとしていられないほどの焦燥感が指を動かす。いま何時だろう。スマートフォンを持っていない流奈は現在時刻を確認することができない。図書室で見た時計の針がどれくらい進んだのか。それが分かれば、この焦燥感も少しは和らぐかもしれないのに。

 なかなか来ないエレベーターにしびれを切らし、階段を登ることにした。ばたばたと登っていくか細い脚は、先ほど走ったせいで鉛のように重かった。十代とはいえ、普段体育以外の運動なんてしない流奈が五階まで登るのはかなり大変だ。ぜいぜいと肩で息をしながら四階の踊り場まで登りきる。あと少し、と次の段に足を踏み出した時、視界がガンッと下がった。右ひざを一段上の階段に強く打ち付ける。剥がれかけた靴底が階段の縁に引っ掛かって転んでしまったのだ。転んだ勢いで、スクールバッグから筆箱が飛び出した。急いで図書室を後にしたからチャックを閉めるのを忘れていたのだろう。膝に鈍い痛みを感じながら、ぐいっと右手で体を押して立ち上がる。筆箱を鷲掴みにして残りの階段をなんとか駆け上がった。

 リビングの時計を確認すると一八時五分前だった。自室にバッグと筆箱を投げ込んで台所に向かう。いつもなら部屋着に着替えて、髪を結んでから食事の支度を始めるけれど、今はそんな時間はない。英司が帰って来る、一八時半までに食事の支度を済ませなければならないのだ。

 何よりも先に米を炊かなければ。米は炊き立てでなければならない。英司はそこまで食事に対してのこだわりはないが、それだけは譲れないらしい。そのため冷ご飯などは常日頃からなく、毎日炊いていた。ちなみにパスタやらパンやらは手抜きとみなされ、「しつけ」の対象になる。炊飯器の中から釜を取り出して中に一合の米を入れて洗う。米を洗いながら、冷蔵庫にある野菜はなんだったか、なるべく手早く作れるものは何かを考えた。流奈の頭の歯車は最高速で回っていた。

 洗っても、洗っても白いとぎ汁は出てくる。毎日行っていることなのに、時間に追われている今日に限っては煩わしくて仕方がなかった。もういいか、と半ば投げやりに釜を炊飯器に入れて、早炊きに設定した炊飯ボタンを押す。

 冷蔵庫を開けると中にはいくつかの野菜と薄切りの豚肉が入っていた。今朝、学校に行く前に冷凍室から移して解凍しておいた物だ。これは生姜焼きにしよう。流奈は油を引いて熱したフライパンに豚肉を並べた。焼いている間に、合わせ調味料を作って、レタスをちぎる。両面が焼けた豚肉に合わせ調味料とチューブのショウガを入れて、あとは水分が飛べば完成だ。ここまででそんなに時間はかかっていないはず。ギリギリだがなんとか間に合うだろうとほっと胸を撫でおろした。副菜用の野菜を取ろうと冷蔵庫を開けた時、ガチャッとドアが開く音がした。

 運が悪かった。まだ一八時半前だが、英司は今日に限って少しだけ仕事が早く終わってしまったのだ。恐怖の稲妻が流奈の体中を走り抜ける。粟立つ肌は小刻みに震え、血の気を失ったかのように青くなっていく。お出迎えをしなければ。流奈は火を止めて玄関に駆け出した。

「お父さん、ごめんなさ」

 謝罪の言葉を口にしながらリビングと玄関をつなぐ廊下に出る。英司の姿を確認した時、風船が破裂したように視界が弾けた。そのまま廊下の壁に激突し、ずるずると床にへたり込んだ。針で刺された風船は型を保てず、萎むしかない。遅れてやって来た左頬の痛みで、自分は叩かれたのだということに気が付いた。

「来るのが遅い」

 英司はお出迎えが遅れることを一秒だって許さない。すでに靴を脱ぎ、流奈が来るのを待っていたのだ。その瞳には赤い血管がはっきりと浮かび上がり、こめかみにはミミズのような青筋が這っていた。

