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第4話【血の匂い】


──濃霧の夜が、館をひときわ深く包み込んでいた。

 

廊下を進む湊たちの足音が、軋んだ床板にかすかに吸い込まれていく。

 

天井には剥がれた配線、壁には黒ずんだ染みと苔。ここがかつて迎賓館と呼ばれていたなど、想像もつかない。

 

先頭を行く柏原が、ふいに足を止めた。

 

「……匂うわね」

 

「血……ですかね」

 

理沙が小さく鼻を覆い、顔をしかめる。

 

湊は黙って頷き、懐中電灯の光を、廊下の突き当たりへと向けた。

 

床に染みついたような赤黒い跡が、扉の奥へと続いていた。

 

(始まった……)

 

館に足を踏み入れたときから、その予感はあった。けれど、いざそれが現実となると、空気すら変質して感じられる。

 

湊は扉に手をかけた。

 

「行こう。もう後戻りはできない」

 

 

ギィィ……と重たく軋む音とともに、扉が開いた。

 

その先にあったのは──天井から逆さ吊りにされた死体。

 

 

「う……っ!」

 

理沙が呻き声を漏らし、目を背けた。

 

倒れた椅子、散乱する書類、そして床に滴った血がつくり出す赤黒い文様。それは、まるで“見せつけるため”に配置された舞台のようだった。

 

「……藤堂、隼人」

 

柏原が低く名を口にする。

 

招待状に記載されていた人物。到着後、姿を見せなかった男。今、その死体が、舞台の幕開けを告げる役として“配置”されていた。

 

「手足を縛られ、口を塞がれ、逆さ吊り……これは、明確な殺意による殺害だ」

 

柏原が淡々と検分を始める。小型ライトで傷口や血痕を照らしながら、即座に状況を分析していく。

 

「争った形跡なし。即死に近いわ。吊された時点で、すでに……」

 

「殺されていた、ってことか」

 

湊が小さく息を吐き、視線を巡らせた。
その時、足下に1枚のカードが落ちていることに気がついた。


「これは・・・・・・」

「どうしたの、湊」


柏原が湊の様子に気がつき近づいた。
湊は、振り返らずに柏原に、拾ったカードを見せた。
そのカードは──

「──The Hanged Man(吊るされた男)
「逆さづりだから、吊るされた男、か。悪趣味だな」

「タロットカード大アルカナの12。これは見立て殺人・・・・・・?」
「可能性は大きいだろう」

湊と柏原が死体の前でそんな話をしていたが、扉の外には、森崎が呆然と立ち尽くしていた。言葉を失ったまま、壁にもたれ、震える手で額を押さえている。

 

理沙は、崩れ落ちそうになる足元を湊に支えられ、ようやく意識をつなぎとめていた。

 

(この空間には……“意図”がある)

 

湊の脳裏に、神村詩音──いや、演出家・神楽鏡夜の姿がよぎる。

 

舞台の幕が上がった今、彼がどこかでこの惨劇を“演出”として眺めている、そんな気配があった。

 

 

柏原が立ち上がり、短く告げる。

 

「広間に戻って報告しましょう。全員にこの事実を知らせる必要があるわ」

 

「俺はここに残る。検証を続けたい」

 

湊の提案に、柏原が短く頷く。

 

「理沙と森崎は連れていく。あなたひとりで大丈夫?」

 

「問題ない」

 

柏原が理沙の肩を支え、森崎の腕を引きながら、慎重にその場を後にする。

 

湊は、再び死体に視線を戻した。

 

(この殺人は、演出だ)

 

照明の位置、死体の配置、血痕の広がり──すべてが「見せるため」に計算されている。

 

「……ここは、舞台の上だ」

 

呟いたその瞬間、背後の廊下から──

 

くす、くすくす……と笑うような声が聞こえた。

 

 

振り返る。

 

懐中電灯の光が、空間を切り裂くように走る。

 

だが、そこには誰もいない。

 

ただ、朽ちた壁と闇。

 

──それだけだった。

 

湊は、ゆっくりと懐中電灯を下ろした。

 

(“演出家”が見ている)

 

そう確信した。

 

 

その頃、広間では──

 

柏原が淡々と報告を終えたばかりだった。

 

羽鳥が静かに目を閉じ、神村が口元に手を当てて沈黙する。

 

「……これって、殺人、ですよね」

 

理沙の言葉に、誰も返せなかった。

 

赤坂が唸るように言う。

 

「チッ、こんな悪趣味な場所に呼びやがって……何が目的だよ、クソッたれが」

 

「目的、ね……」

 

神村が、ぽつりと呟いた。

 

「まるで、誰かが“劇”でもやってるようだと思いませんか?」

 

理沙が思わず聞き返す。

 

「劇……?」

 

「ええ。“配役”があって、舞台装置があって。今、私たちはその中で演じさせられてる」

 

その言葉に、空気がわずかにざわめいた。

 

羽鳥が神村の方をじっと見つめる。

 

「あなた、妙に冷静ね」

 

「看護師ですから。人が亡くなる現場に慣れているだけです」

 

