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本編

 仕事を終えて家の自室に戻ると、書簡入れに封書が入っていた。一目で役所からのものと分かる。厚生労働省 ライフスタイル庁? 良く覚えてないが、そう言えば昨年の秋だかに設立のニュースを見た気がする。開封すると「ライフスタイル庁設立の経緯について」というリーフレットが入っていて、流し読みしたところ、「増大する保健医療費圧縮の為に個人のライフスタイルにも足を踏み入れ、過剰な無駄を省き、国民の健康の為に痛みを伴う改革を目指す」と言ったことが書かれている。今世紀初頭に流行った「清貧のすすめ」の焼き直しか?
 通知本文の方を見ると、「ライフスタイル見直しの為のカウンセリングを行いますので、ご予約の上お越し下さい」とある。設立早々に動くのは役所の点数稼ぎか? 「カウンセリング当日は公休扱いとなりますので、お勤めの会社に相談して下さい」という注意書きもある。QRコードから予約サイトを開くと、直近予定がガラガラである。前日迄予約変更可能なので、仕事の予定表と突き合わせ、週末金曜午後に予約を入れた。

 当日は妻に「いってらっしゃい」と見送られ、検診所に行った。受付を済ませると問診票を渡された。質問内容が若干奇妙だった。勤務先、役職、年収、配偶者の勤務先と年収、月の小遣い、昼食他食事のメニュー、そういった項目が定期的運動をするか等と共に並んでいた。確かにここ数年の健康診断で「脂肪肝の疑いあり、要精検」という注意書きは無視し続けている。多少肝臓の数値が高かった所で自覚症状も無いのだからいきなり肝硬変になることもないだろう。と、思いながら問診票を埋めていく。自慢じゃないが俺はサラリーマンにしては稼ぎが良いので、妻は専業主婦にして月5万小遣いをやっているし、俺の小遣いは月15万ある。昼食は仕事の息抜きも兼ねて、ちょっと贅沢に鰻、フレンチ、イタリアン、ステーキ、寿司、蕎麦、親子丼といった辺りをローテーションしている。酒も自宅で週に1度ワインをボトル1本開けるし、勿論仕事での付き合いの飲み食いもある。そして運動は特にしていない。
 食は俺の唯一の贅沢だ。但し有名店を巡ったり、評判の良いグルメ店を巡るようなことはしていない。気配で良さそうな店に入ってみて、実際に自分の舌で味わって決めている。俺の舌は良い方だと思う。今まで何度か他人に連れられたり、雑誌やテレビで評判の良い店に行ったりしたが、大抵は酷いもんだった。みんな舌が馬鹿なんじゃないのか? 値段と雰囲気や他人の評価で良いと思っているだけだろう。俺は自分の舌を信じて店を選んでいる。店の雰囲気や衛生状態、接客、料理の盛り付け、素材、風味、調理具合、値段、全てを総合的に判断して、良いと思った店は通い続けて常連になる。以前、素材も調理も良さそうなイタリアンの店に入ったことがある。地図アプリでの評価も良い店だったが、とある料理に使われていたオリーブオイルが酸化していて酷い風味になっていた。そういう無神経な店も大嫌いだ。そうやって通う店を決めていると、大抵、店毎に頼むメニューは決まってくるので、店が決まれば食べるものが決まるようになっている。店に常連認定されれば、こちらから注文を言うより前に向こうから「☓☓ですね?」と訊いてくるようになる。そうなってしまえば、以降その店では常に快適に過ごせるようになる。ある程度の接客レベルや店の雰囲気も俺の期待に含まれるので、結果的にそういう店はそこそこの値段がかかることになる。一方、安くても旨い店は確かにある。が、そういう所は店の雰囲気があまり良くなく、つまり客層が悪いことが多い。他の客のマナーで不愉快になることが多いので、結局そういう店には行かなくなってしまう。
 そんなことを思いながらしばらく待つと、自分の番号が呼ばれた。カウンセラーは名乗った後、問診票に目を通しいきなり結論をぶち上げてきた。
「やはり食生活に関し贅沢が見られます。このままでは将来生活習慣病になり、膨大な医療費が国民の血税から費やされることになると思います」
「いや、健保は税金じゃなくて健保料を別に毎月払ってるよね?」
「同じことです」
「いや、違うだろ」
「一般庶民の食に比べ相当の贅沢だと思いますがね」
「その位稼いで税金も健康保険料も払ってるだろ? 何でそんなことを言われなきゃならないんだ?」
「あなたの健康を心配してお話しているのに、丸で聞く耳を持たない…そのご性格ではこちらのアドバイスも受けていただけなさそうですね。要はこの昼食の贅沢を止めて頂きたいので、こちらも強硬手段を取らせていただきます。あなたの年収を100万円減らしますので、昼食に使うお金を減らして、奥様にお弁当を作ってもらってそれを食べるようにして下さい。正式な決定書はお勤めの会社に送ります。以上でカウンセリングは終わりです」
「おい、ふざけるな。こんな横暴通ると思ってるのか?」
と、叫んだんところ、警備員が2名飛んできてそのまま診療所を叩き出されてしまった。なんてこった…

