「熊を殺すな」と言うクレーマーが熊に食われる話

　一代は、リビングの奥にそびえる豪奢なクローゼットの扉を固く閉め、その薄暗い内部に身を潜めていた。
　外からの光は完全に遮断され、彼女の荒々しい呼吸音だけが狭い空間に反響し、まるで死のカウントダウンのように耳にこびりついた。
　窓やドアは全て施錠し、鍵を二重に確認したはずだった。それでも、心臓は肋骨を突き破らんばかりに激しく脈打ち、冷や汗が背中をびっしょりと濡らしていた。
　庭に現れた熊は、まるで彼女を狩る猟師のように執拗に家の周りを徘徊し続けている。
　一代は震える指でスマートフォンを握り潰すように持ちながら、助けを求めた電話が全て無駄に終わった現実を噛み締めた。誰も来ない。誰も助けてくれない。彼女のクレーマーとしての過去が、今、冷酷な報いとなって返ってきたのだ。
　クローゼットの中は、かつて高価な服やアクセサリーで溢れていたが、今やただの墓穴にしか感じられない。一代は膝を抱え、震えながら過去を振り返った。教員時代、生徒を厳しく指導し、保護者から尊敬を集めていた自負。夫の死後、遺産で手に入れたこの豪邸での悠々自適な生活。しかし、退職後はその承認欲求が満たされず、ストレスのはけ口としてクレーマー行為に走っていた。熊の駆除に抗議し、自治体や猟友会を罵倒していた自分が、今やその熊に命を狙われている皮肉。後悔と自己嫌悪が胸を締め付け、涙が頬を伝った。
「私が悪かった…ごめんなさい…」
呟くが、その声は虚しく空間に吸い込まれ、誰にも届かない。

　突然、耳をつんざく破砕音が家全体を震わせた。庭に面した大きなガラス戸が、熊の巨大な前足の一撃で粉々に砕け散ったのだ。ガラスの破片が鋭い刃のように宙を舞い、リビングの床に無数に散らばる。キラキラと陽光を反射する破片が、一瞬にして一代の豪華な日常を切り裂き、まるで彼女の人生そのものが崩れ落ちる前触れのようだった。
　熊の力強い足音が鈍重に響き、床を軋ませながら室内に侵入してくる。爪が床を引っ掻く不気味な音、荒々しい鼻息が、死神の足音のように一代の耳に迫った。
　彼女はクローゼットの隙間からその音を聞き、恐怖で喉が締め付けられるのを感じた。息を殺そうとするが、震えが止まらず、かすかな嗚咽が漏れてしまう。
　熊はリビングを蹂躙するように進んだ。革張りのソファが一撃でひっくり返り、高価なガラステーブルが砕け散る轟音が響く。金色の刺繍が施されたクッションが引き裂かれ、白い綿が血のように飛び散る。まるで一代の虚飾に満ちた生活が、熊の爪によって無残に解体されていくかのようだった。
　彼女はクローゼットの中で膝を抱え、歯を食いしばって震えていた。普段他人を見下し、口達者に振る舞ってきた自分が、今や虫けらのように無力だと悟った瞬間だった。

　熊の鼻息が近づいてくる。低く唸るような呼吸音が、クローゼットの薄い扉越しに聞こえ、一代の耳を冷たく刺した。彼女は目を固く閉じ、祈るように呟いた。
「来ないで…来ないで…お願い…」
　だが、その願いは虚しく、扉の向こうで熊の爪が木を引っ掻く音がした。鋭く、ゆっくりとしたその音は、まるで死刑執行人が刃物を研ぐ音のように彼女の心を抉った。

――ギギギギ……

　扉が軋みながらゆっくりと開かれ、薄闇の中に熊の巨大な頭が現れた。
その黒い瞳が一代を捉えた瞬間、感情のない、冷たく無機質な視線が彼女を貫いた。そこには憐れみも怒りもなく、ただ原始的な本能だけが存在していた。
「――ッ――！！」
　一代の喉から悲鳴が迸ったが、恐怖で声帯が縮こまり、か細い呻き声にしかならなかった。体は完全に硬直し、逃げることも抵抗することもできなかった。普段は他人を威圧する鋭い舌先も、今はただ震える唇から涎を垂れ流すだけだ。
　熊の前足が伸び、一代の肩を掴んだ。
「ヒ――ッ」
　次の瞬間、鋭い爪が彼女の濃い化粧に隠された柔らかな肌を切り裂き、鮮血が一瞬にして溢れ出した。肉が裂ける音が耳に届き、焼けるような痛みが全身を貫いた。「痛いッ！」と叫ぼうとしたが、声は喉の奥で潰れ、ただ湿った喘ぎが漏れるだけだった。
　肩の骨がミシリと軋み、血がカーディガンを濡らし、床に滴り落ちる音が静寂の中で不気味に響いた。
　熊の口が大きく開き、鋭い牙が一代の首筋に迫った。彼女の視界に、黄色く汚れた牙と赤黒い舌が飛び込んできた瞬間、時間がスローモーションのように引き延ばされた。
「あ」
　叫びでもなく助けでもなく、間の抜けた声が漏れた。同時に――牙が首の柔らかな肉に食い込んだ。
　皮膚が裂け、筋肉が引き千切られる感覚が脳に直接突き刺さる。氷の刃が心臓を貫き、熱い鉄が肉を焼くような痛みが同時に襲った。
「グゲ――ッ」
　一代の体が痙攣し、口から血混じりの泡が溢れ出した。熊の顎がさらに力を込め、首の骨がバキリと砕ける音が響いた。頭が不自然に傾き、視界が揺れる。それでも意識は途切れず、潰れてはいけないものが潰れ、出てはいけないものがこぼれる感覚が伝わる。血が噴水のように噴き出し、クローゼットの壁を叩いて赤黒い染みを広げていく。
　熊は首を咥えたまま一代の体を引きずり出し、リビングの床に叩きつけた。腕が無力に跳ね上がり、床に血だまりが広がる。
　まだ意識が残る中、熊の爪が彼女の腹を裂いた。内臓が引きずり出され、熱い蒸気とともに床にこぼれ落ちる。胃袋が破れ、酸っぱい臭いが鼻をついた。
　熊の牙が今度は顔に食らいつき、頬の肉が引き剥がされ、化粧の下の小太りの顔、さらにその下の頭蓋骨が露わになる。眼球が圧迫され、グチャリと潰れる感覚が脳に響いた。意識は痛みと恐怖の中で薄れ、過去の記憶が断片的に浮かぶ。生徒を叱りつけた場面、自治体にクレームを入れた自慢、近所への陰口――全てが無意味に感じられた。自分が他人を見下してきた報いだと、朦朧とする意識の中で悟った。
　最後に、熊の前足が一代の胸を踏み潰した。骨が砕け、心臓が圧迫され、血が口から溢れ出す。
　体はビクビクと痙攣し、一代はやがて動かなくなった。
　豪華なリビングは血と肉片で埋め尽くされ、一代の成金趣味的な装飾品が、彼女の死体とともに無残に転がっていた。