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第六章 お陽さんとの約束

❀1❀

 楽しかった江戸での日々も遠く過ぎ、鍬(くわ)次郎(じろう)は、彦(ひこ)馬(ま)との伝習所の毎日に戻った。
 初夏から秋にかけた大移動の間に、長崎には靜かに秋の風情が押し寄せていた。
 秋風に顔を任せ、無言で外を眺めた。『彦』の大きなハタ。
(大人になるのに、あの〝長崎の鬼〟は相変わらずやな)
 と、『彦』がやだもん(ハタを奪う棒)から、逃げ始めた。ぐんぐんと上がって、秋空にはためいた。どのハタよりも高く、高く更に高くなった夕焼けに染まってゆく『彦』に、どのハタも追いつけない。頭一つ飛び出た『彦』は夕焼け空に君臨している。
 それにしても空が焼け過ぎている気がする。長崎の夕焼けは、もっと薄い。
 ハタ揚げのハタも、いつしか、すべて消えていた。
 赤い山の如く空気が盛り上がって、ユラリと揺れた。間違いない。火事だ。
「燃えてるんや! 奉行所の方角やないか! な、何や……っ……。八沢さんが、おさんどんでヘマして、火ィでも広げたんか!」
 一階の窓から身を乗り出した前では、彦馬が、ドビューンと坂を駆け上がって行った。
(なんだ、彦馬のあの慌てよう、あの方向……――唐人屋敷か!)
 唐人屋敷ならば、彦馬が慌てて走っていった理由も分かる。唐人屋敷の異人の街。丸山遊郭の遊女の接待役の娘っこ〝朱里〟と彦馬は、乳繰り合う仲らしい。
(あの、あほんだら! まさか、飛び込んだんやないやろな!)
 伝習生たちがぽかんと燃える空を震えながら見上げている。西奉行屋敷前に、駿河守の姿を見つけた。蛇のような眼が向いた。
「堀江鍬次郎。無事だったか。放火だ。小火では済まないだろう。油が燃えている様子だ。早馬を! 清国の重要人物の目録を! 即刻、救助に向かえ!」
 幾人もの役人が、坂を駆け下りて行った。騒然とした中、ハアハアで鍬次郎も後に続いた。足がビィンと棒になったように重い。
 うっ……と足を止めた。炎が燃え盛っている。足元の雑草がさわさわと熱風で揺れた。
 熱の影響で、大気が歪み、失敗写真のようにボケ始めている。熱風が頬に当たって熱い。
「あほんだらの彦馬……! どこやぁっ!」
 粉塵(ふんじん)の中、火の粉が巻き上がった。夜を迎えた中を、鍬次郎は進んだ。道すがら焦げた服の異人が逃げ出しては海に飛び込む。人を乗せる前に大慌てで船が出港していく。和蘭陀人の出港の堂々たる姿と見比べると、なんと貧相。鍬次郎は、やるせなくなった。
「おまえ! 邪魔するな! 死ぬぞ!」
 鍬次郎は火消しに向かって力一杯「友人が!」と叫んだ。
「己の、大切な友人が! 飛び込んで行きよったんです! 茶色の頭の、適当に縛り上げてる、いけ好かない男が、来んかったですか!」
「分からん! ホレ、消火の邪魔だ邪魔だ。あっちさ行け!」袖を縛り上げた侍と火消しに蹴飛ばされて、鍬次郎は、はらはらと燃える唐人屋敷を見詰めた。
 草むらから犬が顔を出した。ハッハッと舌を出してチャッチャッチャと通り過ぎた。
 筵にくるまった死体を、えっほえっほと火消しが運んで通り過ぎ、ぞっとして炎を見詰める。このまま、彦馬が消えたら?
 頭を振った。彦馬は大の大人で男だ。簡単に死ぬたまではない。大丈夫。
(何を血相を変えて、飛び込んでった……心配ばかり掛けよる。やめてくれ、やっと、見つけた友人やないか……消えるとか、有り得へんやろ!)
 鍬次郎は祈る気持ちで、役人の手を振り払いつつも、燃える屋敷を見送った。
 しばらくして、また草むらが揺れた。
(またワンコロか)と棒きれを拾ったところで、「いててててて」と火傷した腕を押さえながら彦馬が歩いて来た。小脇には銀板。ただし、焼けてしまって真っ黒。現像は無理な有様だった。座り込んだ鍬次郎に気付いたらしく、足を止めた。
「おまえさん、何しとるん?」と暢気(のんき)な表情で彦馬は告げ、煤だらけの頬を拭った。
「何しとるん? じゃないやろ! 心配ばかりか! おまえを追って来たに決まって」
 彦馬は顔をくしゃくしゃにして、鍬次郎の肩に寄り掛かった。腕が真っ赤に腫れ上がっている。酷い火傷(やけど)が目についた。
「梁(はり)が倒れて来た。……朱里、おらんかった。まあ、遊女さんと一緒に逃げたならよか……船、出てったよな。あの中におると信じるしかない」
「おまえ……」彦馬は涙の滲んだ眼を細めた。
「大切にベルちゃんの写真を飾ってるおまえさんが羨(うらや)ましくてな。吾も一枚、好いた女をちゃんと……真っ黒になってもうたから、現像できんか、はは」
 泣き笑いの彦馬の背後で、また一つの家屋が倒壊した。コーンコーンと木槌の音。建物を解体している。巻き込まれる危険がある。鍬次郎は消沈した彦馬と共に、現場を離れた。
 欅の木に落ち着くなり、彦馬は焼けた腕に舌を這わせ、「いて」と小さく呻いた。
「蘭学者のタマゴが何しとるん。大葉子がある。すこし揉んで、貼っとこか。腕、出し」
 真っ赤に腫れた腕に丁寧に薬草になる雑草〝大葉子(おおばこ)〟を揉みしだき、腕に置いた。
 本当はムカデがいれば、油に入れて火傷薬になる。だが、秋に見つけるのは難しい。
「ムカデおらんかな。油に放り込めば溶けて火傷薬になるやろ。水色の」
「遠慮するね!」嫌がったところを見ると、彦馬はムカデが苦手らしい。
 包帯がないので、鍬次郎は己の着物の袖をぶっちぎって、彦馬の腕に巻き付けた。
「おまえは、ホント、心配ばかりや」
 丁寧に患部を保護しながら言葉を出している内に、笑いが零れた。
(一瞬、彦馬が消える気がしたなんて、言えへん。言うたら驚く……)
 無言になった鍬次郎に彦馬が眉を寄せた。鍬次郎は俯いた。思い違いだ。彦馬は長崎で、立派な写真家になるに違いない。消えるんは、己や――……。
 夜風がぬるったるい風を連れて、駆け抜けて行った。