「ごめんなさい……」
「飯は」
「あ、まだ、できてなくて……」

 英司の右足が流奈の左肩を強く押す。流奈の軽い体は簡単に後ろに倒れた。倒れた拍子にゴンと、後頭部をぶつける。英司はそんなことお構いなしに、腹部を踏みつけた。怒りに歪んだ表情のまま無言で何度も踏みつける。流奈はたいして何も入っていないような胃が口から飛び出しそうになるのを必死で抑えた。腹に衝撃が襲う度、食道に酸っぱいものが込み上げてくる。

「お前みたいなやつを養ってやっているんだ! 家事くらいちゃんとやれ!」

 そう言い捨てると英司はどこかへ出かけて行った。それと同時に、炊飯器が炊き上がりを知らせる音を鳴らした。仰向けに倒れたままだった流奈は、起き上がろうと膝を立てた。その時、右膝に鈍い痛みが走る。起き上がってみると、先ほど階段に打ち付けた所に擦り傷ができていた。傷はすでに乾き始めていて、周りには茶色くなった血がぽつぽつとこびりついている。

 洗面所で濡らしたティッシュで膝を拭いて、台所へ向かった。保温に切り替わっている炊飯器の電源を落とす。腹部の痛み、というより吐き気がひどくていま食事をとる気にはなれない。このご飯はおにぎりにして明日学校に持っていくことにした。普段コンビニのパンやおにぎりしか食べないわたしが手作りのおにぎりを持っていったらみんなびっくりするかな。流奈は炊き上がった米に塩を混ぜておにぎりを作った。

 フライパンの中で冷めてしまった生姜焼きと握りたてのおにぎりを冷蔵庫にしまって、自室に戻る。部屋の扉を開けると、先ほど投げ入れたバッグが口を開けて転がっていた。開いた口からは教科書がはみ出している。その様子がボロボロの衣装を着て、舌を出して必死におどけたピエロのようで、流奈はバッグを蹴り飛ばした。

 蹴り飛ばされたピエロは壁に激突して、隠していた手品の仕込みをぶちまける。それを見る流奈の目つきは道端に落ちた病葉を見るかのようだった。のろのろと足を動かして、バッグを起こす。拾い上げた教科書をバッグに詰め込んで、筆箱は、と部屋を見渡した。ざっと見渡しても見つけられず、ベッドの下を確認すると案の定、潜り込んでしまっていた。筆箱の横に薄い冊子のようなものが落ちている。なんだろうと思い、手を伸ばして筆箱と一緒に取り出すと、それは進学の情報誌だった。

 夏頃全員に配られた無料の進学情報誌。捨てるつもりでバッグから出していつの間にか、ベッドの下に蹴飛ばしてしまっていたのだ。表紙にはそばかすのついた女の子が、長い髪をおさげにして笑っている。輝く未来が待っていると、疑ったことがないような笑顔で。

 ぱらぱらとページをめくると、友達の目指している学校だけが目に入っていく。ここは明日香の志望校、ここは満里奈の志望校。ふと、教育大学のページで手が止まった。そもそも流奈がした失態の原因は明日香に勉強を教えるのに夢中になりすぎたことだ。明日香と過ごした時間はひたすらに楽しかった。人に何かを教えるという喜びと、残りわずかな友達と過ごす時間。教職を目指して大学に通い、休日には明日香たちと笑いあうような、そんな未来があったなら。流奈の薄い胸に張り裂けそうな痛みが襲う。


 *


 酒に酔った英司が帰ってきた後はいつも通りだった。部屋に漂うひやりとした空気が、剥き出しの肌の温度を奪っていく。股のあたりが気持ち悪く、できれば風呂に入りたかったが疲れ果ててそんな気力はなかった。開きっぱなしのカーテンから覗く満月がぽっかりと、流奈を見下ろしている。

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