第1章:奇妙なアプリと三国志への転移
## 第1章 奇妙なアプリと三国への転移
オーブンのタイマーがキッチンの静寂を破るように鳴り響いた。午前零時をゆうに回った時間帯。高校二年生の橘(たちばな)悠介は、今まさに試作したばかりのスイーツを取り出そうと、小さなアパートの簡易キッチンで動きを止める。
彼は将来パティシエになることを夢見ており、遅い時間帯でも構わず趣味の菓子作りに没頭していた。明日も学校があるのはわかっているが、レシピを思いついてしまうと居ても立ってもいられないタチである。
今日は少し変わったレシピを思いついた。すでに売られているスイーツのアレンジにとどまらず、何か独自のアクセントを加えたい——そう思ってレシピ共有アプリを眺めていたところ、妙な広告が目についたのだ。
「三国志グルメ!? 武将も唸った絶品スイーツを再現しよう」
そんなタイトルのバナーを見て、悠介は思わず笑みを浮かべた。三国志と言えば中国の歴史物語で、武将たちの豪快な逸話が多い。だが、そこに“スイーツ”を掛け合わせるという発想はあまり聞かない。興味がそそられ、タップしてみると、どうやら普通のレシピ投稿サイトに混じって謎のサブページへ誘導される。
ページを移動しても、なぜかエラーが出てしまって肝心のレシピは表示されない。アプリがバグを起こしているのか、スマホ画面が一瞬ノイズを走らせたかと思うと、唐突に真っ白になってしまった。
「なんだ、落ちたのかな……」
そう呟いてアプリを閉じようとするが、画面は硬直したまま反応しない。スマホの再起動でも試そうかと思った矢先、今度は真っ白い画面が黄色く色づき、激しい閃光がスマホから走り出す。
「えっ、嘘だろ……? ちょっ、ま、眩しいっ!」
とっさに顔を背けるものの、光は見る見るうちに部屋全体を包み込み、まるでサーチライトを浴びせられているかのように視界が真っ白に染まっていく。次の瞬間、キッチンの床からズルズルと足元が沈み込む感覚を覚えた。まるで自分だけ重力から切り離されて、宙に浮いているかのような——そんな異様な浮遊感。
「う、わ、何だこれ……!!」
悲鳴にもならない声をあげたところで、意識がぷつりと途切れた。焦げ臭い匂いとともに、タイマーを止めるはずだったオーブンは鳴り続けている。だが、その音を聞く悠介はいなかった。
目が覚めたとき、悠介の耳に飛び込んできたのは焼け焦げの匂いではなく、金属がぶつかり合うけたたましい衝突音だった。大地を震わすような馬蹄の轟音と、人々の怒号。そのすべてに、自宅のアパートとは到底結びつかない“荒々しさ”があった。
「な、何……ここ……?」
仰向けの姿勢から、痛む頭を押さえつつ上半身を起こす。視界には、まるで映画のワンシーンに出てくるような光景が広がっていた。茶色く染まった地面はひび割れ、あちこちに矢が突き刺さっている。鎧を着こんだ男たちが馬を駆っているのが見えるが、日本の戦国武将の鎧ともどこか違う。もっと異国情緒というか、古めかしい中国風の甲冑が目についた。
「撮影現場……? いや、そんなわけないよな……」
呆然と呟いていると、すぐそばに落ちていた一本の矢が目に留まる。どうやら作り物ではない。先端には鉄製の矢じりがついていて、もし当たれば致命傷は免れないだろう。肌が総毛立つ。これはただのショーではなく、本物の戦場だ。
そこへ、横合いから声が飛ぶ。
「そこの者! 何奴だ!?」
十数名ほどの武装集団が、自分のほうへ武器を構えてじりじりと近づいてくる。馬上には大きな槍を携えた屈強な男もいれば、足軽のような小兵も混じっている。
「まずい、巻き込まれたか……?」
すぐそばに転がっているスマホを確認しようとするが、画面は真っ黒のまま。先ほどの閃光に関係しているのは間違いないが、いったいどうなっているのか見当がつかない。
「俺はただの高校生……えっと、わかるかな、高校生……」
手を挙げて降参のポーズをとるも、相手が理解できる言語かどうかさえ不安になる。しかし驚くことに、男たちは流暢な中国語というよりは不思議な日本語のような言葉を喋っている。ドラマの吹き替えを聞いているような独特のイントネーションだ。
「怪しげな服装だ。賊の手先かもしれぬぞ」
槍を構える兵が険しい眼光を向ける。悠介は自分が普段着のジャージ姿であることを思い出して、あまりに状況がかけ離れたシチュエーションに言葉を失う。
さらに不可解なのは、その集団の旗に大きく書かれた漢字である。「劉」という一文字が染め抜かれている。悠介は歴史の授業で聞いた三国志の英雄・劉備(りゅうび)を連想するが、まさかそんな馬鹿な話があるものかと頭を振った。
「お、おまえ、一体どこから来たのだ? 村人の風体でもなさそうだが……」
先ほどの槍の兵が、悠介の首筋に槍先を突きつけてくる。心臓が早鐘を打ち始め、どう答えればよいのか迷う。