❀❀❀

 とぼとぼ歩いている内に、いつしか奉行所まで戻って来ていた。八沢らが屯(たむろ)っていた。
「鍬次郎」と呼ぶ声に顔を上げず、「友人が怪我した。手当したって」と彦馬を引き渡した。背後でヒソヒソ話が聞こえた。
「攻撃、受けたらしい。唐人に怨みを持つ、異人の仕業や。海からドカンだって」
「長崎も物騒やなあ。中央の野蛮人が入り込んで来たから。その内、日本は海禁を責められ、世界に放り出される。日本など踏み潰されて消える。開国は戦いへの開闢(かいびゃく)に等しい」
 開国、戦い……。鍬次郎は高猷と、一期一会の桂と高杉の会話を思い出した。
***
『なあ、何のために設置するん? 考えたないけど……何を焼くために』
『なら、考えんでええ。おまえも年頃や。姉ちゃんのおっぱいや尻を思い浮かべぇ』
『己は真剣に聞いてん! はぐらかしはナシで頼みたい!』
『焦らんでも。いつか、分かる時が来る。綺麗事だけでは、護れへん――……』
 江戸で高猷と交わした会話に、桂の言葉が被る。
『やめんか。高杉。――で、まんまる頭の、きみは? いずれは津へ戻るのだろう? 侍は義理人情無くしては生きて行けん。主君に命を授かり、果たすからこそ、主従なのだから。桑名か藤堂か言われれば、時代は藤堂に軍配を挙げる。しかし、あまりにも和泉守殿には味方が少なすぎる。きみの知識は津の武器だ。己の国の反乱すら……』
 なんのために攻撃し、戦うのだろう? ――戦いたくないと思うのに、人は戦う。
(個々に大切なもんがあるからや……他人が他人を理解しないからやな)
 鍬次郎は彦馬を思い浮かべた。笑顔の彦馬の表情に、夢の終わりを感じ取った。

