とある個展の中で僕は一つの絵に釘付けになっていた。老婆が自分の姿を鏡で見ている姿を描いたものである。絵のタイトルには「人生の終わり」と書かれていた。
その絵をずっと見ていると遠い昔の記憶が蘇ってくるのである。僕は七歳のとき家族を亡くしている。家族構成は両親と兄がいた。父親の事業失敗によって多額の借金を抱えることになってしまい、首が回らなくなってしまった挙句、父親が家族巻き込んでの無理心中をはかったのだった。僕はなんとか正気ではなくなった父親の目から逃げまどい、倉庫の物陰にずっと隠れていた。その後のことは…。もう思い出したくもない……。
それにしても水彩画で描かれたその絵は本当に魅力的だった。ふとその絵に吸い込まれるような感覚になった。
重りになってしまった自分の体が大海に投げ出されどんどん沈んでいく……。
その海の中で人間の顔をした魚がこちらに近づいてくる。なんやら自分に向かって囁いてくるのである。その顔は誰かとそっくりだ。
「きゃあああ!」
そこでおそらく自分であろう悲鳴が聞こえたと思ったらふと我に返った。
「まただ」
同じ描写が脳内で広がっていた。
この個展に来たのは今回で四回目だ。入場料が無料だというのも理由であるが、ここに来ると幼い頃の悲劇的な記憶を思い出す。ただ記憶とともに何かのヒントになるような気がしてならなかった。
「隆介。何してんだよ。そろそろ帰らないか」
声をかけてきたのは直人だった。高校の同級生である。
「明日の試合は出るんだろ?」
個展からそれぞれの自宅までの帰り道にふいに直人が聞いてきた。
「えっ?あ、うん。でも明日の天気は雨だよね。しかも僕達もう試合に出るというより後輩の応援メインだし」
「そうだけど。顧問の先生厳しいだろ。試合中止でもとりあえず学校には集合って言ってただろ」
「ほんと、めんどくさいよな」
僕も顧問の先生が面倒なのは頷けた。
「隆介さあ。俺たち高校三年だろ。進路とか考えてるのかよ」
「…………」
「おい!南本!聞いてんのか!」
「えっ?ごめん、ごめん。僕は高校出たら地元の市役所か何かに就職希望かな。家族にも迷惑かけたくないし……」
「そっかあ。隆介には親がいないから親戚の家に引き取られてるんだったよな。あっ、ごめん……」
直人はすぐ謝ってきた。
「直人はどうするの?」
「あっ、俺?そうだな、陸上競技も続けたいし、大学ではスポーツを研究できるスポーツ科学部に行きたいとは思ってる。でももうちょっと勉強頑張らないといけないな。ははは」
直人は一人で笑っていた。
「もったいないよな。隆介の成績だったら東京の二大名門私立大学に行けそうなのにな」
直人は続けざまにさっきのフォローをしてきた。
「それにしてもさ。さっきの個展の絵にずっと釘付けだったけど、そんなにあの絵に興味があるのか。隆介は。俺には不気味な絵にしか見えないけど」
「あの絵には何かヒントが隠されている気がして……」
「ヒント?何の?ただのお婆さんの絵だろ?こっちを見ててなんか気持ち悪いだけどな」
直人は思ったことをすぐ口にしてしまう性格で時折イラっとすることもあったが裏表のないわかりやすい性格だったので好感が持てた。
「僕さ。両親がいないのは知ってるだろ?でもさ。僕には兄がいて。どうしても生きているような気がするんだ」
「お兄さん……。でもさ、隆介…。隆介だけ必死に逃げてきたんだよな。あの場所から」
「思い出せないんだ。あの日のことは……。もう怖くて……。後でニュースを見た時、遺体は二つって聞いてあれは年齢の情報からもお父さんとお母さんだって知ったけど。お兄ちゃんの情報はなかったんだ。だから絶対どこかで生きてるって……」
「信じてあげたいけどもう十年くらい前の話だろ。どこにいるのかもわからないし……」
その後、ゲームセンター内のUFOキャッチャーを楽しみ、二人は別れた。
次の日、やはり雨は降ったが、試合には行かなければならなかった。自分のためというよりは後輩のためにも。直人は持ち前の運動神経を活かして短距離走でぶっちぎりの優勝を果たしていた。大学でスポーツ科学を学びたいというのも理解できるような気がした。僕は走り幅跳びに参加したが五位に終わった。
「僕の高校生活もこれで終わりかな……」
高校生活が終わるとこれからは自分で仕事を探して生きていかなければならない。しかし、肩の荷が下りたというかほっと安心していた。親ではない親戚に引き取られながら少し窮屈な気持ちを抱きながら今まで生活していたからだ。もちろんおじさん、おばさんは優しい人で僕のことを大事にしてくれていた。しかし、彼らの本当の一人息子はあまり勉強ができず、いつも「隆介ちゃんはほんと勉強できる子ね。あんたももっと勉強しなさい」と二人がかりで説教しているのが僕には苦痛でならなかった。名前は優太といって大人しく名前のとおり優しい性格の子だった。年も僕より三つ下で弟のような存在だった。高校受験期でもあったのでかなり心配されてたのだろう。
たぶん僕がいなかったらあそこまで比較されながら説教されることもなかったのだろう。
説教されている間ときたま羨ましそうに僕を見る目がなんだか切なかった。自分の両親がもし生きていたらこんな風に説教されていたのだろう。僕も僕で親に心配してもらっている彼が少し羨ましかった。自分も優太もお互い受験期でこれからの人生について考えていかなければならない。とても大変な時期だった。それにしても僕を見るあの目……。あの目には何か見覚えがある。
「そうだ、あの絵だ。あのお婆さんの目にそっくりだ……。こちらをじっと羨ましそうに見ているあの目にそっくりだ……」
急に僕の呼吸は早くなり動悸が激しくなり気持ち悪くなってしまった。その日はそのまま布団に横になり眠ってしまっていた。
一週間後、不可解な事件が起きた。あの個展の絵が盗まれたのである。そんなに有名な人が描いた絵ではないはずなのに……。個展内であの絵だけが盗まれたのであった。捜索願いも出されさんざん捜索は行われたが結局絵が見つかることもなく、犯人も見つからなかった。ただ自分にとっては気持ちの悪いヒントが置き去りにされていた。それは、絵がかざられていた壁にメモ書きがされていた。そこに赤いひらがな書きで「りゅうすけ」と書かれていた。
そんな偶然みたいなことがあるのだろうか、「りゅうすけ」という名前の人は一杯いるが、どうしても自分への何かしらのメッセージとしか思えなかったのである。もしかしたら個展のなかでずっとあの絵を見ていた自分の姿を、影を潜めどこかで見ていた人物がいたのかもしれない……。そんなふうに思うと背筋がぞっとしてしまった。
高校の夏が過ぎ、秋が来て、あっという間に高校も最終学期をなった。僕は高校卒業したらすぐ就職するつもりで市役所試験の勉強をしていたが、親戚のおじさんが、大学も一応受けておきなさいと都内の名門私立大学を二つ受けさせてもらった。どちらも商学部だった。もともと英語となぜか数学が得意で
理系も考えていたが、三年生の時に文系に切り替えた。それも市役所試験の科目を考えてのことであった。市役所試験では面接試験もあり大学受験との兼ね合わせもありけっこうハードなスケジュールであったが見事合格した。一方、大学受験はというと二つのうち一つは不合格であったが、片方は補欠合格していた。自分でも信じられなかった。ほとんど記念受験で受けていたつもりだったのに補欠とはいえ合格してしまったからだ。
その大学は都内だけでなく、全国でも有名難関私立大学とされていて将来は、就職においても大手に入れるはずだったが、お金のことを考えたら遠慮してしまった。さすがにその時ばかりは直人に猛烈にその大学に行くようアピールしてきた。僕の経済状況を知っているはずなのに……。
なぜなら直人はスポーツ推薦で僕が補欠合格した大学のスポーツ科学を専攻することになっていたからだ。もちろん僕と同じキャンパスライフを過ごしたかったのだろう。
「ああ。隆介と同じ大学で青春のキャンパスライフを描いていたのに……」
僕自身もがっかりな気持ちがしてならなかった。世の中には実力があっても金銭的な理由等で大学に行けない人がいるんだなと思うと情けなく、悲しい気持ちになってしまった。
高校卒業後、僕は地元の市役所に就職した。直人とは高校の時は毎日会って話してたのにほとんど会うこともなくなってしまった。時折、連絡が来ることもあったが、自分とは違う世界観で生活している直人と話をする気が起きなかった。毎日、淡々と事務仕事をこなしながら時間が流れていった。いつの間にか市役所勤務も五年程あっという間に過ぎていった。このまま青春の一ページも刻まれることなく役所仕事の波に飲み込まれていくのだろうか……。
僕は、久しぶりに高校生のときと同じ夢を見た。どこかわからないが、深い大海原に投げ出された僕……。体はというと重たく、まるで鉄の塊みたいだ。どんどん沈んでいく……。誰か助けて……。
深い海のなか、向こうのほうから魚だろうか、わからないが魚の形をした何かが近づいてくる……。動きはゆっくりだが、どんどん近づいてくる……。ついに目の前まで来た。
「うっ」
その魚の顔は見たことがある。人の顔だ。しかも僕の父の顔だった。普段なら悲鳴を上げているところだが、冷静に見ている自分がいる。
何かを訴えている。しゃべりかけようとしている。声はしないが、「りゅうすけ……」という口の動きがした。その後がわからない、何かを訴えているがわからなかった。すると
すぐ悲鳴が聞こえた。
「きゃあああ!」
そうか、あの悲鳴は自分のものだと思っていたが違っていた。あれは他の誰かの叫び声だ。悲鳴とも断末魔とも聞こえる声。ただその声もなぜか聞いたことのある懐かしい声だ。
まただ……。高校生の時に見た夢を最近連続で見るようになった。でもなんだろう。誰かが自分に助けを呼んでいるようにも聞こえる。
あと一番気になっていたのは「りゅうすけ」と書かれたメモ書きが事件場に残されていたことだ。「りゅうすけ」という名前はよくあるがタイミングよく自分と同じになるだろうか。自分へのメッセージにしか思えなかった。
