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【*】世界への猜疑心と高杉晋作



 春。新緑の季節だ。桜はもう散った。
 川辺にて。
 幼い山縣は、考えていた。何故、両親は死んでしまったのかと。失った愛情は、泣き喚いても、決して戻っては来ない。だから、山縣は泣かなかった。代わりに、小石を拾って川に投げ、弧を描く水面を見て、自分の涙の代わりとした。現実に耐えかねる。
 家族の幸せなど、どこにも無いのかもしれない。慰めてくれた姉や祖母の言葉は、山縣の穴の空いてしまった心を、風のように抜けていくだけだ。虚しかった。愛が欲しかった。
 その後、育ててくれた祖母が、その川に入って自殺した時、山縣は、やはり泣かなかった。やはり家族には、愛など存在しないのだと確信しただけだ。あるいは、己は愛に恵まれない宿命を負っているのかもしれない。幸せな家庭など、幻想なのだと、何度も自分自身に言い聞かせた。
 ――だからこそ、父と喧嘩をしたと言って泣いていた友子に、無性に惹かれたのかもしれない。彼女ならば、温かい愛を教えてくれるのではないかという直感だ。

 ある日、山縣は空を見上げた。まだ、友子と結婚する前の事である。
 白い雲がたなびいていた。今日は、朝雨が降ったのだったかと考える。
「狂介」
 そこへ訪れた杉山松助が声をかけた。
「何だ?」
 振り返った山縣を見ると、杉山は朗らかに笑った。
「最近、勢いがある所があるんだ。俺は気にいっちょる。松下村塾だ」
 杉山は、山縣にとって『優しい他人』の一人である。この頃の山縣は、人を信じるという事から距離を置いていた。それが、勉学と共に父から学んだ事だ。親しくなれば、それだけ失った時に辛くなる。そして人とは、必ず己の前から脆く消え去ってしまうのだ。実際父は死んだ。身を持って山縣に教えてくれた形だ。
 しかしそんな内心を、『優しい他人』の前で見せる事は決してない。それは自分の側の『優しい他人』の顔ではないからだ。上辺、偽り、虚構。そんな気持ちに度々陥る程度には、山縣は世界に対して疎外感を覚えていたし、隔絶された気持ちでいた。
「一緒にどうじゃ?」
「俺は、文学の士じゃないからな。応援しちょる」
「残念じゃ」
 杉山はしつこく誘うでもなく、山縣の隣に立つと、先ほどまで山縣が見ていた空を、真似て見上げた。杉山から見れば、山縣は冷静沈着であったし、慎重に見える。けれど、世界の優しさに対して、山縣が深く抱える猜疑心が異常な程強いと気づく事は無かった。杉山は、山縣を心から友人として見ていたし、山縣が笑顔を取り繕っているのだとも思わなかった。空を優しい目で見ていた山縣に対して、純粋に空が好きなのだろうと考えただけだ。山縣は穏やかなのだろうと、雲を見ながら杉山は考える。何気ない風景に心を割く人柄が好ましいと、杉山は漠然と考えていたものである。
 安政五年の夏。蝉の声が既に響き始めていた。遺骸も落ち始めている季節。
 山縣はその冷静さを買われて、藩の諜報活動要員として京都へ行く事になった。六名で長州を出る事となり、その中には、松下村塾から杉山が選ばれていた。他にも――伊藤がいた。俊輔と名乗っていた頃の伊藤は、当時から優しげな表情を浮かべていた。
 山縣の伊藤への第一印象は、鉄壁の作り笑いは諜報活動に適しているというものだった。他の誰もが、伊藤の人当たりの良さを信じ、疑いなく受け入れる中、山縣もまた笑顔で接しつつも――その笑顔を信じてはいなかったのだ。
 だから観察した。いつ伊藤が、世界のように冷たく豹変するのかを。
 伊藤は、そんな山縣が時折見せる、暗い瞳の色にすぐに気づいた。
 正確に伊藤の笑顔は作り笑いであったし、それに気づかれている事も悟った上で、観察されているとも理解していた。伊藤は、自分と山縣が、根幹で似ていると、最初は感じていた。激動の世にあって、世界の優しさを盲信するのは、愚かな事であり、己の正義を信ずるべきだという考えがあったからだ。即ち、伊藤は自分以外信じる気はなかったし、己の善悪の基準を持っていたし、己の判断を正確だと自負していた。それは漠然とした世界よりも、未来よりも、よほど的確なはずだからである。
 伊藤と山縣は、互いに観察し合っているため、目が合う頻度が増えた。そんな時は、どちらも偶然であったかのように、するりと視線を逸らす。
 その中で、伊藤はすぐに、勘違いだと気がついた。根本的に、似ていなかったのである。行動が同じだけだったのだと理解した。山縣が世界に絶望しているとしたら、伊藤は世界を変える可能性がある己に期待しているという違いがあった。上辺を取り繕う理由が、全く違ったのである。山縣はいつか別れが来るから、皆に優しい。伊藤は、自分が過ごしやすい環境を作るために皆に優しい。
 そんな山縣が少し変わったのは、京に出て、久坂玄瑞と言葉を交わしてからだと、眺めていた伊藤は気づいた。久坂は、尊王攘夷派の中核を担う人物であった。久坂は、山縣の中の絶望に満ちるだけで輪郭がなかった世界に、概念を与えたのかもしれない。
 十月に、彼らは長州へと戻った。その時山縣は、松下村塾へ入り、吉田松陰に学ぶ決意をしていた。杉山に誘われた時には心が動かされなかったが、久坂の存在で芽吹き始めていた、己の中の世界の支柱を固めたかったのだろう。しかし、それは成就しなかった。やはり世界は冷たく、山縣が触れてからすぐに、吉田松陰は投獄され、学びたいという夢は儚くも散った。春の桜よりも、あっさりと。けれど、大きな影響を受けたのは、間違いがなかった。
 ――よって、終生、山縣は松下村塾に入塾していた期間を誇りに思う事となる。『松陰先生門下生』と名乗り続ける。

