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(四)

 西の空の地平近くは未だに黒色で星の輝きさえ見えたが、東の山際は白み始めている。中天で紺色を通すその階調は、東から顔を出した太陽によって均衡を失っていく。丹色の朝日によって徐々に白色が支配して、遂に夜は姿を失った。
 峠から見下ろすサダリアは朝日に差されて銀色に輝いている。堀と防柵に囲まれた丸太小屋のような家々に、当然人の気配はない。その周囲に広がる田畑さえも降ってそのままの雪が積もっていた。
 本当に人一人、どころか動物の一匹さえいないのがよく分かる。
 ワイバーンの仕業だろうか。建物は半壊していたり、中には全焼していたりするものまであった。
 まだ距離があるからなのかワイバーンの姿は認められない。もう眠っているのだろうか。
「近づこう」
「はい。勇者様」レフは首肯する。
 雪の斜面を滑るように降って十分ほど歩くと、もうそこはサダリアの入り口だった。堀には橋が架かったまま、つまり街の人々が逃げただろう時のままだ。
「そこで止まって」
 レフにそう指示すると、私が先にその橋へ踏み出した。橋の中ほどで立ち止まり、目を閉じて、そして耳を澄ます。
 レフに呼吸音、微風が雪を撫でる音、川のせせらぎ、何処かの屋根から雪が落ちる音。それ以外何も聞こえない。サダリアは不気味なほど静かだった。
 そして私はワイバーンが寝ていることを確信した。ワイバーンは巨体なので、動けば何らかの音がする。それがないということは恐らく寝ているのだろう。
 私は振り向いてレフに声をかけた。
「計画通り。ワイバーンは寝ているんだと思う。この街から物音は感じられないから」
 レフは少し安堵したのか小さく息をついた。
「それじゃあ、そのア……、アウレルさんを埋葬しに行こう」
「勇者様、我儘を聞いて頂きありがとうございます」
「ううん、感謝されるようなことじゃない」
 レフの言葉にそう返して私は行こうと声を掛ける。
 するとレフは先導して、アウレルの遺体がある方へ歩き始めた。
 寝ているだろうとはいえ、ここはもうワイバーンの縄張り内だ。私は警戒して、右手を聖剣の柄の辺りへやって、左手で鞘を軽く握る。抜剣こそしないが、いつでも抜ける態勢だ。
 私は周囲を見渡す。道の所々に家財道具の載った荷車が倒れている。大方、街の人が逃げようとした時の物だろう。
 雪の上にワイバーンの足跡でもあるかと思ったがそれさえなかった。
 その後も警戒しながら歩いたが、特にワイバーンの痕跡は見られなかった。とは言っても街の南からレフの家があった西の方へ歩いただけなので、ワイバーンは北か東の方を住処としているのだろう。フョードルは街の東に広場があるので其処のあたりだろうなと話していた。恐らくそうなのだろう。
「見えました、あれです」
 レフが唐突にそう言って、指した。先にはワイバーンに踏みつぶされたのか、尾を叩きつけられたのか崩れた家があった。レフは少し重くなった足取りで、そこへと近づいていく。私も彼の後ろを着いていく。
 レフはその家の近くに立つと、じっと足元の辺りを見た。私も少し遠巻きにそれを見る。
 死体だった。男の死体だった。
 それは寒さのせいかまだ腐っていなかった。レフがそっとそれに乗っている雪を払う。目も開いたまま、苦悶の表情のまま事切れているのが分かった。
 ワイバーンに食われたのか右腕はなく、下半身は崩れた家の柱に潰されていた。
 レフはその骸の前で膝を着いて、言葉を零す。
「ただいま、アウレル。…………ごめん」
 その死体の上に水滴が落ちた。彼の肩は震えている。泣いているのか。死体へと落ちるその涙は止まる気配がなかった。
 目の前でふんわりと白が舞う。
 「あっ」と小さく口から洩れて、空を見上げる。どんよりと重い灰色の空から、それは落ちてきていた。雪だ。本当にちらちら舞うようにして降っている。遥かまで雲は続いていて、止みそうにはない。
 レフは近くの手頃な木の棒を手に取って地面に穴を掘り始めた。雪に構っている様子はない。ただ無言で涙を流しながら、棒を地面へ突き立てる。
 暫くして、大人一人が埋められそうな穴を掘り終えた。
 涙でぐしゃぐしゃになった顔で気合を入れて、死体の下半身を潰していた柱を退かす。そして、骸を穴へと収めて、土を被せる。落ちていた粗末な気を組み合わせて、十字架を作り、墓標とした。
 私はその彼の雰囲気に気圧されて、手伝えなかった。彼がしていることを一時間ばかり見ていただけだった。
 レフは作り終えた墓に向かって手を合わせて「ごめん、ごめん」と呟いていた。私も一歩近づいて手を合わせる。祈る神はいないけれど、そうせずにはいられなかった。
 突然、胸が騒めいた。泡が弾けるような感覚。
「勇者様、ありがとうございました。ワイバーンがいるだろう東の広場は……」
 レフが何か言っているが耳に入らない。
 また一つ。泡が弾けるような感覚。
 これは。
 これは命が消えていく感覚だった。
 また一つ、また一つ。消えていく。
 南。二、三十キロメートル離れたところから。私はその場所に覚えがあった。
 顔から血の気が引いていく。
「村が、襲われている」
 そう口走った私の顔を見てレフは全身から力が抜けたようだった。
「それってどういう……」
 あの村へゴブリンやオークが侵攻するのに私が気付かなかったわけがない。頭の中に一つの考えが浮かぶ。
 聖剣を鞘に納めたまま、近くの木材を叩く。小気味の良い大きな音が街全体へ響く。
 目覚めないわけがない。ワイバーンがこの音量で目覚めないわけがない。
 耳を澄ます。しかし、街は静かなままだった。
 もう一度叩く。けれど、何も変わらなかった。
 そんなわけが、いや、しかし。
「ここにワイバーンはいない。村を襲っている」
 私はそう言った。そうとしか考えられなかった。
 思わず唇を噛む。血が滲む。
 何故気付かなかった。何故気付かなかった。
「私は村へ向かう。急がなきゃ」
 レフにそう言い残す。仔細まで話している余裕はない。
 私は一歩目から全力で地面を蹴りつける。一気に加速。
 一時間は掛からないだろう。しかし、間に合うのか。あの村は魔物に襲われても良いようには出来ていなかった。
 雪に足がもつれる。煩わしい。早く、もっと早く。
 サダリアから駆け出た私は山を登る。
 街から避難した五千人と元々の村人数百人くらい。逃げれるのか。
 また一つ、また一つ。泡が消えるようなその感覚は加速する。
 足を地面に叩きつける。
 飛び散った雪が落下し始めるころに、私はもう十歩以上移動してる。しかしそれでも、遅いと感じる。
 枯れ木がローブの端を破る。気にする余裕はない。
 昨夜の野宿跡、踏みつけ、前へ。もっと早くもっと。
 また一つ、泡は弾けていく。