❀2❀

 唐人屋敷全焼の後日。中途で終わったハタ揚げの勝敗で、彦馬側と相手側が揉めた。
「なんだと? あれは爆風がハタを攫ったんだ! 吾(おれ)が負けるはずなんてない!」
 彦馬は再決戦の果たし状を投げつけ、焼けた腕を曝け出して、突っ込んで行った。
(ったく……負けてくれるなよ。また苛々して『舎密局必携』が進まへん。己ばっかりにやらせて、あほんだら。昨日もハタ作りで終わったで! いつまでガキやっとんのや)
 しかし、彦馬がいなければいないで、書類が整然と纏まるから、良しとしよう。
 彦馬の走り書きした文面のミスを訂正、時には思いつきやセンスに悔しくなりながらも纏め上げている内、秋が深くなった情景に気付く。
 まさに釣瓶(つるべ)落とし。日が沈むも早く、ぽっかりと昇り始める月の速度も速い。
(……おまえと見上げた時ほど、綺麗やないで。ベル……遠き異国の月は、どんなやろ)
 ちょっぴり愁傷な気分。それが秋の夜。思考を綴じる如く、きゅっと紐を口で引き、整えて綴じたところで、担当軍医ヨハネスが顔を出した。
「鍬次郎? まだ、やっていたのですか」
「彦馬のハタがイイカンジに上がっているので、あいつ負けると面倒やから、応援しとったんです。あと、次の草案を纏めよう思ぅてましてね」
「いい顔になりましたね。堀江鍬次郎」
 窓辺から顔を上げた。頬をぺち、と叩くと、ヨハネスは笑った。
「伝習所所長こと駿河守が『堀江鍬次郎は化ける』と言った通り。覚えていますか? 貴方と私は、和蘭陀商館で出逢ったのでしたね。最初の頃、鍬次郎は薬品が作れなかった。随分と厳しくしました。食いかかってくる貴方をちょっと楽しんでいました。すみません」
 もう数年前の話になる。長崎の伝習に来て、時間は本当に早く駆け抜けた感がした。
 確実に、堅実に歩いてきた手応えは己の手にある。苦労して掴んだ自信は、二度となくさない。船酔いと異人に怯えていた丸頭の津の小猿は、もう、どこにもいない。
 鍬次郎は背筋を伸ばし、照れ笑いに懐かしさを込めた。
「コロジオン溶液の成分を間違えたり、ああ、お陽さんに嫌われて上手く焼き付けができなかったり……はは、今も、まだ四苦八苦ですがね。楽しんでいらしたとは」
 壁に掛かっている和蘭陀商船の写真を眺めた。
「舎密知った十八歳から、七年でたった一枚。成功。江戸のお偉方の写真も、二枚ほど。でも、これは彦馬の才能で、己は……」
「ピエール・ロシエからは合格点だと聞きましたがね」
「まぐれじゃ、駄目なんです。ヨハネス軍医、己は江戸で写真の在り方を学びました」
(強面のおっさんたちが、恥ずかしそうに並び、笑顔を浮かべ、己の姿に誇りを感じ、遺そうとする。ここに在る事実を、まだ見ぬ遠き人々へ伝えようと一生懸命やった……)
 ――こんなんじゃ、あかん! 鍬次郎は薄く呆けた写真の板を、机から叩き落とした。溶液の入った瓶を強く叩いた。
 溶液が薄かった。焼き付けるはずの輪郭は、べっとりと溶液の色で塗り潰されていた。作品としては及第点だが、自己満足には、ほど遠い。
「ヨハネス軍医」と秋の木漏れ日の中、窓辺に頬を晒した。橙色の透けた空気の中、ヨハネ軍医の険しい顔も、やんわり揺らいだ気がした。
「蘭学も、舎密も、扱いによっては危険になる。だから、失敗は許されない。やっと、その意味がわかりました。己は、楽しみにしている被写体の人々を裏切りたくはないです」
 ヨハネス軍医は一枚の現像写真に視線を注いだ。遊女に腕を回し、ニタニタして津の助平親父こと、高猷が映っている写真だ。何故か、一番綺麗に現像が出た。
「これが、貴方の大切な人ですか。大名ですね」
「そう。己の大切な主君、津の国主、藤堂和泉守様です。このおっさんは、女遊びがよぅ似合うんで。奥方様への土産にと」
「鍬次郎、もしや」
 ヨハネス軍医は勘がいい。