市役所では市民課を担当していた。毎日市民課の窓口にたくさんの人がやって来る。住民登録や印鑑登録、戸籍届出などの窓口業務がメインである。平日にもかかわらずこんなにも人が来るんだなと少し不思議に感じていた。社会人になったらほとんどの人は仕事に出かけるものだと勝手に思い込んでいたからだ。
「南本さん。こちらの窓口に入ってくれない?私ほんと忙しいの」
先輩の新子さんが言ってきた。
「承知しました。今の仕事終わり次第入ります」
全然忙しそうでもないのに僕に仕事を振ってくる、ややこしい先輩である。毎日何か自分に対して小言を言ってきたり、小さなミスでも大きく言いふらしてきて嫌になる。市役所の仕事ってもっと楽なイメージを抱いていた。人間関係もなんていうかこう希薄で自分の仕事だけやっていればよくて定時になればそれぞれが早々に帰っていくというイメージがあったのだ。しかし、現実はすごい忙しかったのだ。今担当している市民課の窓口はいつも番号待ちだし、国や自治体の制度が変わる度に手続きが面倒だし、覚えることも非常に多かった。そしておまけに気の合わない先輩が自分の教育係だからストレスも溜まっていた。自分の机の上には高校時代に陸上部のメンバーで撮った集合写真が透明シートに挟まれて置かれている。
「みんなどうしてるのかな?今頃は大学のキャンパスライフを満喫してるんだろうな……。いいな……」
なんで自分だけ一足早く社会人として働いているんだろう。本当は別に働きたくて働いているわけだはないのに人生で経験しなければならないイベントが抜け落ちている気がしていた。ストレスも徐々に溜まっていくので仕事帰りにパチンコに立ち寄ることも多くなってきた。自分の人生の中でパチンコにまさか出会うなんて思ってもみなかった。市役所の中では清楚なイメージで通しているが、パチンコを打っている間はタバコを吸うこともあった。自分の経済状況もあったため、依存症になることはなく一日いくらまでとコントロールすることはできた。パチンコもタバコも別にしたいわけではなく、今の自分の状況を客観的に何かしらの形でまわりから認めて欲しかっただけなのかもしれない。同年代の人間より社会を理解しているんだぞ……。って優越感に浸りたかっただけなのかもしれない。パチンコに通っているうちに中で知りあった二十歳そこそこのアルバイト女性だろうか。仲良くなり、女性を知りたいその好奇心から何回も体の関係を持つこともあった。
「何してるんだろう……。周りの同級生は同年代くらいどうしで恋愛や夢を語りあったりしているはずなのに……。僕は……」
どんどん青春時代と言う名の駅から僕という電車が脱線していく姿が鮮明にイメージできてしまった。
千夏と言う名のアルバイト女性は独身でトークも上手く、またエッチのテクニックも非常に長けていたため、自分はパチンコにいくというよりその女性と体を重ね、肉欲に溺れることで自分の寂しさの隙間を埋めているような気もした。
「私、お家へ帰るのが嫌になったの。どこかへ連れていって、お願い」
と、千夏は蒼い顔をして言った。
千夏の言葉に、僕は返事をしなかった。ホームの中央まで歩いて行って、そこで腕時計を確認した。
もう五分程すると、終電車がやって来る。
僕は千夏を追い返そうか、それとも一晩どこかのベッドへ連れて行こうか、思案していた。それにしても、顔はそこそこ整っているし、体も成熟しきった豊満さを持っているため、うずうずした気持ちになった。千夏を自分のものにしておくことは、たいして自分にとって損なことではない。千夏の心をいつまでも自分の方に向けておきたい気持ちはあった。その時の僕の心には、多少残忍な快感が沸いていた。
「次の駅で降りようか」
「…………」
「駅の近くにホテルがあるから。今夜は一緒にいたい」
「…………」
千夏は返事をする代わりに、顔を伏せて、微かに頷いて、応諾の意を表した。
電車が来ると、僕が先に乗り、千夏がそれに続いた。扉が閉まると、千夏に激しい後悔の気持ちが残った。
その後悔の表情を、僕はいち早く目に留めていた。名古屋まで出ようとしないのは、そこへ着くまでの時間が、三十分も続くことを計算していたからである。一時の激情が、この妖艶な女の体からも心からも消える暇のない、短い時間で行きつける地点に、今夜の愛の巣の場所を選んでいたのである。
次の駅で降りて、道を山手の方へ取ると、僕は一言も口をきかないで、大股に歩いて行き、時々立ち止まって、千夏を待った。
三度目に千夏が僕に追いついた時、僕は、
「ちょっと待っていてください」
と、言って、二人の立ち止まっている前の、一見かなり大きなホテルに入った。
千夏は一人になると、今ならまだ帰れると思ったらしい。急にこのまま、ここから逃げ帰りたい衝動が彼女を襲ったのだろう。
しばらくして、僕が戻ってくると、そこには千夏の姿はもうなかった……。
いつかは、こうした事が自分に訪れるのではと予感していた。ただ千夏との生活で一度も経験したことのない甘美な陶酔にも思えた。千夏の大きく豊満な胸と細長い脚は何日か前は自分のものであったが、今度はそれがどこかへ行ってしまった美しい津波のようなものになってしまったと想像しながら、僕は、あらゆる思考を失って、ぼんやりと軽く目を閉じていた。
僕は、目覚めると、煙草を吸いながら、視線を、小さい網戸の方へ向けていた。そこから戸外の光線が差し込んでいる。
僕は、自分が、今すっかり千夏と関係が切れてしまったことを自覚した。夕べの僕はどうかしていたと思う。女なら幾らでもいるのに、どうして強引にも事を急いでしまったのだろうとそんな風に恥じていた。
その日はずっと茫然自失状態だった。全身汗をびっしょりかいて、疲労が僕をくたくたにしていた。
窓の外へ視線を向けると、静かな夕方の光線が一杯に漂っている。もう六時頃かもしれないと僕は思った。陽が落ちてから大夫と経った光線の穏やかさであった。
「おい、花火が見えるよ」
窓の外から大きな声が聞こえた。
五、六分、時には十分ぐらいの間隔をおいて、南の空に、花火が打ち上がった。簡単な花火だったが、一瞬夜空にひらく火の光を、僕は妙に冷酷な気持ちで眺めていた。
僕は、今の自分の気持ちを救ってくれるものは、やはり直人しかいないと思った。すると、僕は自分の体を自由自在にした。そして痺れるような陶酔感が身内に蘇って来た。人間が悪魔になるのは、こうしてなっていくのかもしれないと思いながら、僕の目は、音もなく暗い空に打ち上がった花火の、最後まで残った青紫色の火の行方を追っていた。
しかし、そんなことも反転してしまうほどの出来事が起きた。いつものように仕事帰りにパチンコ店の中に入り、自分のお気に入りの台に座ろうとしたとき、その台の上に一枚のメモ書きが置いてあった。
〈女性には会うな。俺は見ているぞ〉
真っ赤な字でこう書いてあった。
僕は体中がブルブル震えはじめた。
「やっぱり偶然なんかじゃなかったんだ……。あのときのメモと同じだ……」
誰かに見られてる。今こうやってブルブル震えている僕を今もどこかでひっそりと見ているんだ。そう思うと恐怖心を隠し切れず、すぐさまパチンコ店から外へ逃げ出した。自分はこれまでの人生でとくに人に恨まれることをした記憶もない、いや、知らない間に誰かを傷つけていたのか……。家走って逃げるように帰る間、ずっとこれまでの人生のイベントを頭の中で振り返りは確認していた。
直人……。一緒に大学へ行こうと約束してたのに行けなかった。いや……。そんなことで恨むような直人じゃない……。
じゃあ、優太……。自分は勉強ができたから叔父や叔母にいつも褒められていた……。僕が褒められる度に寂しそうな表情でこっちを見ていた。どんな気持ちだったんだろう……。他人の子が褒めれている姿を見て……。そんなことで恨みに近い感情が芽生えたりするんだろうか……。
自分がこれまで出会ってきた人の感情を自分に置き換るように感情を探っていった。とにかく今の状況を警察に知らせるべきだろうか。でも誰が書いたかわからないようなたった二枚のメモ書きだけで動いてくれるはずがない……。僕は久しぶりに直人に連絡することにした。
「隆介か。久しぶり」
相変わらず変わらない声と表情で僕たちは出会った。直人は連絡するなり東京から地元まで帰ってきてくれたのだ。
「久しぶり。元気だった?」
声を出した瞬間、
「隆介。なんか雰囲気変わったなあ。大人になったっていうか……」
そう言ってきた。
「隆介、今彼女いるだろ。タバコの匂いもするしさ」
と、茶化すように言ってきた。相変わらず思ったことをすぐ言ってくる性格は変わらない。でも女がいることは本当だ。しかも同年代じゃなく一回り位違う女性と関係を持っているなんて言えるわけがない。あとタバコも自分が吸っているのだ。なんか自分だけ同年代よりも遠いところへ行ってしまったみたいで少し切なくなってしまった。
「急に連絡してきたから慌てて帰ってきてしまったよ。で、何か直接会って話さないといけないことあるのかよ」
直人は言ってきた。
「僕さ。誰かに狙われてるんだよな」
一瞬空気がピタッと止まったかと思うとすぐ直人は大声で笑った。
「誰にだよ」
笑いのツボに入ったのかお腹を抱えて笑っていた。そんな時もとても笑えるような状況ではない真剣な僕の顔を見て察知したのか、
「マジなのかよ……」
「高校の終わりにさ。僕の名前が書いたメモ書きがあったって言ったよな」
「ああ。なんかそんなことあったな。りゅうすけって書かれてたあれだろ。覚えてるよ。それがどうかしたのか」
「同じようなメモ書きがさ。僕がよく行くパチンコ店の台にも置いてあってさ」
「ていうか、隆介パチンコしてるのかよ。イメージ違うよな。優等生のイメージがあったのに」
メモ書きより僕がパチンコをしていることに興味を持っていた。
「茶化さないでくれよな。脅しの文句が入ったメモ書きが書かれてたんだ。〈お前を見ているぞ〉って……」
「えっ?お気に入りのパチンコ台奪われて腹立った酔っ払いのおっさんが書いただけじゃないのか」
確かにそれだけの説明だけじゃ警察はおろか同級生の直人でさえそう思われてしまうのも仕方がない……。
