バナー画像 お気に入り登録 応援する

文字の大きさ

20話 困惑




そこは、彼女が三百年もの間、心の拠り所としてきた場所だった──

亜人たちの国、エスカリオン共和国。その首都アルデンフォードの奥にそびえるアルファリオ城。その中でも最も荘厳な空間、玉座の間は白を基調とし、青と金色の装飾が鮮やかに調和している。亜人特有の優美な曲線で彩られた壁と柱が、見る者に神秘的な印象を与える。

その玉座の背後には、巨大な窓が設けられていた。縦に長く切り取られた空間からは、都市全体を見下ろすことができ、さらにその向こうには広大な空が広がっている。その景色は、まるで永遠を象徴するかのように静かで壮麗だった。

彼女は、その大窓の縁に腰掛けていた。血のように鮮やかな赤い髪を両側に巻いた独特な髪型。背中には漆黒の竜の翼を広げ、その姿は威厳と孤高をまとっている。彼女の瞳は深紅の宝石のように美しかったが、その輝きはどこか鈍く、失われた光を宿していた。その瞳は、まるで深淵へと誘うような不思議な色彩を湛えながら、都市の喧騒を遠く見下ろしていた。

不意に声がかけられる──


「テオ!」


名を呼ばれた女性が振り向くと、一人の幼女が小さな足で駆け寄ってくるのが見えた。白を基調とし、金色の縁取りが施された上品な衣装をまとったその姿は、まるで絵画から抜け出してきたように愛らしい。淡いピンク色の髪は光を受けてふわりと輝き、大きな猫耳が弾むように揺れていた。


「陛下」


テオは幼女の呼びかけに応じ、大窓の縁からゆっくりと立ち上がった。そして、慣れた動作で両手を広げ、迎え入れる姿勢をとる。

「陛下」と呼ばれた幼女はそのまま勢いよく飛び込んできた。

軽々とその小さな体を受け止めると、テオは幼女を抱き上げ、同じ目線にまで持ち上げる。すると、幼女は頬をふくらませ、不満げな表情を浮かべながら口を開いた。


「余の事はルナと呼べと言っておるのに」
「また宰相に睨まれますからね」


少し遅れて、黒髪に金色の瞳を持つ犬人族の女性が静かに近づいてきた。その足取りは軽やかで、どこか鋭さを帯びており、周囲の気配を自然と引き締めるような雰囲気を漂わせていた。


「何やらまた私の悪口を言っていませんか?」
「ほら怖い」


テオとルナは目を合わせると、自然と微笑みがこぼれた。


「セリシア、あまりテオをイジメるでないぞ」
「まさか。テオ様には相応の振る舞いをして頂かなければ、示しがつきませんゆえ。」


セリシアは着けているモノクルを指先で押し上げながら、熱心に力説を続けていた。その真剣な態度にも関わらず、ルナはまるで意に介さない様子で鼻を鳴らし、テオのそばに寄ると、くんくんと匂いを嗅ぎ始めた。


「テオ、また違う女と会っていたな?」
「流石は陛下、ご明察でございます。大変感覚が鋭敏でいらっしゃいますね。」


テオは少し困ったように口元に笑みを浮かべた。その笑顔には、どこか諦めにも似た温かさが滲んでいた。


「バカにするでない。あと、余以外の女と仲良くするでない。成人すればお主を妻に迎え入れるのだからな。」

「...陛下。幾年の時が流れども、私は老いることはありません。」


テオはルナに諭すように穏やかな声で話しかけたが、返ってきたのは理解できないという仕草だった。ルナが小首をかしげる様子に、テオは思わず言葉を詰まらせてしまう。


「どういう事じゃ?」
「それだけ、恋敵も多くいると言うことですよ、ルナール陛下。」

「む、そういう事か?」


セリシアが補足する中、ルナは問いただすが、テオはただ笑うだけで応えなかった。


「さぁ、私めはそろそろ巡回に戻らねばなりません。」


そう言いながら、抱き上げていたルナをそっと降ろす。


「む、もう行くのか?」
「共和国の国境は広大でございます。」


空を見上げたテオの袖を、ルナが力強く掴んだ。


「また一緒に空に行きたい」
「はい、必ず。御機嫌よう陛下。」



テオは陛下に深く頭を下げる。その場を離れ、外へ飛び出す。風を切る音が耳に迫り、やがて彼女は両の翼を広げ、力強く羽ばたき始めた。


その動きはまるで解き放たれた矢のように鋭く、瞬く間に空へと昇っていった──






□◇





『 意識の覚醒を確認、スリープモードを解除します』


ストーンヘイルを出て二日目の早朝、外が白み始めた頃、ウタは目を覚ました。薄暗い帆馬車の中で、もう一度眠りにつこうとルネの温もりを求めたが、触れた先に感じたのはいつもと異なる感触だった。


