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第十八話 実状

 点呼もなしに歩き出す案内人の行動に少し戸惑いを見せながらも、後について行くアキツたち。男が咀嚼しているものの正体をアキツはすぐに察した。配給品の一つで、食後の虫歯予防に使われる歯磨き用ガム。味も香りもないそれを、彼はずっと噛み続けているのだろう。
 噴水のところで立ち止まった男は、ポケットから取り出した皺だらけの紙に噛んでいたガムをくっつけ、それを街灯のポールに乱暴に貼り付ける。

「必要な情報はここに書いてある。各自、部屋に荷物を置いたら、詰所に挨拶に行け」

 そう言い残し、男は旗竿の石突を引きずりながら本部の方へと立ち去っていった。

「けっ、雑な男だ」

 吐き捨てるように呟くティルダに、ミサギは「まったくだわ」と相槌を打つ。そして彼女はこう続けた。

「あの肩の紋章、どの部隊かしらね? どこかで見覚えがあるような……」

「ま、俺たちの隊じゃねえことを祈るぜ」

 そのとき、一人の同期生がこんな疑問を投げ掛けた。

「詰所に挨拶に行けって言ってたけど、今日は方舟祭で出払っているはずだよな?」

 すると別の者がこう答える。

「きっと留守番がいるのさ。あるいは一時的に戻ってきているのかもしれない」

「いずれにしても、行けばわかることよ」

 ミサギの言葉に頷くと、一同はとりあえず男が残していった紙を確認することにした。名前の横にアルファベット一文字と三桁の数字が記されている。アルファベットが建物、百の位が階数、残り二桁が部屋番号を表しているということは、座学が苦手なアキツにもすぐに察しがついた。それによれば、彼の部屋はB棟二階の二十二号室、。実に覚えやすい数字であった。
 ミサギたちと別れたアキツは、数人と共にB棟に足を踏み入れる。先輩騎士たちは方舟祭で出払っているため、建物内に人の気配はなかった。正面の階段を上がると、やはり二階の廊下にも人の姿は見当たらない。真っ直ぐに延びた廊下は余裕をもってすれ違えるくらい幅広で、両側には古びた番号プレートのついたドアが一定の間隔で並んでいる。その中に自分の部屋番号を見つけたアキツは、荷物を足元に置くとドアノブに手を掛けた。思った通り、鍵は開いたままであった。
 室内はきれいに掃除され、整えられていた。広さは訓練校の宿舎とさほど変わらないが、こちらは何といっても一人部屋。しかもバストイレ付きで、いつでも好きな時間にシャワーが浴びることができる。なんとも贅沢なことだとアキツは思った。
 備え付けの家具はベッドと机と椅子が一つずつで、壁には収納と思しき観音開きの戸がついている。内装はこれまでと同じくメギド様式と呼ばれるもので、壁や天井、床は打ちっぱなしのコンクリート。それらの角には黒っぽいガラス玉のような装飾が埋め込まれている。メギドの建造物のほとんどはこれに統一されており、違う様式を見つけることは難しい。誰のデザインかは不明だが、あまり趣味がいいとはいえないとアキツは普段から感じていた。
 抱えた荷物を床に置き、机の上にあった鍵と案内図を掴み取ってすぐに部屋を出る。そしてすれ違う同期生と軽く挨拶を交わしながら、アキツは外へと向かった。
 案内図を確認しつつ、シュリ隊の詰所を目指して進む。詰所はどれも同じ形をしていて、それが噴水通りから入った裏路地に沿って整然と並んでいた。
 やがて奥まったところまで来ると、アキツは一つの建物の前で足を止めた。見る限り、扉や壁には一切表示がない。来る途中に目にした詰所はどれも立派な表札や紋章を掲げていたのに、なぜここだけ何の表示もないのか? アキツは場所を間違えたかと思い、案内図を見直すが、やはり間違いはない。一抹の不安を覚えながら、彼はドアを叩いた。
 しばらくして静かにドアが開く。その直後、アキツの全身に緊張が走った。そこには、彼が目標とする人物が穏やかな笑みを浮かべて立っていた。
 十年前の今日、メギド移住百周年を祝い催された方舟百年祭。その出し物の一つとして剣舞を披露したのが目の前に立つこの男、当時二十四歳のシュリである。彼が見せた捨刀流剣術は、まだ初等科低学年だったアキツを心酔させ、その胸に確かな目標を根付かせた。