しかしそんな悠介の視界に、弱々しくうずくまった一人の兵が飛び込んできた。彼の腕には大きな裂傷があり、血が止まらなくなっているのか顔色も悪い。周囲の兵たちも疲弊しているらしく、みな険しい表情を浮かべている。
「……お、お腹が……もたない……」
「水と乾パンは残っているか?」
そんな会話が耳に入った瞬間、悠介の脳内に一つのアイデアが閃く。「いや、待て。こんな現実離れした場所で、どうやって? ……でももし、これが本当に三国志の世界ならば」
彼は普段から持ち歩いている小さなショルダーバッグを開ける。中には料理道具やメモ帳、そして何故かいつも携帯している少量の調味料が入っていた。蜂蜜の小瓶もその一つだ。それは学校の家庭科室を使って試作する時などに便利なので、癖になって持ち歩いているのだ。
「おいおい、何をゴソゴソしている! 怪しい真似をするな!」
「いや、ちょっと待って! これ……見て!」
悠介は両手を広げながら、まずは敵意がないことを示そうとする。まさかこんな異世界まがいの場所に放り込まれると思っていなかったが、死にたくはないし、この状態の兵を救うには何かしなくてはならない。
「蜂蜜って知ってる? ハチが作る甘い液体……」
説明しながら、小瓶のキャップを外して中身を指ですくう。相手はまだ警戒を解いていないが、とにかくこちらの真意を示したかった。
「一口なめてみて。疲れに効くから……たぶん」
恐る恐る指先を差し出すと、最初は「下手な毒じゃないだろうな」と誰もが疑いを隠さない。だが、倒れ込んだ兵の一人が意を決して舐めた瞬間、驚きに目を見開いた。
「あ、甘い……っ! こんなものがあるのか……?」
「水や干し肉に飽きてるんだろ? ちょっとだけど、エネルギーにはなるはずだよ」
悠介はしゃがみ込み、その兵にもう少し蜂蜜を与える。周囲にいる仲間たちも信じられないものでも見るかのように凝視している。そして指先の甘みが喉を通り、兵の表情がわずかにほころんだ。
「これ……すごい……身体が少し熱くなる気がする……」
その様子を見た槍の兵も、少しだけ槍先を下げて悠介に問いかける。
「貴様、何者だ? なぜそんな貴重な甘味を持っている」
悠介は心臓をまだバクバク言わせながらも、舌っ足らずに答えるしかなかった。
「えっと……日本の、いや、えーっと……違う、ここじゃ通じないか。俺は高校生で、菓子作りが好きなんだ。家から突然、転移みたいなことが起きて……気づいたらここに立ってたんだよ」
返事に困惑したのは向こうも同じらしく、兵たちは顔を見合わせている。どこぞの“奇妙な術者”かもしれない、と猜疑心の色を強める者もいれば、見慣れない甘味を兵に差し出す姿に“得体の知れぬ善人かもしれない”と迷う者もいるようだ。
「とにかく、ただの怪しい奴ではなさそうだな……。連れて行くか。御方にお伺いを立てねばならぬ」
槍の兵はそう言って、悠介に歩み寄る。周囲の兵が周到に囲む形で、やむなく悠介は捕虜にも似た扱いを受けることになった。少なくとも殺されずに済むかもしれないという安堵もあったが、この奇妙な状況に混乱する心は治まらない。
兵たちの会話を聞いていると、どうやら総大将は「劉備」と呼ばれているらしい。悠介は三国志の本で学んだあの名君・劉備なのでは、と半信半疑になる。まったくもって現実感がなく、夢の中に迷い込んだようだが、蜂蜜の甘みや兵士たちの生々しい傷口を見る限り、現実であると認めざるを得なかった。
少し歩くと、視界に仮設の陣営が見えてくる。破れた帳や血のこびりついた場所もあり、敵軍との戦が苛烈だった痕跡が残る。悠介を取り囲む兵の一人が、怪訝そうに言う。
「おまえ、本当に軍の者でもないのに、なぜここに現れた?」
「それはこっちが知りたいよ……アプリを見てたら光って、気づいたらここなんだ」
「アプリ……?」
もちろん伝わるわけがない。悠介はやれやれとため息をついた。本当なら今頃は新作スイーツの焼き加減を確認しているはずだった。けれど、今はとにかく生き残ることに集中しなくてはならない。
やがて兵の案内で、少し奥まった場所まで移動する。兵士たちの緊張感がさらに高まるのを感じた。どうやらこの先に陣を構えるのが、噂に聞く“劉備”その人なのかもしれない。
「ここから先は軽々しく口を開くな。御方のお心を損ねれば、おまえの命はないと思え」
槍の兵は低い声でそう警告する。周囲の兵も武器を手放してはおらず、悠介はゴクリと唾を飲んだ。ある意味、先ほどの戦場よりも気が張り詰める。歴史上の英雄に会うなどという機会、まさかこんな形で訪れるとは。
「……わかった。できるだけ失礼のないようにするよ」
呟きながら陣の中央へ足を踏み入れると、そこには武骨そうなテーブルの前に屈強な男たちが立っていた。中央に座すのは、やや疲れを隠しきれないが、どこか慈悲深い眼差しをたたえた人物。あの伝説の“三兄弟”を思わせる視線と風格がある。
悠介は胸の鼓動を抑えながら、この奇妙な運命がどこへ向かうのかをまったく想像できないまま、異世界の“名将”と対面することになった——。
(第1章・了)