(笑顔で、言え、笑うんや)言い聞かせて鍬次郎は夕焼け空を煽いだ。
 赤蜻蛉が連なって飛んでいる。腕を伸ばすと、赤蜻蛉は二匹が揃って鍬次郎に止まった。空へ放してやってから、鍬次郎は振り返った。
「ヨハネス軍医、もうすぐ己の写真機具が届くんです。駿河守様が手配してくれて、伝習所を通じて入荷できた。ありがとうございます。己、彦馬を連れ回して、長崎の風景全部を遺すつもりで、歩き回ろう思てます。一日掛けて、いっぱい写真を撮るんです」
 ヨハネス軍医は何も言わなかった。
「散々、自分と話し合って決めたんです。落ち着き次第、津に戻る。元々長くいられる立場ではない。ただ、彦馬という相棒に出逢い、一人では拓(ひら)けなかった可能性を、未来を拓くまで。それが使命やったんだと――思ぅてます」
 ――成功するだろう彦馬に引け目など、持たんでいい。
(己が彦馬の未来を拓いたとも言える。悲観するこたぁない。己の未来だって……捨てたモンやないし、同じように輝いておるんだから――)
 鍬次郎は矢継ぎ早に、歩かせてくれた場所、人、風景を一つ一つ零れ落ちないように、大切に繋げていった。
「長崎港、伝習所、造船所、唐人屋敷に、奉行所屋敷。角の饅頭屋に、むっつりした爺さん、花魁の行列、精霊(しょうろう)流しに、慈しんでくれた軍医たち、ちょっと優しいけど、二面性のある担当軍医、奉行所のみんなに、蛇のお奉行様、おさんどん姿の八沢通詞役――」
「上野彦馬と堀江鍬次郎」ヨハネスは付け加えて、驚く鍬次郎の肩を叩いた。
「上手くできたら、『舎密局必携』に二人の写真を載せて、未来永劫の語り草にすればいい。第二、第三の彦馬と鍬次郎が、ぽこぽこ写真を撮りたがるような。写真でなくとも、未来に貴方たちだけは遺せますよ。無論、私も、ピエールも、貴方の大切な人も」
 ヨハネス軍医は珍しく笑顔から、厳しそうな表情になった。
「忘れてはならない。貴方の功績は大きい。振り向かないが、〝侍〟。潔いと我らは聞いている」
「へっぴり腰ですよ。……そうかな。己なんかでも、時代はちょびっとでも、必要やと、思たかな……頑張ったなて言うてくれるかな? 和泉守様、言うてくれるか……」
(あかん。目頭が痛ぅなってきた。ああ、目を見開いて、瞬きせんようにしているから)
 伏せたら感情が零(こぼ)れる。だから、ぎりぎりまで目を開ける。いつだって、そうして来た。
 ヨハネス軍医が、ぐにゃりと揺れた。
「……あの長崎の鬼との喧嘩のやり方、カレフ軍医に指導お願いするか。それとも、痣の直し方を、恩師ヨハネス・ポンペ・ファン・メールデルフォールトに……」
 声が震え始めた。唇が思うように動かせない。
「あかん! もう限界! ヨハネス軍医……!」
 堤防は呆気なく崩壊した。鍬次郎は腕で顔を覆い、噎び泣いた。次々出てくる熱い飛沫に唇を奮わせていると、かつん、と軍医が踵を撃ち合わせる音が近くなった。肩を叩かれて、顔を上げた。洟水と、涙が手を繋いで、仲良く口元を滑り降りた。
「やれやれ。大人になろうというに大粒の涙を垂らして。まあ、大人になったのかも知れない……泣けんもんです。意地を捨てないと、人は泣けない。泣いた分、きっとまた……」
 ヨハネス軍医が布で眼元を拭った。優しい貰い泣きに鍬次郎は泣き笑いになった。
 ――彦馬と別れるとき、己は泣くのだろうか。彦馬がどんな表情になるのかが想像できない。想像できようが、できまいが、別れは、やって来る。だから最後は笑顔で。
(なんや、胸が締め付けられる……息するも辛い。分かっている、本当は……)
 鍬次郎は唇を強く噛んだ。前に進むと決めたはずだ。最終的に上野彦馬をぶっ倒して。あるべき場所へ。元通りの道へ戻るのだと。
 堀江鍬次郎二十四歳、上野彦馬二十二歳。長崎は風花散る冬の始まり。
 間もなく、化学解説書『舎密局必携』は完成する――。