「隆介さ。俺たちより先に社会人になって働いているからさ、きっと疲れてるんじゃないのか。ストレスもあるだろうし」
「お婆さんの絵覚えてる?」
これ以上茶化されたくなかったため覆いかぶさるように声を出した。
「え?ああ、いつかの個展で隆介が関心を持ってた気持ち悪い絵のことか、たしか誰かに盗まれたんだよな。その犯人と今回が同じだってか、おい。それは出来過ぎた話だぜ」
「あの老婆が僕に何か訴えている気がして……」
小刻みに震える僕を見て、
「わかったよ。今の状況だけじゃ何のことか正直わからないけど何かあったら力になるよ」
「何かあったらって。もうなってるでしょ……。だからさ……」
「だから?」
不思議そうな目で直人は見てきた。
「直人さ。もしよかったらさ。何日か僕の家にいてくれない?」
それを聞いた直人もびっくりしたみたいだった。
「僕、今一人暮らしだし。親もいないし、宿泊代もとらないしさ」
続けざまに僕は喋った。
「でもいいのかよ。久しぶりにあった同級生を泊めるようなことして。女を連れ込むこともあるかもしれないぜ」
「はあ?何言ってんだよ。そんなことあるのか?仮にそうなった時はその時だよ」
「はあ?意味わかんねー」
おそらく大学に進んでいたら絶対言わないような言葉を言ってしまっていた。
「そこまで不安なんだな。わかったよ」
直人は今、大学も暇なので何日かはわからないがしばらく泊まってくれることになった。
「それにしても隆介。見覚えはないのかよ」僕の家だというのにリビングで胡坐をかき
ながら言ってきた。まあこんな状況でもそれ
はそれである意味安心するのだが。
「もう一度、整理し直したらどうだ。そもそも事件は高校の時、二人で見に行った個展まで遡るんだろう。でなんだっけ、隆介宛てに変なメモ書きが残されてて、お婆さんの絵も盗まれてて……」
と、一瞬沈黙になると思いきや、
「それもこれも全部僕の遠い過去の家族間事件に関係あるんだよ。きっと……」
無意識に僕の口は動いてしまっていた。直人は眉間にしわを寄せながらおぼつかない顔をしていた。まるで探偵かのように。
「やっぱり怪しいのはパチンコ台にメモ書き置いていった奴だろ。きっとそいつが全部やってきたんだろ。きっと……。隆介の義弟だったっけ」
「義弟じゃないよ。親戚にはあたるけど。でも優太がそんなことするなんて。僕のことそんなに恨んでたのかな……」
「そんなのわからないぜ。人間て奴はどこでどう思われてるかなんて……。自分では正直もんでいい奴だって思ってても、他人から言われてハッと気づくこともあるぜ。俺ってそういうふうに思われてたんだ。そこで自分の人格形成がされていくこともあるのかも……」
なんか久しぶりに直人から真面目な回答を得た気がした。と同時に頭の中で寂しく切ない不協和音とも言えるピアノの旋律が流れていた……。
「暗い話ばかりしてたら気分が落ち込むだけだから明るい話しようせ。そういや陸上部のときのメンバーと近いうちに会うことになってるけど隆介も一緒に来ないか?この前も隆介の話題が出てきたし」
落ち込んでばかりじゃだめだし、なんとか明るくしようとしてくれる直人の親切心から
一緒に行くことになった。
僕の地元は愛知県の郊外で田舎とまではいかないが決して都会とは言えない小さな町に住んでいた。地元の公立高校の陸上部に所属しており走り幅跳を競技種目としていた。
その時の陸上部のメンバーはそれぞれ地元を離れて関西方面や福岡や北陸方面とバラバラだったが、みんな懐かしい気持ちが芽生えていたのか地元に集まってくれた。もちろん直人も参加していた。
地元の居酒屋に10人ほど集まり、僕が店に入るなり、
「りゅうちゃーん、久しぶり。元気だった!」
と、温かく迎えてくれた。
近況報告や恋話など話題は尽きることはなかった。できる限り明るく振舞っているつもりだったが、たまに向こうの座席に座っている直人と目と目が合った瞬間、その直人の顔が何かを訴えているかのように思え、不安感は拭えなかった。本当は楽しいはずのこんな状況でも何かヒントになることがないか模索し続けていた。その時、
「あの事件の犯人捕まったらしいよ。個展で絵が盗まれたあの事件あったじゃん」
と、僕に話しかけてきた。
彼女は結子といって陸上部では二百メートル走をしていた子だ。愛知県内の大学に進学したため地元の情報にはいち早く把握していた。僕が地元就職だったのを知っていたため、当然、その事件のことは知っていると前提で話してきたのだ。
「犯人は僕たちより年下の男性だったみたいよ。北海道出身だったみたい」
それを聞いた瞬間、一気に不安が解消された気がした。優太は愛知出身だし、北海道に引っ越ししたこともない。
「へえ。そうなんだ」
優太じゃないことを知って急に他人事のように返事した。と同時に別の新たな不安感が襲ってきた。じゃあ、あのメモ書きは誰の仕業だろう……。
急に辺りをきょろきょろ見渡した。こうしている間にも誰かに見られている。そんな気がした。
「大丈夫か」
直人が心配そうに話しかけてきた。
「今、隆介、顔に犯人探してますって顔に書いてるぞ」
少しトーンは低めだがいつものように直人がからかってきた。
「とりあえず優太が今、何をしてるのか親戚のおばさんに聞いてみようかな……」
と、僕は呟いた。
週明けに僕は久しぶりに親戚のおばさんとおじさんに連絡してみることになった。僕は愛知出身だが、親戚の家は岐阜にある田舎の町だった。そこで高校卒業まで大事に育ててくれていた。行かなかったのに大学受験もさせてもらったのだ。
「もしもし、私。隆介です。お久しぶりです」
本当に五年以上経つので敬語になってしまっていた。
「えっ。隆介ちゃん。久しぶり。元気だった」
相変わらずおばさんは温かい返事で答えてくれた。
「元気だよ。おじさんや優太くんは元気ですか?」
一瞬ためらいがあったようにも思えたが、
「優太はね。高校卒業して大学はいくつか受験したんだけど、失敗してね。今は部品工場で働いてるよ。あの子、隆介ちゃんと違って勉強まるっきりできなかったからね……」
別にそこまで聞いたわけじゃなかったので少し気まずくなりそうな感じがした。
「おじさんは?」
さっきのためらいはこのことだったのか、
「隆介ちゃんがいなくってから急に腎臓を悪くして、今は病院で入院してるんだよ……。優太も心配して病院に見舞いに行ってるよ」
そうなんだ。知らなかった…。
「体の具合は?」
「久しぶりの電話なのに言いにくいんだけど、病気が進行しててあまり先は長くないかもしれないの……」
おばさんは包み隠すことなく話してくれた。心配になった私は今度の日曜日におそらく優太も見舞いに来るだろう時間をあらかじめおばさんに聞いたうえでおじさんが入院している病院に行くことになった。病院はなだらかに駆け上がっていく山が連なる斜面の上にあった。愛知と岐阜のちょうど境目にある場所でおばさんの家の近くにある駅から電車に乗り、三か四駅くらい先だったか、その駅に降りてそこから約一時間刻みの循環バスに乗った。病院が終点らしい。でもなんかこの病院には昔行ったことがあるような気がした。駅降りてすぐの停留所も今走っている周りの山々の風景もなんか見覚えがある……。
その時、一瞬昔の過去が頭をよぎった。命からがらで逃げ惑う私、サンダル姿でこの山道を夢中で走っていたような……。いや、そんなことしているわけがない。第一、こんなところまで行く用事はなかったはずだ。私の本当の家族とも親戚のおばさんたちとも……。そんなことをずっと考えながら病院まで続くバスはひたすら山道走っていた。三十分ほどかけて病院に到着した。『こもれび総合病院』
と、書いてあった。
「こもれび。なんかデイサービスとか老人施設みたいな名前だな」
そう思った矢先、その建物に隣接してデイサービスがあり、その一階のガラス越しで高齢者の方がリハビリサービスを受けたり、椅子に座って何かを飲んでいる姿が目にとまった。
おじさんは病院の三階、三百七号室だったか。電話での情報を頼りに僕は病院の中に入っていった。病院の受付を過ぎてしばらくすると小さなエレベーター専用のコーナーが見えた。エレベーターは二つあり、どちらに乗ればよいかわからなかったが、とりあえず左側のエレベーターに乗ることにした。エレベーターの扉が開くのを待っていると後ろから声がした。
「隆介兄ちゃん……」
そう聞こえた。少し戸惑いを感じるような震える声だった。後ろを振り向くと男性が立っていた。
優太だ。五年以上会っていないうちに背も伸びていた。ただ顔は少しやつれているようにも見えたが。
「優太。久しぶり。元気だった?」
私の本人かどうかを確かめるため、戸惑いながら話しかけた。
「久しぶり……」
あまり元気がないように見えたが返事をしてくれた。
「誰かのお見舞いにきたの?」
優太が話しかけた瞬間、被せるように
「おじさんの具合は?大丈夫なの?」
と、聞き返した。
優太も私が、自分の父親の見舞いに来てくれたのだと察知したみたいで、
「あまりよくないんだ。腎臓がんで。他にも肝臓とかにも転移してるんだ…」
か細い声で答えた。
「そう……」
僕は力をなくしたように呟いた。
エレベーターの扉が開くなり二人はその中に入った。エレベーターの中は私と優太、それと車椅子の老人が乗り、三階までに着くまで無言の状態だった。私は元気だったおじさんの顔しか浮かんでこない。今はどんな顔しているのかな。病室まで不安で仕方なかった。
三百七号室の病室につき、一番奥の壁側のベットに向かった。すると細くなった男性が仰向けになって寝ていた。
おじさんだ……。ただ、僕がイメージしていたものとはかけ離れていた。顔のこけも痩せていて髪の毛は抜け落ちていた。
僕は悲しくなった。こんなにも人間は変わってしまうのだと……。たぶん、毎日見舞いに行っておじさんの姿を見ていたらそこまで変化に気が付かずこんな気持ちにはならなかったのかもしれない。五年という僕の知らない失われていった歳月の残酷さを感じた。
おじさんはさっきまでは起きていたが寝ているようなので病室から離れ、休憩コーナーで優太と話すことにした。
自動販売機でペットボトルのコーヒーを買い真ん中のテーブルに二人は座った。休憩コーナーには他には誰もいなかった。