 腹立たしいが、叩き出されてしまってはそのまま家に帰るしか無い。帰宅すると、妻が話しかけてきた。
「カウンセリングはどうでした?」
「どうもこうもないよ! 藪から棒に『将来生活習慣病の懸念が高いから、昼食の贅沢を止めろ、強硬手段として年収を100万下げる決定書を勤務先に送る』だってよ。ライフスタイル庁ってぇのは、そんなに偉いのかね?」
「…よく知りませんけど、国会でも結構揉めてたと思いますよ。最終的には医療費削減のために強権を持たせるって話になったと思いますよ」
「マジかよ…。じゃ、本当に年収100万減らされるのか…どうしよう」
「去年年収が増えたので、あなたのお小遣いを増やしたのですから、今回はそこで調整するしかありませんね。生活費の方はもうレベルを下げる訳にはいきませんし」
「くそう、そうなるのかよ。やっと新製品を成功させたのが認められて昇給したのに、それがパーかよ」
「お小遣いは月15万から6万にさせて下さい。お弁当は作ります。差額の月9万で年108万、減らされる年収100万を引くと残りは8万ですから、お弁当代にはちょっと不足すると思いますが、まぁ、私の小遣いから捻出しますよ」
「…何か、済まない」
「仕方がないでしょう」

 週が開けて会社に行くと、人事総務からメールが届いていて午後一に面談が入っていた。面談に行くと、人事総務部長から決定書のコピーを渡された。仕事が早いな、ライフスタイル庁!
「いやぁ、今回は災難でしたな。うちもあなたが初のケースです。来月分の給与から、その決定書の通りに実施されますので、よろしくお願いします」
「…会社としてこんな横暴に従うのですか?」
「うちは、役所の決定に従うだけですので。不服なら、その書面に記載の不服申し立て窓口に訴えてみて下さい…あんまり通りそうな気もしませんがね」
「…」
「話は以上です。では、午後のお仕事、頑張って下さい」
 午後の仕事には身が入らなかった。入るはずもない。ライフスタイル庁は、労働者のモチベーションを下げてどうしようってんだ? こんなことしたって、国威は低下するんじゃないのか? そんなに医療費削減が大事か?

 月が替わったところから、俺の昼食は妻の弁当になった。あいつの料理は旨いので、その点に不服はない。が、何と言うかやはり生活の彩りにはどうしても欠けるし、昼食時の息抜きができなくなってしまった。外で食べるのは、やはりそれなりに気分転換になっていたのだ。
 それからは毎日弁当になったので、最初のうちは自席や空いている会議室で食べていた。が、やはりそれまで外食してた人間が弁当に変わったので周りから色々質問されて鬱陶しくなってきた。すぐに、天気の良い日は外で弁当を食べるように変えた。以前昼食を外で食べていた時に見かけた公園に行くようになった。ベンチの数も多く、築山等もあり、そこで弁当を食べている会社員が多いな、と脇を通りながら思っていた公園だ。まさか自分もその中に混じることになるとは、当時は思ってもいなかったが。
 そうやって何週間かが過ぎたが、ある日弁当を食い終わっても妙に腹が空いていることに気づいた。実は年に何回かはこういうことがある。そういう時には、「食後の飯」に行くのが常だった。どうしよう? 時計を見ると、昼休みはまだ50分近く残っている。弁当になってから、小遣いも殆ど使ってないので、金もある。行きつけの鰻屋に行ってみよう。人気の店だから、満席だったら諦めて立ち食い蕎麦にしよう。
 鰻屋を覗くと、座敷の席が空いていたので、そこに上がり込んだ。
「あら、お久しぶり。また海外出張でしたか?」
「あぁ、うん、そんなようなもんです」
「いつも通りで良いですか?」
「えぇ、それでお願いします」
 ここではいつも、ふきの煮付け、鰻重 梅、肝吸いを頼んでいる。先に来たふきの煮付けが旨い。思わず涙が出そうになる。しばらくして来た鰻重も旨い。本当に泣きそうだ。何で、こんな思いをしていなければならないんだ? 不条理に過ぎる。俺が何をしたって言うんだ?
 それからは週に1度位の間隔で、弁当だけでは足りないと思った時にかつての行きつけの店を訪れるようになった。給料を下げられて以来落ちていた仕事に対するモチベーションも、少しだけ戻ってきた。やはり俺にとって、食は重要な活力の源なのだ。

