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第9話 西南戦争



 明治十年、二月。
 長女が生まれて最初の冬、山縣は乾いた唇を片手の指でなぞっていた。

 恩がある西郷隆盛が挙兵した為、木戸孝允が声を大きくしているのだ。西郷を討つと。その任に、自分が就くと主張している。山縣にとっては、木戸もまた、大切な先達の一人であり、同志だ。だが、ここ数年、徐々に距離が広まっていったのは理解してもいた。

 それを感じる時、山縣の心には冷たい水が広がったようになる。表面上は、一旦は和解した。和解という言葉が相応しいかは分からないが、木戸は山縣に対して、信頼感を改めて示すようには、なってきていた。しかし見え隠れする不信感は、拭えない。

 山縣は木戸が嫌いではないし、尊敬してもいた。だが同時に、忌々しくも思っている。木戸は、山縣が政治に参画するのを、相変わらず快く感じていないらしい。兎に角山縣の出世を妨害しようとした。同じ長州藩閥であるにも関わらず、だ。

「……」

 自分は、同郷の者を、もっと大切にしたいと山縣は考えてしまう。
 同時に――木戸の態度が変わった原因である、西郷について考える。

 西郷隆盛は、何かと陸軍において、己を後押ししてくれた。山城屋和助が陸軍の金を焦げ付かせた一件の時には、山縣を庇ってもくれた。あの山城屋事件は、山縣には考える所がいくつもある。しかしそんな山縣を、西郷が庇ってくれたという事実は揺らがない。山縣は、西郷を慕っている。

「山縣、ここにいたのかい?」

 職場の廊下の一角で、大きな窓から外を見ていた山縣に、伊藤が歩み寄って声をかけた。人目は無いが、誰が通るかも分からないからなのか、伊藤は『山縣』と呼んだ。『君』はついていなかった。それは気安さの演出だろう。

「ああ、どうかしたのか?」
「僕はね、木戸さんが出る事に反対してきたよ」
「……そうか」

 山縣が顔を上げると、伊藤が微苦笑しながら腕を組んだ。

「大久保さんが使者を立てるというのにも、反対してきた」
「何故だ? 西郷さんなら話せば……いいや、話しても、分かってはくれないか」

 血を見たいとは思わなかったが、下ろしたままで山縣がギリッと拳を握る。今もなお慕うほどに、西郷は優れた人柄を持っている。それは面倒見の良さの表れでもある。山縣は、後輩達に、西郷のように温かく接したいと思わせられているほどだ。その西郷が、氾濫した士族の側に立つというのだ。見捨てるとは、到底思えない。

 しかし、まだ土台が不安定な政府を確固たるものにするためには、西郷の気持ちは分かるものの、行動はあってはならないものだと、山縣は考えている。

「有栖川宮様を大総督として、西郷さんを討つ方向で話を詰めよう」
「――ああ」

 実際に討ち取りに出向くのは、陸軍である山縣であるから、政府として提案している伊藤の言葉に、陰鬱な気持ちで山縣は頷いた。

 その日帰宅した山縣の、顔色のない無表情を見て、友子は息を飲んだ。

「あなた? どうかなさいましたの?」
「いや……」

 居室で、山縣が力なく椅子に座ると体を投げ出した。妻の前でも呆然とした姿を見せるのは、あまり山縣らしくは無い。それだけに、今回の一件の勃発は精神を摩耗させていく。

 武士とは、恩に報いる生き物だ。恩を仇で返すというのが、古い考えなのかもしれないとは、山縣も理解している。新しいこの政府を守るためには、どうしても必要な事だとは理解していても、西郷に刃を向ける事が、山縣にとっては辛かった。

「友子……実は、暫く家を空ける事になるんだ」
「え? そうなのですか?」
「うん。鹿児島に行く事になってな」
「鹿児島ですか……」

 それが遊びに行くのではなく仕事である事、それも決して気楽な部類の仕事では無い事は、連れ添った夫婦であるから、夫の表情から友子にもすぐに分かった。山縣の無機質な顔は、戊辰戦争から帰った直後の表情によく似ていた。

「元気にしていてくれ」

 気を取り直したように、山縣が視線を向けて微笑した。しかしそのどこか作り物めいた嘘くさい微笑に、友子は居た堪れなくなる。

「危険は無いのですか?」
「――ああ」
「本当に? 危ない事はしないでくださいね? 約束して下さいますか?」
「俺は、これでも武士だからな。制度は変われど、この心は、少なくとも死に果てるまで。だから、その約束は出来ない」

 どこか冗談めかして山縣は述べたのだが、その声が硬いのは明らかだった。




 山縣が西南の役に向かって一ヶ月が経とうとした頃、富貴楼には伊藤の姿があった。熊本での戦況を聞いたこの日、伊藤はお倉と珍しく二人で、広い座敷にいた。いつかは山縣の姿もここにあった十五畳のその部屋で、他の芸妓は顔を見せない中、伊藤は静かに酒盃を手にしていた。お倉が酒を注ぐ。

「山縣君はどうしてるかなぁ」

 伊藤の呟きに、お倉が瞳を揺らす。

「ご無事だと良いですね」

 今回の西南戦争では、参軍側にも、陸軍の者にも、西郷隆盛を慕っている者が多いというのは、お倉も聞いていた。西郷側について、辞任をした軍人や警察官も多いと耳にしている。多数の士族が、西郷を支持しているのだ。それを討つというのも、思い切った決断でもある。お倉はそう考えながら、伊藤の横顔を見た。

 伊藤は、ここに山縣と共に訪れた日こそ、山縣よりも表舞台への進出が遅れていた。しかし今では、その政治的影響力は、大久保利通に次ぐ。大久保とて、伊藤がいなければ困惑する場面があるだろう。片や、陸軍の土台を構築する仕事に邁進してきた山縣は、木戸の妨害もあり、政府での影響力は、伊藤には及ばない。

 着実と駒を進めているのは、伊藤だ。遊んでいるように見えて、そして人情に溢れているように見えて、その実、伊藤の方が、人間らしい困惑に苛まれている山縣よりも、割り切った部分があるのかもしれない。人当たりの良さと、人としての温かみは、また別の物でもある。

 多くの者は、伊藤の方が温かく、山縣の方を冷たい人間だと感じるかも知れない。しかし蓋を開けてみれば、伊藤の方が割り切っていて、山縣の方が実直で温かい。その評価を、富貴楼に携わるような夜の蝶達は、いち早く下していた。

「山縣君の事が、心配かい? 妬けるなぁ」
「伊藤様こそ」
「僕達は親友だからね。そりゃあ、西郷さんに対しても心苦しいものがあるし」

 そうは言いながらも、直接的には手を下さない己を、気楽だなと伊藤は考える。山縣の苦悩を想像してみると、伊藤は冷めた心地になる。気持ちを想像する事は出来る。しかし、もし己が山縣だったならば、あのようには思いつめたり悩んだりしないと、伊藤はどこかで割り切っている。

「これからは、華族制度ももっと明確にしなければならないし、考える事は山積みだというのに――旧時代的な、御恩だの奉公だの、全く……粋でなくとも問題は無いし、もっと洗練された生き方が出来ない物なのかなぁ」

 ぼやくように伊藤が本音を零した。微笑しながらお倉はそれを聞いている。
 そこへ、小波が訪れた。

「やぁ」

 伊藤は訪れた夜の蝶を、快く出迎え、それまでの話など無かったかのように、楽しい昔話を始めたのだった。


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