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カスティリーニ侯爵

 翌朝、アリッサはいつものようにマージョリーの脈や体温をチェックし、食事の世話をして薬も飲ませた。

「アリッサ、馬車が来たが、それで行くのか?」

 彼女はいつもの仕事着である紺のワンピースを着て、エプロンだけを外した格好をしていた。
 どう見ても使用人だ。実際そうなのだから。それに着替えたところで、他の衣装も特にそれと大差は無い。
 ブリジッタの荷物は馬車と共に谷底に落ちた。死んだことになっているため引き取りにも行けなかった。アリッサとして生きるようになって買いそろえた服は、どれもシンプルな物だった。
 
「構いません。お話をうかがうだけなら何を着ていても関係ありません」

 それに、お礼をしたいと言うのだから、こちらが気を使う必要などない。

「ではなるべる早く帰ってきます」
「気を付けて」

 ロドニーに見送られて、彼女はカスティリーニ侯爵邸へと向かった。
 カスティリーニ侯爵邸は、ベルトラン家と街を挟んで反対側に建っており、湖を一望できる場所にあった。
 緩やかな坂を登っていき、馬車が邸の正面に着く。

「お待ちしておりました」

 出迎えてくれたのはガルバンだった。

「ガルバンさん、おはようございます」

 降りてきたアリッサを見て、彼は一瞬たじろいだ。
 彼女の出で立ちがあまりに質素だったからだろう。
 一応失礼にならない程度には化粧もして、髪も整えてきたが、装飾品は何一つ身につけていない。

「どうかされましたか?」
「いえ、こちらへどうぞ。旦那様は執務室でお待ちです」

 応接室でなく執務室なのは、きっと彼女の身分を考えてのことだろう。
 とりあえず侯爵と会い、ひとこと言葉を交わせば場所はどこでもいい。
 アリッサはガルバンの後ろについて、玄関から奥へと歩いて行った。

「いらっしゃいませ」

 玄関に入ると、三つ揃いのスーツ姿の初老の男性が立っていた。

「執事長のドーラスさんです。ドーラスさん、この方が例のお客様です」
「こんにちは」
 
 例のとは、どういう意味だろうか。
 
「ようこそカスティリーニ侯爵家へ、お待ちしておりました」

 ドーラスはまるで孫娘を迎えるような温かな眼差しで彼女を見る。
 
「アリッサ・リンドーです」

「こちらです」

 それから彼女はガルバンに促され、さらに奥へと向かった。

「閣下、ガルバンでございます」
「入れ」

 廊下の一番奥にある扉の前に立ち、ガルバンが扉を叩くと、中からすかさず声がした。

「失礼いたします」

 扉を開けてガルバンが先に中へ入り、アリッサは俯きながら一歩中へと足を踏み入れた。

「アリッサ・リンドー様をお連れしました」
「ご苦労」

 聞こえてきた声は、少し低めのテノール。
 
「リンドーさん、こちらへ」

 ガルバンは奥へと歩いて行ったが、彼女は部屋を入ったところでそのままでいた。
 声をかけられ、そこで初めて彼女は顔を上げた。
 背後の窓から陽が降り注ぎ、部屋を照らしていた。
 その光を浴びて大きな机の前に座っているエルネスト・カスティリーニ侯爵その人がこちらを見ていた。
 印象的な新緑の瞳と、夕陽のような鮮やかな赤い髪、意志の強そうな口元が目に映った。
 ジルフリードは騎士団と言っても、どこかほっそりとしていた。
 今彼女の視線の先にいる侯爵は端正な顔立ちはしていても、はるかに屈強な体格をしていて、いかにも騎士という風情だった。
 そしてその手前にはちょこんと座りこちらを見ているドロシー嬢がいた。
 叔父と姪だが、髪の色と瞳の色が似ている。
 彼は入り口近くに立ったままのアリッサをじっと探るように見ている。

「君が、アリッサ・リンドーか」
「はい、侯爵様。私がアリッサ・リンドーでございます」

 彼女はもう一度頭を下げて挨拶した。

「ドロシー、この女性で間違いないか?」
「ええ」
「そうか。ではドロシー、お前が何を言うべきかわかっているな」

 ドロシー嬢は叔父を見て、それからソファから立ち上がった。

「この前はありがとうございました」

 そう言って彼女はぺこりと頭を下げた。

「いえ、侯爵家のご令嬢にそのようにお礼を言って頂くほどのことは」

 身分社会のこの世界で、貴族が平民に頭を下げて謝ることは殆ど無い。というかあり得ない。
 そして幼い令嬢にそれをさせるということも、珍しいことだ。
 自発的なのか強制されてかわからないが、言われるままに彼女はアリッサにお礼を言った。

「君がいさめてくれなければこの子は罪を犯すところだった。改めて礼を言う」
「ご丁寧にありがとうございます」

 アリッサはそれを言うためだけに呼びつけられたことに対する嫌味も少し込めて言った。

「話は以上だ。下がっていい」

 それに気づいたのかどうかわからないが、彼はそう告げた。

(え、ほんとにこれで終わり?)

 それだけのためにわざわざここまで来いと言ったのかと、アリッサは半ば拍子抜けした。

 






 

 

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