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「杖」

 賭けには負けてしまった。
 金は巻き上げられた。
 腹が減っていた。
 でも金は一銭もないのだ。
 また、今夜の賭けのことを考える。
 あの時、逆の選択をしていれば今頃は、、、。
 帰る部屋もなく、野宿するしかない。
 僕は街を彷徨い歩いた。
 だからと言って、明日になれば金が手に入るあてなんて何もないのだ。
 
 曲がり角に差し掛かった時、僕は女に声をかけられた。
 この街には曲がり角ごとに娼婦が潜んでいるのだ。
 「悪いけど、金がないんだ」
 金があったとしても、お前のような容姿では買う気もないけどなと、僕は心の中で毒づいた。
 「そんなこと言わずにさぁ」
 女は僕のジャケットの裾を引っ張った。
 僕はその場でペニスを引っ張り出し、女に小便を引かっけた。
 「何しやがるんだ!ちくしょー!」女は激怒した。
 僕はペニスをしまって歩き出した。
 次の角に差し掛かると、また女に声をかけられた。
 今度はまあまあ好みの女だったが、金がないことには何も始まらない。
 僕は再び、歩みを進めた。
 次の角では、また次の女が声をかけた。
 
 街の灯りも点々となったころ、僕は少女に声をかけられた。
 「おいおい。お前も娼婦なのかい?まだこんなに小さいのに」
 髪の長い少女は大きな目でじっと僕を見上げていた。
 「俺にはそんな趣味はない。それに金もない」僕は言った。
 「あっちにおばあさんがいるの」
 少女は向かいの建物を指差した。
 見ると建物の入り口の階段に老婆が座ってじっとこっちを見ていた。
 「何だい、あれは?お前の元締めか?」
 少女は首を横に振った。
 「おばあさんの杖が折れてしまって、歩くことができないの」
 「それで?俺に杖の代わりをしろってか。冗談言うなよ」
 僕は少女の前を立ち去ろうとした。
 「待って。おばあさんはお礼をあげるって」
 僕は少女に向き直った。
 「そう言うことは先に言うべきだよ、お嬢さん」
 僕は少女と老婆のところへ向かった。
 「杖が折れたんですってね」僕は言った。
 老婆は何も答えずにガマガエルのような顔でじっとこっちを見ていた。
 「よう、婆さん。杖が折れて、そのでかいケツが持ち上がらなくなっちまったんだって?」僕はもう一度言った。
 「口の利き方に気をつけな。お前の態度によって出す額が決まるんだ」
 老婆は憎たらしい顔で言った。
 あんたの頭を叩き割って金を奪い取ってやってもいいんだぜと思ったが、とりあえず大人しく従うことにした。
 「そりゃ失礼しましたね、おばあさん。何なりと。あなたをおぶってお部屋にお連れしましょうか?それとも、あなたの杖代わりとなって、この腕をお貸しいたしましょうか」
 「腕を貸しな」ばばあが言った。
 僕はそっぽを向いて唾を吐き出すと、老婆に腕を差し出した。
 「さあ、どうぞ。おばあさん」
 老婆は「ケッ」と悪態をついて、僕の腕にしがみついた。
 後ろから少女がばあさんのでかいケツを押し上げた。
 「どちらへ?」
 僕は紳士ぶいて微笑んだ。
 「まっすぐ行きな」老婆は言った。