❀3❀

 津に戻る決意をすると、今度は今度で、天が嫌がらせをしたかの如く、秋の大嵐。暴風雨は長崎の秋を薙ぎ倒し、長い冬を連れて来る。
 北国では、風花が散れば、冬の到来だと聞いたが、長崎にも小さな粉雪が降った。
 最近やたら肉体が重い。寝起きもずっと辛くなった。冬支度だとお袋が綿の厚手の着物を届けてくれた。届いた機具は開けず仕舞いだ。
 漆喰(しっくい)の長崎伝習所は特に冷える。八沢が「さむさむ」と綿入れを着始めた。
 唐人屋敷の大火事から、異人の数が減った。伝習生も、ちらほらと国に戻る姿が増えた。
 ――いつ、打ち明けよう。彦馬に言えぬまま、秋は冬になり、更に深い冬を迎えた。
 冬が深くなると体の不調は、よりはっきりとしてきた。指先の感覚も鈍い。ヨハネス軍医は「疲れが出たんですよ」と微笑んだが、体の奥底の命の砂時計が落ち始めたが分かる。
 体内の臓器のどれかが、弱っている。吐血はないが、どこか気怠い。杞憂(きゆう)とは思えない。
(津におっても、同じくさらさら、命、落ちたとしたら、やっぱここに来て正解やった。どこにいても命は落つる。なら、己は和泉守様に恩義を返さねばならない)
 春になった。上級伝習の課程も終わった。
 鍬次郎と彦馬の『舎密局必携』は、正式な手続きを得て、伝習の教材に引用された。
 これから、見えぬ道の先の世界の誰かが、鍬次郎と彦馬の苦心惨憺して編み出した写真技法で、笑顔を遺す。溶液も、光度も、液に浸す長さも、すべてが記されている。長崎で培った全ての技術を綴った誇らしい歴史だ。
(そろそろ、頃合いやな……彦馬に言うに、ちょうど良いな)
 花冷えの朝。膨らんだ桜の蕾を眺めている内、とうとう決意は固まった。
 彦馬に別れを告げ、津に戻る。夢の世界を終わりにして、あるべき場所へ還る、と。
 揺れ動く世界に飛び込み、しっかりと現実の前に進まねばならない。
 桜舞い散る中に、飯を食いながら米と一緒に降ってきたあくる日の無邪気な少年の姿は、桜を見る度思い出す。そう、故郷に戻っても消える事実はない――。

