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2. 消える子たち

 一本に結ばれた銀色の髪が、ひらひらと揺れる。
「このへんだと思ったんだけどなぁ……」
 いくら歩いても先が見えない。疲れ果てた。
「ダメだ。同じ道だ、全部同じだ」
 木々の枝からちらつく陽光が徐々に高度を下げていることに、そして、日が暮れていくさまをただ呆然と立ち見入っていた。
「こんなとこで野宿なんて……」



 その日の早朝。
 エイガル山の南、肉眼で微かに目視できるほどの位置に、パルパーノ村はあった。
 まだ、辺りは薄暗く夜の残り香を漂わせているころ、ひとりの少女がその村を去った。
 何かにおびえた様子も、誰かに追われている様子も感じない。ただ、すこし、ほんの少しだけ、少女は笑っていた。
 旅の始まり。未知へと歩く。そのための好奇心からなのか、少女はやさしく笑う。



 ——本格的に、森が夜へと染まっていく。
 こんなことも想定していた。だけど…… 想定以上にこの森の闇は深く、部外者をけっして受け入れない。そんな雰囲気が周辺を包んでいる……
「はぁ…… 霧が濃くなってきた。周りがまったく見えないわ」
 時間がゆっくりと流れる…… 視界が遠ざかっていく…… 眠気とはまた少し違った感覚のまま、少女の瞼はしだいに閉じていった。




「こんなに栄えてるなんて……」
 わたしは、エイガル山に別れを告げてから三日後、ようやくここに到着した。
 ——大都市リオグラード。旅の途中、出会った老夫がこの街をそう呼んでいたっけ。
 その老夫の話によるところ、この世界において、ここまで巨大な街はほかに類を見ないとか…… わたしならともかく、長らく旅に人生を捧げたであろう老夫が言うのであれば、おそらくそうなのだろう。そんな大都市は、わたしが暮らしていたエイガル山の頂からも、その広大さを見ることができていた。しかし、実際に訪れてみることで、より一層と老夫の言葉の真実味が増していく……。
 人の多さも馬の多さも、その馬が引いている車の多さも、おとぎ話の世界に迷い込んだ気持ちになったわたしは、辺りを歩いている男に声をかけた。
「あの、すみません。この街の地図みたいなものはありませんか」
 すると、突然に声を掛けられた驚きか、その男は一瞬だけ目をまるくしたが、わたしのほうに顔をむけて話し出した。
「お嬢さんは、ここの人間じゃないのかい、どこから来たんだい」
「南のエイガル山から来ました」
 すると、男はまた目をまるくして訪ねてきた。
「エイガル山って…… この街には各地から旅人や商人が多くやってくるが、お嬢さんほどの歳で他所から、はたまたエイガル山から来るとは……」
 男は、関心するように、あごにに手を添えて話をつづけた。
「ここは、このリオグラードは、大きく三つのブロックに分けられているのさ。円をきれいに三分割したように…… わかりやすいだろう。因みに今いるここは、南東から南西までを治めている南ブロック。そして、境界線が集結する中央に『天海神殿』と呼ばれる各ブロックごとの役場が隣接している区域がある。その役場まで行けば、おそらく地図の一つや二つ、貰えると思うよ」
「天海神殿……」
「遠いむかしに、そこには空に浮く神殿があって、その神殿を中心に人々が住み着いて、このリオグラードができたらしい。昔話の名残さ」
「空に浮く神殿なんて、ものすごく幻想的ですね。とりあえず、『天海神殿』に行ってみます。ありがとうございます」
 わたしが頭を下げると、男もかるく頭を下げて、笑顔で手を振って人混みの中に消えていった。
「きれいに三分割されているなら、北に向かってこのまま歩けば、その神殿に着くのかな」
 ここまで歩き続けて来たけど、疲れは全くない。山の中で暮らしていた時には決して見ることのない景色が、わたしの瞳に飛び込んでくる。すべてが新鮮で壮快だ。人々の話し声、馬の呼吸、馬車の走る音、それらすべてが、わたしを笑顔にさせる。
 それは、言われたまま南ブロックの中央を横断する、一本の大通りを北上しているときだった。
「またひとり、女の子が消えたらしい」
「おいまたかよ…… これで何人目だ」
「この街に入ってきてる情報だけで八人目だ」
「一ヶ月で八人かよ…… この街も物騒になったな」
「ばか、おめえしらねーのかよ。突然この街を出て消えちまうって噂さ。なんせ、リオグラードと姉妹都市のロンダードでは、『切り裂き魔』が最近流行ってるらしくてよ、そいつがこのへんに逃げて来たんじゃないかって話もあるほどだ」
 わたしは、右側で並走している労働者のような若い男たちの話を、環境音の代わりにしながら歩き続けていた。
 目の前が混雑してきた。どうやら事故があったみたいで、直進予定だった大通りを迂回しなければならないようだ。
 迂回先の道は、昼間でも暗く、人の気配も大通りに比べてしまうと天と地の差がそこにはある。
 平和都市の名を欲しいがままにしたリオグラードにも、スラム街と呼ばれる地域は、ほかの都市と変わりなく存在していた。さすがにそんな道を迂回するには、わたしは新人過ぎていた。ここのエリアでの禁止事項も暗黙の了解も知らないことで、すべての妄想が現実になると同時に、すべての現実が誇大妄想になる。結局のところ、わたしは、何を知らないのかを知らない。
 実のところ、この『平和都市』以外の街を知らないわたしは、『平和都市』や『スラム街』という言葉さえも、行き来する街人たちから耳に入ってくる知識でしかない。それでも、このスラム街を歩いて進むことの恐怖は嘘偽りなく、近くに停車していた馬車に乗ることにした。
「天海神殿までお願いします」
「お客さん、このざまだ。歩いて行った方が早いんじゃないかい」
「ひとりぼっちで迂回路を進むのは怖くて」
 わたしは、正直に言うと、御者は呆れたように続けた。
「なぁに、あそこを怖く見せているのはただの噂話さ。おれもあそこで暮らしているんだ。平気だよ」
「こんな立派なお仕事をされているのに、スラム街と呼ばれる場所に暮らしているんですか」
「これは、客乗せの馬車だ。王や貴族に雇われているわけじゃない。たいした稼ぎにはならんさ」

