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第三話 魔王、転生に気がつく

 ガサッと足音がする。

 自慢の尻尾を切断されたマンティコアが、怒りの表情でゆっくりと青年に近づいてきた。

 やや距離をとりつつ、前脚で青年を弾くように蹴る。

 青年は、何の反応も返さない。

 もはやこれ以上の抵抗が無いことを確かめると、マンティコアは嘲り笑うように口を歪める。
 そして、その巨大な顎門を存分に開いた。

 青年に近づき、その首筋目掛けて、勢いよく牙を突き立てようとした……


 その瞬間。


 マンティコアは全身の毛を一気に逆立て、その場から大きく飛び退いた。

 直前の態度から一変。
 警戒する猫のように身体を小さくし、腰を低く落として身構えるが、その四肢は目に見えて震えている。

 マンティコアが感じたのは、強大な魔物の気配。
 自分が絶対に敵わないと確信できる、遥かに格上の相手。

「狩る」「狩られる」ではなく、自分が一方的に消しとばされる虫ケラのような立場にあることを、今、マンティコアは全身の感覚で理解していた。


「貴様……」


 目の前にいるその存在は、どうやらすごく怒っている様子だった。
 先般出会った時とは、比較にならないほどに。

「少し、調子に乗りすぎじゃなぁ……?」

 エリスの周囲に、黒い瘴気が立ち上る。

 マンティコアの戦意は、すでにカケラも残さず吹き飛んでいた。
 なんらタイミングを計ることなくエリスに背を見せると、脱兎の如く一目散に逃亡を試みた。

「魔王から逃げられると思うてか?愚か者め」

 エリスが右腕をマンティコアの背に向けて振り上げる。
 瘴気が手のひらで渦を巻き、一切の光の反射を許さない漆黒の球体が姿を現す。

「【魔瘴裂空禍《ガーオーン》】」

 最終詠唱のみで放たれた黒球は、触れるもの全てを削り取り、分解し、消滅させながら、超音速で猛進していく。

 万物を抵抗無く抉るそれは、巻き起こす甚大な被害とは裏腹に一切音を生じさせず、それ故にマンティコアが何かを感じ振り返った時、黒い絶望はすでに視界いっぱいを包み込んでいた。

 森の主の断末魔をも呑み込み、黒球はそのまま深い森の奥へと消えていった。

「……ふん」

 エリスは、森に穿たれた巨大な筒状の空間を興味なさげに一瞥する。
 そして、自分の足元で動かない青年騎士を見下ろした。

 切り落とした腕と、腹に開けられた傷口からは絶え間なく血が流れ出しており、もう間も無く、この青年は死ぬだろう。

 その様子を眺めながら、エリスは少しバツが悪い表情をした。

 ――気まぐれじゃ。ただの、気まぐれ。

 エリスが、青年の身体の上に手をかざす。
 手のひらからは、先ほどとはうって変わって穏やかな気配が溢れ出す。

 ――ちっ。慣れぬ魔法は加減がわからぬ。こんなものか?このぐらいか?

 手のひらからは溢れる気配はやがて光の粒となり、青年の身体を包み込む。
 近くに落ちていた青年の腕がふわりと浮かび、ゆっくりと元あった場所へと還っていく。
 腹部の傷は何事もなかったかのように修復され、さらには全身から毒が消え去っていった。

 人間のヒーラーが見たら、例えその人間が大司祭クラスだったとしても驚愕のあまり卒倒するであろう、純然たる『完全回復』であった。

 青年の指先が、ぴくりと動く。
 その様子を見てエリスは腕を下ろした。

 ――さて。こやつの仲間が集まって来てもつまらぬ。さっさと姿を隠すとするか。

 エリスは最後に青年を一瞥すると、ふん、と鼻を鳴らす。
 そしてくるりと踵を返した……のだったが。

「……はれ?」

 エリスの視界が、何の前触れもなく突如ぐるぐると回りだす。
 その速度はどんどん上がり、今、自分が立っているのか倒れているのか、すぐにわからなくなった。

 ――!?これは……!

 エリスは、かつて一度だけ、この現象を経験した。生まれたばかりの頃に、ただ一度だけ。

 ――まさか、魔力枯渇!?バカな、このわらわが、魔王たるわらわが、たかが二度魔法を使っただけで魔力枯渇じゃと……!?