❀4❀

「そいでな。この場所がええと思う。港に近いところなら、お客も呼び込みやすいやん」
 伝習所の一角で、彦馬が嬉しそうに紙を広げ、物件を探し始めている。
『吾、長崎で写真やる。放浪でなく、皆が長崎に来るんよ』
「でな、ちょっとお高いのね。そこで、折半……」
「己はそこには行かん。やるなら、一人でやり」
 鍬次郎は言い切った。「なして?」と彦馬が手を止めた。冷ややかに告げた。
「勝手に決めるな。己はおまえと写真店やるなんて一言も言うてない。教本作りは手伝った。それに、おまえ、蘭学の家の息子やろ。そろそろ現実を見ぃや」
 ……意地悪だ、己。思いつつ、愕然とした彦馬の目から目を逸らした。
 彦馬は椅子に座り込み、クックと笑った。
「――おまえさんも、そうか。どこぞの女と同じ。しかも、数年も弄んで、おまえさんのが酷いわ。ずっと一緒に寄り添って歩いて来たやん。吾を忘れてもうた?」
(待て。なんや、その、夫婦扱いは)突っ込むも野暮なので、黙りこくった。
 無言の鍬次郎に彦馬は、あっさり「ええよ。んじゃ、そうしよか。いつ戻るん?」と明るく返答した。腹がカッと熱くなった。
 気がつけば、彦馬の胸ぐらを掴み、渾身(こんしん)の力で殴り飛ばしていた。
 彦馬の黒檀の瞳は小さくも、輝きは変わっていない。潤んだ目の綺麗さに、むかっ腹が立った。拳を叩き込んだ。
〝おまえは、ええよな! おまえだけ、なんで勝手(かって)気儘(きまま)なんや……っ!〟
(だが言えば、和泉守様への冒涜になる……言うものか、言ってはならねぇ)と堪えた前で、彦馬が口を拭い、立ち上がった。コキ、と肩を鳴らした。
 拳が頬に飛んだ。視界が流転して、鍬次郎は椅子から転がり落ちた。
 口にほろ苦い血の味。溜まった体液を、ぺっと吐き出した前で彦馬がちょいと挑発した。
(上等だよ。長崎の鬼!)
「こ・の・や・ろ……てめええええええええ――っ!」
 ふん、と彦馬は拳を握って今度は足を上げた。置いてあった銀板を持ち上げた。
 カン、と硬い音がして、彦馬が足を抱えて飛び跳ねた。「あほんだらぁ」の声に、上着を脱ぎ捨てた。
「前から思っていたが、変な格好やな」
「――もう、とことん、暴れたるかんね。覚悟するがよか!」ぼそりと呟いて飛びかかって来た。
 壁に頭を打った。ずっこけて机の下に潜り込んだ。彦馬の長い脚が机を蹴り倒した。
(やべ、体力が違い過ぎや! 鬼に喧嘩売ったん、間違いやった!)
 逃げたが、後の祭り。激昂(げっこう)した彦馬は「ウオォ」と机に潜り込んで来た。揉み合って、今度は机の脚に足をぶつけた。闘争心の滾(たぎ)るまま、足をばたつかせて、硬い腹を蹴った。
「ぐぇっ!」と油断した拍子に、這い出ようとして、今度は腕で首を絞め上げられた。
「長崎にいると言え! ――本気で吾に勝てると思うか! ひ弱!」
「あほ! し、死ぬで……っ!」
「死んでまえ! このくそずんだれがァ!」
 掠れ声と同時に、目が霞んできた。激怒している彦馬の怖さは知っている。手が机の脚に伸びた。僅かに持ち上げて、高度を上げ、ぱっと手を離した。覆い被さっていた彦馬の上に、机の天板が当たった。
 ゴインとした音に、彦馬が引っ繰り返った。鍬次郎は隙を見て、シャカシャカ逃げた。
「あ、あほんだら……本気で、絞めるあほ、いるかいな! こ、怖い思いさせよって!」
 机の下でガン! と激しい物音がした。彦馬が蹴ったか、拳を打ちつけたか。
 外から太陽が燦々と、陽光を撒き散らしていた。ぽつんと空に昇る太陽を拝むが面白い。
(いや、彦馬とならば、なんでも、散策だって、勉強だって面白かった。彦馬がいなかったら、長崎で踏ん張ろうとはしなかっただろう)
「なんだ、この惨状……おい、ちょっと、見るがよか」
 散々な荒れようだった。薬品に使う瓶は割れているし、机は滅茶苦茶で、椅子も吹っ飛んで倒れている。物件の紙はくしゃくしゃ。銀板はひしゃげていた。
 鍬次郎の頬は腫れ、彦馬の眼元には痣(あざ)、互いに唇を切った。呆気に取られながら「血ィ、出てるで」と冷静に指摘し合った。
「あはっははははははははははっははははははは!」
 顔を見合わせ、二人で何故か共鳴のように笑いまくった後、鍬次郎は涙を拭った。
「数年一緒だったのに、殴り合いすらしなかったんやな、己ら。首が痛む。次回の喧嘩は、お手柔らかに頼むな」
 彦馬も立ち上がって、唇を親指で押さえて、ニッと笑った。
「ずんだれ。喧嘩に手柔らかもないやん。いつ、行くん。秋くらいかい」
「打ち明けるん遅らせてたら、季節がどんどん、過ぎてまう。おまえの店が軌道に」
「行ってしまうがよかァ! ははは、とっとと消えろ、ずんだれの、女一人モノにできんうつけの臆病者がァ!」
 ――そこまで言うか……鍬次郎はげっそりとなった。
 腕も立つ上、減らず口も。結局、こいつには何一つ敵わない。「行ってしまえ」と言われて何を隠そう、寂しかった度合いは鍬次郎の勝ちだ。
(引き留めて欲しかったのか、己は)鍬次郎は唇を曲げた。
「寂しい言葉、言ったからや」
「いーや、吾のが寂しい。これから、どうしよ……銀板も、片付けも、製図も、薬品準備も纏めも、終わった後の掃除も、全部一人でやるんかい」
「そんくらい、やれ。普通はやれるんだよ。甘やかされ御曹司(おんぞうし)め」
 ――ああ、ええ天気や。鍬次郎は目を細め、太陽を見上げた。花冷えもすっかり収まった。少し冷えた桜の色が鮮やかである。
「何事か! 盗賊か!」と今頃ヨハネス軍医とカレフ軍医が駆けつける姿が見えた。何気に、この二人も一緒にいる。〝親友?〟今更ながら、彦馬との関係に似ていると気付いた。