「やあ、アキツくんだね。さあ、どうぞ」

「は、はい。失礼します」

 アキツは恐縮しながらも、どこか拍子抜けしている自分に気付く。彼の中でのシュリという人物のイメージは、もっと凛として精悍なものであった。ところが目の前の人物は物腰が柔らかく、歯に衣着せぬ言い方をすれば優男という印象。そんなことを感じていたアキツに、また別の声が掛かる。

「遅かったな、坊主」

 声のした方に目を向けると、椅子にもたれかかって何かを咀嚼している男がいた。無精ひげを生やしたその顔には見覚えがある。

「あなたは、さっきの……」

「ヤゲンだ。覚えておけ」

 ヤゲンと名乗った男はそう言うと、後は任せたというような手振りで合図を送る。すると続けてシュリが挨拶を述べた。

「私はシュリ、この隊のリーダーをやってます」

「アキツです。お世話になります」

 アキツは丁寧に下げた頭を再び上げ、室内を見渡した。中央には大きな円卓があり、その周りには椅子が等間隔に置かれている。ヤゲンが座っているのはその一つで、奥には扉が二つ。左側の壁には掲示物が整然と貼り付けられていて、貼った人の几帳面さが窺えた。詰所の中には、三人の他に人の気配は感じられなかった。

「あの、他の皆さんは方舟祭の手伝いですか?」

 アキツの何気ない質問に、ヤゲンがふっと笑いを漏らす。

「皆さんだと? 何言ってやがる。俺たち以外には、ヒサメって不愛想な仮面女が一人いるだけだ」

「えっ!」

 アキツは驚きを隠せなかった。剣の騎士団(バルムンク)の部隊平均人数は八名ほど。新人の自分を入れて四人というのはあまりに少なすぎる。そんな反応を見たヤゲンは、なぜか勝ち誇ったような表情をシュリに向けた。

「ほらな、シュリ。俺の言った通りだ。坊主が不安になっちまった。どう考えてもおかしいんだよ、この人数配分は」

「それはそうですが、私だって毎年増員申請は出しているんですよ」

「ふん、どうせ議会の連中が裏から手を回してやがるのさ」

 そう言ってヤゲンは、円卓の上に乱暴に足を投げ出した。

「あーあ、またそんなことをして。ヒサメさんがいたら何と言われるか……」

 シュリは軽く溜息をつくと、アキツの方へと向き直った。

「とにかく、アキツくん。人数のことは心配いりません。自分で言うのも何ですが、うちは少数精鋭。全員が他の部隊のエース級です。その証拠に、戦死者を出していない期間は剣の騎士団(バルムンク)の中で一番長い」

「そうでしたか。わかりました」

「うん。では、これを渡しておきましょう」

 そう言って手渡されたのは、騎士団の制服と靴だった。上下揃いの三着の黒い服で、新しいせいか生地の手触りは少し硬い。同じものを着ているシュリたちの胸と背中にはバルムンクの剣の紋章、両肩には隊のシンボルである雫の紋が刺繍されている。靴の方はいわゆる軍用靴に似た形のもので、堅牢な外観がいかにも物々しい。いずれも備蓄倉庫から定期的に配給される材料をもとに、職人が手作りしたものである。

「明日からはそれを着用してください。これまでの制服や靴は行政事務所の資源管理部門が回収するので、明朝までに部屋の洗濯かごに入れておくようにとのことです」

「はい、承知しました」

「さて、必要なことは徐々に覚えてもらうとして、とりあえず今日のところは宿舎に戻って身体を休めた方がいいでしょう。明日は初陣の儀がありますから」

 その言葉に、アキツは身が引き締まる思いがした。初陣の儀――新人騎士が最初に行う通過儀礼で、内容は危険度の低い草食鬼獣を狩るというもの。目的は鬼獣に慣れることなので、失敗してもお咎めはない。基本的には騎士団単位での行動になるが、剣の騎士団(バルムンク)だけは部隊単位となる。つまりアキツの場合、一人で狩りをしなければならない。

「初めての鬼獣狩りで不安でしょうが、あまり結果にこだわってはいけません。とにかく無事に終えることが肝要です。ヤゲンがサポートに付くので、安心してください。この通りがさつなところもありますが、腕は確かですので」

 シュリの助言は通常の新人相手なら的確なものといえるが、すでに草食鬼獣を仕留めた経験を持つアキツには、やや的外れな言葉を含んでいた。しかしそのことは、決して口外してはならない秘密。アキツは悟られぬよう、素直に返事をする。

「肝に銘じておきます。ヤゲンさん、明日はよろしくお願いします」

「ああ、期待してるぜ」

 鼻の穴に指を突っ込みながら話すヤゲンの態度に、真剣さは感じられなかった。

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