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卵の罪

 ふと窓の外を見るとハンプティ・ダンプティが往来をふらふらと歩いていて目を疑ったが、よく考えたら今日はハロウィンだったことを思い出した。視線を戻すと、向かいに座っている安倍まりあもまた窓の外を見つめていた。

 私がエスプレッソに口をつけてからもしばらくまりあはハンプティ・ダンプティを見ているようだったが、やがて彼女もまた視線を私に戻して、言った。

「原罪について考えていました」

「え、何? 現在?」

「原罪です。キリスト教においては、アダムとイブが知恵の実を口にして神の命に背いた罪のことをいいます」

「なるほど」

 なるほど?

「そんなこと考えてたんだ。私はてっきり……」

「アダムの犯した大罪を、子孫である私達も負っているわけですね」

「相変わらず食い気味に喋るなぁ。アダムのことなんか知らんし、その罪を私も負ってると言われても知らねーとしか思わないよ」

「はい。宮間さんはそう言うと思っていました。しかしこの場合の罪というのは《ハマルティア》、ギリシャ語で的外れを意味する言葉で、いわゆる法律違反の罪とは違うんです。アダムとイブが知恵の実を食べることで神と人との関係がずれてしまった。それが今も続いているということですね。crimeとsinはどちらも日本語では『罪』と訳されますが、法律上の罪と宗教上の罪は、本来は区別して考える必要があるんです」

「そっかー」

 そっかーとしか言えない。安倍まりあは賛美歌アヴェ・マリアみたいな名前で教会育ちというのは冗談みたいな本当の話で、そういえば昔からこういう物言いをする奴だったことを私は今更ながらに思い出す。

 まりあとは中学を卒業して以来会っていなかったから久しぶりの再会になるが、相変わらずみたいである意味安心した。まりあは携帯電話を持ってないので連絡が取りづらい。高校も違っていればどうしても疎遠になってしまう。

 だから携帯電話買ってと言っても「必要ない」の一点張りなんだよなあ。何だかんだ話すと面白いし、買って欲しいんだけど。

「知ってる。あれでしょ、性悪説って奴」

「いえ、荀子の言う『悪』とは弱い心程度の意味合いで、キリスト教の原罪とはまるで異なる概念です」

「あ、そう」

 まりあに適当なことを言うとこんな感じでばっさり切られるので黙って頷いてる方が得策であることも思い出してきた。

「しかし、そうですね……。この場合は原罪よりも性悪説の方が適切だったかもしれないです。流石宮間さんです」

「君が私の何に感心したのか、こっちはさっぱりなんだけどね」

 私がそう言うとまりあは目を丸くした。

「あれ? 宮間さんも見ていたのではないですか?」

「何を?」

「そこを歩いていたハンプティ・ダンプティです」

「は?」

 いや、そりゃ見たけど。

「なんでそれ見た感想が原罪だの性悪説だのになるのさ。あまりにも明後日の話をするから、てっきり全然違うものを見たのかと思ってたよ」

 まりあには違うものが見えていたとしたらそれはそれで怖いが。

「では宮間さんはハンプティ・ダンプティを見て何を考えたんですか?」

「いや、私は別に今日はハロウィンだったなぁって思い出しただけ」

「ハロウィン? ああ、ケルトの祭ですね」

 キリスト教の祭じゃないんだっけか。うろ覚えだけど、まりあの反応を見るにどうやら違うみたいだ。

「それで今日は仮装して往来を歩いている人がいたんですか」

「そういうこと」

「なるほど。それで納得出来ました」

 まりあはそれで本当に納得したみたいで。どことなく晴れやかな表情をしている。

「はあ。というか、原罪だの何だのそっちの学校の友達に言ってるんじゃないよね? 心配なんだけど」

 ずっと気になっていたことをまりあに問うと、まりあは非常に心外そうな顔をした。

「何言ってるんですか。宮間さん以外にそんな話をするわけないでしょう」

「は? ちょっと待って。おかしい。何かおかしくない?」

 まりあは何もおかしくありませんが? とばかりのすんとした表情でずっと放置していたエスプレッソに口をつけたが、すぐに顔を顰めた。

「冷めてますね」

「喋りすぎ」

 文句を言いつつも自業自得なのでまりあは大人しくエスプレッソを飲んでいる。

 私はその様子を眺めながら小さくため息を吐く。

「…………」

 先程のハンプティ・ダンプティについての問答でまりあは何かを理解していたが、私はあまり納得出来ていない。いや、一つも納得してない。

 もしも今が安倍まりあと初対面でまりあがこういう調子なのを見たのなら、イカれた奴だなぁとしか思わなかっただろうけど、幸か不幸か私とまりあの付き合いはそれなりに長い。

