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1話



 彼女の頭上には、花畑のある世界が咲いていた。

 真っ白なワンピース、細い腕、風に揺れる腰までの黒髪。
 その頭上には、夜明けの光を集めたような花畑が浮かんでいる。時折虹のような光が輪になり煌めく。
 世界は、静かに、優しく、咲き誇り続けていた。

「なんて綺麗な世界だろう」

 5歳だった俺は、本気でそう思った。
 その世界に、触れてみたいとさえ思った。

 でも彼女は、消えた。
 まるで、世界ごと呑まれるように。

 ◯


「……新人か」

 世界観福祉士《せかいかんふくしし》・建早佐之雄《たけはやさのお》は、顔も上げずに呟いた。
 薄暗い福祉事務所の一角に若い男性が立っていた。
若い男性は、建早をじっと見つめている。
建早は座ったまま、資料と装備が雑然と積まれたテーブル越しに睨むように視線を走らせた。若い男性は、ハキハキと答えた。

「はい!葦原八千矛《あしはらやちほ》です!今日から配属になりました!」

 名乗る声が少し震えていた。
 緊張しているのが、自分でもわかる。

「緊張するな。お前の世界観がぐらついてるぞ」

 鋭い声に、思わず背筋が伸びた。
 葦原の頭には、《《光が差し込む廃神殿》》が乗っていた。
 崩れかけた古代神殿には蔓植物が絡む柱があり、ひび割れた大理石の床には草が芽吹いている。天井の穴から差し込む光が、内部を柔らかく照らしていた。
 中央には、かつて誰かが座っていた椅子だけが残っている。
 現在頭に乗っているこれが、葦原の《《世界観》》だった。

 20年前。
 一人の少女が、世界を変えた。
 少女は、自分の認知……すなわち世界観を頭上に抱いて生まれた。彼女は、自分の世界観を他人に見せることの出来る超能力を持っていた。
 それはまったくの突然変異だった。そして、彼女が15才になった時だった。
 突然、超能力は暴走した。
 それにより、世界中の人間の認知が可視化され、世界観が人々の頭上に浮かぶようになった。
 それが、20年前に起きた<認知可視化>現象だ。
 世界観福祉士は、その異変に対応する専門職だ。個々の認知が歪むと、世界観は暴走し、クライアントの現実生活を脅かす。
 それを治療するのが、世界観福祉士の仕事だ。
 葦原は、新人世界観福祉士で、今日が初仕事だった。

 健早は噂通りだった。現場では冷酷、指導では厳格。ついたあだ名が新人潰し。

(彼が自分の初任務のパートナーって、運が良いのか悪いのか)

「行くぞ。時間がない」

 装備バッグを肩に担ぎ、建早が立ち上がる。

「クライアントの認知が暴走してる。世界観が肥大して、家から出られない状態だ」
「……世界観が、暴走すると?」
「お前、訓練で習ったろ。認知が歪むと、その人の世界観が現実に干渉し始める。頭上に浮かんでる世界が肥大して、現実と区別がつかなくなる」
「でも、それって」
「見てるだけじゃ直らない。だから俺たちがいる」

 そう言うと、健早は小さな装置を葦原に差し出した。
 彼が手渡したのは、エクスペリエンス・リンク……通称ERと呼ばれる装置だった。
 頭部に装着するヘッドギア型の機器。認知の回線にリンクし、クライアントの“世界観”に潜ることができる。

「お前がやるんだ、新人。最初の一歩だ」

 心臓がどくん、と脈打つ。葦原は頷き、ERを手に取った。
 そして、二人はクライアントの元へ向かった。
 福祉事務所を出て、葦原の運転する車でクライアントの所在地に行く。
 アパートのドアを開けた葦原は、今、その部屋の中に正座していた。
 隣に、先輩の建早があぐらをかいて座っている。
 二人は一人の青年と向かい合っていた。
 葦原はごくりと唾を飲み込むと、カバンを手繰り寄せ、その中から<世界観ダイブ計画書>を取り出した。続いて青年の名を呼ぶ。

「蛇室正司《へびむろしょうじ》くん」
「はい」

 蛇室と呼ばれた青年は返事をしたが、その声は何処か遠く、くぐもって聞こえた。彼が、頭を振る。
 一緒になって彼の《《世界観が揺れた》》。
 彼の頭部で、魔法使いと冒険者のいる街、ドラゴンの巣食う山、人魚の住む湖、様々な事象がひしめき合って実体化していた。頭部は、中世ヨーロッパ風の事象で覆われて、ほぼ見えなくなっている。
 ここは蛇室の自宅で、彼は認知の肥大により《《世界観が異常増殖し》》それに視界を覆われて生活に支障をきたしていた。彼はもう目の前の現実を見ることすらできない。歩くこともままならないのだ。葦原は、計画書を床に置いて差し出し、蛇室に言った。

