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あさり

 「あさり」
 
 鏡に触れると、表面がゆるみ空洞が開いてトンネルができる。
 僕はそこに足を踏み入れ、中を進む。
 トンネルの中は薄切りにした画像の羅列だ。
 僕の向かう先は海。
 トンネルの壁面に手を差し込み、押し広げれば外の世界に出ることができる。
 地図はないから間違えることもある。
 でも、海は広いから、たどり着くことができる。
 僕は水面を利用して、鏡の世界から外に出る。
 まるで地表からにょきにょきと生えてきた竹の子のように。
 外に出た途端、僕は明るい気持ちになる。
 浜辺にはたくさんの人たちがいてとても賑やかだ。
 「ねえ、母さん。みんな何をしているの?」
 僕は近くにいた女の人に話しかける。
 「みんな貝をとっているんだよ」
 「貝をとってどうするの?」
 「貝をとって食べるんだよ」
 「おいしいの?」
 「おいしいよ」
 僕は女の人の足元に置かれたバケツの中を覗いた。
 小さな貝がいくつかあった。
 「あさりっていうんだよ」女の人が言った。
 「ふうん」知っていたけど、僕はそう言った。
 「いろいろな模様があるんだね」
 「そうよ。いろいろな模様があるのよ」
 女の人がやさしく笑うので、僕は女の人の子供になることに決めた。
 「さあ、お前も探してごらん」女の人が僕に熊手を差し出した。
 「どうやって使うの?母さん」僕は知っているけど聞いた。
 「これはね、こうやって使うんだよ」
 女の人は前かがみになって、砂をかいてみせた。
 女の人の胸元からあふれた乳房に僕は触れた。
 女の人は僕のことを本当に自分の子供だと思っている。
 それは僕を生んだ記憶を持っているからだ。
 僕が女の人の子供になろうと決めた時から、過去の記憶は遡ってできあがっていく。
 
 「足を洗いなさい」母さんが言う。
 僕は玄関先の水道で足を洗った。
 母さんがタイルで足を拭いてくれる。
 僕は母さんの後をついて薄暗い廊下を通り、台所に行く。
 母さんが鍋にあさりを入れる。
 母さんがあさりを洗う。
 かしゃかしゃと音がする。
 僕はこの音が大好き。
 母さんは鍋に新しい水を張ると、そこに塩を入れて塩水を作る。
 「どうしてお塩を入れるの?」
 「砂を吐き出させるためよ」
 「どうして吐き出させるの?」
 「おいしく食べるため」
 「貝は食べられちゃうの?誰に?」
 「あなたに」
 母さんは微笑んで、僕の頬を両手で挟んだ。
 僕はしばらく鍋の中のあさりを眺めていた。
 つののような水管が伸びて、潮を吐いた。
 かしゃかしゃと小さな音がした。
 
 目が覚めるとお味噌汁ができていた。
 あさりはもう動かない。
 食卓には男の人が座っていた。
 父さんと、僕は思った。
 父さんとは心が通じない。
 まるで他人のように硬い目つきで僕のことを見ている。
 僕は悲しくなって、涙をこぼした。
 「ごめんね。あなたが寝ている間にあさりを火にかけちゃって。お母さんが悪いね」
 僕はなおも泣き続ける。
 「この子ったら」
 母さんは困った顔で、父さんに笑いかける。
 父さんが席を立って、お味噌汁がすっかり冷めた頃、僕はそっとお椀の中の汁を啜ってみる。
 海の香りがした。
 僕はあさりが死んでいない頃に戻ろうと思う。
 これはただの僕の思いつきだ。
 僕は母さんの鏡台の鏡に触れる。
 僕の前にトンネルが開く。
 生きているあさりに会いに行けるけど、ここにいた僕は死んでしまう。
 母さんは何かの理由で僕を失う。
 母さんは悲しむと思う。
 僕のことを愛しているからだ。
 僕は鏡のトンネルを歩く。
 いくつか外の世界を覗いた後に気に入った場所で、僕はトンネルの列車を降りる。
 目の前には砂浜が広がっている。
 それがさっきと同じ砂浜なのか、過去なのか未来なのかわからない。
 でも、生きたあさりはいる。
 「ねえ、母さん」僕は女の人に話しかける。
 僕が女の人に話しかける分だけ、悲しい女の人は増えていく。
 僕はそのことを悲しく思う。
 けれど、気づくと僕はトンネルの中にいる。
 僕は4才から7才までの年齢を行ったり来たりしている。
 母さんとあさりをとるのにちょうどいい年頃だからだ。
 僕はいろいろな海水浴場で、いろいろな母さんと、いろいろなあさりを見た。
 「いろいろな柄があるんだね」僕は言う。
 「いろいろな柄があるのよ」母さんが言う。
 「いろいろな大きさもあるね」
 「そうよ」

