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「痛みの形」が見える男

「どこほっつき歩いてた瑠璃!」

 鷹月市住宅街の一軒家に男の怒号とビンタの音が響く。その男は真宮瑠璃の父親、真宮十三(まみやじゅうぞう)だった。真宮十三は既に酔っぱらった赤い顔で、泣き崩れている彼女に罵声を浴びせ続ける。

「テメーがいなきゃ、家事は誰がやんだよ! さっさと晩飯作れや!! 最近、夜遊びなんざ覚えやがって、このアバズレ娘がッ!!」

「ごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさい、もうしません、許してパパ……」

 真宮瑠璃は泣き震えながら、懇願するように謝り続けていた。

 しかし、真宮十三はまるで聞く耳を持たない様子で、彼女のセーラー服の襟を掴んで詰め寄る。

「悪い子は、もういっぺんしつけとくかのぅ……」

 結局、その日は彼女が泣き疲れて眠ってしまうまで、悲惨な折檻は続いたのであった。



翌日、ボロボロになった精神状態の真宮瑠璃は学校を休んた。しかし、家にいても父親に怒鳴られるだけなので、彼女はフラフラになった足で、あてもなく薄ら寒い秋風の吹く街の中をさまよう。

 だが、いくら街の中を歩きまわって、その景色を眺めてみても、そこに在ったのは孤独で一人な自分自身だけであった。皆、それぞれの人に居場所があって行く場所がある。歩けども歩けども目につくのはそんな光景ばかり、次第に彼女は焦燥感に苛まれ、眼の輝きを失い、いつの間にか日も暮れて、彼女はいつもの公園のベンチへと戻って来ていた。

「私が悪いんだ……、私が悪いんだ……」

 眼の下にくまを作り、虚ろな眼をした彼女は、スカートのポッケから愛用のカッターを取り出す。

「私が……私が……、きっと私がいなくなれば……、パパも昔の優しいパパに戻ってくれるはず……」

 彼女は震えながら刃の先端を喉元へと向けて、ゆっくりと近づけてゆく。切っ先が皮膚へと触れたちょうどその時、傍から聞き覚えのある誰かの声がした。

「よしなよ、真宮瑠璃さん。父親の『痛み』の為に君自身が死ぬ必要は無いんじゃないかな」

 その声の主は、昨日会った鈴茅蒼麻のものだった。真っすぐな目で彼女を見つめながら、諭そうとしている。その姿を見て、また営業に来たのかと曲解した彼女は、一旦、カッターを下げて、彼と向き合い、睨み付ける。

「…………しつこいわね……、わざわざ探偵みたいに私の個人情報まで調べてくるなんて……。お金なら無いって言ってるでしょう?」

「金はどうだっていい、私が本当に欲しいのは、君の『痛み』さ」

 鈴茅蒼麻はそんなキザなセリフを臆面もなく、いたって真剣に言い放つ。しかし、既に疑心暗鬼に囚われていた彼女にとってそれは逆効果だった。ヒステリック状態に陥った彼女は右手に持つカッターを彼へと向けて威嚇を始める。

「っ……! いい加減にしなさいよ……、あなたに何が分かるのよ……! 私のこの『痛み』や『孤独』なんて知りもしないクセに……! ちょっと身の上を調べたくらいで偉そうな口きかないで! この偽善者!!」

 彼女がそう叫んだ瞬間だった。何を思ったのか、この男はいきなり彼女の持つ剥き出しの刃を、素手で思いっきり掴んだのである。何のためらいも無しに放たれたその右手は、案の定、深々と手の平に刃が突き刺さって肉を斬り裂かれていた。それどころか、その刃は骨の間を縫って、手の甲まで貫通してしまっていたのだ。かなりの量の血液がどくどくと溢れ出し、カッターを持つ彼女の手にも血しぶきがかかる。

 だが、それでも鈴茅蒼麻は全く痛がる素振りを見せない。それはまるで痛覚の無いロボットのようだった。

「そっ……そんな、こんなつもりじゃ……」

 驚きと罪悪感で気が動転した彼女は手を離して、その場にへたりこんでしまう。

「ああ、さっきの君の言葉通りさ。僕には人の『痛み』も自分の『痛み』もわからない。僕は『無痛症』という病気なんだよ。痛覚がまるで無くなってしまっているんだ」

「そ……、そんな……! 痛みを感じないの……?」

 彼女は以前、何かの本で無痛症という言葉を聞いて知っていたの思い出した。それは全身の痛覚が感じられなくなってしまい、常人の感覚を失ってしまう恐ろしい障害なのだという。