「これから、貴方の世界観にダイブします。ご了承いただけますね?」

 蛇室が、顔をわずかに上げるのがわかった。建早が立ち上がる。蛇室は、哀れっぽい声で震えながら懇願した。

「はい!何でもいいから、助けてください……!」

 建早が、ゆっくりと蛇室に近づく。葦原も立ち上がって、後に続いた。蛇室はなおも喋りつづけている。

「何も見えないんです……!何も見えない!ああ、俺はどうして……」
「静かに」

 建早がぴしゃりと言い放つ。冷たい声音に、臆した蛇室が黙り込んだ。建早は、スーツのネクタイを片手で緩めると、カバンの中からERを取り出した。
 葦原もカバンを漁り、頭にそれを装着する。
 建早が、ERを起動する。続けて葦原も起動ボタンを押した。
 場の空気が緊張を帯びる。

(ピリピリする……)

 これから、初ダイブだ。葦原は、緊張で乾いた唇を噛んで、建早の方を向いた。

「すっっごい緊張します先輩!」
「無駄口を叩くな。来るぞ」

 次の瞬間、建早と葦原の周りに仮想空間が立ち現われる。門のような仮想空間はどんどん大きくなる。建早が、それに向かって走り込んだ。葦原も慌てて続く。ダイブ開始だ。
 水面に飛び込むような水音がして、葦原の身体が宙に浮く。意識は肉体から乖離し、どんどん深淵に向かっている。まるで水中にいるようだ。
 世界観福祉士がクライエントの世界観にダイブする際、彼らの肉体は現実世界に残り、意識だけが仮想的な空間に転送される。
 脳内の認知情報を量子レベルで解析・再構成し、クライエントの認知フィールド内で「適応形態」を形成するのだ。そうして、仮想空間は実現される。
 建早が、先を泳いでいる。葦原は手足をばたつかせて藻掻いた。心臓がどきどきと早鐘を打つ。しまった、上手く泳げない。
 建早は振り返り、葦原に手を伸ばすと、その手を乱暴に掴みグッと引いた。建早の顔が、葦原の目前にあった。

「落ち着け。冷静になれ」
「は、はいっ!」
「……もうすぐだ」

 微塵も焦りのない声で、建早が葦原を落ち着かせる。何か、良い匂いがした。

(なんだろ。煙草かな……)

葦原は、藻掻くのを止めて、二、三度目をしばたたかせた。
 テンパってる所、諌められた。
 助けられた?

「先輩!俺、先輩のバディになれてラッキーかもです!」

 葦原が建早に叫ぶ。建早は、無言で先を泳いで行った。
 クライアントの世界観の入り口が見えてくる。二人がそこまで泳ぎ寄る。建早が、慣れた口調で宣言した。

「認知同調スキャン、開始。認知適応フィルター、起動。ダイブ!」

 ダイブ装置であるERが、クライエントの世界観フィールドにアクセスし、脳波・意識パターン・認知歪みをリアルタイムで解析する。クライエントの世界観に含まれる基本ルール……物理法則・生態系・文化体系……を解析し、ダイブする者の意識をそのルールに適応させるのだ。
 建早と葦原は、クライアントである蛇室の世界観へとダイブしていった。
 足元の感覚が消え、代わりにざらりとした砂利の音が耳に触れた。
 視界が開けたとき、葦原は中世風の世界の中に立っていた。
 キョロキョロと辺りを見渡す。灰色の空、崩れかけた石造りの家々。美しかった街並みはうらぶれ、魔法で点灯するはずの街灯は、傾いだり割れたりして意味をなさなくなっている。

「調書によると、蛇室の世界観は剣と魔法と冒険者が存在する。ま、典型的な部類だな」

 建早が説明する。なるほど見れば、魔法使いや剣を佩いた冒険者の姿がある。だが、街の人々は、人間も獣人も、頭を垂れてふらふらと道を歩いているばかりだ。
 地面は割れ、空には黒い鴉が旋回し、風の音すら沈黙していた。
 それが、蛇室の現在の世界観だった。

(……?)

ふと、花の香りが葦原の鼻をくすぐる。 
建早が、歩き出した。慌てて、葦原も続く。

「行くぞ」
「は、はいっ!」

二人は、剣と魔法の世界を歩き出した。










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