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第12話 自由民権運動



 明治十一年になっても、西南戦争の影は消えない。

 山縣は、この日、全身を冷たいものが絡め取っているような心境で、富貴楼にいた。本日は、伊藤と待ち合わせをしている。

 十一月、吐く息は白く染まる。伊藤を待ちながら、山縣は窓の外を眺めていた。海に落ちていく夕日が見える。この日、早々に山縣は富貴楼へと訪れたのだが、伊藤が顔を出したのは最終の列車の直後だった。

「やぁ、狂介。大変だったね」

 訪れた伊藤は、シャツの首元を緩めながら、浴衣を受け取っている。室内には二人だけだ。本日は、山縣から人払いをお倉に頼んでいたのだ。

 竹橋事件が起きたのは、数日前の事である。これは、西南戦争で戦った恩賞が満足に出なかったと、不満を募らせた兵士達が起こした。中心となったのは、近衛達である。

「地方よりも厚遇したんだがな……」

 この恩賞の配分の責任者が、誰でもなく山縣だった。山縣は考える。政府のため、国のため、と、声たかだかに説いたとしても、それは兵士には伝わらない。その為、彼らには不満ばかりが募っていく。嘗ての武士のようにとは言わないし、時代は変わったとは言え……根底に通じるような、信念があってしかるべきなのだが、今の軍にはそれが無い。

「聞多とも調整して、こちらで上手いようにやるよ」

 伊藤が出した井上馨の名前を聞いて、山縣は唇を噛んだ。今では完全に、政府においては、山縣よりも伊藤が上だ。山縣がそれを明確に実感したのは、この時であるとも言える。助けの手を差し伸べられ、それを有難いと感じると同時に――心の中に、自分と伊藤を比較する炎が揺らめき始める。

「悪いな」

 素直にそう告げたが、山縣は苦しくないと言えば嘘だった。はっきりと、伊藤が先を歩いていると確信してしまったからだ。置いて行かれたような気分になる。しかし振り返ってみれば、陸軍卿に復帰させてくれた頃から、伊藤には引き上げられてばかりいた。それとなく、手助けをされてきた。それは大切な親友同士であるから――と、ばかり受け入れられる事ではない。強い劣等感に苛まれる。

 山縣は、山縣なりに必死に働いてきた。しかしその頑張りは、決して認められるわけでは無いのだ。今回の件を見ても明らかだ。虚しさが募る。先日配布した軍人訓誡にも、目立つ効果は無かったような気がしていた。

 その陸軍卿は、十二月に辞任すると決めていた。代わりに、参謀本部を設置する事にしている。

 伊藤が着替え終わり座った時、山縣は酒を注いでやった。酒盃を手にした伊藤は、余裕そうな笑みを浮かべている。

「狂介は、真面目すぎるんだよ」
「真面目で何か悪い事があるか?」
「真面目と器用は違う」
「俺が不器用だと?」
「違うかな? 実際、僕は上手く立ち回っているだろう?」
「――俺は、上手く立ち回れていないというのか?」
「立ち回れていると思うのかい?」

 揶揄するように笑っている伊藤に対し、山縣は何も言い返せない。悔しそうに眉を顰めているそんな山縣を見て、伊藤は楽しそうな色を瞳に宿しながら、酒に口付ける。




 この年は、大久保利通(おおくぼとしみち)が暗殺された年でもある。

 大久保から引き継ぎ、伊藤は内務卿となっていた。死を喜ぶわけではない。勿論悼んでいる。それとは別軸で、今となっては伊藤が政府の中枢にいるのは、紛れもない事実となっていた。

「それはそうと、自由民権運動とやらで、世間は騒がしいね」

 話を変えるように、伊藤が述べた。するとますます山縣の顔が曇った。山縣は、自由民権運動を危険視しているのだ。不平不満を持つ士族や、地方の豪農達が、声たかだかに政府を批判している。山縣にはそれが、尊皇攘夷を唱えていた過去の自分達と重なって思える時がある。ただでさえ土台が不安なままの政府だ。幕府よりも簡単に転覆しかねない。政府の安定のために努力を重ねている中で、自由民権運動は脅威でしか無かった。

 特に、山縣が精魂注いで構築してきた陸軍にまで、その影が忍び寄る事が怖い。それを恐れて、軍人訓誡として『精神』や『心持ち』の在り方を説こうと試みた矢先に、竹橋事件が起きた。

 山縣は、自由を唱える事が悪いとは、正直な所では思っていない。悪いのは、不安定な政府を脅かす部分なのだ。年々、自由民権運動は、過激さを増している。このままでは、暴徒と化す可能性がある。もしもそれが、軍と結びついたならば、大変な惨事が起きかねない。そうなれば、血を見る事になるのは、明らかだった。

