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5.呪われた身

「ん……」

 そっと開かれたシェイラの目に、よく見知った板張りの天井が映った。
 窓から差し込む月明かりは暗闇を薄め、全体をぼんやりとした群青色に見せている。
 エプロン姿のまま、いつの間にか眠ってしまっていたようだ。先ほどまでの心地よい感覚はなく、ギシ……と小さな音が起った。
 あれは夢だったのか……と、彼女は少しガッカリした表情を浮かべながら、ぼうっと天井を見つめ続けた。一眠りしたからか、眠気も二日酔いがスッキリと消え、頭も軽くなってる。

("天国"で一休みしてきた、と言うのも、あながち間違いではない――かも?)

 枕元の時計に目をやれば、もう夜の十一時を過ぎようかとしている。
 普段は九時には寝ているシェイラからすれば、十分夜更かしの時間だ。
 見た夢を思い出そうとすればするほど、忘れてゆくもの――何があったかを思い出そうしている内に、シェイラの頭が再び覚醒してしまっていた。

(……と、とりあえず着替えなきゃ)

 と、寝間着に着替えようと上着から小さなヘソを覗かせた時、彼女はピタリ……と手を止めた。
 窓をじっと見た。ガラスの向こう、夜の田舎町は特に真っ暗に塗りつぶされている。
 昨晩は酒を飲んだ――自爆はしたものの、飲んだ事を誰も咎める者もいない。
 誰もがこの“普通の光景”を知っているのに、これまで夜道を歩けなかったシェイラには、まったくの“未知なる世界”――。
 脱ぎかけた手を戻し、そっと部屋の扉を開いた彼女の耳には、胸の鼓動だけが響き続けている。

(これが……夜の町なんだ……)

 ポツ……ポツ……と、闇夜を照らす町の橙火は、幻想的で美しくも見えた。
 しかし、しんとした暗い闇夜は、思わずぶるっと身を震わせてしまうほど不気味である。
 夜遊び程ではないが、『もう大人なのだから』と自分に言い聞かせながら、未知なる世界の夜の町に足を踏み入れてゆく。
 夜道を歩けなかったシェイラにとって、これは"冒険"の第一歩であった。

 気持ちが昂揚してゆくのが感じられる。“闇夜”に慣れ始めると、ゆっくりと流れる夜の景色を見渡す余裕も生まれた。
 昼間ならハッキリ見える路地も、暗闇の壁に阻まれて数メートル先も見えない。
 よく小説などでは、こう言った場所から悪い人が出て来て……と、先日読んだ本をふと思い出してしまった。

(ああもうっ、どうして思い出しちゃったんだろ……)

 先がまったく見えぬ真っ暗闇が、急に恐ろしくなり始めた。
 彼女はこれまで『誰かに監視されているかも、つけられているかも』と、常に人の目を気にしながら生きてきた。訓練場に通い始めてからと言うもの、それが急にパタッと止んだものの、借金取りに追われている身には変わりないのである。

(皆はこの闇夜を歩いているんだから!
 私だけが化け物に見えるんじゃないんだから……!)

 この町は人の出入りが少ない町だ。
 見知らぬ者がやって来て、彼女の監視なぞしようものなら、たちまち噂になるだろう。
 田舎特有の閉鎖的なそれが、シェイラの気持ちを落ち着かせる。

 しかし、森には《グール》なども徘徊しているため、用もなく夜道を徘徊するものでない。
 そんな事は百も承知であるものの、彼女は勇気を出して、一歩……また一歩……と、静かな夜の田舎町を歩きはじめた。
 闇の中に、砂利道を踏みしめる足音が吸い込まれてゆく。
 森の奥では、ワンワンと犬が吠え、木々のざわめきがシェイラの恐怖を煽りたてた。

「……っ!?」

 ふいに先の道、暗闇にうごめく人影が見え、思わず息を呑んでしまった。
 全身が強張り、すくんだ足は前に進まない。

(酔っ払い……かな? 誰だろう)

 ふらふらよろよろ歩くそれを見て、シェイラは首をかしげた。
 暗闇で呻くそれは訓練場の方に向かっており、その方角には誰も住んでいなかったはずだ。
 それに、片足を引きずるように歩くそれは、遠目に見てもとても危なっかしい。
 もし転んだりして怪我でもしたら大変だと、シェイラはおせっかい心に駆られ、それを追いかけた。

「――あ、あの大丈夫ですか……?」

 距離を空け、恐る恐る尋ねたシェイラの声に、()()は足をピタリと止めた。
 顔を振り向かせたが、真っ暗闇で顔が分からない。分かるのは、鼻につく悪臭を発しているだけだ。
 腕を伸ばし、近づいて来ようとしてるのを見て、シェイラは思わず後ずさりしてしまった。
 露骨に退いた姿を見せても、それは意に介していないらしく、呻き声をあげながら、どんどんとシェイラに近づいて来る。

