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 「よかった」は一つだけ、ある。
 「生まれてよかった」が一つだけ。

  天人国はうるわしの国。

 そう旅人は言葉を交わすし、半分くらいの民も納得するだろう。
 けれど男は、つぎはぎだらけの天人国を憎んでいた。
 男は医者の五男だった。医者は血と死に近いから「非人」と呼ばれる。それでも長男や次男ならば助手として手に職をもって暮らせた。男は五男であるために見向きもされず、差別のみを注がれていた。兄たちを盗み見て医術を身につけても、親の関心は注がれなかった。
 雨粒に口を開いて喉を潤し、木の根をかじって飢えをしのいだ。

 それでも「よかった」が一つだけあった。

 そのときは、夕日に照らされながら川の中でざるを動かしていた。
 水の中は冷たく、切り傷だらけの足は痛みと寒さでかじかんだ。けれど、食うものがなかった。家は寝床こそ用意してくれるものの、飯が出るのは三男までで、男の一つ上の兄はささいな傷が膿んだ末に死んだ。泥の中に傷を持った足で入るのは危険だと、男は学んだ。
 だが澄んだ水には獲物がいない。
 死ぬ危険覚悟でも泥水をさらうか、と男が考えたときだった。視界の端に白い花が散った。
 そちらを見れば、白い花を散らした着物の少女がいた。きれいな二つ団子にまとめた藍色の髪。きめの細かい、傷一つない肌。目は大きく丸く、夕日の中で輝いていた。
 一目みて、高貴な身分の女だと分かった。少女は河原にある草藪を見下ろしておろおろしている。男は川を上がった。

「どうした」
「あ……、毬が、あっちに落ちてしまったの」

 指をさす少女を見て、男はフンと鼻を鳴らした。
 草藪をかき分ければ、手や足が少しばかり痛んだが、特に気にならなかった。もしかしたら施しがもらえるかもしれない、と考えて、男は草藪を進んだ。
 夕日に照らされてより影を色濃くした藪の中を手と足でかき分けながら進む。目の丈にまで伸びた藪の草からは枯れかけの命のにおいがした。土くれとお日様の混じったようなにおいだ。素足の下で、いくつかの草が踏みつぶされて砕け、いくつかの茎は男の足を傷つけた。
 男は不思議な感覚にとらわれた。
 時間がずいぶんと長くなったような、今この一瞬が何時間にも伸びたような変な感覚の中で、男は真っ白な毬を見つけた。てんでバラバラの方向を向いたひょうたんの模様が入った、五色の糸で織られた毬だった。

「あった」

 拾い上げると、毬は案外小さかった。自分の頭くらいの大きさだ。
 両手で挟んで持ち上げる。毬を四方から見分する。泥で汚れている感じはなかった。毬を光に透かしたとき、まぶしくて目を細める。黒々とした影が男の左目を影に閉じ込めた。男は右目を細めて、左目で毬を見た。糸がほつれている場所も、とりあえずは見当たらない。

「これか?」

 振り向いて尋ねる。
 少女は中指ほどの大きさの影として、藪の向こう側に立っていた。髪飾りの銀がきらきらと輝いてみえた。少女は「そうよ」と戸惑いがちに頷いた。
 少女のほうに歩き始める。夕の風がさわさわと二人の間に吹きすぎた。涼しい風だった。

「ありがとう」

 少女は、頬を薄紅に染めて笑った。
 口の端を上げて、河原の石よりも白い歯をほんの少しだけ見せる笑い方だった。
 男の心臓が跳ねる。生まれてこのかた、そんなに柔らかな顔を向けられたことがなかった。草と泥にまみれて、垢でにおいもきついだろう男の手から、少女は毬を抜き取ると走っていった。
 男はぽかんと口を開いたまま、少女の後ろ姿を見送った。長い裾が踊るようにひるがえる。二つの筒のような足を包む衣服の白色がいつまでも男の目に残る。少女には何も物はもらえなかったのに「ありがとう」の一言がいつまでも心に残って離れなかった。
 それからも、なにかとくさくさした気持ちになるたび、少女の「ありがとう」が頭をよぎった。そうすると、ささくれだった気持ちがだんだん落ち着いて、ほんの少しだけ笑えるのだった。

 それでも男は、道を外れた。

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