 3ヶ月位はそうやって平和に過ごしていただろうか? ある日帰宅すると、また、あの不穏な封筒が届いていた。物凄く嫌な感じがした。開封してみると、「フォローアップ・カウンセリングのご案内」という書面で、要はその後の経過についてカウンセリングを実施するので予約を入れろ、ということらしい。予約サイトを見ると、前回とは違い、そこそこ直近の予約は埋まっていた。金曜の午後はどこも空いていなかったので、代わりに月曜の午前で空いているところを予約した。
 予約当日、検診所を訪れた。今回は問診票は無いようだ。カウンセラーは、前回と同じ人だった。
「お久しぶりです」
「どうも。今日は、どういうお話ですか?」
「先日、お昼の贅沢を止めて頂くよう、お願いしたと思いますが、覚えてらっしゃいますか?」
「えぇ、良く覚えてますよ。ですから、あれ以来毎日弁当です」
「…そうですか。ですが、相変わらず贅沢なさっているという情報がこちらに入ってきています」
「…どういうことですか?」
「週に1回程度かもしれませんが、鰻やらフレンチやら、相変わらず行ってらっしゃるでしょう?」
「…監視してやがったのか?」
「まさか。こちらもそれほど暇ではありませんので。ですが、指導には従っていただかないと困りますね」
「監視して無かったら、何故知っている? 俺の行きつけの店に問い合わせでもしたのか?」
「恐らくは、あなたの会社のどなたかだと思いますが、通報がありました。名前は開かせませんが」
…そういうことかよ! そんなに人の成功が気に入らないのかよ! あの新製品の成功で、額は大したこと無いが、多少は会社の利益にも貢献していて、同じ会社の人間ならその恩恵に授かったはずだろう? 俺の成功を見て、それよりも大きな成果を挙げてやろうっていう、ポジティブな思考ではなく、人の足を引っ張って闇夜に後ろ頭殴りつけてやろうっていう、ネガティブな発想になるのかよ。どいつだか知らないが、世も末だな。
「…で、今度はどうするって?」
「どうしましょうね。更に50万、年収を下げましょうか?」
「…そうかい、もうどうでも好きにしろ」
「えーと、それ以上の措置でも構わないと仰っていますか?」
「好きにしろ」
「なるほど。では、こちらにご署名下さい」
 提示された書面は既に俺の名前も含めて印字済で、署名だけすれば良いようになっていた。表題は「安楽死同意書」。
「へぇ、面白いもの、用意してあるんだね。しかも印刷済みかい」
「いや、あなたに限らず皆様の分を予め用意してありますので」
「どうだか」
 書面をざっと眺めると、かなり恣意的な文章が記載されていた。曰く、遺族を含め異議申し立て等一切しないこと、死体は検体され、利用可能な臓器は移植希望者に移植されること、等などであった。いい加減頭に来ていて、冷静さを書いていた俺はその場でその同意書に署名をした。書類をカウンセラーに返すと、署名を確認し、こう言った。
「はい、確かに頂きました。長い間ご苦労様でした」
「えっ?」
 待ち構えていたように部屋に注射器を持った医者が入ってきた。
「腕を捲くって頂けますか?」
「…ここで、今、家に帰ることもできずに、俺を…殺すのか?」
「殺すだなんて、人聞きの悪い。ご同意頂いた通り、安楽死して頂くだけです。」
「そりゃ、結局殺すんじゃねーか」
「以前ご希望通り一旦お家にお帰り頂いた方がいたんですがね、気が変わったとか仰って逃げ回られて、こちらも捕獲に大層手間がかかったので、以来同意頂いたらその場で処置することになったんです 」
「そうかい、これが最初からの狙いだったのかい。あんた、点数稼げて良かったな」
「私の為ではなく、将来の国民の皆様のためです」
 …本当に、もう、どうでも良くなった。生きていても、どうせ今後も延々とこの調子で嫌がらせをされ続けるだけだろう。ここで終わった方がマシかもしれない。一瞬妻の顔が浮かんだが、もうただの同居人のような関係になって何年にもなる。俺が死んでも金には困らないよう色々と手配はしてある。ある意味潮時かもしれない。何しろ俺自身が未来に対する希望を喪った。もう、どうでも良い。医者が俺の腕をまくり、注射針を突き立てた。俺はすぐに意識を失った。