 エリスの必死の抵抗虚しく、エリスの視界と意識はますます混沌の度合いを深め、次第に全てが白く塗りつぶされていって……。

 そしてエリスは、気を失った。


 ◆◆◆


 ……目が覚めると、そこはよく見知った空間だった。

 天蓋付きの、ふかふかのベッドの上。お気に入りの花の刺繍が入った枕は、頭を優しくすっぽりと包み込んでくれている。

 少し顔を横に倒すと、ベッドを囲うカーテンの隙間から、木製の大きな棚が見えた。
 綺麗な調度品が、いくつも並んでいる。
 小さい頃、今は亡き母親から貰った人形も、そこにちょこんと座っていた。

 実に十五年もの間、慣れ親しんだ部屋。

 ほっと息を吐く。……少し、悪い夢を見ていたようだ。


 寝巻き姿のエリスは、ゆっくりと身体を起こすと、片手で寝ぼけ眼を擦り擦り、うーん、と伸びをした。

 サイドテーブルに置かれた呼び鈴に目を遣る。
 寝起きに、温かい紅茶でも貰おうかしら……。ぼんやりとそんなことを考え、手を伸ばしたところで、

 ――いやいやいやいや!?なにを自然体にやっておるのじゃ!?

 エリスは突然覚醒した。

 ――こ、ここはどこじゃ?いや、ここはわらわの部屋で、昔から使ってて、って、なんでそんな記憶があるのじゃ!?わらわは魔王ぞ!?こんなお嬢様趣味の部屋で暮らしたことは一度も……!

 頭で必死に否定するエリスだったが、考えれば考えるほど、記憶にハッキリと、ここで過ごした思い出があることに気がつく。

 記憶だけでなく、あの呼び鈴はどのくらいの強さで振ればこれくらいの音が出る、など、感覚的なことまでしっかり身体が覚えているのがわかる。

 ――どうなっているのじゃ……。わらわは一体、どうなってしまったのじゃ……。

 エリスは頭を抱えるが、そこで再び、額にツノの感触が無いことを思い出す。

 ――そうじゃ、鏡、鏡!!

 サイドテーブルに備え付けられた引き出しから、エリスは急いで手鏡を取り出す。
 なぜそこに手鏡があることを知っていたのか、という疑問は、すでにある大量の疑問の中に埋もれてしまっていた。

 鏡を覗き込んだエリスが目にしたのは……。

「人間の……女」

 妖艶な黒髪に赤眼で、威厳ある二本のツノを生やし、黒い瘴気を常に身に纏っていた魔の女王は、そこにはいなかった。

 長い金髪に、青い瞳。インドア派と思われる白く透き通るような肌。額にはツノの跡すらない。顔の造りこそ似ているが、魔王とはまったくの別人。若い、いや、むしろ子供っぽいと言っていい印象の、人間の少女が映っていた。

「ひえええええええ!!!!」

 エリスは堪らず大声を上げてしまう。

 未だかつてこんなに混乱したことはない。勇者一行が魔王城に到達した時だって、「やっべぇ」くらいは思いはしたが、まだまだ余裕があった。

 だが、これは尋常な事態ではない。
 今まで経験も想定もしたことがない、何か恐ろしいことが起きている。
 エリスは再び目の前がぐるぐる回り出す錯覚に襲われた。

 そこへ、どたどたどたと、慌てたような足音が近づいてくるのが聞こえる。

「お嬢様!?」

 ベッドから少し離れたところにあるドアを開けて入ってきたのは、身なりが整った、やや細身で知的な雰囲気漂う老人と、二人の使用人と思しき女性であった。

「ああ、じいや、エル、ミルザ!大変なのじゃ!わらわが、見た目が人間になってしまって……」

 ――って、だからなんでわらわはこやつらを知っておるのじゃあああああああ!!!!