 さて、山縣は非常に体が弱かった。特に胃痛に悩まされていたのだが、その頃には頭痛もまた酷さを増していた。そんな時、山縣は無意識に、右手で二度額を叩く。眺めていた伊藤は、すぐにそれに気がついた。
 ある秋雨の日、伊藤は、山縣の隣に立った。いつも同じ輪の中にいてお互い笑っているが、一定の距離があり、二人で話をした事は、この日まで無かった。伊藤は、山縣が額を叩いているのを見て、声をかける決意をしたのである。
「また、頭痛?」
「っ、あ、ああ」
 すると驚いたように、山縣が顔を上げた。隣に近づいてくる気配が無かったからだ。槍を得意とする山縣は、常に周囲を警戒しているため、伊藤の足運びに驚いた。同時に、頭痛を見抜かれた事にも驚愕していた。頭痛など常であるから、口にも顔にも出していないと思っていたからである。己の癖に気が付いていなかった。
「どうして分かった?」
「――雨の日って、頭が痛くなる事があるから、ただのカンだよ」
「嘘をつくな。『また』と、言っただろう」
 伊藤は、それには答えず、ただ静かに笑うだけだった。そのまま歩き去ってしまった伊藤を見て、山縣は沈黙した。
 ――その後も、長らく言葉を交わす事は無かった。

 文久三年の冬、山縣は再び京へと向かった。己の中で芽吹いている攘夷という概念を、正確に見極めたかったというのもある
「てめぇが山縣か」
 そこで、山縣は、江戸の言葉を話す、高杉晋作と出会った。長州のお国言葉を話して、捕まっては困るからだ。その程度には、高杉は既に存在感があり、警戒されていた。一歳年下の高杉と出会った時、山縣は久坂の事をまず思い出した。高杉の思想に触れた時、それは吉田松陰の教えに最も近しいように感じた。今度こそ、世界の支柱と輪郭を、自分の中で形作れるような気がしていた。
「――って、なんでそんなに張り詰めたような顔をしてるんだ?」
「別に」
「もっと気楽に」
「気楽って……これから、攘夷をするのにか?」
 壮大な思想は、この時点では、山縣の中でまだ、あくまでも『考え』であり『目標』であり『夢』でしかなく、『現実』ではなかった。しかし高杉にとっては、既に『現実』だった。
「そうだ。これから俺達は、世界を創るんだ。そこに笑顔がなくてどうする?」
 山縣は、己が笑っている自信があった。この頃は、笑顔に定評があったのだ。しかしその作り笑いをあっさり見抜かれた――だけではなく、直接的に指摘されたのは、初めての事だった。見抜かれた経験は、既に伊藤の際にある。
 ――なお高杉の言葉で、まず『世界』が、やっと形作られるようになった。それは紛れもない。だがそれ以上に、高杉はするりと山縣の心に入ってきた。距離を詰め、近づき、『優しい他人』ではなく『良き友人』となった。
 他者を信じても良いのか、世界を信じても良いのか、そんな山縣の迷いを、高杉はあっさりと解消した。高杉には、既に思い描く『世界』があったからだ。それを共に見る事で、山縣の迷いは霧散していったのである。
 だから高杉が、梅雨の季節に奇兵隊を創ると言い出した時も、笑顔で受け入れた。力になりたいと思わせる力――そんな力を、高杉は持っていたのだ。高杉は、確実な事柄を一つずつ集めて、世界を構築していた。それが非常に、山縣にはわかりやすかった。物事を深く考えすぎず、単純に見る。現実を見る。その判断に惹かれた。
 高杉は身分よりも実力を重視する姿勢であったから、父に習った勉学を活かして、山縣は己の力を差し出した。あるいはそれは、尊王攘夷という思想ではなく、高杉の見ている世界の構築のためだったのかもしれない。
 その後山縣は、奇兵隊軍監となり、奔走する。壇ノ浦では、警備に励み、訓練も怠らない。ただ、そんな中でも――やはり、胃痛や頭痛に襲われた。
 額を二度、叩く。
「また、頭痛かい?」
 伊藤が隣に立った。今度は、山縣にも歩み寄ってくる気配が分かった。だから互いに、するりと視線を合わせる。
「どうして分かるんだ?」
 その日は、嘘くさいほどに澄んだ青空だった。世界が虚構であり作り物だとでもいうかのような、描いたような快晴だった。チラリと山縣を見てから、伊藤は目を伏せた。
「山縣は、変わったなぁ」
「そうか?」
 伊藤は、ずっと観察していたから分かったのだと、この時も告げなかった。この頃には、山縣の視界に己がいない事を理解していたし、伊藤も普段は別の世界を見ていた。伊藤には伊藤の『世界』が既に存在していた。

