25(最終話)
舞踏会から数日。
また訪れようとしていた週末の前日に、アンドレアはエステルのベルンディ公爵邸を訪ねてきた。
王都の通りは、王太子の専用馬車と護衛部隊の進行に注目が集まった。
家族は合舞踏会の翌日に出掛けて以来、アンドレアに対して何も言わなくなっていた。
安心したような雰囲気は伝わってきた。王宮に呼び出された際に、国王も交えて話しをしたのだろうとは、エステルも推測していた。
だから、緊張と共に、結婚を明確にしたアンドレアと再会できる日を、待ち遠しくそわそわと待ってもいたのだ。
「殿下、こちらへ」
兄がわざわざ案内を買って出て、一階で、今の時間一番日当たりのいいサロンへと導いた。
その間、エステルとアンドレアにエスコートされていた。
緊張はあったが、どきどきと鳴っている胸はそのせいだけではないだろう。
エステル達が移動したのは、庭へと出られる大きな窓が並んだ奥のテーブル席だった。
「さ、二人は、ここに」
兄は、あろうことかアンドレアと同じソファにエステルを置いた。
エステルは素早く反応したが、兄はちょっと溜息を吐きたい顔をして先に口を挟む。
「エステル、これくらいは普通だ」
「で、でも……」
「俺も、過保護に育てたのは分かってる。けど、いいんだ。分かったな?」
とにかく、隣同士で話し合うのだと兄は言い聞かせる。
「俺も、君が隣にいてくれた方が助かる」
アンドレアが、不意にエステルの手をきゅっと優しく握ってきて、彼女は心臓がばっくんとはねた。
「そうでなければ、抱き上げて隣に置くと思う」
「だ、抱き……!?」
「本当だったら、あのあと一時でも離れたくない気持ちだった」
彼は、いったいどうしてしまったのだろう。
エステルは、自分の顔が真っ赤になっているのを自覚していた。
兄の「はぁ。なんでこんなに初心に育ったのか」という独り言が聞こえてきた。思わず蹴りでもみまってしまおうかしらとらしくないことを考えたが、彼は早々にメイド達にバトンタッチし、出ていった。
テーブルの上に、今日アンドレアが来ることを考てエステルが用意させた紅茶と、つまみの砂糖菓子が並ぶ。
(彼が来るのは、十一年ぶり――……)
婚約したばかりだった頃、一度だけ彼の訪問があった。
湯気がたちのぼるティーカップを眺め、心を落ち着かせようと思ってそんなことを考える。
すると聞こえてきたアンドレアの言葉に、どきりとした。
「ここに来るのは、十一年ぶりだな」
「は、はい、そうですね……」
「俺がこの紅茶が好きなのをまだ覚えていてくれて、嬉しい」
またしても驚き、エステルはパッと彼を振り返った。
「ど、どうして」
「君と話したことなら全部覚えてる。君がこの店の紅茶を好んでいて、珍しいアゼラの花が混ぜられたこの紅茶が好きで……癖のある甘い香りがする紅茶だ。俺も、初めて飲んだ日に好きになった」
「そう、でしたか……」
メイド達が頭を下げて出ていく。
普段は開けっぱなしの両開きの扉が、静かに閉められていくと、広いサロンは二人きりになった。
大きな窓側の席からだと、広々とした室内用の様子がよく眺められた。
「君は当時、どう思っていた?」
紅茶を飲みながら、彼が静かな口調でそう言った。
どきりとした。あなたこそ、と口から出かけた言葉を飲み込んだのは、アンドレアが落ち着いた横顔をこちらに向けていたからだ。
「どうして、そうお聞きに?」
尋ねると、やはり珍しくティーカッブを覗いて彼が少し間を置く。
「心もすべて打ち明けて、君と、話したいと思ったから」
エステルは、彼から、我が家の見慣れた美しいサロンの光景へとゆっくりと視線を戻した。
それを見ていると、心は次第に元の通り落ち着いていく。
彼が、話す場をエステルの屋敷だと決めた理由がなんとなく分かった気がした。それから彼も、正直に話すのに緊張していること。
彼は、そういうのが下手そうだ。
(どこかの王子様と違って、とても口が堅いところがあって――)
出会った時、とてもしっかりしているいる印象はそのままだと思った。
そこも、エステルは好きになったのだ。
「あの頃は……すべて、うまくいくと思っていました」
そう思い返し、また彼が隣にいると思ったら、安心感にゆったりと包まれて言葉が素直に出ていた。
「婚約者として指名を受けたことにひどく緊張して、王子様と会うなんてと、王宮に行く日も弱音をこぼして」
聞いているアンドレアが「ああ、やはりそうだったのか」なんて言っている。
エステルは、少しだけおかしくなって苦笑をもらした。
「けれど一目会った際に、不安も飛んでしまったんです。あなたが……手を差し出してきて、話題を振ってくださったから」
気圧されるような美しさに見惚れて、緊張した。
だが、はにかむように彼は笑って手を差し出してきて、一人の男の子なのだとエステルは思った。
そして二人で王宮の庭園を歩きながら話したその日に、エステルは、彼とならいい夫婦になれるのではないかと思ったのだ。
「魔力の相性がいいせいだろうな」
「魔力?」
「心地よく感じる魔力の波長同士がある。俺と、君がそうだった」
アンドレアがティーカップを持っていない方の手で、自分とエステルを交互に指差した。
「そう、だったんですか……」
「魔法をかなり使う者だと、その波長の感じがよく分かる。魔法の種類によって魔力の波長を寄せる技術があるから――でも、俺もそれ抜きで、君とはいい夫婦になれると思っていたんだ」
「えっ?」