「隆介兄ちゃん。ほんと久しぶりだね。今までどうしてたの?いきなり見舞いにきてくれたからびっくりしたよ」
僕はとりあえず本題には触れず、
「ちょっとね。なんか急にみんなの声や顔を見たくなったから、どうしてるのかなって……」
「ふーん。そうなんだ」
優太は高校卒業して大学受験を何校か受験したが上手いこといかず地元の部品工場に就職した。普段扱うことのない機械の取り扱いや動作チェック、管理をしなければならない、また仕事をするうえでいろいろな資格の取得や講習を受けないといけない話をしてくれた。僕が高校生や中学生だった時の優太のイメージとは違っていた。あの頃はなんか今より暗かった。思春期だったこともあるかもしれないが、もしかしたら僕の存在が優太にとって邪魔だったのかも。もし僕なんかが親戚に居候することがなかったら。もっと優太はのびのびと暮らせていたのかも……。なんか罪悪感すら感じてしまっていた。でも今の優太はなんか生き生きしていたのでそれがなんか嬉しかった。
〈あの犯人が優太なわけない〉
僕は優太に対して今まで以上の罪悪感を感じた。早く優太じゃないことを確信させたかった。
「ねえ。優太。優太って暇なとき個展見に行ったり、パチンコ行ったりする?」
あまりに唐突で変な質問だったので、優太の顔の表情の変化がすぐわかった。
「えっ。なんで?行かないけど、いきなり何?」
「いや、気にしないで。聞いてみただけだから……」
「でも気になるよ。隆介兄ちゃん、絵は好きだった記憶あるけどパチンコに行ったりするの?」
「いや、まあたまにね。働いてたらむしゃくしゃするときあるじゃん」
適当に私は話を流した。
「まあでも、人間関係いろいろあるもんなあ……」
優太自身も働いているので何かしら共感していた。
優太じゃないのか、じゃあ誰が……。
不安は募るが顔には出さないようにした。
すると向こうからトットッと靴音が聞こえてきて、
「三百七号室のご家族の方ですか?目を覚ましたようですよ」
おそらく新人っぽい女性看護師が休憩コーナーに座る僕たちに声をかけてきた。
「行こうか。今日はこれが隆介兄ちゃんの目的なんだろう」
急に勇ましい声になった優太に合わせて席を立った。
病室に入るなりおじさんの目と僕の目は合い、
「隆介ちゃん。久しぶり」
できる限り力強い声を出して明るく迎えてくれた。本当はしんどいはずなのに……。
おじさんは僕たちの思い出話だけではなく自分の昔の話をしてくれた。僕が一緒になったときはすでに民宿を経営しておりその姿はは知っているが、親から事業を引き継ぐ前は証券会社に勤めていたらしい。
話が終わりに近づいてきて、僕がそろそろ帰ろうという間際になって、おじさんは突然ひっくり返った。僕はその時書物や衣類を詰め、旅支度をしていた。おじさんは病院の浴室に入ったところであった。おじさんの背中を流していた新人看護師が大きな声を出した。僕が駆けつけた頃には、おじさんは裸のままその看護師に抱かれて運ばれていた。それでも、病室へ連れて戻った時、おじさんはもう大丈夫だと言った。念のために枕元に座って、濡手拭でおじさんの頭を冷やしていた僕は、十時頃になってようやく形ばかりの夜食を済ました。
翌日になるとおじさんは思ったより元気が良かった。止めるのも聞かずに歩いてトイレへ行ったりした。
「もう大丈夫」
おじさんは昨日倒れた時に僕に向かって言ったのと同じ言葉をまた繰り返した。その時は、口で言ったとおり大丈夫そうに見えた。しかし、僕はまた同じようなことが起こるかもしれないと思った。ただ医者は用心が肝要だと注意するだけで、念を押してもはっきりしたことを話してくれなかった。僕は不安が残り、出立の日が来てもついに愛知へ立つ気が起こらなかった。
「もう少し様子を見てからにしようか」
と、僕は優太に相談した。
「隆介兄ちゃん、そうしてくれたら嬉しい」
と、優太が頼んだ。
「隆介ちゃん、今日愛知へ戻るはずじゃなかったのか」
と、おじさんが聞いた。
「ええ、少し延ばしました」
と、僕が答えた。
「俺のためにかい?」
と、おじさんは聞き返した。
僕はちょっと躊躇した。そうだと言えば、おじさんの病気の重いのを裏書きするようなものであった。僕はおじさんの神経を過敏にしたくなかった。しかし、おじさんは僕の心をよく見抜いているようだった。
「気の毒だね」
と、言って窓の外を向いた。
僕の荷物は放り出された状態ではあったが、いつ持ち出しても差し支えなかった。僕はぼんやりその前に立って、再び書物や衣類を出し直そうかと考えた。
僕は座ったまま腰を浮かした時の落ち着かない気分で、また二、三日を過ごした。すると、おじさんがまた卒倒した。医者は絶対に安臥を命じた。
「どうしたらいい……」
と、優太がおじさんに聞こえないような小さな声で僕に言った。優太の顔はいかにも心細そうであった。しかし、寝ているおじさんには、ほとんど何の苦悶もなかった。話をするところなどを見ると、風邪でも引いた時と全く同じような状態であった。その上、食欲は普段よりも進んでいるらしかった。周りが心配しても、全然言うことを聞かなかった。
「どうせ死ぬんだから、美味い物でも食べて死なないとな」
僕には美味い物というおじさんの言葉が滑稽にも悲酸にも聞こえた。おじさんは美味い物を口に入れられる都会には住んだことがなかったのである。
「どうしてこう喉が渇くのかね。やはり心に丈夫ところがあるのかもしれないな」
おじさんは病気の時にしか使わない「渇く」という昔風の言葉を、何でも食べたがる意味に用いていた。
おじさんは死病にかかっていることをとうから自覚していた。それでいて、眼前に迫りつつある死そのものには気が付いていなかった。
「治ったらもう一度東京へ遊びに行ってみよう。人間はいつ死ぬかわからないからな。なんでもやりたい事は、生きてるうちにやっておくに限る」
「その時は僕も一緒に連れて行っていただきます」
僕は仕方なしに調子を合わせていた。
「俺が死んだら、どうか珠代や優太のことを大事にしてやってほしい。隆介ちゃん、あんたがいなくなるとまた寂しくなる。俺も体さえ達者ならいいが、この様子じゃいつ急にどんなことがないとも言えないからな」
珠代とは僕のおばさんのことである。
「そんな弱いことをおっしゃらないでください。治ったら東京へ遊びに行くはずじゃありませんか。おばさんと一緒に。今の東京は町も人も景色が変わっていますよ。電車の新しい線路だけでも大変増えていますからね。電車が通るようになれば、自然と街並みも変わるし、そのうえに市区改正もあるし、東京がじっとしている時は、まあ二六時中一秒もないと言っていいくらいです」
僕は仕方がないから言わないでいいことも喋ってしまった。ただ、おじさんは満足らしくそれをじっと聞いていた。
おじさんは医者から安臥を命ぜられて以来、両便とも寝たまま他人の手で始末してもらっていた。潔癖なおじさんは、最初の間こそ甚だしくそれを忌み嫌ったが、体がきかないので、止むを得ず嫌々床の上で用を足した。それが病気の加減で頭がだんだん鈍くなるのかなんだか、日が経つにしたがって、不精な排泄を意としないようになった。たまには布団や敷布を汚して、周りが眉を寄せるのに、当の本人は返って平気でいたりした。最も尿の量は病気の性質として、極めて少なくなった。医者はそれを苦にした。食欲も次第に衰えていった。たまに何か欲しがっても、舌が欲しがるだけで、喉から下へはごくわずかしか通らなかった。好きな新聞も手に取る気力がなくなっていた。枕のそばにある老眼鏡は、いつまでも黒い鞘に納められたままであった。
おじさんの病気は最後の一撃を待つ間際まで進んで来て、そこでしばらく躊躇するように見えた。周りは運命の宣告が、今日下るか、今日下るかと思いながら、毎夜床に入った。僕はおじさんの付き添いのため、病院にある仮眠室を用意してもらえることになった。
おじさんは周りの人間をつらくするほどの苦痛をどこにも感じていなかった。その点になると看病はむしろ楽であった。用心のために、誰か一人ぐらいずつ代わる代わる起きてはいたが、残りの者は相当の時間に銘々の仮眠室へ引き取って差し支えなかった。何かの拍子で眠れなかった時、病人のうなるような声を微かに聞いたと思い誤った私は、一度だけ半夜に床を抜け出して、念のためおじさんの枕元まで行ってみたことがあった。その夜は優太が起きている番に当たっていた。しかし、優太はおじさんの横に肘を曲げて枕としたなり寝入っていた。おじさんも深い眠りのうちにそっと置かれた人のように静かにしていた。僕は忍び足でまた自分の寝床である仮眠室へ戻った。
僕は優太と一緒に仮眠室で寝ることになった。優太と床を並べて寝る僕は、こんな寝物語をした。優太の頭にも僕の胸にも、おじさんはどうせ助からないという考えがあった。どうせ助からないものならばという考えもあった。僕はある意味、子として親の死ぬのを待っているようなものであった。しかし、僕も優太もそれを言葉の上に表すのをはばかった。そうしてお互いにお互いがどんなことを思っているかをよく理解し合っていた。
「お父さんは、まだ治る気でいるのかな」
と、優太が僕に言った。
実際、優太の言う通りに見えるところでもないではなかった。近所の人が見舞いに来ると、おじさんは必ず会うと言って承知しなかった。その代わり自分の病気が治ったらというようなことも時々付け加えた。
僕と優太はそれほど仲がいいわけではなかった。しかし、久しぶりにこう落ち合ってみると、まるで兄弟のような優しい心持ちがどこからか自然湧いて出た。場合が場合なのも大きな原因になっていた。僕たち二人にとって大切な存在であるおじさんが死のうとしている枕元で、僕と優太は握手したのであった。
「優太はこれからどうする?」
と、僕は聞いた。僕は全く見当の違った質問を優太に投げかけた。
「一体、家の財産はどうなるんだろう」
「僕は知らないさ。おじさんは何も言わないからな。そりゃあ普通に考えたら優太が引き継ぐんだろう。しかし、まあ財産っていったところで金としては高が知れたものだろうなあ」