 しばらくすると完全に街の灯りは途絶え、代わりに波止場の灯りが見えてきた。
 「船にでも乗るつもりかい?」
 僕の言葉を無視して老婆は歩みを進めた。
 防波堤の突端まで来たとき、僕は慌てて足を止めた。
 「おいおい、冗談じゃないぜ。自殺でもするつもりか?巻き添えを食うのはごめんだね」
 そこで老婆はやっと口を開いた。
 「自殺?こっちだってごめんだね。私はまだまだ死ぬつもりはないんだ」
 「だったらこんなところまできて何をするつもりだい?」
 水際はもう目と鼻の先なのだ。
 「あそこに金貨があるのが見えるかい?あれがお前の報酬だよ」
 僕は老婆の手を離し、四つん這いになって海の中を覗き込んだ。
 堤防の壁にみっしり張り付いた貝殻や藻の合間にキラキラ光るコインらしきものが見えた。
 「こりゃ、かなりあるぞ」
 僕は老婆を振り返った。
 「好きなだけ持って行きなよ」老婆は気味の悪い顔で微笑んだ。
 「しかし、どうやって取ればいいんだ」
 「水の中に入りなよ」
 「馬鹿言うな。今は冬だぞ」
 「じゃあ、夏まで待ちな」
 「それこそ、馬鹿言うなだ」
 僕は辺りを見回した。
 船を引き止めるビットには太いロープがかかっていた。
 「お前、このロープで引き上げてやるから、海に入ってコインを拾ってこい」僕は少女に言った。
 少女は老婆に巻きつけた手をほどいて走り去っていった。
 「だったらお前が行くしかないな」
 僕は老婆に目をやった。
 老婆はどかりとその場に座り込んだ。
 僕が押しても引いてもびくりとも動かないのだ。持ち上げようとしても、それは鉛のように重かった。
 「ワハハ」老婆は愉快そうに笑った。
 「さあ、どうするんだい?間もなく、あの子が助けを大勢連れて戻ってくるよ」
 「くそっ」僕は舌打ちをした。かと言って、いいアイデアは浮かばないのだ。
 「金を出せ」僕は苦し紛れに老婆にナイフを突きつけた。
 「持ってないよ。金は全部、あそこにあるのさ。何なら裸になったっていいよ」
 「くそっ」僕は焦った。
 このまま逃げるべきか、海に飛び込むべきか、でも追っ手は来ないかもしれない。しかし、どちらにしても海に飛び込まない限り金貨は手に入らないのだ。
 人生は選択の連続だ。賭けと同じだ。しかし、僕は今日賭けに負けていた。僕は判断に迷った。
 その時、僕はあることに気づいた。
 老婆のあぐらをかいた膝に置かれた手がかすかに震えていたのだ。
 「ばあさん、助けが来るなんて嘘だな」僕は大声で言い放った。
 「どうして、そう思うんだい?」
 「だって、あんた怯えてガタガタ震えているじゃないか」
 「はん。冗談じゃないよ。寒さのせいさ。本当にそう思うなら、ここにいつまでもいてごらん。寄ってたかって殴り殺されるといいさ。金貨はそいつらのものさ」
 僕は歯ぎしりをした。
 「ほら、聞こえて来たよ。大勢の足音が」老婆は目玉を片隅に寄せて、耳を澄ませるふりをした。
 「嘘だ。いい加減なことを言うな」
 「嘘なんか言うもんか。ほら、耳を澄ませてごらんよ」老婆は目を閉じ微笑んだ。
 僕の中に恐怖が押し寄せて来た。
 「さあ、どうするんだい?」
 すでに僕の頭の中は、大勢の足音でいっぱいだった。
 大勢の男たちが、僕めがけて駆けて来るのだ。
 僕は堤防の端に追い詰められた。
 「さあ。間も無く姿が見えるよ」老婆は可笑しくて仕方ないという様子で笑いを漏らした。
 もはや僕には海に飛び込む選択しか残されていなかった。

 「クソッ」僕は海に飛び込んだ。
 水は氷のような冷たさだった。
 しかし、何より驚いたのは、上から見えていた金貨がすべて藻屑だったことだ。
 「騙したな!ババア」
 「騙されたお前が悪いのさ」
 老婆は上からうれしそうに僕を覗き込んだ。その手には杖があった。
 「どういうつもりだ。杖は折れてなんていないじゃないか!」
 「あんたは意外と人がいいんだね。すぐに騙されて。それとも欲に目が眩んだか。」
 「ふざけるな」怒鳴ると口の中に水がなだれ込んできた。
 「苦しそうだね。かわいそうに、この杖につかまるかい?」
 老婆が杖を差し出した。僕は杖の先を睨みつけた。
 「さあ、どうするんだい。つかまるのか、つかまらないのか」
 手足も心臓も冷たさにガタガタ震えていた。もはや僕には選択肢はないのだ。
 僕が杖に手を伸ばすと、老婆は杖で僕の頭を叩いた。
 「何でこんなひどいことをするんだ」ガチガチと歯を鳴らしながら僕は言った。
 「愉快だからさ。欲の深い奴はみんな引っかかる。海にはお前のお仲間がたくさんいるよ」
 僕の中に悲しみが押し寄せてきた。
 僕はギャンブルにのめり込んでいた自分の人生を悔やんだ。
 さっきまで聞こえていた大勢の靴音は消えていた。
 助けは来ないのだ。もはやこのまま溺れ死ぬしか道はなさそうだった。
 「最後にいいことを教えてやろう」老婆が言った。「本当は杖さえも必要ないのさ」
 そう言うと老婆は杖を海に投げ込んだ。
 藁をも掴む気持ちで僕はその杖に飛びついた。
 杖もろとも体はぶくぶくと沈んでいった。頭上で老婆の高笑いが聞こえた。
 杖は加速度的に僕を海底へと連れていった。
 不思議なことに苦しさはなかった。
 やがて杖の先が割れると、パラシュートのような傘が開いた。
 傘はくるくると回って、クラゲの足のような飾りが揺れた。
 その様子がおかしくて、僕はくすくすと笑った。
 自分の笑い声に、僕はいつの間にか子供に戻っていることに気づいた。
 魚たちが近づいてきては、僕に体をすり寄せた。
 どうしてだか、そんなことがうれしいのだ。
 僕はしばらく海の景色を楽しんだ。
 ただ、そうしているだけでいくらでもよろこびは湧いてきた。
 もうすでに僕に選択を求めるものはなかった。
 
 海底に着くと、僕は杖をついて上を見上げた。
 それは金貨が降ってくるようなまばゆい美しさなのだ。

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