「もっ、もしかして、これっ……!?」

 《グール》――。
 シェイラは初めてそれに気づき、身体を強張らせてしまった。
 町の周辺には聖水などが撒かれており、それらは町の中に入ることが出来ないはずである。
 彼女の頭は混乱を極めた。
 冒険者になれば、モンスターと戦うことはまず避けられない。そのために訓練場に通い、“訓練”をしてきた――頭では理解しているものの、いざ初めてモンスターを前にすると、恐怖で足がすくみあがった。
 頭の中が混乱し、呼吸すらままならない……それどころか、パニックまで起こしかけている。
 その時……十数メートル先の、訓練場の門に灯るたいまつの炎が、彼女の目に映り込んだ。

「――そ、そうだ! 訓練場に行ったら……!」

 シェイラは、その垂れた目をぎゅっと瞑り、ダッと《グール》の脇を掻い潜った。
 中には恐らくローズかレオノーラが居るだろう、と睨んでいた。

(走るゾンビはゾンビじゃない、って聞いた事あるけど……)

 シェイラの足が遅いのもあるが、《グール》の歩行速度が速い。
 もしこれで走ったりしたらどうなるのか……と思わず考えてしまうほどだ。
 たいまつが灯る門に差しかかり、振り向いたらもう一、二メートルまで差し迫っていた頃――
その火の灯りに照らし出された《グール》の顔に、シェイラは驚愕の表情を浮かべてしまった。

「まっまさか……け、ケヴィン教官ッ!?」

 ほぼ腐り落ちてはいたが、見覚えのある大ボクロを見て、思わず声をあげた。
 頬や目がえぐられ、歯ぐきや骨がむき出しになっているが、それと見て間違いはないだろう。グロテスクさも相まって、生前以上の醜悪さを見せている。

 《グール》は、それに襲われた者や、この世に未練を残した者、執着した者がなると言う呪われた身であった。死した時の苦しみから逃れるため、生ける者を喰らい続ける。
 しかし、それは砂漠の砂の上に水を落とすような、一時的なもの――生前の欲求も相まって、彼らの"生"の渇望は日ごとに増してゆく。
 《グール》に殺された者は、僧侶の“浄化”を受けた聖水をかけるか、その身を焼いて灰にしなければならない。
 しかし、町の者はそれを知らなかった。誰からも忌み嫌われていたケヴィンは、永遠に苦しめと言わんばかりに、ろくな処置もされないまま町はずれのゴミ捨て場近くに、投げ捨てるように埋められただけなのだ。
 そして、その場所は聖水を撒いた内側――いくら《グール》よけの物とは言え、町の内側で埋められてしまうと意味をなさない。

「ォ……オォォ……オォッ……」

 飢え、乾き、生前の欲望――。
 目の前に居るシェイラは、下卑な者であったケヴィンにとって、最高の獲物に映っていた。
 男を知らぬその肉体は、“商売女”であったイライザと比べ、また違う悦びがある。
 ほどよい膨らみをした乳房・ややだらしなさが見える腹・丸みを帯びた尻――生前の()的な欲望は、《グール》の"()"の渇望と融合し、その女の柔らかな肉を貪り、子宮をえぐり出し、その肉と血を啜らんとしている。

(死んでも下品なまま……だけど……)

 《グール》となった教官の目は、どこか救いを求めている――。
 駆けだしたシェイラは、心のどこかでそう感じていた。

 ・
 ・
 ・

 その頃、訓練場の中――ローズは研究室の中で爆音を響かせていた。
 ロック音楽を記録した魔法板(レコード)をかけ、フンフンを鼻を鳴らし身体を揺らす。
 そのため、訓練場のグラウンドで起っている事はおらか、廊下で『誰か居ませんか!』と叫ぶシェイラの切なる声すら聞こえていない。
 時おり、『イェイッ!』と、カエルの置物のようにノリノリで、全く進まない"研究室の準備"を続けているだけだった。
 当然、バレたらレオノーラに怒られるため、防音に関しても完璧にぬかりない。
 そのせいで、研究室の横を駆けたシェイラも、ローズの存在に気づかず、獲物を追って訓練場に侵入してきたケヴィンから必死で逃れていた。

「はぁ……はぁっ、けほっ……けほっ……」

 肺が引っ張られ、苦しい――。
 体力があまりないシェイラの息があがり、冷たい廊下の壁にもたれ掛っている。
 ちょっとの冒険がこんな事になるとは思っておらず、来るべきじゃなかったと後悔の念さえ浮かべていた。
 シン……とした真っ暗な訓練場の回廊は、不気味なほど静かだった。
 何の音も聞こえて来ず、シェイラはほっと安堵の表情を浮かべた時――

「オォォッッッ!」
「ひぁぁッ!?」

 近くの窓がガッシャーンと音を立てて突き破られ、腐った爪先がシェイラの服を掠めた。
 ケヴィンは腐ってもここの教官だった。生前に残っていた記憶が本能と合わさり、シェイラの潜んでいる場所を突き止めたのである。
 構造の把握は、ケヴィンの方が上だ。どこに逃げようとも、訓練場の中では《グール(ケヴィン)》は最短ルートを見つけそれを追ってくる――。
 それを悟ったシェイラは、ここに逃げたのは間違いだったかもしれない、と思っていた。

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