バナー画像 お気に入り登録 応援する

文字の大きさ

疲弊した体で僕は玄関に足を踏み入れる。
そして僕の足音を聴きつけた女性が僕にハグをした。
『おかえり』
その声はとても愛情豊かで僕の背中をそっと撫でる。
「ただいま」と返した僕の声は何かが欠けていた。

 
僕には昔、恋人がいたんだ。
僕の子を身篭ったばかりの恋人が。
彼女は優しくて、僕のことをちゃんと想ってくれて…
とにかく良い人だったよ。




  
『ねぇ。前話してた心臓病の手術、どうだった?』

  
食事を待つ僕に、彼女は料理を置いた。
僕は合掌し、それを口に運ぶ。
「ああ、手術なら前に成功して、患者は退院してるよ」
  
『良かった。手術って結構緊張するものでしょう?』
 向こう側の彼女も野菜から手をつけた。
「いや、もう慣れたよ」
 彼女は何とも言えない表情になった。
『そう………さ、流石だね!ほんとに、凄いよ…』
そして苦笑した。僕を気遣うように。
なんだかもどかしい。 
「あ、あはは」


 
  
でも、
僕は社会に出て、人間に興味をもてなくなったんだよ。
だから患者は勿論、彼女も他人事だと思えてくるんだ。




 
だけど、彼女はめいいっぱい僕を愛してくれてる。
別れようともしたんだけど、そんな方法で悲しませる訳にもいかなかったんだ。




  
今日もいつもの体で玄関に足を踏み入れる。
そしていつものように彼女が僕にハグをした。
だが、いつもとは何か違う感触が背中で感じる。
 
『はい、これどうぞ。交際してから一年でしょ』 
その後に手渡されたのは白いラザレアの花束だ。
花言葉はあなたに愛されて幸せ。
『いつも一緒にいてくれて…ありがとう。愛してる』
彼女は僕の頬に軽く口付けをした。
一瞬擦れた頬は火照っていて、愛が溜め込まれている。
それは僕への愛。
「うん。僕もだよ。愛してる」
僕は彼女の気持ちを壊さないように嘘をつく。
もしかしたらと思ったが愛の幸福は感じない。
僕は、無性にその花をめちゃくちゃにしたかった。




 
だから、その時は苦しかったんだ。
 彼女は僕のことを愛してくれているのに
 返せるものが何も無くてさ。何だか馬鹿みたい。
 そんな僕に期待してると思うと申し訳なかったよ
 



 
そんな日々から僕は救われたくて親友に相談したんだ。
その親友は年上で兄さんみたいな、そんな存在だよ。
 
『人に興味を持てない?』
「うん。何だか他人事みたいに思えてくるんだよ。
 その性格を治したくて…」
『あのなぁ…!!』
僕の親友は机に拳をぶつける。
『性格を相談されたって何にもいえねぇんだよ!
 そんなのは自分でなんとかできるだろ!』
呆れた親友は、机に珈琲二人分の硬貨を置いた。
『俺もう帰るわ』
「ああ…そうか」
『……お前変だよ』
「え?」
『いや、なんでもない。じゃあな』
そして、親友は背中を向けて去っていった。
失望と絶望が混ざりあった沼に沈む、僕をとり残して。
信じてたのになぁ。








信頼できる親友に相談してみたけれど、
僕に呆れて帰っていったよ。
だからこのまま人を悲しませ、失望させるより、
自分が死んだ方がマシだと思えたんだ。









深夜三時。恋人は寝静まる時刻だ。
僕はロープを輪の形に結ぶ。
小さな台をポールハンガーに運ぶ。
掛かった使わないシルクハットやコートを床に置く。
台に乗り一番上以外の突起を外す。
そのまま残した突起にロープを結ぶ。
そして…










  
『ねぇ』
声が聞こえた。
あのいつもの彼女の声だ。
 
『一緒にお茶でも飲まない?良い茶葉買ったんだ』
僕は止められてしまったなぁ。
彼女は僕を安心させようとしている。
でも僕の手は震え、目の縁が熱い。
口も握る手も固くなった。
僕は彼女に泣きついた。嗚咽した。
彼女は背中を撫で下ろし、僕を包み込んでくれている。
僕はこの時なら彼女は受け入れてくれると思ったんだ。
そして、僕は泣き声になりながら全てを吐き出した。
 