優太からは真剣に相談を受けたのではあるが、それが逆に一種のエゴイズムのような側面を持ち合わせていると感じてしまうのだ。そのまま優太と今後の話をしながら夜を過ごすことになった。
おじさんの病気は、ただ面白くない方へ進んでいるのはわかっていた。介護休暇という名目ではあったが、何だかんだで二週間以上も仕事を空けてしまっていたので、僕はそろそろ愛知へ帰る決心をしなければならなかった。
「隆介ちゃん、ありがとう」
そう言うやおじさんは眠りについてしまった。ただ僕としてはおじさんの最後の言葉を聞いたような感じがした。
病院の入り口まで優太が見送りをしてくれた。
「隆介兄ちゃん、今回は本当にありがとう」
「優太も元気でな」
そのまま愛知へ立った。後で聞くことになったのが、僕が帰ってから五日後おじさんは亡くなった。
お葬式にも参列した。おばさんが泣きながらおじさんの遺影を握り締めていたのは強く印象に残った。その時、生前のおじさんが言っていた「俺が死んだら」という言葉を思い出した。人間というものは他人から言われなくとも自分の体のことは自分が一番わかっているのかもしれない、そんな風に感じていた。おじさんを失ったことを機に、「死」について深く考えるようになった。過去にも父親が家族巻き込んで無理心中をはかった後、逃げてきた僕は一度だけ自殺をはかろうとし、死ぬ直前までいったことがある。小さなナイフで手首を切ろうとしたが、悩み抜いた挙句、結局できなかった……。いざその瞬間になった際、母親と兄の面影がふわりと出てきたからだ。「最後まで生きなさい」そう言われているように感じてしまった……。
その後、僕は死んだつもりで生きていこうと決心した。誰かに何を言われたって気にしない。所詮自分の心持ちなんて一生不安なものと開き直っていた。時々、外界の刺激で躍り上がることもあった。しかし、僕がどこかの方面へ切って出ようと思い立つや否や、それを阻止すべく恐ろしい力がどこからか出て来て、僕の心をぐいと握り締めて少しも動けないようにするのである。そうしてその力が僕にお前は何をする資格もない奴だと押さえつけるように言って聞かせるのだ。すると、僕はその一言ですぐぐたりとしおれてしまうのだ。しばらくしてまた立ち上がろうとすると、また締め付けられる。僕は歯を食いしばって、何で人の邪魔をするんだと怒鳴りつける。不思議な力は冷ややかな声で笑う。自分でもよく知ってるくせにと言う。私はまたぐたりとなる。
波乱も曲折もない単調な生活を続けてきた僕の内面には、常にこうした苦しい戦いがあったのだ。僕がこの心の牢屋の内にじっとしていることができなくなった時、またその牢屋をどうしても突き破ることができなくなった時、畢竟僕にとって一番楽な努力で遂行できるものは自殺より他にないと何度考えたことだろう。いつも僕の心を握り締めに来るその不思議な恐ろしい力は、僕の活動をあらゆる方面で食い止めながら、死の道だけを自由に僕のためにあけておくのである。動かずにいればともかくも、少しでも動く以上は、その道を歩いて進まなければ僕には進みようがなくなるのだ。
しかし、本当に死にたくなった時にふと僕の前に現れるのだ。
「最後まで生きなさい……」
母親と兄の面影が何度も僕を救ってくれた。
そのまま「りゅうすけ」のメモ書きの犯人も見つからないまま、時が過ぎていった。
それから数年が過ぎ、メモ書きの件は遠い過去になっていった。あの後、心にすっぽり穴が空いてしまい、役所仕事にも嫌気がさして市役所を退職し、今や僕は売れない絵描きになっていた。もしかして昔見たあの老婆の絵がそうさせたのかもしれない……。これまでもあっちへ行ったりこっちへ行ったりと定まらない行動をする風来坊のような生活をしていた。今はこの山間の小さな村で下宿生活をしながら落ち着いているわけではあるのだが……。
「おはようございます……」
僕は階下へ下りて行くと、この家の主婦へ挨拶した。
「どうも……朝ご飯の仕度があります」
と、主婦は会釈を返した。
「恐縮です……」
僕は、重いバッグを玄関の上り口へドサッと置いて、
「……いい匂いだ」
味噌汁がプンと匂って、お腹を刺激した。
……二階建てといっても、都会の二階建てとは広さが違う。
どっしりとした柱、広い廊下。
建ってから何十年経つのか。……その二階に、僕は下宿していた。
「……どうぞ」
この家の主婦が、ご飯をよそってくれる。
「いただきます」
漬物、焼魚の焦げた匂い。
「お楽しみですね」
「いや、もう忘れられてるかもしれません」
と、僕は言った。
もちろん、冗談のつもりで言ったのだが、冗談に聞こえなかったのかもしれない。
「本当にご苦労様でした」
と、頭まで下げられ、僕は焦った。
「奥さん……。お礼を言うのは僕の方です。まさか、こんなに長くなるとは思いもしませんでした。嫌な顔一つ見せず、あれこれお世話下さって……」
「もう……五年ですものね」
「五年か……」
意味のない言葉だが、どう言ってみたところで、今の僕の気持ちを言い表すことはできないだろう。
「初めは一年のはずだったのに。たぶん、一年やそこいらは延びるだろうと思ってましたが、まさか五年とは……」
「……さ、召し上がってください。バスに遅れると、大変ですわ」
「はあ……」
ふっくらと炊けたおいしいご飯だ。
「奥さんも召し上がってくださいよ。いつも気が引けて。僕一人で食べているんじゃ」
と、僕は言った。
「お客様と一緒に食べるわけにはいきません」
「お客様なんて……ただの下宿人ですよ、僕は」
「いえ、私にとってはお客様なんです」
僕は笑って、
「頑固だな、奥さんは」
と、言った。
この家の主婦……柴田妙子は、微かに笑みを浮かべた。
……もう五年経つのだ。事情は話し始めれば長くかかってしまう……いつの間にか五年も、この小さな村に居続けることになってしまったのだ。
その間、一度も家に戻っていない。この「休暇」は、実に五年ぶりのものだったのである。
「……奥さん、ご馳走様でした」
と、僕は箸を置いた。
「お粗末様でございました」
柴田妙子は食事の後、必ずこう言う。小柄だが、骨太な感じの、がっしりした体格の女性である。寒さのせいで、頬は赤く、丸い顔はリンゴのようだが、生来のおっとりした人柄が、その穏やかな笑顔に出ていた。
「もう、お出になった方が」
「ええ。……奥さん。それでは、そろそろ……」
「そうですか。お気をつけて」
「今までありがとう」
「こちらこそ今までありがとう。一生忘れません。南本さん、お元気で」
妙子は、頭を下げた。
僕は、バス停への山道を辿って行った。……空気が冷たい。十月の半ばは、もう初冬の寒さである。
しばらく行って振り返った僕は、妙子がまだ玄関先に立って見送っているのを見て、びっくりした。
手を振ろうと、バッグとビニール袋を一方の手に持って、高く手を上げた。
すると……妙子の方も手を振ったのである。
五年間で、初めてのことだった。
いつもと違うことは決してしない。
そう心に決めていた僕だが、つい、手を振ってしまった。妙子は、姿が見えなくなるまで見送ってくれていた。
「人生のリスタートだ」
と、口に出して呟いた。
バス停まで来て、僕はホッと息をついた。あと十分はある。
こんな山奥でも、バスの運行は大体正確である。
それにしても、ヨーロッパ、アメリカだって、飛行機なら十二、三時間で着くというのに、山奥とはいえ日本の中で、東京まで丸一日かかっても着かないというのもひどい話である。
実際、僕はここへ戻る気はなかった。
東京へ帰ったら、上司に談判し、何としても、都内の勤務にしてもらう。どうしても聞いてもらえなければ、会社を辞めてもいいとまで思っている。
そうだとも。……これ以上我慢する必要なんかあるものか。あと五分。
バスが珍しく、少し早めにやって来るのが見えた。
バスが停り、荷物を手に乗り込むと、
「やあ、旅行かね」
と、運転手が言った。
むろん、顔なじみだ。
「いや、東京へ戻るんです」
「ほう。じゃ、やっと帰れるってわけか」
「ええ、そうなんですよ」
と、運転手は肯いて言った。
バスが動き出す。……僕は、他に数人の客しかいないバスの中を見回して、早くあの東京のラッシュアワーの電車に乗りたい、とさえ思ったのだった……。
その頃、山の中へと上る細い道を、息を弾ませながら上っていくセーラー服の少女がいた。
山道には慣れているとはいえ、この上りはかなりきつい。
それでも、右手に学生帽、左手に紙袋をさげて、せっせと顔を真っ赤にして上っていく様子は楽しげですらあった。
「……着いた!」
と、少女は言った。
そのプレハブの小さな小屋は、僕の「仕事場」である。
少女は、ドアの所まで行って、足を止め、
「……うそ!」
と、言ってしまった。
貼り紙がしてあった。
「十五日より二十四日まで、閉鎖いたします。万一、急な用がおありのときは下記番号までお電話ください……」
「どうして?」
と、思わず声を上げる。
十日間も。……少女、大神犬子は、僕がこの前、口にしていたのを思い出した。
「今度休暇が取れるかもしれない」
犬子は、今までも何度かそんなことを聞いていたので、
「じゃ、近くの温泉にでも連れていってあげようか?」
と、言ったものだ。
でも……本当だったんだ!
「十日間だ」
「十日間も?」
諦めきれずに、窓から薄暗い中の様子を覗いたりして、それから犬子は道を下って行った。犬子の紙袋の中には、手編みのセーターが入っていた。犬子が、僕のために三か月かけて編んだものだ。昨日、やっと仕上がった。それを届けようと、今日はいつもより少し早く家を出た。週に一度、僕は朝早くから出ていたのである。それなのに……。
よりによって今日から十日間!
「仕方ないなあ……」
でも、十日すれば帰ってくる。十日なんて、すぐだ。
自転車を置いた場所へと戻りながら、
「南本さんの馬鹿!」
と、文句を言った。
「帰って来たら、とっちめてやる!どうして黙って行っちゃったのよ、って」
犬子は足を止めた。
帰って来たら?……いや、そうじゃない。
僕にとっては、今、帰っていくところなのだ。
で、もし……もし、それきり、ここへ来なかったら?
