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第14話 好敵手



 その後、山縣は何度か友子を誘って鹿鳴館へと出かけた。勿論、外交のためだ。しかしあまり友子は乗り気では無い様子で、山縣に他の人を誘えという。

 勿論本心としては、山縣に他の人と踊って欲しいわけではないのだ。ただ、あの場にいると自分が不釣り合いな気がして、同時に慣れない洋装と、何より痛む靴が好きになれず――出向く気にはならない。

 初めはそれでも、山縣の仕事のためだと自分に言い聞かせていたが――山縣もまた無理をさせたくないという思いから、友子の希望を優先した。第六子となる子が、友子に宿ったと分かったのはその頃だった。

 始めは山縣も、今紫にでも同伴を頼もうかとも考えたが、ついぞ友子以外を伴う気が起きなかった。女性を伴って行くのが鹿鳴館の基本的な決まりでもあったが、別に単独でも構わないというのはある――が、自然と山縣の足も遠のいた。やはり踊りをくるくる踊る事では、不平等条約の改正など出来ないような気がしていた。

 明治十七年に、華族として伯爵位を賜った年こそ、精力的に友子と共に鹿鳴館に出かけはしたが、すぐに足が遠のいたのである。

 それにしても――伯爵、だ。勲功華族となった山縣は、椿山荘の居室で、漠然とこれまでの軌跡を振り返っていた。元は足軽以下の下級の武士だったにも関わらず、今では天皇陛下を直接的にお守りするという特権階級の身になった。

 分不相応と言われても仕方が無いという思いと、ここまで来たのかという思いが、せめぎ合っていた。武士として、軍人として、山縣は生きてきたはずだった。しかし今では、明確に伊藤よりも下の立ち位置とはいえ、政府の首班に属し、政治家の道を歩み始めている。いいや、その高見に上りつつある。

 伊藤が憲法の視察で国を空けてからは、山縣の影響力は政府の中で増した。距離が離れた事もあるが、山縣は明確に伊藤を意識するようになっていた。ただ、親友だという想いはやはりあるから、伊藤が不在の時も、何度も電報でやり取りをした。逐一、国内情勢を伝えたものである。それは山縣なりの自尊心からだった。伊藤の不在だけを理由に、力を持ちたかったわけではないのだ。あくまでも、対等でありたかった。

 伊藤が帰国してから、しかし山縣と伊藤の距離は、少し広がった。今では共に富貴楼に行く事は、ほとんどない。これは憲法の制定に関して伊藤が多忙を極めているという理由もあったが、周囲も気づくほどに、二人の間に溝が出来つつある事は間違いがなかった。

 山縣だけが伊藤を意識していたのではないのだ。伊藤もまた、山縣を意識していた。
 しかしそれは、山縣本人も知らないだけで、顕在化したに過ぎない。

 それこそ伊藤は、初めて山縣を富貴楼に誘ったあの日から、常に山縣を意識していた。

 好敵手たる想いを、最初に抱いたのは、実際には伊藤の方である。当時の伊藤は、いつも先を歩く大久保がいた。一方の山縣は、伊藤よりも先に、陸軍卿としての地位を固めていたのだ。羨ましくないといえば、嘘だった。

 そんな相手に、山縣に、嫉妬混じりの眼差しを向けられると、伊藤は小気味の良い気分になる。それは、山縣を大切な親友だと感じるのとは、別の観点からの感情の動きだった。
 良き友であるからこその、好敵手ライバルなのだ。

 しかし、今回の海外への視察の旅の結果、伊藤が圧倒的に有利だった政府での力関係が、少し揺らいだ。思いのほか、不在だった影響は強い。山縣が情勢を伝えてくれたとは言え、政府において伊藤の発言力は少し弱まっていた。そして山縣の影響力が増しているのだ。

 内情として、伊藤が政府を主導しているのは、間違いない。しかしある種対立しつつある山縣の力は無視できない。

 伊藤が無視出来ない存在は、他にもいる。三条実美だ。実際に取り仕切っているのは伊藤で間違いなかったが、名目の上で、政府の頭リーダーとして、太政大臣の座に君臨しているのは、紛れもなく三条実美なのだ。

 自分を山縣が快く思っていないと、伊藤は知っている。そして己もまた山縣に対して特別な感情がある事を、山縣が感づいているというのも分かった。

 実際、山縣は、己が伊藤に、どこか含みのある思いを抱かれていると、この頃には確信しつつあった。互いに、競争の炎が心の内側で燻っていたのである。

 ――内閣制度に移行する事になったのは、その年の十二月の事だった。

 この頃には、山縣と伊藤は、冷ややかな関係にあったと言える。最近では、嫌味の応酬が増えていた。

「良いご身分だな」

 伊藤が息抜きに葉巻を吸っていると、懐中時計を見ながら、わざとらしく山縣が言った。廊下ですれ違いざまに、暗に働けと山縣が小言を口にしたのだ。

「勤務時間が長ければ良いというものじゃあない。成果を挙げる事が重要なんじゃないかな」
「――俺が、何の成果も挙げていないというのか?」

 あからさまに山縣が眉間に皺を寄せた。すると伊藤が鼻で笑う。

「山縣は批判ばかりだ。政党政治に対しても」

 自由民権運動との結びつきの危惧から、山縣は確かに大隈重信達の姿勢には反対である。集会の禁止といった言論の封鎖・制圧にも、これまでに携わった。しかしそれは、政府を、この国を思っての事だ。妻には決して見せられない、山縣の仄暗い部分でもある。

「伊藤。忙しいのは分かるが、俺に八つ当たりをするな」
「最初に嫌味を放ったのは、山縣だろう?」

 お互いを、昔の名前で呼び合わなくなって、久しかった。二人は睨み合うかのように視線を交わす。しかし、距離があるわけでもない。溝はあるが、互の強い情熱がぶつかりあっているというのが正しかった。

「とっとと仕事に戻れ。働け。この国を思うなら」

 山縣はそう吐き捨てると歩き始めた。その背を見送りながら、伊藤は考える。権力が欲しいわけではなかったが、この国を変えるためにこそ、伊藤は力が欲しかった。その為には、来る内閣制度の上で、総理大臣という立場が欲しい。

 しかし対抗馬と目される三条実美は、高貴な出自であり、伊藤は百姓の生まれであるから、身分が違う。いくら華族制度が創設され、勲功華族になろうとも、幕府時代から、いいやそれ以前から連綿と続く出自だけは変えられない。

「どうせ山縣は、あちらを推すんだろうなぁ」

 この状態では、そう考えるしか無かった。情けのように山縣は、渡欧中にも文を寄越してくれたが、権力争いとそれは切り離して考えるべきだと、伊藤は冷静に考える。

 こうして――初代内閣総理大臣を決める場が訪れた。
 冬、その日は綿雪が舞っていた。


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