 さらに混乱を深めて頭をブンブン振るエリスを見て、入ってきた三人は、なぜか一様に笑顔を浮かべた。

「お嬢様!お目覚めになりましたか!!良かった……」




 執事のじいやが退室し、エリスは二人の使用人に着替えをさせられていた。
 されるがままになりながら、エリスは据わった目で部屋の壁を見つめている。

 ――整理すると……。

 信じられない気持ちを抑え、ひとつひとつ事実を確認していく。

 ――わらわはこの家で、十五年暮らしている。

 魔王であった記憶は実にはっきりしている。それこそ、勇者を貫いた感触が手に残っているくらいに。
 そして、自分が剣で貫かれた感覚も。

 だがしかし、この家で長年暮らした記憶もまた、同等に鮮明だった。

 ――そして、わらわは……人間である。

 滅ぼす対象だった人間に、あれほど嫌悪していた人間に、今、自分がなっている。

 とっさに憑依魔法を使った?はたまた、変身魔法を使った?……どちらでもない。
 記憶の説明がつかないし、そもそもそんな魔力の痕跡はまったく見られない。

 頭から足の爪の先まで、完全無欠の人間に、なってしまっている。

 ――ええい、整理したところで、なにがなにやら全く分からん……!一体わらわの身に何が起こって……ぐぼぉぉぉ!?

 コルセットを強烈に締め上げられ、エリスは変な声を出しながら白目を剥いた。

「な、なにを……!……はっ!?」

 締められた腰回りの血液が頭に流れ込んだのか、その時エリスに一つの考えが浮かんだ。

 ――これはもしや……クソ勇者の言っていた生まれ変わり、というやつなのか!?わらわはあの時死んで、そして人間に……。

 これならば、全て説明がつけられる。記憶も、この体も。
 だがそれには、生まれ変わりなどという、たわごとのような話を受け入れなくてはならないが。

 ――何ということじゃ……!仮に生まれ変わりがあるとして、なにも人間に生まれなくてもよかろうに!これでは魔王廃業ではないか!!



 そこで、エリスはふとあることに気がついた。

 ――!?すると、賭けは奴の勝ちということか!?あの、勇者とも思えぬ大バカ者の!?

 エリスは顔を紅潮させて頬に手をやり、ぶるぶると頭を振った。
 しかし、その様子を怪訝そうに窺う使用人の視線に気づき、エリスは急速に冷静さを取り戻す。

 ――いやいやまてまて。なんでわらわが律儀に賭けの勝ち負けなど気にせねばならぬのじゃ。別に奴が同じ時代に生まれ変わっているとも限らぬし。……そうじゃ、時代。今は、一体いつなのじゃ?あの戦いからどれほど経過しておる?

「これ、今はいつじゃ?」

「今日ですか?今日は礼賛日ですよ。お嬢様は丸一日お眠りになっておられました」

「あ、いや、聞きたいのはそうではない。今年は、何年じゃ?」

「え?あ、えっと、聖王暦二百十五年です、お嬢様」

 使用人の一人、エルが慌てて答える。

 ……しかし、その答えを聞いたエリスの表情を見て、彼女はさらに狼狽した。
 エリスの顔が、今まで見たことないくらい険しく変化したからだ。

「な、なにか気に触ることでも……?」

「いや……そうではないのじゃ。……二百十五年、間違いないな?」

「は、はい」

 怪訝そうに見つめるエルをよそに、エリスは口元に指を当て、考えを巡らせる。

 ――いったい、どういうことじゃ?

 聖王暦二百十五年。それは、エリスが勇者と対峙し、相討ちとなった年から数えて、十年も『過去』だった。

 ――過去に生まれ変わった?そんなことがあり得るのか?いや、生まれ変わり自体が超常であると言ってしまえばそれまでなのじゃが……。ぬ?まてよ?ここが過去だとするならば……。

 そこでエリスは気がついた。

 エリス・ファントフォーゼ。
 今世の記憶にある、この身体の名前。
 前世と同じく名前がエリスなのは、偶然か、そうではないのか。
 ただ、今のエリスの関心事はそこではなかった。

 ファントフォーゼ侯爵家。

 大陸の南部に位置するエルハイム王国の貴族で、王家の遠縁にあたる。

 有力な貴族ではあるが、あくまで一国の一家臣にすぎないこの家は、エリスが前にいた世界では大陸中にその『悪名』を知られていた。

「【悪夢の始まりの侯爵家】……」

 エリスが呟く。

 大陸全土を巻き込み、魔王誕生のきっかけとなった大戦争。
 今から六年後の年に起こったあの戦争の、発端となった侯爵家であった。

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