少女の直感は、僕が何も言わなかったのも、ここに戻る気がないからだったと見抜いていた。
「いなくなっちゃう?南本さんが?」
しばらく、犬子は呆然と立っていた。
十六歳の犬子は、付き合いが長いので、僕をよく知っていた。だから、僕は「ここの人」なのだと思っていたのだ。
むろん、色んな事情は聞いていたが、それでも、毎日、僕の顔を見られるという「日常」が変ることはないと思っていた……。
それが今、突然……。
「いやだ!」
と、犬子は叫んだ。
「そんなの、いやだ!」
今日発つとすれば、今バスに乗っているころだ。駅まで出て、そこから列車で行く。他に方法はない。
「逃がさない!」
犬子は、鞄と紙袋を手に、スカートを翻して、猛然と走り出した。
逃がすもんか!……あの人について、東京まで行くんだ!
一瞬の内に、十六歳の少女は、家出と一方的ではあるが駆け落ちを決心したのである。
自転車の籠に鞄と紙袋を押し込むと、ペダルを踏んだ。
……犬子は、この山間の家から、駅まで自転車で出て、J市の高校へ通っている。片道一時間半かかるが、それでも町へ出るのは楽しかった。
でも、今はそれどころじゃない。
「南本さんに追いつけ!」
犬子は必死でペダルを踏んで、駅へと向かった……。
「じゃ、達者で」
バスを降りるときは、運転手が声をかけてくれた。
「どうも」
僕は、軽く会釈して、荷物を手に駅の方へと歩いて行った。
列車の時間に変りないことを確かめると、先に切符を買った。
ここから列車だけで東京へ帰れるわけではない。……先は長いのである。
列車が来るまで四十分以上あった。
駅前にも、土産物屋の一軒もない。
僕は、駅の待合室へ入っていようかと思ったが、何しろ五年間いたので、知っている顔がいくらもいる。
待合室で、いちいち話しかけられて説明するのも煩わしい。
駅前に、古ぼけた喫茶店が一軒だけある。
前まで行ってみると、「営業中」となっている。
ドアを開けて、
「こんにちは」
と、声をかける。
カウンターの中には誰もいなかった。
「留守かな?……ま、いいや」
どうせ客はいない。ソファに座って、もしこのまま誰も出て来なくてもいい、と思っていた。大したコーヒーが飲めるわけじゃないのだから。
「……この喫茶店も、よく通った」
会社へ連絡しようと思うと、この駅前へ出てきた方が早いのだ。電話もファックスも、駅前のコンビニで使える。
コンビニも、できたのが三年前。
僕は、都会の暮しが身近になったようで、そのときは感激したものである。
「……五年か!」
長かった。……全く、会社の方は変えるのが面倒なのだろうが、こっちはたまったもんじゃない。
従姪の千秋は、十二歳から今、十七歳になっているのだ。
……あの高校生、大神犬子と仲良くなったのも、千秋の成長を見ているような気がしたからだった。
あの子にも何も言わずに来てしまったが……。
大丈夫。十代には、もっと色んなことがある。僕のことなんか、すぐ忘れるさ。
犬子が自分に憧れのような思いを持っていることは、僕も気づいていた。
それはおそらく、僕を通して、「東京」という「夢」を見ていたのである。
「東京の大学へ行く!」
と、犬子が言い出したのも、きっとそのせいなのだろう。
しかし、犬子の家に、そんな余裕がないだろうということは、僕も知っていた……。
……僕は、カウンターの中に、いつの間にかここの奥さんが立っているのを見て、びっくりした。
「あ、どうも」
と、僕が言うと、まるで初めて気づいたとでもいうように、
「いらっしゃいませ」
と、言った。
「列車を待っているんです」
と、僕は行った。
「コーヒーをいただけますか?」
「はい」
奥さんは、サイフォンをセットした。
そして、僕の荷物を見ると、
「東京へ?」
「ええ。久しぶりに帰ることになりました」
「まあ、そうですか」
と、微かに微笑んだ。
「良かったですね、それは」
「何しろ、家族とも全然会ってないもんで……」
と、僕は言った。
「もう戻って来ないんですか?」
「たぶん……。いや、ここものんびりしていい所ですがね」
「ここが?」
と、奥さんは聞き返して、ちょっと笑った。
「こんな所のどこがいいんです?」
そう言われると、僕は答えに困る。
「ごめんなさい、妙なことを言って」
コーヒーが入ると、
「……どうぞ」
「……どうも」
僕は、奥さんの手を見て、
「怪我でもしたんですか?」
「え?」
「血がついていますよ」
「ああ、これ。……さっき鼻血が出て……。ごめんなさい」
「いえ」
「はい、クリームと砂糖」
と、テーブルに置くと、
「南本さん!」
「何か?」
「私を東京へ連れて行ってくれませんか?」
僕は唖然としていた。
「ごめんなさい!冗談よ!」
「びっくりさせないでください」
と、言うと、僕はコーヒーをブラックのまま飲んだ。
おいしかった。……こんなに旨いコーヒーを、この店で初めて飲んだ、と僕は思った……。
「よし!これだ」
と、僕は言った。
「一応ホテルってなってるね」
と、犬子は肯いて、
「でも、いいの?」
「君に聞かれるんじゃ、あべこべだな」
……僕たちは、もう足が鉛のように重くなって、これ以上歩けない状態だった。いくら元気な犬子でも、もう限界そうであった。
「……たぶん、国道の近くにこういうホテルがあると思ったんだ」
僕は、恋人たちがドライブの帰りに寄ったりする、この手のホテルなら大丈夫と思ったのだ。
「よく知ってるね。いつも利用してたの?」
と、犬子は言った。
「おい、犬子ちゃん……車を運転してりゃ、目に入る。利用してなくたって、わかるよ」
と、僕はため息をつきながら言った。
「どうでもいいけど、入るのなら早く入ろう」
「そ、そうだな」
二人は、けばけばしいネオンが埃でくすんでいるそのホテルへと入って行った。
フロントには人の姿がなく、手で押すベルが置いてあって、「ご用の方は押してください」という札が添えてあった。
僕がベルを鳴らすと、
「はい……」
と、眠そうな顔の中年女が出てきた。
「一部屋頼むよ」
と、僕は言った。
「お二人?」
と、女が、僕の影に隠れるようにして立っている犬子を覗くようにして見た。
「ええ、二人」
「二時間?それとも泊まるの?」
「泊まる」
「じゃ、二万円」
僕は目を丸くして、
「ちょっと高いんじゃないか?表には……」
「人によるわよ」
「そんな金持ちに見えるか?」
「女子高生が相手となると、法律がうるさいの。こっちがとばっちり食うと困るんでね。それでいやなら、やめときな」
仕方ない。……僕は二万円を出して、
「領収書はくれないんだろ」
と言ってやった。
「はい。二百四号室」
と、ルームキーをくれる。
「ちゃんと返してってよ。何時までいていいんだい?」
「十時」
「じゃ、十時だ」
「そう。……あんた、学校をサボって、こんなおっさんと遊んでちゃ駄目だよ」
お説教されて、犬子は少し赤くなった。
二人はルームキーを手に、エレベーターで二階へ上がった。
「何だか、凄く恥ずかしい」
「我慢してくれ。こういう所の方が案外怪しまれなくてすむ」
「私はいいの。でも……南本さん、気の毒だと思って」
「仕方ない」
と、僕は苦笑した。
二人は二百四号室の鍵を開けて中へ入った。
「わあ、大きなベッド」
と、犬子が声を上げる。
とにかく、部屋のほとんどの空間を、ベッドが占めていると言っても良かった。
二人は、巨大なベッドの両端に腰をおろし、しばらくぼうっとしていたが、犬子が服を脱ぎ出したので、僕はヌードデッサンにとりかかった。
そして、少しゆっくりしてからホテルを出た。
「それらしい男は乗っていません」
と、警察官がパトカーの無線機で連絡している。
「ちゃんと見たのか?」
と、不機嫌そうな声が聞こえる。
「見ました。二十代の女というのは見当たりません。何ならもう一回見ますか?」
と、警察官は言った。
「もういい。戻って来い。もう一度確認する。別の列車かもしれない」
「了解」
無線機を切って、警察官は仲間に、
「大方、列車を間違えてるのさ。お偉いさんはいいよ。間違えたって、俺たちに一言だって謝らなくていい」
「そうだよな。現場で何かトラブルが起これば、文句言われるのは俺たちだ」
ぶつぶつ言いながら、二人の警察官は列車が動き出すのを見送って、
「さあ、引き上げようぜ」
と、パトカーに乗り込んだ。
パトカーが道の悪いのを嘆くように、「ガタガタ」と揺れながら走り去る。
「……やれやれ。もう大丈夫。行っちゃったね」
僕たちは立ち上がった。
「二十代の女って言ってたね?」
「確かにそう聞こえた」
「やはり、そうだったんだ」
もし、本当に捜していたとしたら、きっと死体が見つかったからだ。
「あれ?ここだったよね」
と、僕は足を止めた。
「ええ、確かにここよ。どこに行ったのかしら?」
犬子も見回した。
「じゃ、目を覚ましたのかもしれない」
「そうとしか思えないな」
……南本と犬子は、荷物はベンチの裏に隠し、泥酔者を公園のベンチに置いてホテルへ向かった。夜の公園は人の通る心配もなさそうだと判断したのである。
「でも、一人でどこかに行く?」
「荷物はある」
ベンチの裏に回って、僕は言った。
「あれ?何か書いてあるよ」
「え?」
荷物の上に、折りたたんだ紙が、小石をのせて置いてあったのだ。
「手紙かな」
「読んで」
「ここじゃ暗い。……街灯の下へ行こう」
二人は、心細い光を投げている街灯の所へ行って、その手紙を読んだ。
「走り書きだな。ええと……」
手帳についている鉛筆で書いたのだろう。紙も手帳の白いページを破り取ったものらしかった。