❀❀❀

「逃げてまうで、ちょうちょ~」
 蓮華の前に止まった蝶々を狙っていたら、岩に座ったままの彦馬が邪魔をした。
(よっしゃ、完了)とピカピカの機具を構えていた鍬次郎は、親指を立てた。
 皐月。大喧嘩の取っ組み合いから半月が過ぎた。ぽかぽか陽気である。彦馬に機具を担がせて、鍬次郎はこの日、長崎の風景を根刮ぎ撮りに出かけた。
 まだ、口の端が痛む。開けると痛い。
 春雨も止んで、青々とした木々が輝いている。穏やかな長崎の街。
「どっから行こか。ちょうちょさんだけじゃあ、味気(あじき)ないしな。近辺を全部、回るかい」
 以前は引き摺った機具を、ひょいと彦馬は担ぎ、スタスタと歩いて行った。
 まず訪れたは和蘭陀(オランダ)商館跡。焼けた唐人屋敷と、急な坂の上にある。封鎖されたのち、取り壊しになった。
 奉行所ではマクワウリのケツ向けて、おばさんが掃除中。いつもケツ向けている記念に一枚。彦馬が撮りたがった。次に向かった饅頭屋の爺は年食ったのか、ぽかぽか陽気で居眠り。途中、醤油と味噌の樽を背負った買い物帰りの八沢に出くわした。
「駿河守様なら、長崎港。鍬次郎、おまえ、いつから乞食になった? 着物、ボロボロ。抓み出されるで。お? 撮るん? はは、照れるな……って俺割烹着!」
 偶然の丸山遊郭の花魁道中。彦馬がニヤニヤと撮影している間、着替えて、今度は大通りを渡り、長崎港へ。伝習に使った『観光丸』が浮かんでいた。陸にあった船だが、とうとう海上実地するらしい。
「最後には、海に出る実習なんやなぁ。上級の造船学も面白か」
「やっぱ和蘭陀船は、ええな。偉大で、力強いわ。数枚、行こか。鍬、見てみ。どでかい真鯛がおる。あれ刺身にして、一杯やるもよかやん」
 見れば船の上で大振りの真鯛を掲げた浅黒い漁師(りょうし)のおっさんが破顔して、こっちを向いては、チラチラと赤く煌めいた鯛を掲げている。彦馬と一緒に吹き出した。
「そんな暇あるかいな。……しかし、でけぇ。白身魚は貴重なんやで。赤味よりずっと高級で、大樹様に贈るもんや。おーい、おっさん、こっち、こっち向きィ!」
 その後、港の灯台に、遊びに来た水鳥の親子を撮影した。太陽が傾く頃には機具を抱え、長崎港が良く見える場所に落ち着いた。
 数年前に「ベル、こっち向けぇ!」と叫んだ同じ場所。懐かしさに胸を染めていると、彦馬もまた、うっとりと過去に思いを寄せ始めた。
「ここ、ベルちゃん見送った場所だ。吾、あの辺りで「つんつらかいちゃる!」とか言いながら、爆竹投げた。あの後、お説教されたも、いい想い出やん。鍬、一つ聞いていいか?」
 海は繋がっている。この水の道を辿れば、和蘭陀に行けると聞いた。
 ――ベル……いつか自由に逢いに行ける時代が来るのだろうか。開国をすれば、ベルだけではない。イロイロな異人が来て、日本に新しい色と風を吹き込み始める。色彩の違う瞳で、皆、日本を愛してくれた。「海禁」は恐らく終わる。そうすれば、また自由に、貿易はもっと盛(さか)んになる。和蘭陀人もまた姿を見せてくれると信じたい。
(往き来が互いに自由にできる時代は、すぐそこや。そしたら、もう一度、長崎へ来い。その時は己も長崎に戻って笑顔を遺して見せようやないか……)
「商館長の娘、手込めたかったんだろ?」
 鍬次郎はしばし黙りを決め込んだ後、きっぱりと言ってやった。
「まあな。惜しかった。感触を知っておきたかった。夢のベルの抱き心地、わからん」
 彦馬が「うは」とあんぐりと口を開けた。「すけべえ」と、にやつかれたので、これ以上の言葉は胸に仕舞っておいた。
 最後に長崎の春の夕暮れ。春霖(しゅんりん)の気配を感じる空に写真機具を向けた。お陽さんに成功して見せるぞとの約束の如く。

