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7話 たすけて 二

 朝。太陽が空に昇っているのを見たら、森のなかにある川に向かう。

 川の水面に反射する光が嫌に眩しい。
 そのまま膝まで川に浸かり、汚れた服を濡らして洗い、絞る。きつく、きつく絞る。
 終わったあとに水面に映る自分の顔が、ひどくやつれて見えた。不健康だからかもしれないし、夜中のせいかもしれない。けど、働き詰めだった生前は、不健康ではあったけどこんなじゃなかった。だから、きっと原因は…………

 ………………みんなに、会いたい。

 ふと、そう思った。……そう、思ってしまった。
 川に触れられるその場所で、私は崩れるように膝を折って、みっともなく声をあげて泣いた。みんなに、会いたかった。弟たちに、妹に、会いたい。あの時はみんなのために頑張ってた。
 今は、私は、何のために頑張ればいいの?
 最初の相談の時にいた男が、全員残らず敵に見えて、酷く醜い化け物に見えて、嫌で、嫌で、嫌で嫌で嫌で嫌で嫌で。
 その日、私はあの人達のために働くことを、役割を放棄することを決めた。

 帰り道、畑の前を通ると、なにかを探すように畑の回りを三人の男が彷徨いていた。私は足を止める。役割を放棄したと、あの人たちに言ったら……
 夜中のことを思い出して、力なくしゃがみ、込み上げるものを口の前に置いた手で抑え、必死に飲み込む。食料はそんなにない。無駄にはできない。
 そう言い聞かせて、飲み込む。そして、考えた。

 ……本当は最初からわかっていた。夜中のことが永遠に続くだけじゃないかって、気づいていた。

「大丈夫か?」

 卑しい笑みを浮かべた男を見て、その顔に見覚えがあった。その男は近所の男だった。川に行ってくると、言うと、ついていくと言い出した。

 ――監視だ。

 私が仕事をするように、逃げないように……
 その為に準備された監視だ。私は早足で川に向かって、急いで手と口を洗う。

 その時水面に映った自分の顔は、朝よりもやつれて見えた。


 結局仕事をして、食事をして、眠りについた。監視は片時も離れず、さっきまでずっと家にいた。

「寝たいので」

 そう言うと、男はわかったと言いながら醜悪な笑みを浮かべて家から出ていった。疲れた身体を休めるように横になり、身を守るように床に丸まり、眠りについた。
 案の定、今日も行われるようだった。昨日よりも足音は増えて全員が満足するまで時間は延び、部屋が明るくなるまで行為は続いた。今日はまだ、最後までは至っていない。けど、明日にはきっと――――

 誰もいなくなった部屋の中。数日続く部屋の異臭。その原因の床に撒き散らされたものを見ながら、私は現実から目を背けないように、逃げないように目から流れるものを拭った。
 そして、視界の隅に、投げ捨てられたかのように放置されたスマホをみつけた。私は撒き散らされたものに触れないようにスマホに近づき、暗転した画面を睨みながら電源をつけて、表示されたチャットを見る。

 そこには、善と書かれている人がいつの間にか増えていた。

 私は考え、書く。
 場所を書けば、私が書いたとばれて連れていかれるだろう。誰になら助けて貰えるのかわからない。だから、最低限、ここに来るときに言われたように。

『たすけて』

 チャットの一番下に映る自分の打った四文字を見て、私は…………


「おい、あんた。もう気付いてんだろ?」

 家を出るなり近所の、監視の男がそう声をかけてきた。
 ……これはダメだ。警鐘が鳴り響いた。
 瞬間、次の言葉を聞く前に家に走って入り、あと二日分の携帯食料を二つとも持って、扉を乱暴に開けて駆け出した。男には道具を投げた。どうせもう使わない。
 今、この瞬間が最後に使うときだ。

「おい待て! ちくしょう、女が逃げたぞ!」

 その言葉を聞いて、男たちが集まってくる。不安、恐怖、焦り、そんな悪感情が積もりに積もって、私の足は私が知らないほど早く動く。けど、相手は男。

 振り切れない。

 捕まっちゃう。


 ――捕まったら?


 頭のなかの私が動く。私が泣き叫びながら男に弄ばれてる。嫌がっても、逃げようとしても捕まえられて、徐々に酷い目に遭う。そのうち、私は全て失って……もう、みんなのところにいた私には戻れなくなる。

 ダメだ。そんなのダメに決まってる。――――けど、後ろを見ると男たちはついてきている。……もう、ダメなの? ここで捕まって慰みものにされて、反抗しても死ぬことの出来ないこの世界で、殺されては弄ばれるだろう。そんなの、生きてると言えるのだろうか? 私の生前と私の死後――仕事だらけだったけどみんなのために頑張って充実していたあの頃と、今逃げてる私、捕まって道具のように使われる私。答えは……わかりきってる。

 私は誰かのために、大切な誰かのために私を使いたい。この人たちじゃない。他の誰か……だから、捕まりたくない。

 そう思った矢先、町の外の川、そこから惚けた顔をした男が出てくる。手が届く距離。
 ダメだ、終わった。
 心の折れる音が聞こえて、私はその男のことを思い出した。昨日私が疲れてたときに声をかけてきた男の人だ。そっか、やっぱりこの人も……
 惚けた顔の男は私に手を伸ばすのではなく、私の顔を見てから鬼のような形相で横をすり抜けた。