『南本さん、犬子ちゃん。
お二人にご迷惑をかけてすみません。
この公園へ運んで来られる途中で目が覚めました。けれども、南本さんにおぶってもらっている幸せに、つい寝ているふりをしてしまったのです。
ごめんなさいね。
それより、お二人の話を聞いて、もう私が夫を殺して逃げているのもご存知だと知りました。あんな恐ろしい罪を犯して逃げている私を、それを知りながら置いても来ずに連れて来てくれる。
お二人の優しさに、涙がにじみました。
でも、これ以上私がご一緒しては、お二人も捕まってしまう。
お礼も言わずに別れるのは辛いのですが、私のことは一切知らない、ということにしてください。私の荷物はここに置いて行ってください。もう使うこともありませんから。
逃げ回っても、ほんの数日のこと。捕まって刑務所に行くよりは、私は自分で自分の命を絶つ決心をしました。
夫との悪夢のような日々、この世には私を大切にしてくれる人などいないのだと思っていましたが、人生の最後に、南本さんと犬子ちゃんという素晴らしい人に出会えたことを、心からありがたいと思っています。
お世話になりました。
南本さん、早く自分の夢を叶えてくださいね。
犬子ちゃん、今の暮らしから逃げたい一心で、よく知らない男と結婚したりしないようにね。誤った結婚で、人生の一番いい時期を無駄にするのはもったいないことよ。
それでは、もう一度お二人のご親切に心から感謝します。
お元気で。さようなら』
……二人とも、しばらく言葉が出なかった。
「こんなことって……」
と、犬子が呟く。
「これが遺書か……」
犬子がウウっと声を上げると、両方の目からポロポロと大粒の涙をこぼした。
「私が……私があんなひどいことを言ったからだわ!」
「犬子ちゃん……」
「あの人を邪魔にするようなことを言って。それが伝わったんだわ」
「そんなことないよ」
「私があの人を死なせたんだわ!」
犬子はワーワー声を上げて泣き出した。
「犬子ちゃん。……泣かないで。君のせいなんかじゃないよ」
と、僕は慰めた。
「私のせいだわ!私も死んでお詫びを……」
「馬鹿言っちゃいけない!」
……しばらく二人は茫然と立ち尽くすしかなかった。
ふと人の気配に振り向くと……。
「恵さん!」
恵当人が、そこに面食らったように立っていたのだ。
「あれ……。もう、読んじゃったのか、それ?僕、出て行く前にそこのトイレに行ってたんんです。……あと五分遅くに来てくれたら感動的なシチュエーションだったのに……」
犬子が孝に駆け寄って、
「恵さん!死んじゃ駄目です!刑務所に行ったって、残りの人生が何十年もあるじゃないですか!正当防衛だったんでしょ?そんなに重い罪にはならないはず!」
と、しがみついた。
「犬子ちゃん……」
「……そうですよ。ホテルの部屋を取ったから、今夜一晩、ゆっくり休んで、明日警察へ行くといいと思います。よろしければ一緒に行きますよ」
と、僕は言った。
「それは駄目でしょう。あなたも、何日も足止めされてしまう。……ありがとう。でも、あなたの言う通りかもしれないな」
「じゃ、ホテルへ行きましょ!荷物、運びます!」
と、犬子は涙を拭いて張り切りながら言った。
どういうわけか、断崖絶壁のふちにぶら下がっていた。
「頑張って!今!助けに行くわよ!」
と、張り切った声は、どこかで聞いたことがあった。
「早くしてくれ!……助けてくれ!」
と、崖っぷちからぶら下がっている僕は必死で叫ぶ。
「少し待って。こんなんじゃ、恥ずかしいわ。TVに出たとき、みっともないから!」
その女性は……犬子だった。
「早くして……。助けてくれ!」
僕の指先が限界に来ていた。
「あーっ!」
と、叫んで僕は落ちた。
落ちて、落ちて……。
「ワッ!」
と、僕は起き上がった。
「ああ……。そうか」
僕は、額の汗を拭った。
「……どうかしました?」
と聞いたのは、冴島恵だった。
僕と犬子はベッドで寝ていたが、恵はベッドのすぐわきに毛布を敷いて眠っていた。
「いや、ひどい夢を見て……。替わってください。やっぱり僕がそこで寝ます」
と、僕は言った。
「でも……」
「いや、崖から落ちる夢だったんです。あれは予知夢に違いない。ベッドから落ちる前に、下で寝ます」
「わかりました」
と、恵は言った。
「……初めからこうすれば良かった」
ベッドの脇の、ほとんど「隙間」と言った方がいい狭い場所。しかし、寝てしまうとそれなりに落ち着く。
スーッ、スーッという健康的な寝息は、犬子のものだった。
「……若いっていいなあ」
ベッドの上から、恵の声がした。
「全く……」
「こんな風に眠ることなんて、もう一生ないんだろうな。刑務所のベッドって固いのだろうか」
と、恵は言った。
「さあ……」
「ごめんなさい。南本さんがそんなこと、知ってるわけもないよね」
「もう眠った方が……」
「ええ、寝ます。おやすみなさい」
と、恵は言った。
「おやすみ……」
正直、僕は眠くてたまらなかったのである。たとえ留置場だろうが、アッという間に眠っただろう。
そして……ぐっすりと寝入っていた僕は、いやにギュウギュウ押さえつけられる感じがして目が覚めた。
ん?……何だ?
トロンとした目を開けると……。
「あの……」
恵が、寄り添って寝ている。……ただでさえ一人寝てやっとという隙間である。恵の体は、ほぼ半分近く、僕の上に重なっていた……。
「ベッドで寝て下さい!」
と言うと、
「寝てられないんです」
「でも、ここにいたって、同じことでしょう!」
「だって……。見て下さい、起きて」
僕は、恵が体を横向きにすると、何とか起き上がれた。そしてベッドの上を見ると……。
「なるほど」
大きなベッドなのだが、そこ一杯に犬子が手足を広げ、ほぼ一人占め状態で寝ているのである。
「ね?こんなに気持ち良さそうに眠っているのを起こせないじゃありませんか」
と、恵は言った。
「そうですね……」
と言って、このまま恵と重なって眠れというのか?
「わかりました」
僕は大欠伸をした。そして、よっこらしょ、と立ち上がった。
「……どうするんですか?」
と、恵が聞いた。
「そこの椅子に座って寝ます。大丈夫。どこでだって眠れますよ。若い頃は、よく残業しながら居眠りしたもんです」
「でも、それじゃ……」
「いいから。……僕はいいんです。男なんですから」
「南本さん……」
「本当なら、廊下で寝てもいいんだが、ここじゃ無理でしょう」
僕は、椅子に腰を下ろした。
ソファなら、楽に眠れるのだが、何しろ大きなベッドが部屋の空間のほとんどを占め、しかも、三人の荷物も置いてあるので、普通の小さな椅子一つしかない。……椅子一つでどうしろと言うのだろう?
腕時計を見ると、夜中の二時を少し回っている。……朝まではまだ長い。
僕は目を閉じたが、やはり椅子に腰かけたままでは、そうたやすくは眠れない。
「……南本さん。もう眠りましたか?」
と、恵が言った。
「ぐっすり寝てます」
……二人はちょっと笑った。
「仕事でもしてりゃ、すぐ眠れるのに」
「どうして、南本さんってそんなにいい方なの?」
僕は目を開けて、
「言われつけないことを聞くと、びっくりして目が覚めますよ」
「ごめんなさい。でも……私、男なんてみんな野上のようなんだって思いました。だから別れようって考えなかったんです。……離婚するっていう道もあったのに。あの人を殺さなくても」
「しかし、それは……」
「ええ、あの人は決して許さなかったでしょう。気に入らない女房で、殴ったりけったりするくらいなら、追い出してくれればいいのに。……でも、あの人は私を手離そうとはしなかったでしょう。あの人は、自分を恐れて、従う女が必要だったんです」
僕は肯いて、
「自分が強いと思い込むために、あなたを力で抑えつけたんでしょう。……いいですか、あなたのしたことは、一種の正当防衛だと僕は思います。ご主人を殺さなかったら、いつかあなたが殺されていたかもしれない」
「南本さん……」
「罪は償わなくちゃならないでしょう。でも、今は、あなたのような女性のことも、よく知られて来てる。きっと、重い刑になりませんよ」
「あなたにそう言っていただくと……。いけませんね。泣かないで、毅然としていないと」
恵は涙ぐんだ。
「そうですよ。僕も犬子ちゃんも、あなたの味方だ」
恵は手の甲で涙を拭うと、
「とっても勇気が出ました」
と言って微笑んだ。
「それは良かった。これで安心して眠れますね」
と、僕は言った。
恵は少しの間黙っていたが、
「南本さん」
と、立ち上がって、僕の方へやって来た。
「どうしました?」
「私に……下さい。思い出を下さい」
と、目を伏せた
「……思い出?」
「それを心に抱いて、思い出して、自分を励ましながら、頑張りますわ。いくらあの人がひどい夫でも、人の命を奪ったんですから、その重さはわかっているつもりです」
「奥さん……いや、恵さん」
「お願い。一度だけ。私を力づけるつもりで、私に勇気を下さい」
恵が僕の手を取って立たせると、唇を押し当てた。
「しかし……犬子ちゃんが……」
「あんなに良く眠っているんですもの。大丈夫ですわ」
手を引かれて、あの狭い隙間へ連れていかれる。恵は、毛布の上に仰向けに寝ると、
「あなたには、毎日お詫びの言葉を述べますわ、寝る前に」
僕も、これ以上拒むことはできなかった。……心苦しくないわけではなかったが、これを生涯の秘密にして生きていこうと思った。
「狭すぎませんか?」
「狭い方がいいわ」
恵は僕をかき抱いた……。
……ぐっすり眠ってる?冗談じゃないわ!