「……あまり慣れない方がいい仕事よ」

 

羽鳥の言葉に、誰かが小さく息を呑んだ。

 

(それでも、この空間においては──)

 

“冷静さ”の方が、むしろ異常だった。

 

 

そのとき、再び館のどこかで音がした。

 

──カタン。

 

金属が落ちるような音。

 

全員が一斉に振り返る。

 

「確認しましょう」

 

柏原が短く言い、すぐに拳銃を懐に手を伸ばす。

 

「全員、行動は複数で。もう単独行動はさせない」

 

羽鳥と赤坂、神村と理沙がペアとなり、それぞれ逆方向の通路へ。

 

「沙耶、あなたはここに残って」

 

柏原の声に、沙耶が小さく頷いた。

 

その横顔には、まだ消えぬ不安と、しかし確かな決意が宿っていた。

 

(彼女は……鍵になる)

 

湊の言葉を思い出しながら、柏原は静かに廊下の先を見据える。

 

舞台は、すでに動き出している。

 

殺人劇の始まり。

 

次に“演じる”のは、誰なのか──

 

そして、“観客”を気取る者は、どこに潜んでいるのか。

 

静寂の中、闇は音もなく蠢いていた。


 
    *    *    *
 

湊は、静かに階段の踊り場に立っていた。

先ほどの死体の光景が、脳裏に焼きついて離れない。

 

(何が“始まった”のか……いや、誰が“始めさせた”のか)

 

招待状の存在、館の構造、そしてあの血の文様。

すべてが、偶然ではあり得ない。あまりに“整いすぎている”。

 

湊はポケットから、例の招待状を取り出した。

角が朱に染まった封筒。その内側の紙には、ただ一行──

 

《白鷺館へお越しください。あなたは選ばれました。》

 

「選ばれた?」

 

その言葉の意味を、湊は改めて咀嚼する。

 

(我々は“呼ばれた”のではない。“配された”のだ)

 

そのとき、階下から誰かの声が上がった。

 

「誰か、廊下の窓が開いてる!」

 

赤坂の声だった。

 

湊は即座に踊り場を駆け下りる。

廊下の突き当たり、埃まみれの窓が、かすかに軋みを上げて揺れている。

 

「風か? いや……違う」

 

窓枠の下には、靴跡があった。

比較的新しい──少なくとも、彼らが入ってきた正面玄関からのものではない。

 

(つまり、別の“入り口”がある)

 

その事実に、湊の思考が鋭く跳ねた。

 

(逃げ道を塞ぎ、導線を限定し、そのうえで“発見”させるように殺人を配置する。
 まるで、“閉じた劇場”だ)

 

背後に気配。

振り返ると、沙耶が不安げに立っていた。

 

「湊さん……ここ、何かいます。見えないけど、ずっと見られてる感じがして」

 

「……ああ。俺もそう感じていた」

 

沙耶はしがみつくように手を握った。

その手の冷たさに、湊ははっきりと“恐怖”を認識した。

 

彼女だけではない。理沙も、柏原も、森崎も。

すべての者が、すでに“この劇”の中に引きずり込まれている。

 

「必ず、守る。誰も、死なせない」

 

その言葉は、沙耶に向けられたものだったが、

同時に、自分自身への宣誓でもあった。



    *    *    * 

 

広間に戻る途中、湊は足を止めた。

扉の外、壊れかけた花瓶のそばに落ちていたのは、小さな破片だった。

 

陶器のかけら──そこに、赤黒い液体が付着している。

 

「……血?」

 

膝をつき、懐から取り出したハンカチで慎重に包む。

見覚えのない文様が断片的に残されていたが、全体像は不明だった。

 

(もしかすると、最初の殺人とは別の“兆し”かもしれない)

 

湊は静かに立ち上がり、再び広間へと歩を進める。

 

途中、ふと窓の外を見ると、濃霧の中で何かが動いた気がした。

人影のようで、人ではない。あるいは、ただの錯覚。

だが、湊の中で警鐘が鳴る。

 

(“見られている”だけではない。“誘導”されている)

 

その思いが確信に変わりつつある中、湊は神村詩音──いや、神楽鏡夜の存在を脳裏に浮かべた。

 

完璧すぎる応対、微笑みの角度、共感の言葉選び。

まるで、“感情”そのものを後付けで演出しているような……そんな印象があった。

 

(人は、恐怖に直面したときこそ、本性が出る)

 

けれど彼女は、ただの一度も“崩れ”を見せていない。

どれだけ血が流れようと、どれだけ誰かが取り乱そうと──その表情だけは、舞台の幕裏にいる“演出家”のごとく、静かに微笑んでいた。

 

そのことが、湊には何よりも“恐ろしい”と感じられていた。

 

(看護師だとは言っていたが……。もし、あの微笑が仮面なら……いつか、その仮面の下が剥き出しになる瞬間が、来るはずだ)

 

湊は、胸の内に冷たい決意を宿した。

たとえそれが誰であれ、この舞台を支配する者を──必ず暴き、幕を下ろすと。


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