「...ん?なんかいつもより太い...」


暗視を起動し、よく見ると、ルネとの間にシャイラが寝ていた。ウタは無意識のうちに彼女のお腹を撫でていたことに気づき、驚きの色を浮かべる。

外は霧に包まれ、周囲の木々は冬の訪れにより葉を落とし、辺り一面には黄色や赤の葉が敷き詰められていた。その中心には焚き火が燃え、静かな美しさを漂わせている。近くには、まるで騎士の彫像のような、しかし生命を感じさせるグリアナが立っていた。彼女は大剣を地面に突き立て、両手を添えて直立している。

ウタは馬車を降りると、静かに声をかけた。


「おはようございます、グリアナ」

「おはよう、今日は早いな。ウタ」


焚き火の上には小さな鉄鍋が吊るされており、湯気が立ち上る様子が見て取れる。ウタは近くにある小さな木製のカップを手に取り、樽のような形をしたその容器に水を注ぐと、鍋から湯をすくい上げ、白湯を作り始めた。湯気がほんのりと暖かさを伝え、冷えた手のひらに優しく触れる。


「グリアナもどうぞ」


実はウタは昨日からグリアナのことを呼び捨てにすることを許されていた。彼女にとって、「命を賭けて戦えば戦友」となるのだという。その事を少し胸に、白湯が入ったカップを手に取り、グリアナに静かに差し出す。


「ありがとう、シャイラが邪魔してなければいいが」
「まったく気が付かなかったですよ」



そう答えると、グリアナは軽く笑う。その表情を見つめながら、ウタは焚き火の近くに腰を下ろした。


「グリアナはどんな仕事をしているのですか?」

「騎士に見えないか?」


グリアナはイタズラっぽく笑いながら両手を広げた。その仕草につられて、ウタも思わず笑う。


「主には治安維持だな。お前、騎士になりたいのか?」
「どうすればなれます?」


「まずは正教会に入信してな、髪を全部剃り落として──」
「グリアナの髪、たっぷりあるじゃないですか」


冗談だと気づいたウタは軽く突っ込む。グリアナは肩をすくめて笑った。


「ウタなら狩人が向いてそうだな。その腕なら、城でも建つぞ」
「言い過ぎですよ」


白湯をすすりながら、グリアナが静かに目を細める。ウタも真似して飲むと、一息、白い息が空に溶けていった。


「ルネと暮らすのか?」


その問いに、ウタは答えられなかった。博士のその後も分からないまま、最近はルネのことばかり考えている自分に気づいてしまう。


「...分からないですね」
「人の好みに口出しするつもりはないが──」


どこか含みのある声に、ウタは微かな違和感を覚える。


「恋人のお尻を嗅ぎたいと思うのは自然だぞ」


さらりと言い放つグリアナ。その一言に、ウタは言葉を失う。亜人の中には動物的な習性を持つ者も多い。「ルネは人間なんです」と反論しようとしたが、その言葉を飲み込む。


「グ、グリアナも私の...嗅ぎたいんですか?」


一瞬、凍りつく。グリアナは苦虫を噛んだような顔を見せた。


「ウタは男だろう?それに私も男だぞ?」

──訳が分からない。


グリアナによれば、亜人の性別は身体ではなく精神で決まるのだという。その話を聞き、これまで出会った亜人たちを思い返すと、確かに見方が変わってくる気がした。


「ぼんやりしてるとは思ってたが」


グリアナはカラカラと笑う。


「男同士や女同士の話を聞くこともあるが、大抵は多感な時期、子供の頃ぐらいだよ」

「そ、そうなんですね...」


その時、ウタは以前から抱いていた疑問を口にした。


「でも、どうやって子供を作るんですか?」


質問の直後、帆馬車の後ろからズシャと物音がした。振り返ると、ルネが地面に転がっている。


「ルネ、大丈夫?」
「うん...平気」

「三日三晩、密着してお互いの魔力を重ねるんだ」


構わず続けるグリアナ。ルネは土を払いながらウタの隣に腰を下ろす。


「朝っぱらからすごい話ね」
「気にならない?」

「色々な意味で気になる」
「ね」


グリアナがルネを見据え、唐突に切り出した。


「ルネはウタと暮らしたいか?」


不意を突かれたルネは、まるで調子よく歌っていたところを踏まれたカエルのような声を出した。


「わ、わたしは...」


彼女の視線が何度もウタをちらつき、やがて小さな声で答える。


「はい...」


そして、両手で顔を覆ってしまった。


「これが女の反応」


グリアナの一言には妙な説得力があり、ウタはぐうの音のも出なかった。


「シャイラさんも照れたりするんですか?」


ふと思いついて尋ねたウタに、グリアナはさらりと返す。


「もちろん」


それ以上語ろうとしない彼女に、ウタはさらに食い下がった。


「どんな感じに、ですか?」
「興味があるなら、口説いてみればいい」

「あ、いいんですか?」


その言葉に、本気で驚いたような目でルネがウタを見た。


「ち、違います!グリアナさんはシャイラさんを口説かれてもいいんですかってことです!」


ウタは必死に弁明するが、グリアナは小さく肩をすくめた。


「シャイラはなびかないだろう」
「ぐう...」


ウタはなんとか声を漏らすが、もう何も言えない。


──どうしてこうなったのだろう。



しおり