僕が人に興味が持てないということ。
僕が彼女を愛せないということ。
僕がそれをずっと前から秘密にしていたこと。
 
その後はひたすら「ごめんなさい」と繰り返した。
心の底から愛せなくてごめんなさい。
こんな君に興味も持てない僕でごめんなさい。
今まで隠しててごめんなさい。


心の不純物を余ることなく外にだし彼女を伺った。
僕は彼女に愛を返せない。
このまま別れて、彼女に幸せになって欲しかった。
『別れよう』の言葉を僕は待っていたんだ。




  
『大丈夫だよ』
でも彼女は違ったんだ。
『どんな貴方でも、気持ちは変わらない。
 だってあなたは私が一目惚れした唯一の人だよ』
僕は安心より後悔が先に出てしまった。
何故こんなことを口走ったのか。
 
『私はずうっとあなたの傍にいるよ。
 例え屑になろうが塵になろうが』
 
彼女の目元は笑っていた。 
僕は彼女に言われて初めて思い知ったんだ。
僕はずっと何も返せないまま、
ずっと彼女に愛される‪ことになる。
まるで僕は赤ん坊だ。
このままずっと彼女に赤ん坊のように扱われ、
赤ん坊のまま一生を終えることになるんだ。
このままでいいかもしれない。
でも______









 






 
そんなの嫌だ。







 
僕は彼女を引き剥がし、輪の形のロープを右手に持ち、
コートのポケットの中の持ち歩きメスを左手に持った。
彼女を押し倒す。
 
ドンッ!!
そして感情のままメスを首のすぐとなりに突き刺した。
彼女は瞳孔を小さくさせて震えている。
あの落ち着きのある彼女が。
僕はロープを彼女の首に掛け、上に引っ張った。
彼女は足をバタバタさせながら呻く。
そして気絶寸前の所で縄を緩める。
彼女はゲホゲホと咳をして、息を吸い返す。 
今度はメスをあて、首を軽く切る。
血がドバドバと溢れた。
彼女は悲鳴を上げ、死の瀬際にビクビクとしている。
 
彼女の余裕そうな顔。
何分か前は僕をあやす程油断していたのに、
その僕にこんなに苦しめられている。
はぁ……。
 





「かわいい…………………」

手を刺す。爪を剥ぐ。口を切り裂く。
彼女は激痛に耐えながらもがいている。
こんな余裕の無い姿をぼくに見せながら。
それに比べて僕は笑っていた。
ほんの少しだけ狂っているような、そんな笑顔だ。


『ねぇ、やめてよ…!!いたい…痛い……!!!』
彼女が訴えかけても、僕の手が止まることはない。
それどころか、僕は嗤って彼女に刺していく。
彼女はどこか刺す度に痛がっていく。
可愛い。可愛い。可愛い。可愛い。可愛い…!可愛い…!
刺す時の背徳感が僕の気持ちいいところを攻める。
そしてその罪悪感も快感の一部になり頬を紅潮させる。
まるで本当に彼女を愛しているみたいだ。
 
 
「すてきだなぁ…………………!」
ぼくは首をなるべく浅く切る。
何度も、何度も、何度も。
そう刺すうちに彼女はボロボロの状態になっていた。
綺麗な肌はズタボロに。
茶色の髪の毛は不揃いに切られ、
四肢は血塗れ。
彼女は諦めたのか喚かずただ死を待っている。
 
そろそろ潮時と感じた所で、
トドメを刺そうと傷がついていない目にメスを向ける。
そして、右目に刺した。


右目からは沢山の血が零れた。
そして血の染み付いた床の上で
彼女は死んだ。
 
僕の最愛の人を無くしてしまったが、
何だか心がドキドキした。息するだけでも辛い。
きっと僕は初めて彼女のことを愛せたんだ。
僕の口角は三日月のように上がり、鼓動が速くなる。
そんな中、僕は窓の景色を見る。
満月だ。
今夜の月光は僕を包み込んでくれる。
暫く見て、やっと冷静にできるようになった。
 
そして彼女を見るなり思った。
(死体、どう処理しようか?)
 
思う度、後悔がチラつくがそんなことはどうでもいい。
この興奮を、この幸福を、今はじっくり味わうんだ…!!




僕は久しぶりにシルクハットを被り、僕は笑う。











 そして僕に真っ黒な春が訪れた。

しおり