彼の視線が、ティーカップと共にテーブルへと落とされる。
「出会った時……話す君を愛おしい、と思った」
それは、エステルには驚きの事実だった。
「守りたい、と、心から思った――十一年経っても、その思いは変わらない」
彼は喉元に引っ込もうとする言葉を引き留めるみたいに、苦しそうな顔で、言葉を一つずつ出していった。
衝撃が大きすぎてエステルは過呼吸になりかけた。
てっきり彼は、魔力量だけであてがわれた婚約者をよく思っていないとばかり……。
「……それなら、どうして」
どうして二人は、うまくいかなかったのか。
エステルは大怪我をしたあの時も、痛くて苦しいのを幼いながら我慢してまで『彼に安心して欲しい』と思って、どうにか笑った。
アンドレアがティーカップを置く。
「君が生きるには、過酷すぎる世界だと思った」
エステルは息を呑む。
「まさか私が、怪我をしたから?」
身を乗り出すかのような彼女の動きに、両手に持っていたティーカップの中身が大きく揺れる。
アンドレアがそちらを見て「危ないよ」と言い、片手で持ち上げ、テーブルへとおいた。
そんな優しさにも、エステルは胸がきゅぅっと締めつけられた。
「答えてください、アンドレア」
ずるいと思いながらも、彼の名前を呼ぶ。
「……そうだ。君が怪我をした。もう少しで君は、死ぬところだった」
出血量が、もう少し多かったら死んでいたとはエステルも聞いていた。
幸いにして彼女の癒し属性の魔力が、医療魔法へと傾き、自身の血流を操ったから最悪の事態は免れた。
「なら過酷というのは、あなたと生きるには、ということですか?」
「俺といると、君は余計な危険に晒される」
見つめ合ったアンドレアが、くしゃりと目を細めた。
泣きそうな顔だとエステルは思った。同じくらい、彼女の胸も詰まった。
彼が手を組み、視線をそちらに向けながらきゅっと握り合わせた。
「すまなかった」
告げられた声は、かすれていた。
「君のことが、あの短い間に、とても大切になっていたから、……かけがえのない女の子になっていたんだ。初めて、大切になった子だった」
「アンドレア……」
「俺は、君には、幸せになって欲しかったんだ」
俯く彼の横顔は、苦しそうだった。
まるで、泣けない涙をその目から流しているみたいに見えた。
その代わりのようにエステルは素直に泣いた。
「私の幸せなら、あなたの隣にあります」
彼女の深いアメシストの目から、はらはらと涙がこぼれ落ちていく。
「……私は……あなたが、好きなの……好きだったの、ずっと……」
好き、そう告げた途端に涙腺は崩壊した。
恋をした。だから一層、彼に背を向けられることは苦しくて仕方がなかった。
それと同時に、彼がエステルのことを考えて、同じくらいつらい思いで背を向けていたのだと思うと、悲しくて仕方がないのだ。
どうして気づいてあげられなかったんだろう。
彼に走り寄って『気にしないで』と言ってあげられたら、よかったのに。
「っすまない、エステル」
ハッとこちらを見たアンドレアが、エステルを強く抱きしめる。
エステルも、ようやく抱きしめられるのだという思いから、しがみつくみたいに彼の背に腕を回してしまった。
頬を濡らす温かい涙は、なかなか止まってくれなかった。
過去の悲しみと、そして確かに愛があったことへの思い。
アンドレアから向けられている確かな愛情が、これまでの彼女の傷ついた心に雨を降らして重くこびりついていた感情をすべて洗い流し、腕の温もりで心に晴れ間を作ってくれるみたいだった。
「許してくれ。一生をかけて、償っていくから」
どうか泣かないでくれと、アンドレアがエステルの涙を手で拭う。なぐさめるみたいにキスもした。
彼とは思えないキスの雨と、くすぐったさに笑いが誘われた。
「ふっ、ふふ……やめてください、アンドレア」
「ようやく笑ってくれたな。なら、やめるわけにはいかないな」
じゃれ合うみたいに、ソファで抱きしめ合ったまま彼からのキスの雨を受ける。
だが、不意に、彼のキスは、エステルのドレスの襟から覗く傷跡へと向きを変えた。
空気が、その一瞬で変わった気がした。
その時になって、エステルはいつの間にか彼の膝の上に座らされていることに気づく。
「この傷もすべて、愛している」
唇の熱を強く感じて、エステルは胸がきゅんっと甘く高鳴った。
「エステル、どうか俺と結婚してくれ。俺を君の夫にして欲しい」
彼が胸元から目を上げる。
強い眼差しに見つめられて、心臓がどっくんとはねた。
「君の望むような婚約者になるから、チャンスが欲しい」
嬉しさで胸がどうにかなってしまいそうだ。
「……もう結婚まで決まってしまったのに、チャンスが欲しいなんて言い方、おかしいです」
「初夜で君に『嫌』とつっぱねられたら俺は立ち直れない」
「私が、つっぱねるとお思いですか?」
「君を傷つけたのは確かだ。これから償っていく。君が頷くまでは、無理に挙式へ進めたりしないから、だから……」
アンドレアが、自分の膝の上に乗ったエステルの脚を抱くようにして、引き寄せる。そして彼女の肩に、顔をすりよせるようにして埋めた。
まるで、子供が『行かないで』と甘えるみたいだった。
「そもそも、望むようなと言われても……」
「君を、もう絶対に悲しませない。本音は隠さない」
本音、とエステルは不思議に思って繰り返す。
「赤面している君を、この前初めてみた。かなり嫉妬した」
この前、というとアルツィオといた時だ。
(アルツィオっ、分かっていてやったんだわ!)
