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ホームズになれなかったワトソン

 神保町から作劇屋へと向かう電車に揺られながら、私は今日得られた情報をもとに、自分なりの推理を組み立てていた。電車を降り、夕暮れが近づきにわかに冷え込み始めた街を自動運転みたいに上の空で歩きながら思索を続け、作劇屋のスチール製ドアの冷たいドアノブを回す頃には、今回の謎の真相らしきものが見えていた。
里長(さとなが)氏の謎が解けたよ。これが真相に違いない」
 開口一番、私がそういうと、パソコンに向けていた視線をこっちによこしながら、禮音(れいね)はにやにや笑みを浮かべた。
「君がその答えにたどり着く事が、物語が前へ進む条件だったようだ。そろそろ次の展開が始まるよ。ただしその答えが、必ずしも正解だとは限らねーけどね」
「どういう意味だ?」
「君が里長氏の謎を解くその物語が、いよいよ次のページに進むって事さ。パソコンに納められた君の物語の記録によると、間もなく里長氏がここへやってくるよ」
 つまり、いつぞやの郷原(ごうはら)強右衛門(ごうえもん)の事件の時のように、私の行動そのものが私の書くべき物語になっている訳だ。するとこの物語はさしずめ、私が里長郡司(ぐんじ)氏の秘密を暴くミステリといったところか。
 里長氏はすぐに現れた。月刊Sci-Fiのインタビュー記事で見た事のある、さわやかなスポーツ狩りの男性だった。私は探偵が解決篇でするように、余裕のある笑みを浮かべて彼に挨拶した。
「はじめまして里長郡司先生。でも、こんな所にもう用はないはずでは? 作劇屋から買わなくても、あなたは物語を生成できる」
 里長氏は、私を見て怪訝そうな表情を浮かべた。
「君は誰だ?」
「先生の秘密を解き明かした者ですよ。もちろん私は先生ほど情報工学にも、脳や意識のメカニズムにも詳しくありませんから、あなたの発見した関数そのものまでは解き明かす事ができません。でも、その関数が存在する事だけは、推理する事ができるのですよ」
 里長氏は何の事かわからないという顔をして私を見て、それから禮音を見た。禮音はちょっと困ったように眉根を寄せた。
「すまないねえ里長氏。ちょっと彼の茶番に付き合ってやってくれないか? まあ、害はないからさ」
 禮音に茶番と言われてちょっと気分を害しながらも、私は話を続けた。
「例えばy=2x+1という関数が成り立つ時、xが一から無量大数までの自然数を取りうるとすると、それぞれのxの値に対応するyの値をすべて記録するにはそれなりの容量が必要ですが、y=2x+1(ただし1≦x≦無量大数)と、数式で書けば数バイトですみます。データはそのまま記録するよりも、数式で表せるならその方が短い。
 口伝で伝わってきた長大な叙事詩などは、このように何らかの形の関数で表せるのかもしれません。そうだとすれば、そのような叙事詩を少しずつ覚えるのではなく、ある日突然全文を暗記していた、という人が時々現れるのは、頭の中にその叙事詩を表す関数が作られたせいという事になります。
 先生の新作『韻律函數(かんすう)』も、そういう仮説に基づいているのでしょう? ちょうど私も似たような話の構想を練っていたので分かるんですよ」
 私はそこで言葉を切り芝居がかった緩慢な動きで里長氏に歩み寄った。
「逆に言えば、物語を表す関数を見つけさえすれば、作家でない人にも物語が書ける、意識そのもののシミュレータまで作ったあなたなら、その関数を見つける事ができる。そうしてあなたは、大宇部(おおうべ)織子(おりこ)女史が生きていれば書くはずだった物語を生成する関数を見つけ、『韻律函數』を執筆した」
 推理の全容を語り終えて、私は満足して大きく息を吐いた。大宇部織子の物語を自分のものとして発表したのは、生きていれば間違いなく人気作家になったであろう彼女の無念を晴らす意味もあったろうが、死者の許可なく勝手に自分のものにしてしまうのは、誉められた行為ではない。
「限られた情報から推理したにしては良い線いってるけど、君は二つほど大きな間違いを犯しているよ」
 ぐうの音も出ないほど核心をついてやったつもりになっていた私に、里長氏は落ち着いて反論した。
「まず一つ。僕は確かに意識シミュレータを作ったが、意識を構成する諸要素の構造を把握している訳ではない。どういうコンピュータモデルを作り、そこにどういう入力を与えれば、意識らしきものが生成され成長していくかを知っているだけだ。ヒトの意識がどうやって物語を作っているかも知らないし、物語を表す関数なんてものも、確かに『韻律凾數』はそういう仮説に基づいて描いたけれども、所詮は仮説に過ぎない。そんな関数、僕は見つけていないし、よしんば見つけたとしても、その関数を解くのに必要な変数はxとyの二つどころじゃない。幾万個、幾億個の変数が必要なはずで、個人が書くべき物語の関数ならその変数は個人の記憶の中にあるはずだ。だから他人の記憶を細大漏らさず知り得ない限り、例え関数を見つけたとしても、そこから物語を作り出すのは不可能なのだよ。普通は、ね」
 つまりは、私の推理は間違っていたという事だ。意気消沈する私に彼は畳みかけた。
「君の間違いの二つ目は、僕が大宇部織子の事について秘密にしたがっていると思っている点だよ。少なくとも作劇屋にいるような、少しは創作の世界の事情を知っているらしい人物に隠し立てするつもりはない。なにしろ――」
 言いながら彼は、鞄から黒いタブレット端末を取り出した。彼が側面の電源ボタンを押して画面を表示させると、十五歳くらいの線の細い少女が映し出された。
「僕は今日は客ではなく、この大宇部織子にこの店を紹介する為にやってきたのだからね」
 にやりと、これ以上ないほど口角を上げて笑って見せながら、里長郡司はタブレット端末の画面を指で示した。
 彼の口ぶりからすれば、画面上の彼女が大宇部織子女史なのだろうが、大宇部女史は二十年前に亡くなったはずだ。死者に作劇屋を紹介するとはどういう事だろう。
 私がそう訝っていると、タブレット端末に映った彼女が動き、「はじめまして、大宇部織子と申します」と、深々と頭を下げた。
 突然の事に戸惑う私を見て、里長はにやにや笑いを崩さずに説明した。
「『意識シミュレータ』だよ。大宇部織子の人格を再現してある。そしてこのシミュレータこそが、『韻律函數』の本当の原作者だ」
「え? 意識シミュレータというのは、そんなに正確に亡くなった人の人格を再現できるものなのですか?」
 推理を間違えた哀れな探偵たる私は、明かされる真実に驚き戸惑うワトソン役に成り下がって聞いた。
「普通なら不可能だ。人格というのは個人がそれまでに体験した出来事の積み重ねで作られるからだ。再現するには人格形成前の、初期状態の意識シミュレータに、本人も忘れている様な細かな体験一つ一つをインプットしてやらねばならない。だが幸運にも大宇部織子に限っては、その細かな体験一つ一つの膨大なデータが存在したのだよ」

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