 私はまりあが、ただのイカれた奴ではないことを知っている。

 何が言いたいかというと、要するに、ある程度合理的に原罪、あるいは性悪説を連想させる要素がさっきのハンプティ・ダンプティにはあったのではないかということだ。

 本人に聞けば教えてくれるだろうけど、最初から答を聞くのもつまらないので少し考えてみることにしよう。

「まりあが見てたのはさっきのハンプティ・ダンプティでいいんだよね?」

「はい。そうですけど」

 私ももちろん同じ物を見た。

 ハンプティ・ダンプティといえばマザーグースの一つであり、またそこで登場するキャラクターでもある。



 Humpty Dumpty sat on a wall,

 ハンプティ・ダンプティが塀に座った

 Humpty Dumpty had a great fall.

 ハンプティ・ダンプティが落っこちた

 All the king's horses and all the king's men

 王様の馬と家来の全部がかかっても

 Couldn't put Humpty together again.

 ハンプティを元に戻せなかった



 さて、ハンプティ・ダンプティとは何でしょう? という謎かけ歌だ。

 ルイス・キャロルの『鏡の国のアリス』にも登場する。

 何にしても非常に有名なキャラクターだと言って良いだろう。

 ハロウィンの仮装のチョイスとしては、まあお化けとは違う気がするけど、絶対ありえないとまでは言い切れないラインだと思う。

 キャラとしてのハンプティ・ダンプティそのものにおかしな点は思いつかない。

 私とまりあが見たハンプティについて思い出した方がいいか。

 ずんぐりむっくりとした、英語の教科書に載っていたハンプティ・ダンプティそのものといった見た目で、足だけが普通のズボンを履いた人間のものだった。だからコスプレというよりは着ぐるみ、足以外くまモンやふなっしーを着ている状態に近い。

 着ぐるみは手作りだろうが、出来は相当良かった。ハンプティのそこはかとなく傲慢そうな顔つきがリアルに再現されていた。

 窓の外を見てみる。ハロウィンとは言っても、この店から見える路地はコースから外れていて仮装者はさっきのハンプティ以外誰も通っていない。

 ふむ、これはかなりの違和感かもしれない。

 他に気になるところはあっただろうか。

 そういえば、あのハンプティはやたらとフラフラ歩いていた気がする。さっき見た時は着ぐるみを着ていて歩きにくいのだろうとしか思わなかったけれど、改めて考えてると着ぐるみがあるのは腰から上で両脚に制限はないのだ。

 多少見づらいとしても、あんな酔っ払いみたいにふらつく必要は……。

「――あ」

 急に呆けた顔をした私に、まりあが不思議そうな顔をする。

「もしかしてあのハンプティ・ダンプティの着ぐるみって、盗品?」

 私の言葉にまりあは驚いたように目を見開いて、しばしの間を置いた後、小声でこう言った。

「証拠があるわけじゃないですけど」

 つまり、まりあは否定しなかった。

「宮間さんはどうしてそう思ったんですか?」

「えっと……」

 私は喋りながら思考を整理する。

「あのハンプティ・ダンプティ酔っ払ってたでしょ。相当飲んだのか知らないけど、かなりの千鳥足だった。でも、あんな着ぐるみを着てたらお酒なんて飲めないよね。だから当然あれを着る前にしこたま飲んでたことになるんだけど、そんなことするかな? 普通は祭が終わった後に飲むものだと思うんだよね。一旦脱いで飲んでまた着て歩いてたっていうのもピンと来ない。着ぐるみの着脱は面倒だから。じゃあ何なのかっていうので思いついたのが、何らかの理由で本来の持ち主がそこらに置いていた着ぐるみを酔っ払いが見つけて勝手に着込んで出歩いてたって想像」

 私の説明を聞いたまりあは静かに頷いた。

「はい。私はあのハンプティ・ダンプティを見て、宮間さんが言っている通りの理由で盗品じゃないかと思ったんです。それでどうしてそんなことをしたんだろうと考えていて……」