 夕食はあの人の好きなカレイの煮付けを作ったのに、あの人は夜になっても帰ってこなかった。メッセージ・アプリで尋ねても、既読も付かない。こんなことは正直珍しい。メールやメッセージの応答は早い人なのだ。何かあったのだろうか? 夜8時近くなって、玄関のチャイムが鳴った。あの人は鍵を持っている筈だから、一体誰だろう?
「ライフスタイル庁の者です。ご主人のことでご報告に上がりました」
 良く分からないので、取り敢えず玄関に入ってもらった。職員は上司とその部下らしい2名だった。
「本日ご主人様がライフスタイル庁のカウンセリングにいらっしゃいまして、そこである決断をなさいまして、こちらがその書面になりますので、ご確認願います」
 提示された書面を確認すると、「安楽死同意書」とあり、確かにあの人の署名が記載されている。
「…どういう…ことなんでしょうか?」
「そちらにありますように、安楽死を決断なさいましたので、既に処置は済んでおります」
「あの人、死んでしまったっていうことですか?」
「大変恐縮ですが、その通りです。お悔やみ申し上げます」
 今朝出かける時には、そんな様子は微塵も無かったはずだ。
「今朝はそういう様子は無かったと思いますが、どうしてそういうことになってしまったのでしょうか?」
「カウンセリングを受けた結果、そのように決断されたようです」
「…そのカウンセラーの方にお話を伺うことはできますか?」
『申し訳ありませんが、そういうことは禁止されております」
「…詳しい理由や経緯も分からないのに、あの人の死亡を受け入れろ、と。そうおっしゃいますか?」
「申し訳ありません。私共はこちらのお知らせを連絡するだけの係でして、そういった情報は知らされておりませんので…」
「そうですか…あの人に会わせて頂くことはできますか?」
「…明後日以降でしたら可能です」
「明後日? それは何故? 今日や明日の朝は駄目なのですか?」
「そちらの同意書にあります通り、臓器提供に同意なさっていますので、その摘出手術等の関係上、今日明日は難しいのです。ご理解願います」
「…今日、亡くなったのに、随分と手際が宜しいのですね」
「コンピューターに適合性の情報は事前に登録されていまして、死亡なさるとすぐに適合者を探し、移植手術の手配をすることになっています。移植は臓器の鮮度が命ですので…」
 思わず失笑しそうになったが、何とか堪えた。ライフスタイル庁の職員は話を続けた。
「こんなことが慰めになるかどうか分かりませんが、ご主人の臓器はほぼ余す所無く移植活用が可能でして、移植先の方達の今後の医療費が大きく削減されることが見込まれています。恐らくは今期の成果の、1位2位に相当するかと思われます。来期頭に感謝状が送られることになるかと思います」
「…そうですか。お国のために、とても役に立つ死に方をしたと、仰るのですね」
「はい。それと、些少ではございますが、お見舞金が出ることになっていまして、こちらに受け取りの署名と振込先口座の記載をお願いします。ご辞退なさった場合は、医療費の国庫に収めさせて頂くことになります」
 見ると1千万円と記載されている。桁が1つ、2つ間違っているんじゃないの? と、思ったが、黙って振込先を記載した。これすらも辞退させようとする悪意すら感じた。
「はい、確かに頂きました。死亡診断書他、各種手続きに必要な書類や案内は今週中には郵送でお届け致します。それでは我々は失礼させて頂きます。この度は、本当にご愁傷様でした」
 そう告げると、職員は帰っていった。図らずもあの人が好きだったカレイの煮付けは、あの人への陰膳となってしまった。いや、もう死んでしまったのだから、陰膳とは言わないか。あの人とは、もう何年もただの家族というか、同居人のような関係になっていたので、特に大きな悲しみは無かったが、それでもその晩は色々と物思いに耽ってしまい、結局、一睡もできずに朝を迎えた。

 その後、知人友人とメッセージ・アプリなどで情報交換をした。今の所、ライフスタイル庁に殺されてしまったのは私の主人だけのようだった。カウンセリングの案内はどうやら満40歳になると届くようだった。私は今37歳になったばかりなので、私の所に案内が届くまで、後3年弱あると思う。今回のお見舞金や、生命保険、それと有価証券類等、あの人の残してくれたものを計算すると、数千万円はあることが分かった。今住んでいるマンションや投資用の不動産もあった。これらは団信のお陰でローンの残債は無く鳴ったが、処分するのも惜しいのでそのままにすることにした。相続税を差っ引いても、現金で8千万円近く残りそうだった。この点はあの人に感謝しなくては。
 私のところにライフスタイル庁からカウンセリングの案内が届くまでの3年間、私は今までできなかったことを、私の人生に悔いが残らないようにやろうと決意した。年2千万円使っても、3年間なら、6千万円あれば足りる。40歳を過ぎたら、いつ死んでも構わない覚悟を決めた。太く、短く生きよう。
 ライフスタイル庁は、医療費削減を看板に掲げて、結果、この国を滅ぼすだろうと思った。

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