 新しい年が来て、正月を過ごす頃には、山縣の中で自由民権運動に対する、一種強迫観念じみた恐れが、大きくなっていった。そんな不安を吹き飛ばしてくれるのは、現在まで無事に成長している次女、松子の存在である。

「旦那様、今年こそ、三人でお散歩をしましょうね」

 朗らかに友子が言う。彼女の柔らかな髪に触れながら、紋付姿で山縣は頷いた。椿山荘で二人は庭を眺めている。山縣の膝の上には松子がいた。友子のお腹の中には、第五子が宿っている。性別はまだ分からない。

「最近、難しい顔をしておられますね」
「そうか?」

 苦笑した山縣は、下ろしたままの左手で、そっと友子の右手に触れる。

「だんだん、旦那様のお顔を見ると、色々と分かるようになってきましたの」
「では、今俺が何を考えているか、分かるか?」
「えっ……松子が健やかに育つように?」
「それもある、しかし一番は違う。何だと思う?」
「お腹の子が元気に生まれてくるように?」
「それもあるが、ハズレだ」
「何です?」
「――友子を愛している」

 山縣が小声で言うと、友子が頬を染めて、嬉しそうに目を閉じ笑顔を浮かべた。妻の明るい表情を見る事が、何よりも心を穏やかにしてくれる。彼女を喜ばせるためならば、睦言を頑張って口に出来る。気恥ずかしくて勇気がいるのは事実だが、山縣はなるべく想いを伝えるようにしていた。子は鎹と言うが、子が育たなくとも、何人失ったとしようとも、自分達の間には愛があるのだと、山縣は信じている。




 ――その後、三年の間に、山縣と友子は、続いて生まれてきた子も失った。病死だ。

「……」

 山縣は、自分で歩けるようになった松子を抱きしめながら、深々と息を吐いていた。泣き疲れた様子で、友子は先に休んでいる。幼い我が子の頬に、己の頬を当てながら、山縣は、最近泣いていないなと考えていた。富貴楼への足が、遠のいていたのだ。

 代わりに数度、今紫が買い取った三州屋へと出かけて、芝居を見た。友子も一緒だった。妻に気晴らしをして欲しいと考えて、二人で出かけたのである。今紫は挨拶に訪れたが、その店を山縣が援助した場だとは言わなかった。

「落ち着いたら、また友子を連れて行こう。きっと、喜んでくれる。元気を出してくれるはずだ」

 松子に語りかけるようにしながらも、山縣は自分自身に言い聞かせた。

 この年、山縣は軍人勅諭を公にし、軍人の政治に対する関与を改めて禁止した。同時に、憲法の調査のために伊藤が渡欧したため、山縣は陸軍省の参謀本部長を辞して、伊藤の後任として参事院議長に就任した。山縣に任せたいと希望したのは、伊藤だ。

 認められているのは嬉しかったが、既に伊藤が山縣に対して指名する感覚は、どこか上からのものだとも感じられる。実際、明確に立場は、伊藤の方が上になりつつある。伊藤は、明治の天皇陛下からの信頼も厚い。

 山縣は積極的に政治に関わりたいわけでは無かった。今でも己を『一介の武弁』だと考えている。だが、胸の内側に灯った、伊藤に対する対抗意識が、青い焔のように揺らめいているのは事実だった。

 ――信念だけでは、変えられないのかもしれない。

 そんな思いが、伊藤との富貴楼でのやり取りから、山縣の胸中に浮かび上がるようになっていた。発言力や立ち回りの重要性を感じつつある。




 翌年、伊藤が帰国した時、山縣は参事院議長を辞任した。そして、内務卿となった。伊藤には少し遅れたが、次第に山縣は陸軍卿という立ち位置から、軍を確固たるものにする部分よりも――より密接に、政府を確固たるものにする仕事に関わり始める。

 その間にも気にかかっていたのは、自由民権運動の事だった。

 今、それらについて気にしている場合では無いと――内側に敵を抱えるべきではないと、特に横浜の街を歩く時、山縣は考える。異国の人々を目にする時、その文化を取り入れようとする時。それらは不平等条約の是正のためでもあるのだから、今こそ国は一丸とならなければならないはずなのだ。だというのに、国内で争っている場合では無い。

「――黒船が来た頃の、幕府の連中の気持ちが分かるように思えてくる」

 その日、富貴楼でポツリと山縣が呟くと、三津菜が驚いた顔をした。これまでの間に、それこそお倉や、今紫の前では、山縣が政治的な気配のする言葉を口にしているらしいというのは、三津菜も察知していたが、彼女の前で山縣が言葉を零すのは初めての事だったからだ。三津菜は、それがとても嬉しかった。今も、山縣に対する熱は変わっていない。

「山縣様なら、私、大丈夫だと思います」

 根拠がないと山縣は苦笑しかけたが、純粋に慕ってくれる様子の三津菜が子供らしく思えて、思わず表情が和らいだ。しかし彼は、三津菜の恋心には気づかないままだった。


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