❀❀❀

 さて、山のようなネガを前に、伝習所に戻った鍬次郎と彦馬は同時に腕捲りをした。
「残らず、現像すっぞ! 意地でも、全部、完成させたる。今夜は徹夜やね」
「当然や! 全部しっかり遺して貰わんと! なあ、この銀板、おまえか?」
 一枚ぽつんと銀板が置いてあった。何やら、焼き付けは終わっているようだった。
「知らんが……カレフらの失敗作か? ま、現像してから、報酬は言お」
 ――金、取るんかよ。軍医相手にも。阿漕(あこぎ)やな。
 彦馬はぱん、と手を叩いた。
「偉大なる写真家の上野彦馬と堀江鍬次郎! 後世に遺す奇跡を成し遂げた二人の、一世一代の大勝負やんって……薬品が足らないな。くっさい牛の頭、掘ってくるわ」
 彦馬はアンモニアの調達に消えた。
 殴り合ってから、一つも彦馬は別れに触れない。やはり謎の男である。
「あ、結局、己が準備させられるんやないか!」
 暗室の準備は面倒だ。いちいち光を遮断するための布を貼り付けねばならない。
 ぶつぶつ言いながらも、丁寧に薬品を揃え、手洗を並べた。天井に綱を通して、二人分の手拭いを並べた後、鵜卵紙の束を解いて確認した。
 和泉守様が充分な量を頼んでくれたが、先日の維新の皆様の撮影で使用したから、半分近く減っている。
 鍬次郎はさっきの銀板を手にした。昼間に充分にお日さんに当てた銀板は、しっかりと乾いている。随分と手の込んだ銀板だ。皺一つなく磨かれていた。
 お陽さんとの約束。――この素晴らしい世界を、この手で遺し、伝える。
 窓の向こうに奉行所の提灯がいくつも見えた。彦馬が逃げて来たが、おまけを連れてきたらしい。
(まぁたお役所と揉めて。最後の最後まで、さすが、問題児、上野彦馬や)
「はいはい、並んで、並んで! 一人小判一枚! 出せん人間は後日でよか!」
 阿漕な撮影会を開催して、役人たちは破顔して、掃除して帰って行った。
「さぁて、お! さすが相棒! 準備できてるやーん」
 彦馬は暗幕の向こうで、コロジオン溶液に銀板をつける。鍬次郎は受け取って定着液につけ、鵜卵紙(うらんし)に映し、丁寧に転写させて彦馬に返す。
 彦馬は最後の照液を塗り、綱に一枚一枚を干す。性格的にこれでいいらしい。鍬次郎は几帳面で溶液につける時間が長く、彦馬は乱暴で転写が適当になりがちだからだ。
「じゃ、始めよか! そっち、頼むで!」
 こうして、夜には、綱に紙が大量に垂れ下がった。どれもこれも、昼間見た風景の素晴らしさを封じ込めている。八沢の割烹着は、実はおばさんのものとお揃いと発見した。
 失敗が嘘のように、現像ができて行く。楽しくて楽しくて、終わって欲しくないとすら思った。
 口元を布で隠した彦馬に、「この銀板、なんやろ」と、最後の銀板を手渡した。
 ヨハネス軍医が置いていったものだ。本人に聞こうにも、ヨハネス軍医は上級舎密の屋敷と、カレフ軍医の仕切る梅毒検査施設を往き来しており、たくさんの武士や商人の検査に暇がない。
「ま、現像して見るしかないが……」と引っ込んだ彦馬の手が出て来ない。
(随分、時間かかっとるな)と鍬次郎は声を珍しくかけた。
「彦馬? 漬けすぎたん?」
「ア……いや、やられたわ……軍医……」彦馬が小さく叫んだ。銀板をつける時、うっすらと焼き付けた被写体が見えるから、彦馬には何が映っているか、もう見えたはずだ。
「あと、頼むよ。相棒、失敗、許さんよ。絶対、これは失敗できん!」
 鍬次郎は「なんや?」と、広げた鵜卵紙に、銀板を載せた。ゆっくり、ゆっくりと転写するために、強く押しつけて、時間を掛けて、剥がす。一寸も動かしてはいけない。銀板から、全てを写し取るまで。気が抜けない作業だ。
 ちょうど鵜卵紙の在庫も終わったな……。
(もう、ええかな。うん、大丈夫やろ)
 左側にチラリと彦馬が見えた。(まさか)と震える手を手で押さえ、剥がして行くと、右には鍬次郎の破顔した表情。多分、漁師のおっさんを見つけた瞬間だ。
「いつ、撮られてたんや……何が、わたしは機具が使えない、だ。ヨハネスの大嘘つき。己らよりずっと綺麗やないか……」
 暗幕が揺れて、洟を啜った彦馬が顔を出した。
「でけた? みたか? 吾と鍬が見えたん……」
「現像、何枚、鍛錬したと思ってんのや! ほら! 眠そうな助平な目でよぅ見ィ!」
「わ、鍬! 広げるん後! 定着液、定着液! おまえさん、落ち着け! 寄越せ!」
 彦馬は焦りながら、最後の一枚を受け取った。鍬次郎も心配で暗幕に入り込んだ。
 狭い暗室。男二人で掛け合う吐息は、嬉しくない。すぐに不快感は気にならなくなった。
「もういいだろ。取り出す。今までで一番緊張するやん……軍医、侮れん」
「遺ってもうた……己らまで……」
 彦馬が腕捲りした腕を、そっと下ろした。部屋には大量の鵜卵紙の屑。薬品漬けの終わった銀板の山。つんとした薬品の臭い、牛の頭も、みんなみんな愛しくなる臭いになった。
 鍬次郎は、暗室を出て、壁際でへたばっている彦馬の隣に座って語り掛けた。
 飲まず食わずで数刻。くったくただ。それでも、心はちっとも疲れはしなかった。
「――なあ、楽しかったで……己、もう感無量……」
「見ればわかるて。吾も同じ、眠……ひだるか……」
 片付けも、軍医への報告も、奉行所も、津へ帰る支度もすべて後回し。どろっどろに眠い。ぶら下がった写真の彦馬と鍬次郎は、干されながら、二人を見下ろしていた。
「なあ、己の機具、置いてくから、己の代わりにいっぱい撮ったって、笑顔」
 彦馬が写真たちを見ている。鍬次郎も、じ、と己の表情を睨んだ。頬が熱くなってきた。
「照れる。自分がここに在って良いのだと、お陽さん、言ってくれたんやな……」
(なんや、楽しそうに、はしゃいで。……こんなええ顔しとったか? 己……)
 まだ見えぬ舎密学の未来へ、鍬次郎はしばし思いを馳せた。
〝どでかい鯛やな。あれで一杯やるもよかやん〟
〝そんな暇あるかいな。……しかし、でけぇ。白身魚は貴重なんやで? 赤味よりずっと高級で、大樹様に贈るもんや。おーい、おっさん、こっち、こっち向きィ!〟
 楽しそうな声が聞こえてくる。もっと進化したら、声が残せる写真なんかも出るかもしれない。動きが遺せたりするかも知れない。
 ――己、ほんま、楽しかったと胸を張って言えるよ。彦馬、また己は一つ分かった。
 いつだって、一歩、進む現在(いま)から、未来は作られるんや――。

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