「……泣かせたのはてめぇらか?」
「なんだお前? その女は逃げようとしてんだぞ!」

 私は呆然としたまま、男の人を見つめる。

「逃げようとしたからって泣かせたってのか? はぁぁ、これだから男ってやつは嫌いなんだ。待っててくれよそこのお嬢ちゃん。いま俺がこいつらをやっつけてやる」
「なに言ってんだ! お前だってその女とヤりたいって――」
「あー、言ったな。言ったとも! だが俺はそうするに当たって三つのルールを決めてんだ。ただ嬲るんじゃ、気持ちよくないからな」

 川の方から来た男はゆっくりと男たちに近づき、先手必勝といわんばかりに相手の男から拳が打ち出された。駄目だ、勝てない。今のうち逃げなきゃ。

「ひとぉーつ! 女とは一対一で向き合う」
「い、いでぇぇえぇぇっ!」

 乾いた音を響かせて、殴っていた男の腕が変な方向に曲がっていた。

「ふたぁーつ! 女を汚さない。もちろん心も綺麗なままだ」
「おえ――っ」

 鳩尾に肘が埋まっていた。

「みっつ! 女を泣かせねぇこと、だぁ!」

 手と首をつかみ、引き寄せて男の顔面に膝蹴りをめり込ませる。あっという間に、三人の男が寝転がっていた。
 私はいつの間にか足を止めて、見いっていた。

「お嬢ちゃん大丈夫か?」

 驚きに数秒止まってから素早く頷くと、男は値踏みをするように足元からゆっくりと私の頭のてっぺんまでを見てきた。

「惜しい、惜しいなぁ。あの男たちが汚してなければ俺の物にしてたんだけどなぁ。まあ、仕方ない。お嬢ちゃんの傷が癒えて綺麗になったら、そんときゃ俺の物にするさ。あ、そうそう。立ち止まってないでさっさと行った方がいいぜ? 俺が止めたのは泣いてたお嬢ちゃんを苛めようとしたからだ。今のお嬢ちゃんは助けない。あいつらはもう動かないが、他にも追ってくるみたいだからな。じゃ、元気でなお嬢ちゃん」

 そう一方的に告げると、また川の方に戻っていった。
 私は微かに見えてきた男たちから逃げるためにまた必死に走り出した。あの人は動かない。
 本当に助ける気はないみたいだ。

 川を通りすぎて、目の前に一輪だけ真っ赤な植物を見つけた。この世界にしかない植物。本当の名前は知らないけど、人の顔のように見える不気味な模様と効能のせいで、悪魔の花なんて言われてる。
 私に与えられた農民の知識の中にあった。使用方法によっては疲労減少と力を引き出す素材だったはずだ。けれど、そのまま使うと、人間のリミッター全てをはずして限界を越えたの力を使えるようになってしまう。体に無理をさせるのに痛覚も、疲労も感じなくなって…………

 けどやるしかない。いつの間にか後ろを走っている男たちが近づいてきているのを見て、そう決意した。

 私はその植物のあるほうに脇目も振らずに向かった。
 そしてその植物を一口で飲み込んだ。視界がこの世界に来たときのように大きく歪む。ノイズのような耳鳴りがする。
 耳鳴りのなかに、微かに声が聞こえる

『…………カイジョ』

 無機質な声だ。けれど、私に下心なしに声をかけて来てくれた声に少し嬉しくなった。街にいた人はずっと私を見ながら一方的に声をかけてきているだけだった。
 私は無機質だけれど、私にかけられたことが嬉しくて、心地よくて、少し笑ってから加減をして駆け出した。
 さっきまでの疲れが嘘だったみたいに無くなる。身体が軽い。誰も私についてこれない。
 今のうちに、そう考えて全力で逃げた。

「おい、なんだあいつ! 誰か追え! このままじゃ逃げれちまう!」

 遠くなった叫び声に呼応するように数名の男が私を追いかけてきた。私が本気で駆け出したら誰もついてこれないみたいだ。どんどんあの人たちを引き剥がしてる。私は嬉しくて嬉しくて、ずっと走り続けた。
 そして、足から急にかくんと力が抜けて、私は木の根に向かって倒れた。咄嗟に手を伸ばして、倒れ込む身体を止める。

 そして、木に背中をつけて足を見た。あぁ、これはダメだ。そう確信するほどに足はぼろぼろになっていた。骨折か、それとも筋が切れちゃったのか、それとも筋肉がダメになってしまったのか、わからない。
 私が食べたあの植物の効果時間は、私の持っている知識だとよくわからないけれど、別の日記のような知識だと、使用者によって大きく差がある。一時間、三十分、はたまた一ヶ月なんてものもある。こんな知識どこで得たんだろ?
 んん、いまはそんなこといいや。多分、走り出してから三十分は経っていると思う、体感だけど。

 座ったまま横を見れば、後ろにいたはずのあの人達は見えなくなっていたし、日が走り出したときよりも明るくなってきた。私が出たときはまだまだ昇りきってなかったし、まだもうしばらくは暗くならないと思う。

 私は木漏れ日の差し込む森のなかでおかしくなった足を見ながら、勝ち誇ったように笑い、勝ち取った一時の自由を噛み締めて、至上の喜びに歓喜するように手を掲げた。

 やった、やったよ。みんな……

 私はこの世界に来て初めて、嬉しくて泣いた。

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