 今度きた海水浴場の空には飛行機がたくさん飛んでいた。
 僕は飛行機を指差して言った。
 「ねえ、母さん。どうして飛行機があんなに飛んでるの?」
 「近くに空港があるのよ」母さんが言った。
 「空港って?」
 「飛行機の駅みたいなものよ」
 「ねえ、母さん。飛行機はどこに行くの?」
 「遠くに行くんだよ」
 「遠くってどこ?」
 「いろいろなところよ」
 「ふうん」
 母さんは僕の頭の上に手を置いた。
 「あなたも大きくなったら、いろいろなところに行きなさい」
 「うん」
 僕と母さんは飛行機を見上げた。
 それからまた砂をかいてあさりをとった。
 あさりの入ったバケツを持って、母さんとバスに乗って家に帰った。
 母さんがあさりを洗い、僕はその様子を見ている。
 キッチンのテーブルに頬杖をついて、僕は鍋に入ったあさりのことをじっと見ている。
 つのが出て、潮を吐いた。
 つのが伸びて、潮を吐き出した。
 僕がつのにさわるとあさりは慌ててつのを引っ込める。
 かしゃかしゃとやさしい音がする。

 目が覚めてもお味噌汁はできていなかった。
 家の中は暗かった。 
 僕は不安になって泣き出した。
 でも、母さんはきてくれなかった。
 
 揺り起こされて目を覚ますと、男の人がいた。
 父さんと、僕は理解した。
 「ごめんよ」
 父さんは真っ白な顔をして僕を抱きしめた。
 それから二人で朝ごはんを食べた。
 それから病院にいって母さんに会いに行った。
 母さんは死んでいた。
 白く、硬くなっていた。
 僕は母さんと手を繋いだ。
 「ごめんな」また父さんが言って、涙を流した。
 母さんは僕が昼寝をしている間に、近所のスーパーに買い物に行って、車に轢かれて死んだ。
 「お味噌を買いに行ったんだよ」父さんが言った。
 父さんはお味噌汁を作らなかった。
 代わりにあさりを小さな水槽に移して塩水を作ってくれた。
 お葬式の間中、僕はその水槽をずっと膝の上に置いてあさりを見ていた。
 母さんは煙になった。
 「でも、あさりは生きてるね」
 僕は父さんに言った。
 父さんは何も言わずに、僕の頭の上に手を置いた。

 父さんはもう塩水を作ってくれなかった。
 水槽の水は白く濁っていった。
 「ねえ、父さん。あさりがつのを引っ込めないんだよ」
 僕は水槽の中のあさりのつのに触ってみせた。
 「死んでるんだ」父さんは言った。
 「つのを出しているのに?」
 「匂いを嗅いでごらん」
 僕は水槽の中の匂いを嗅いでみた。
 「くさいよ。くさい!くさい!」
 僕は笑ってしまった。
 父さんは涙を流した。
 僕らはバスに乗って海水浴場に向かった。
 死んだあさりを海に返してあげるためだ。
 そうしようと父さんが言った。
 砂浜にはまだ誰もいなかった。
 潮が引いて濡れた砂の表面は鏡のように光っていた。
 僕たちは波打ち際のずっと先まで歩いていった。
 父さんが熊手で砂に穴を掘った。
 「さあ、ここにあさりを埋めてあげなさい」
 「うん」
 あさりは死んでしまったのだ。
 僕は悲しい気持ちになって、濡れた砂の鏡面に指を伸ばした。
 そのとき、大きな影が通りかかった。
 見上げると飛行機が飛んでいた。
 たくさんの飛行機がいろいろな方向に飛んでいた。
 「父さん、僕は大きくなったら、飛行機に乗っていろいろな遠くに行くんだよ」
 僕は飛行機を指差して、父さんに言った。

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