 人間には原罪があるから、本質的に悪への傾向性があるのかもしれないのだなぁと、安倍まりあは思ったということか。そしてこの場合を例とするなら、原罪よりも性悪説の方が状況に沿っているというのも頷ける。

 人の心は弱い。酔いだの、ハロウィン祭のハイテンションだのでつい悪いことをしてしまう。故に人は己を律さなければならない。荀子って感じ。いや知らんけど。

「なるほどねぇ。まりあはあの短い間にそこまで考えて、思いを馳せてたんだ」

 相変わらずわけのわからん奴だ。今の学校でちゃんと友達はいるのか心配になる。

「ですけどそういう可能性もあるというだけで、実際は視界が悪くてふらついてただけかもしれないし、始める前から飲んだのかもしれないし、飲んでからもう一度着直したのかもしれないし、持ち主の許可を得て着ているのかもしれませんからね」

「それはそう」

 まりあの言う通り、手持ちの情報だけだとどうとでも言えてしまう。推理小説のようにたった一つの真実を見抜くなんてそう出来ることではない。

 まあ私が知りたかったのはあくまで、まりあがハンプティ・ダンプティの仮装を見てどうして原罪なんてものを連想したのか、なので、それを正解出来たわけだから後の真実はどうでもいいのだけど。

「せっかくだし答合わせしてみる?」

「え、出来るんですか?」

「絶対ってわけじゃないけど……。ちなみにどうすると思う?」

「今から店を出てあのハンプティを追いかける……なんてしないですよね?」

「しないしない」

 中身がどんな人間かも分からないのに、女子二人で絡みに行くのは流石に気が引ける。

 まりあはしばらく悩んでいたが、やがて諦めたようにうなだれた。

「分かりません」

「確かにまりあには思いつきづらい方法かも」

 私はスマホを取り出した。まあ別にわざわざそんな勿体つけるようなアイディアってわけではないのだけど。

 あんな本格的な着ぐるみを作っているのだから、持ち主は相応のレイヤーだろう。ならば出来上がった作品やそれを着ている様子をアップするためにSNSに登録してるんじゃないだろうか。そういう人間が、もしハロウィンの最中に自分の作った着ぐるみが盗まれたと気づいたらどうするか。

「お、あった」

 画像付きのツイートが相当量リツイートされていた。



『ハンプティ・ダンプティの着ぐるみが盗まれました。犯人はまだ近くにいると思います。見かけた人は教えて下さい。#拡散希望』



 と、いうことで。

「名推理だったね」

「偶然です。完全に」

 被害者のレイヤーにハンプティをここいらで見たというDMを送ってしばらく後、窃盗犯が見つかった旨のツイートがあった。私の情報提供が役に立ったのかは定かではないが、これでひとまず一件落着のようだ。

 まあまりあの言う通り、推理なんて大層なものではなく、いくらでも考えられる可能性の中でたまたま私達が選んだものが正解だったというだけだ。強いていうなら予想の引きが良かったというくらい。

 SNSで調べてみる、という私が思いついたような手順をまりあが気がつかなかった理由は単純で、令和にもなって安倍まりあは携帯電話を所持していないため、インターネットを使ったサービスにもとんと疎いのだ。

「ね、スマホ便利でしょ。買いなよ買いなさい」

「確かに便利ですね」

 まりあが頷いた。今までにない反応である。これがハンプティの威力か。どんな営業マンならこの顧客のツボを見抜けるのだろうか。

「今度父に聞いてみます」

「やった! 連絡先教えてね!」

 喜ぶ私にまりあは難しい顔をした。

「うーん、ハンプティ・ダンプティの推理は偶然ですけど、宮間さんが私の思考を読んだのは偶然じゃないですよね……。ちょっと怖いというか」

「え、まさかそこで引かれてる?」

 まりあの奇行を真剣に考察するのは私くらいだというのになんと理不尽な。

 地味にショックを受けている私にまりあはくすりと微笑んだ。

「冗談です。何を買えばいいのか分からないので、それも教えていただければ」

 そうはいっても見かけた着ぐるみが盗品かどうか確認するのにスマホを使うことは今後二度とないだろうけど、とりあえずそのことには触れず私達は来週電器屋に行く約束をしたのだった。

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