 ――長州が朝敵となった蛤御門の変が起きたのは、それからほどなくしての事だった。久坂が犠牲になったと聞いた時、山縣は立ち尽くした。己に世界を芽吹かせてくれた先達の死。山縣は、やはり世界は信用できないのだと、改めて絶望しそうになった。
「山縣」
 しかし高杉がそれを許さなかった。彼の声に顔を上げた山縣に、高杉は明確に告げた。
「恨むべきは、久坂を手にかけた相手だ。敵だ。この『時代』なんかじゃねぇよ」
 山縣は、目を見開いた。それまで己が世界だと思っていた事象の全ては、時代だったのだと気づいた瞬間でもあったし、憎むべきが会津――ひいては幕府だと理解した瞬間でもある。敵が明確に完成した。目に見える形で存在している。そう思えば、呼吸が楽になった。
 その後の長州は激動だった。何度も苦境に立たされた。
 しかし、もう山縣は揺らがなかった。心の中に、明確に支柱が完成していた。
 世界は己の心の持ちようであったし、変えるのはこの時代であり、倒すべきは幕府だ。
 何度嘔吐感に襲われたかは分からない。他者を恨むという行為は、呼吸を楽にはしてくれたが、気分の悪さを同時に喚起する。胃が直接握りつぶされそうな痛みに襲われる事もあった。
 ――結局の所、世界に絶望し、世界を疑う山縣は、ただ優しいだけだった。
 信じたいからこそ、いつだって猜疑心を抱くのだ。けれど、それは既に変化していた。本当の賢い生き方は、現実だけを見る事だと学んでいた。そしてその現実は、冷酷であるから、嫌悪感が付きまとう。それを変えなければならないと強く念じる度に、頭痛に見舞われた。頭を締め付けられるように、押しつぶされているかのような重さに襲われ、それが更に吐き気を促す。体調不良で軍監を免じられた事もあった。それでも山縣は立ち上がった。これから自分達が作っていくはずの世界に、不安がないわけではなかったが、山縣は高杉に未来を見る事を教わっていた。笑顔を浮かべられる世界が来るという観点だ。みんなが笑っていられる世界だ。誰かを幸せにする事が出来る世界を作りたい。己は愛に恵まれなかったが、愛を与えられる可能性。明るい、そんな時代を構築したい、自分達の手で。仲間と共に。もう一人ではないのだと、山縣は感じるようになっていた。
 そんな山縣にとって、非常に衝撃的な事件が起きたのは、慶応三年だ。高杉が肺結核で死去した時の事である。山縣は臨終に立ち会った。瞬きをすると、涙が落ちてきた。
「病気じゃ、誰も恨めないだろうが」
 墓前で、山縣は泣きながら一人笑った。吹き出し、苦笑し、誰よりも親しかった高杉に、語りかけるように言ったのだ。その時、砂利を踏む足音がした。緩慢に視線を向けると、後ろに伊藤が立っていた。伊藤は高杉と共に薩摩に行ったこともあるし、相応に高杉と親しかった。だが、墓参りに来たのではない。山縣を探しに来たのだ。
 どんな顔をしているのか、興味があったからだ。再び、世界に絶望するのだろうかと考えていた。しかし山縣は、苦笑しながら泣いてはいるものの――その瞳は、暗くはない。
「これからは、残った俺達で、高杉さんの見た世界を作らないとなぁ」
 それを聞いて、伊藤は吹き出した。高杉の描いていた世界と、己の考える未来は完全に同じではないかもしれなかったが、通じていると信じていた。その世界創りに、山縣が関わってくれるのであれば、心強くてならない。
「その通り。僕らで創ろう」
 この時、伊藤の言葉に、確かに山縣は頷いた。
 以後――二人は、それぞれ頭角を顕にしていき、無二の親友となる。
 山縣は偽らなくなった。だから、作り笑いが消失し、笑わなくなる――心から笑うことが出来る世界創りを目指していたからだ。
 どこまでも、二人の世界創りは続いていくようだった。それは、青い空の果てを探す行為に似ていた。


「――なんていうね、過去があったんだよ」
 富貴楼にて。総理大臣になってすぐに、伊藤は、この『未来についての過去』をお倉に語り、山縣の若き日に思いを馳せながら昔話をした。するとお倉は、名前しか知らぬ高杉について考えながら、小さく頷く。その日の横浜の海は、空の色を映し、やはり嘘くさい表情をしていた。しかし、紛れもない現実が、そこにはあったし、民衆には笑顔があった。

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