今になって察した。出会った時からちょくちょく変だなと思っていたことがあったが、すべてアンドレアへの嫌がらせだったのか。
嫉妬したと伝えられて、エステルはみるみるうに赤くなる。
するとアンドレアが顔を上げ、エステルの表情を見て、ふっと笑った。
「本音の方が確かにいいらしい。好意を伝えた方が夫婦愛も深まると学習したが、正解だったのか」
「ふ、夫婦愛!?」
「俺は世継ぎのためだけの結婚をするつもりはない。エステルと、愛し合いたいんだ」
今度は両腕で抱きしめられ、頭の横をすりすりとこすりあわされる。
(……これ、意識してやっているのかしら?)
それともアンドレアは、意外と〝こういう仕草〟が好きだったりするのだろうか。
本音で、と彼は言ったけれど、こんな人だっただろうかとかえって困惑する。
(けれど――)
夢みたいに、幸せだった。
先程抱きしめたのに、おそるおそる手を伸ばし、彼のプラチナブロンドに触れた。
彼の髪をさらりと撫でると、アンドレアがい心地よさそうに息をもらす。
本当に、嬉しいのだと彼の全身から伝わってきて、エステルの肌がぼっと熱を灯す。
「償いだなんて、言わないでください。……もう、それだけでじゅうぶんです。アンドレアは、誠心誠意に話をしてくださいました」
撫でていると胸がきゅぅっと甘い気持ちでいっぱいになって、たまらず彼の頭を抱き寄せる。
「こうしてそばにいてくださる――それが、私はとても嬉しいです」
ずっと、寂しい思いをしてきた。
彼に悲しい覚悟をさせてしまったと分かったら、エステルも、もっとそばにいなければと感じている。
彼女はアンドレアの頬に手を添え、目を合わさせた。
「好きです。昔からずっと、好きでした。愛しています、アンドレア」
嘘ではないと伝えるために、今の気持ちで微笑みかける。
アンドレアが眩しそうに見つめた。頬に添えられたエステルの手に、自分の手を添え、心から嬉しそうな笑みを浮かべた。
「ああ、ようやく、君の笑顔を見られた」
彼の顔が近づく。
けれど、近くで止まる。
アンドレアの熱い眼差しが『いいか?』と問いかけてくる。
こんなに甘い表情ができる人だったのかと驚く一方で、エステルは愛しい気持ちにまた笑顔になってしまった。
「あなたの気持ちを、教えてください」
また、聞きたくなった。
「いいよ、もちろんだ。昔から好きだった。君を、心から愛してる」
「私もです、アンドレア」
唇を寄せると、アンドレアがしやすいように顔を向けてくれる。
エステルから彼へキスをした。彼がしていたように、深く、互いの口を重ね合う。
彼と思いが通じ合ったことに、胸が熱く震えた。
だが、間もなくて、なぜ唇の隙間から彼の笑い吐息がこぼれた。
「ふっ、くくくく」
「アンドレア?」
「エステル、感動しているところ悪いが、キスというのはそれで終わりではないよ」
「え?」
彼の手が首の後ろから後頭部へと滑り込み、引き寄せられる。
「これから、俺が教えよう――」
甘い声に誘われて、エステルもまた安心して唇を委ねる。
彼は待つと言ったけれど、彼女はすぐにでも結婚の返事をするつもりだった。
できた素敵な友人達、愛する人。
エステルは幸せだった。そして、いい夫婦になれる予感で不安なんて微塵にもない。
けれど彼女は、アンドレアのいう『キス』を知って、膝の上でしばし悶絶してすぐには答えられなくなる。そこを、様子を見つつ昼食会に誘いに来た兄が、目を疑うほどにこにこしているアンドレアと、その膝に抱っこされて顔を両手で覆っているエステルを見て、
「……何してんだ?」
とツッコミすることになるのだった。
了