 四十分程度は走っただろうか。そろそろ村なはずだった。ほんの少し前に泡が弾ける感覚は止まっている。嫌な予感が胸を過ぎる。そんなはずはないと言い聞かせて、地面を蹴る。
 噛んだ唇から溢れる血の味が私の脳を少し冷ます。
 村が見える位置まで来た。
 燃え盛る村、大きな炎が遠慮なしに村を侵食している。立ち上る黒煙が風に流されて、斜めに立つ。
 拳に力が入って、少し長い爪が手のひらを指した。
 轟と。
 空を切る音が聞こえた。黒煙よりも遥かに黒い色を持つそれは翼を広げて、羽ばたく。ワイバーンだ。
 私は聖剣を抜き払い、猛然と駆けた。しかし、ワイバーンの赤い目は私を捕らえることは無く、そのまま遥か上空へと飛び去って行った。
 私は雪がちらつくその空を呆然と見る。
 何も、間に合わなかった。
 やりきれない感情が湧き上がる。抜け落ちる全身の力。
 人の焼けた異臭が鼻を突く。生存者を探さなければ。
 私は村まで降った。
 全てが燃えていた。家も、物も、人も、大地さえ。革のブーツ越しでも大地の熱が伝わる。熱気で雪は地面へ着く前に水となり、そして地面へ着けば、沸いて、蒸発した。炭化した何かを踏めば、音も無く崩れる。至る所で燃え残しを探すように未だに炎がちらついている。燃えて体表が溶け、関節が収縮した遺骸が多く転がっている。眉間に皺が寄る。私のせいだ。
 何人が逃げられたのだろう。それとも、全滅か。
 目を凝らして、視界の隅から隅まで見る。生存者を探す。それしかできなかった。
 視界の端の方で炭化した柱が自重に耐えられなくなって崩れた。動いているのは揺れる炎だけ。
 向こうの方で肌色の何かが動いた。
 私は駆け寄る。手だ。人の手だ。その手を掴んで顔を見る。
 フョードル・ビエルイ。
 その人だった。顔の左半分から左手以外は焼けて、最早炭化してさえしていたがフョードルだった。
 フョードルは一つになったその目で私を認めると口を動かした。僅かに空気が漏れるだけで、声は出ない。
「ごめん、なさい」
 私は何もできなかった。今はもうそう言うことしかできない。
 フョードルは口を動かす。何を言いたいのか、私に対する呪詛か。
「ごめんなさい」
 謝ってももうどうにもならない。しかしそう言うしかなかった。
 フョードルは口を動かすのを止めると、目を閉じて、少し頷いた。それはとても穏やかな表情だった。まるで私を恨んでない、憎んでないというように。
「許さないでよ、恨んでよ」
 そう独り言つ。
 泡が弾ける。
 そして、フョードルはフョードルでなくなった。
 私はそれから手を放して立ち上がると、空を仰いだ。
 目の前でこうも失うのは初めてのことだった。
 分かっていたはずなのに。これまでの私だって全てを救えていないこと。見えないところでこうやって失っていたこと。これまでたまたま全てを失うことだけは回避できていただけなのに。
 ――驕っていた。
 私は救えると、守れると、力があるのだと、勇者だからできると。
「ああ、私は無力だ」
 黒い大地から灰色の空を見上げて、吐いたその言葉は誰の耳にも届かない。
 突きつけられ田現実に視界はぐらりと揺れて、どうしようもなくあの日のことを思い出してしまうのだった。
〈昏き此方、完〉

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