犬子は、ベッドのすぐ下で、恵が僕に抱かれているのを、じっと耳を澄まして聞いていた。
止める気にはなれない。恵の気持ちを考えたら……。今は、何も気付かないふりをするしかない。
でも、犬子だってもう十六。自分からたった一、二メートルの所で、しかもずっと憧れて来た僕が他の女性を抱いているのを知って、心穏やかでいられるわけはない。
聞かないように、聞かないように、と自分に言い聞かせると、逆に恵の微かな声のかけら、息遣いの一つまでが耳に入って来てしまうのだ。
それは、たぶんほんの十分かそこいらのことでしかなかったろう。
でも、じっと寝たふりをしている犬子には、とんでもなく長く感じられた。
二人の長くて深いため息が聞こえ、犬子はやっと自分の「受難」が終わったことを知った……。
「……ありがとう。私、男の人っていいもんだと初めて思ったわ」
と、恵が言うのが聞こえた。
それを聞いて、犬子の胸は熱くなった。
……これで良かったんだ。
「犬子ちゃんは……」
と、僕の言うことが耳に入って、犬子は慌てて深い寝息を立てた。
「大丈夫。ぐっす寝てる」
「恨まれそうだわ、犬子ちゃんに……。でも、勘弁してもらわないと。私が刑務所に入っている間、犬子ちゃんはあなたに会えるんですものね」
と、恵は言った。
「あの子も、十七、八になれば、もう僕のことなんか見向きもしなくなる」
「いいえ、きっとそんなことないわ。こんなに素敵な人のこと、忘れるなんて」
僕は立ち上がると、
「恵さん、僕からもお願いがあります……」
「何?改まって」
「恵さんに、あの、その……ヌードデッサンになってもらいたくて……」
「え?……なるほど、そうでしたね。南本さんは絵描き志望でしたね。あなたとは……今しがたセックスをした仲よ。お安い御用よ」
そのまま僕は恵のヌードデッサンにとりかかった。すでに恵は裸の状態だったので、作業に移しやすかった。
ふっくらとした形の良い鳩胸を描き終えようとしたところ、恵がうとうとし出したので、
「疲れてますか?もう、眠った方がいいのでは?」
と、声をかけた。
「ええ。そうね。今夜はぐっすり眠れそうな気がする……おやすみなさい」
と、恵が言ったが、僕は返事をせず、あの小さな椅子に戻って、腰を下ろした。
犬子が薄目を開けて見ると、僕は半ば口を開け、もう眠り込んでいる。
「もう寝たの?アッという間ね。私、寝つきが悪いんで、羨ましいわ……」
と、恵は言った。
少しして、軽いいびきが聞こえて来た。
犬子がベッドの端から覗くと、恵も少し口を開けて、眠り込んでいる。
「……お疲れ様」
と、呟くと、犬子は仰向けになって、暗い天井を見上げた。
いやだわ。……ちっとも眠くなくなっちゃったじゃないの!
犬子は口をへの字に結んで、じっと天井を睨みつけていた……。
「おはよう」
と、犬子は言った。
目を覚ました僕は、バスタオルを体に巻いた犬子を見て、
「や、おはよう……」
「もう九時だよ。起きた方がいいんじゃない?」
「うん、もちろん……。いてて……」
椅子に腰を下ろして眠っていたので、首が痛いのである。
バスルームでシャワーの音がする。
「あれ、恵さんか」
「うん。私と入れ替わりでね。南本さんも、汗流した方がいいんじゃない?」
僕はギクリとしたが、
「別に……今は涼しいじゃないか」
「それはそうだけど。……あ!」
タオルがハラリと落ちる。僕は目を丸くしたが……犬子はちゃんと下着をつけていた。
「へへ、びっくりした?」
「わざとやったな!ともかく、早くちゃんと服を着てくれ」
と、僕は苦笑しながら言った。
「はいはい」
……僕は、立ち上がって、首を回したり、肩を叩いてみたりした。
その内、恵がバスルームから出て来た。
「おはよう」
と、僕を見て笑みを浮かべた。
恵は、きちんと化粧もして、すっかり落ち着いた美しさを感じさせた。
「じゃ、僕も顔を洗います」
「ええ。私、荷物をまとめておきます」
……まるで修学旅行の学生たちのような、和やかさだった。
「犬子ちゃん、よく眠れた?」
「ええ。こんなによく眠ったのなんて、何年ぶりだろう」
恵は、自分の荷物を開けて、化粧品などをしまうと、
「……お世話になったわね」
と、犬子の手を握った。
「恵さん……」
「私のこと、忘れないでね」
「忘れませんよ、絶対」
と、犬子は言って、固く恵の手を握った。
「じゃ、ここで、もう……色々ありがとうございました」
と、恵は言って、僕に向かって頭を下げた。
「いや……」
僕は、通りの反対側の警察署へ目をやった。
「一緒に行こうか?」
「いいえ……。一人で行きます。そうでなくちゃ、自分が許せませんもの」
と、恵はきっぱり首を振った。
「わかりました」
「私はずっと一人だったと言い張りますから。お二人もそのつもりでね」
「ええ。……でも手紙、書いてもいいでしょ?」
「待ってるわ」
恵は、犬子と抱き合った。
犬子が恵の耳元に何か囁くと、恵は真っ赤になって、コツンと犬子の頭を叩いた。
「あ、痛!」
「それじゃ」
恵は自分の荷物を手に、アッサリと言うと、通りを渡って、制服の警官が両脇に立っている玄関から、署の中へと入って行った。
「……今、何を言ったんだ?」
「別に。気にしないで。さ、早く行こうよ!いざ、東京へ!」
と、犬子は言った。
「引張るなよ!」
……犬子は、恵の耳に、
「南本さんより、私の方が抱き心地がいいでしょ?」
と言ったのである。
「駅までタクシーで行く?」
「そうするか。……駅まで」
と、運転手に言うと、
「駅、いいのかい?」
「どうして?」
「そこを曲りゃ、すぐだよ。歩いて五分」
「……やめます。すみません」
二人は歩くことにした。
「東京には明日着く?」
「何もなけりゃね」
と、僕は言った。
……冴島恵は一人で自首したようだ。
でも、僕は大神犬子と一緒だった。
十六歳の女の子が相手では、僕は捕まってしまう……。
そのころ、方々の駅やバス停などで、「逃亡殺人犯」を貼り込んでいた刑事たちのもとへ、冴島恵が自首して出たという連絡が回っていた。
僕と犬子のことは、もう忘れられていたのである。
……幸運なのか、不幸なのか。
「後はこの山を越えればいいんだ」
と、僕は言った。
「山を越えたら東京?」
と、犬子が聞く。
「そうはいかないけど……。山を越えたら、後はまた列車で、三時間。……湖を船で渡るって手もあるが、大分余計に時間がかかるんだ」
と、僕は苦笑しながら言った。
「じゃ、バスを待った方がいいね」
僕と二人になって、犬子はすっかり元気である。列車に何時間か揺られて、小さな駅で降りていた。
「時刻表……と」
僕は、バス停の、昔懐かしいデザインの標識に取り付けられたプレートを見た。
「何分に来るの?」
「文字がほとんど消えてて……。今、三時だろ。一つ、数字が書いてある。少なくとも、一時間以内に一本はあるってことだ」
「じゃ、ベンチに座って待ってよう」
「そうだな。もし乗り損なったら、また一時間……いや、二時間待つかもしれない」
「二人揃って居眠りでもしなきゃ大丈夫だよよね」
「もう、東京へは永久に着かないのかもしれないな」
と、僕が言った。
「やめてよ」
犬子が僕をつついた。
「いや、ごめん、ごめん。」
「わかってるけど……。でも、なんとなく……そんな気配がして……」
「まあ、そうだな。すまん。……僕みたいな大人がグチをこぼしたりして、だめだな、全く」
僕は頭をかいた。
「そんなことないわ。早く東京へ帰りたいのよね。わかってるわ」
「犬子ちゃん……」
「私は、却ってこれで南本さんとまたいられるから嬉しいくらい」
僕は笑って、
「君は元気だね」
と言った。
……今、二人はバスから降りて、林の中に立っていた。
バスの中は小さな明かりが点いているので、バスの周囲も、窓から洩れた光で、いくらか明るい。しかし、ほんの何メートルか行くと、真っ暗である。
山の中では、携帯が使えない。
犬子がクシャミをした。……やはり山の中、空気が冷たい。
「犬子ちゃん……東京へ行って、何するの?」
「あのね、まずは、原宿に行って、東京タワーに上って……」
「……。犬子ちゃん……僕たちの旅もこれで終わりにしよう……」
「…………」
「薄々と感じていたはずだろ。こんな旅はどこかで終わらせないといけないことを……」
「そうね……。その方が……いいのかもしれない……」
山を抜けると、ローカルの小さな無人駅が見えてきた。
「ここが終着駅……」
「今までありがとう」
「こちらこそ今までありがとう。一生忘れません。南本さん、お元気で」
そのまま二人は別れた……。
……帰ろう。僕の家、僕の町へ。大都会の真中で、我が家は果てしなく遠く感じられた……。
それから月は流れていき、東京の暮らしがまた始まっていた。
ある日、自宅であれこれ思いを巡らせている間に、眠り込んでしまった。
何時間過ぎただろう……突然夜中に目が覚めた。何やら胸騒ぎがしたからだ。すると、何やら物音がしたと思い、そちらへ目を向けると、少女が小さな包丁を右手に持ち、「スタスタスタ」と寝室に入ってきた。僕の枕元まで来て、そのまま何もすることなく、僕の顔をまじまじと眺めているだけだった。一瞬何をしているのだろうと思ったが、急に昔の記憶が走馬灯のように蘇ってきた。これは正直まずい状況なのである。しかし、金縛りになっていて、体が自由にならなかった。仕方なくありったけの声を上げて、悪態をついた。
「あっち行け!お前なんか嫌いだ!向こうへ行け!気持ち悪い!」
そう言いながら、自分はなんて大人げないんだろうとも感じてしまった。
しかし、少女は向こうに行くことなく、ぬーっと余計に顔を近づけてきたのだ。影があり、よく見えなかったが、よく見ると、整形前の老婆の顔だった……。
「そんなことって……」
恐怖のあまりそのまま意識を失ってしまった……。
外界が明るくなるに伴い寝室内が明るくなるような漸増光による目が覚めた。
「幻か……あれは一体何だったんだろう……」
少し枕カバーが汚れているように感じたので、寝惚け眼でふと枕の下を触ってみれば、走り書きのメモが残されていることに気が付いた。とてもじゃないが読めるものではなかった。そこには「りゅうすけ」と書いてあるようにも見えた。
「ん?何だこれ?誰かの悪戯か……。いや、待てよ……もしかして昨日の少女か……。いやいや、ありえない、ありえない。おそらく元々あったメモだろう。『りゅうすけ』というのも、そうやって無理やり読めただけ。気にしない、気にしない」
そう自分に言い聞かせた。
それから月は流れていき、東京の暮らしがまた始まっていた。
紆余曲折はあったが、新たな人生を歩んでいく決心を僕は固め出すのだった。
(了)