「…………ところで君は、拷問を受けた経験があるかい?」

「は?」

 突然、彼の口から出た怖い単語と聞き慣れない話題に一瞬、彼女は意味を理解出来ずに、すっ頓狂な声を上げてしまう。

「五年前、僕がまだ某国の外人部隊にいた頃の話だ。あの頃は僕も世界正義を信じて、テロリスト根絶の為に戦ったものさ。その戦闘が世界平和に繋がると信じてね」

 生粋の日本育ちの彼女にはまるで想像出来ない外国の話が始まって、彼女は戸惑う。細身の第一印象からは全く予想がつかなかったが、どうやら彼は外国育ちの元軍人らしい。

「だが、その理想はあっけなく裏切られた。そこにあるのは上塗りばかり繰り返す殺戮と永劫の痛みだけだったんだよ。やがて、僕は上官のヘマで敵軍に捕まり……、機密情報を聞き出す為にありとあらゆる拷問を受けた。殴られ、蹴られ、刺され、焼かれ、鞭打たれ、切り刻まれ、爪を剥がされ、皮を剥がされ、電気を流され……。死なないように細心の注意を払われながら、人間が想像しうる残虐行為の全てを受けたさ。どんなに知らないと叫んでもその拷問は終わる事が無かった。絶え間なく続く激痛に、僕はやがて右も左もわからなくなって理性を失った。記憶にあるのは身を焦がすような憎悪と殺意だけだ。気が付いた時は、敵のアジトの中で一人、血の海の中に佇んでいたよ。いつの間にか左腕は無くなっていた。おそらく、手枷から力ずくで無理矢理引き抜く時に千切れたんだろうね」

 そう言って彼は肩に羽織っていた上着を翻してみせる。 そこには、在るべきはずの左腕が存在していなかった。ただ、空っぽになった左肩の先からのシャツの袖が、秋風に吹かれてヒラヒラと舞うだけである。

「そっ、そんなっ……!? こんなのって……」

 想像を絶する凄惨な話の数々に、彼女の頭はまるで追い付いていなかった。ただただ残酷なその事実に打ち震えている。

 そして、鈴茅蒼麻はさっき右手に刺さったカッターを、

冷静かつ乱暴に引き抜き、余っている左の袖口を引きちぎった布を使って、口で縛り止血をする。その破れた左袖口からは、生々しい左肩の治療痕が見えていた。

「そう―――、あの時から僕は左腕と共に、身体の『痛み』というものを失くしてしまったのさ。だから、今の僕は生きた屍も同然なんだよ。痛みが無ければ、快楽も無い、現実世界に生きているという実感が無い」

 そんな話を聞いて、彼女はマルキド・サドの『痛みとは快楽の一種である』という言葉を思い出していた。その時はホントかなぁと疑問に思ったものだが、その言葉は、逆に言えば『快楽とは痛みの一種である』とも言えるのである。それはつまり、快楽と痛みは常に表裏一体で、痛みの感覚を消してしまうという事は、生きている実感も喜びも同時に消してしまう事と同義なのである。今の彼の話で、彼女にはそれがなんとなく分かった。

「しかし、皮肉なことに僕は自分の痛みが分からなくなった替わりに、他人の『痛みの形』が視えるようになった。あなたの『痛みの形』だって、最初から視えていた。この僕の光を失った筈の左眼にね」

「え……? 『痛みの形』……?」

 一瞬、彼女は彼が何を言っているのか分からなくて困惑する。やがて、彼は左の前髪を上げて、髪で隠していた左眼を彼女に見せた。その左眼は、瞳が白く濁りきっていて、傍から見ても視力が完全に失われたであろう代物であった。左の顔には酷い火傷の痕があり、見るも無残なその姿に彼女は動揺して、嗚咽を漏らす。

「君にもそろそろ視えてくる筈だよ。さっき僕が『力』の一部を分け与えたからね」

「え……、それってどういう……?」

「それは―――――……」

 しかし、彼の答えは突然の第三者の登場により遮られた。その人物の声は何よりも彼女が一番よく知っていて、畏怖すべき対象の声だった。

「ここにいたのか、瑠璃ぃ…………。まさか、男ができていたとはな……、どうりで帰りが遅い訳だ」

「え……? パパ!?」

 そこに立っていたのは、片手に酒瓶を持った真宮十三だった。公園の入り口付近の街灯に照らされて、いつもの険しい表情と酔っぱらった赤い顔が見える。おそらく真宮瑠璃の帰りが極端に遅いのに痺れを切らして探しに来たのだろう。

 しかし、真宮十三の姿にはいつもと違う点が一つだけあった。何やら真宮十三の周りには謎の黒い靄がかかって見えるのである。その姿はまるで身体中から闇のオーラが噴き出しているようであった。

「パパ……? パパなの……!? どうしちゃったのその黒いの!?」

「許さない許さない許さない許さない許さないゆるさないゆるさなゆるさないいいいいいいいいいいいいいいいい」

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