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【エピローグ】宇治の間の怪

 母、桂昌院の四十九日を過ぎる頃から、綱吉の乱心はいよいよひどくなった。側近くに仕える者の中には朝、家族と水盃をかわしてから出仕する者さえいた。そしてついに、天下のご意見番を自他共に認める水戸光圀公が、意見言上のため江戸城を訪れる。
「恐れながら上様、上様は平家物語の冒頭を存じておりまするか?」
 と光圀公は、年のわりによく通る声でいう。
「おごれる者久しからず、ただ春の世の夢のごとしか……余を風の前の塵と申すつもりか?」
 綱吉は、うるさそうに返答する。
 この後、光圀と綱吉の間には、かなり激しいやり取りがかわされた。ときおり光圀が声を荒げ、綱吉も声荒げる場面もあり、居並ぶ幕閣の面々もまた肝を冷やす。そしてついに光圀はいう。
「これ以上、上様が誤ったまつりごとを行うなら、ここに居並ぶ幕閣の面々とてわかりませぬぞ」
「何を馬鹿な!」
 この言葉に、幕閣の面々は一斉に顔色を変えた。しかし光圀は動じる様子すらない。
「上様、どうか百年後、二百年後のことを思われよ。そして、己がいかように思われているか、とくと考えなされよ」
 と最後は、落ち着いた様子でいった。

 その夜、綱吉は珍しく御台所の鷹司信子を夜の相手として指名した。
「まったくもって疲れたわい、四半刻(およそ三十分)も説教されてしまった。水戸の爺、早くにくたばればよいものを」
 と綱吉は苦笑しながらいう。
「それにしても……わしはまことに百年後、二百年後の民に何と思われておろうのう? やはり暴君、暗君と散々にいわれておるのかのう?」
 綱吉は、しばし遠くをみて沈黙した。
「歴史などというものは、しょせん歴史を記録する者が作るものでござりまする。その者の筆次第で暗君も名君とされ、また名君が馬鹿殿とされることさえありまする」
「ほう……さすが京のおなごは言うことが違うのう」
「されば、都は王朝時代の藤原一族の御代より、平家が滅び、南朝もはかなく潰えました。足利幕府も滅び、戦国の世に至っても、支配者が幾度も交代いたしました。わかっておるのです。都人は、永遠に咲き続ける花などなきことを……」
 信子は、珍しく笑みさえうかべていった。
「ほう、では徳川もいずれ滅びるとそなたは申すか?」
「そういえば、そろそろ都では、葵祭りの季節でございまするなあ」
 と将軍が、かすかに怒りを露わにしたので、信子は話しを反らした。
「ご存じですか殿? 王朝の昔、源氏物語に描かれた、葵祭りでの女同士の争いの逸話を?」
 これは源氏物語に描かれた有名な物語である。光源氏の正室の葵の上は、賀茂祭(葵祭り)での光源氏の舞を一目見ようと、牛車で現地に赴く。そこで光源氏の愛人の六条御息所と、車の場所の取り合いになった。結局、御息所の車は強制退去させられる。そして葵の供の者に乱暴されたため、車も散々に破損することとなる。この時の屈辱から、御息所は生霊となってしまう。そして、ついには葵が光源氏の子を孕むと、腹の子もろとも葵を呪い殺してしまうのである。
「上様、殿方はいつの世でも戦をいたします。そして必ず、勝つ者と負ける者が現れるものでございまする。なれどおなごとて、いつの世で争いまする。殿方を寵愛を得るために……。そしていつの世でも、負けた者ほど無念なものはござりませぬ」
「何を申したいのじゃそなた?」
 その時将軍は、はっきりと信子から殺気を感じた。次の瞬間、小男の将軍に信子は体重をかけてきた。
「こなたにはわかりますまいて、負けた者の無念など! 上様、いや右大臣藤原家里様、今宵こそ御命頂戴いたしまする」
「よもや、そなたは……」
 将軍は叫んだがもう遅かった。信子はすごい力で首をしめあげる。ようやくそれを振り払って外へでようとする。ところが、突如として天井から白布がスルスルとおりてきて、将軍の首に巻き付いた。そのまま将軍は首つり自殺の体となった。その光景を見ながら信子は、カラカラと笑い声をあげる。いや、そこにはすでに十二単に身を包んだ女が立ったいた。
 やがて将軍はぐったりとなった。その時だった。鈍い音と共に烏帽子を被り、紫の束帯に身を包んだ何者かが、将軍の体から脱け出すようにして地に伏した。
「お久しゅうござりまするなあ……右大臣・藤原家里様」
 由希は蛇のような目で言った。
「よせ! 由希! これは何のまねじゃ」
「私はそなたを信じた! なれどそなたはことごとく裏切った。この無念いかで晴らさんや!」
 と由希はものすごい剣幕でいう。
「今こそ汝の魂を、この中に永久に封じ込めてくれん!」
 そういうと由希は、いつか家里からもらった御守りを取り出した。
「よせ! やめろ!」
 家里の叫びもむなしく、突如としてまばゆい光と共に、家里の姿は消えた。そして由希の姿も消えた。
 
 ……天井から吊るされていた将軍は、そのまま誰からも発見されることなく、やがて白布が切れた。地に伏した将軍は、かすかに動いた。
 突如として障子が開く。そこに見慣れぬ初老の男が立っていた。胸に縫い込まれた葵の紋は、男が徳川家の人間であることを示していた。
「助けてくれ! 頼む!」
 とっさに将軍綱吉は、初老の男に助けを求めた。しかし男は、その光景にショックを受けたのか、すぐに障子を閉じてしまった。
「誰かある!」
 大音声をあげると、夜ではあったが大奥の女中たちが数人集まってきた。
「上様、いかがいたされました?」
「その扉の先に、男が倒れておった」
 上様、と呼ばれた男は、血の気の失せた顔で言った。
 奥女中たちが扉を開くも、そこには布団が敷いてあるだけで、誰もいなかった。
「そんな馬鹿な! 余は確かに見たのじゃ!」
「上様、ここのところ諸外国とのこともあり、お疲れなのでありましょう。第一ここは江戸城大奥、男が倒れていたら、それだけで大事ではありませぬか」
 言われてみたら確かにその通りである。ようやくその上様と呼ばれた男も冷静になった。しかし次の瞬間には、上様の視線が、見慣れぬ黒紋付を着た女が正座しているのをとらえた。
「あれは何者じゃ?」
 上様は叫び、一同も振り向いたが、その時には女は消えていた。

 大奥開かず間伝説:(幕府の正式な発表によると、五代将軍綱吉の死因は麻疹ということになっている。しかし綱吉が御台所信子に殺されたという噂は、幕府滅亡の時まで、奥女中たちの間に語り継がれることとなった。
 そして、綱吉の死からおよそ百五十年後のことである。綱吉が殺されたという宇治の間の前で、徳川の十二代将軍家慶は、黒紋付(くろもんつき)を着た老女が、こちらにお辞儀をしているのを見かける。しかし、見覚えのない顔であったので、お付きの者に誰かと尋ねると、家慶以外の者は皆、老女の姿は見えなかった。そして家慶が振り返った時には、老女の姿はすでになかった。将軍家慶の死は、それからわずか数日後のことであったという)




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