 まったく進まないこの混雑の中で、わたしは、この『スラム街』に関する世間話を、手綱を握る御者の男からいくつか聞くことができた。
 スラム街の名は『シャーレ裂地』と呼ばれていて、平和で輝かしいこの大都市に、『暗闇』という亀裂を入れていることや、まるで地を割いたように広がるエリアそのものが、その名の由来らしい。 
 しかし、外から見る雰囲気は他所に、たしかに貧困層の居住地ではあるが、実際のところ、犯罪や暴力などとは、まったくの無縁な場所なのだとか。『スラム街』と聞くと、どうしても『犯罪』という尾ひれがついて来てしまうらしい。わたしも、その尾ひれに目を引かれ、勝手な幻想を生み出していた張本人なのだ。

 ようやく進みだした馬車に揺られ、スラム街の風景が瞳に入ってくる。
 両側に流れる暗く脆い建造物とは反比例した人々の明るい表情が、御者の言っていた話の裏づけなのかもしれない。わたしは、自分自身の無知さ、その無知から絞り出される『印象』や『予測』に身を任せていたが、そこにはなんの意味も根拠ももたないことを思い知らされるのであった。

 馬車が急停車する。
 窓から景色を眺め、自分自身の知識と、現地の情報をすり合わせていたわたしは、思わず腰を浮かせた。
 ワゴンの扉が開き、制帽を被った男がわたしの手を引く。
「憲兵です。降りてください。すこしお時間いただきます」
 男の周りには、似たような恰好をした男が数人立っていた。
 御者の男も降ろされていて、わたしと同じく、数人の男に囲まれていた。男たちは、感情がまるで無いかのように表情を一切変えることもなく、やさしくもなく、脅迫じみているわけでもなく、淡々と会話を進めていく。そして、なによりも、それがわたしにとって心から恐ろしく感じた。
「――というわけでして、あなたのかばんの中身と行き先を教えていただけませんか」
「え…… もう一度うかがってもよろしいですか」
「ですから…… 最近、あなたと同年代の子たちが、立て続けに行方不明になってます。ある共通点がありまして、それを確認させてもらいたいのです」
 突然の事態に、何のことかも把握しきれていないわたしは、まるで、オウム返しのように繰り返した。
「行方不明…… 共通点……」
 憲兵の男は、わたしの瞳を凝視し、口を開いた。
「一冊の絵本です」
「え…… あ……」
 わたしは、明瞭な返事をすることもできず、こころに自問自答することしかできなかった。
 絵本……。 確かにわたしは絵本を持っているし、その絵本を手にしてから、あの山を下る決意ができた。でも、まさか…… わたしは行方不明になっていないし、むしろこの街にやってきたんだから…… 
「ありました。例の絵本です」
 わたしのかばんを物色していた憲兵の一員が、わたしの目の前に立つ憲兵の男にそう声をかけた。
「たしかに、うむ。お嬢さん、あなたを今から、とある施設に連れていきます。一時的な保護と、調書を取らせていただくためなので心配いりません」
 わたしは、うなずき、憲兵の指示に従う事しかできなかった。さっきまで乗っていた馬車とは別の馬車に乗せられ、御者の男は、わたしが乗っていて自身が手綱を引いてきた馬車に戻されていた。
 御者の男は、わたし以上に現状を把握できていないようで、目を開いて辺りをギョロギョロと見回しながら、憲兵に両肩を押されて、ワゴンの中に入っていった。
 わたしが乗った馬車には、わたしと始終話していた憲兵の男が。御者が乗った馬車には、わたしのかばんから絵本を見つけ出した憲兵の男が。それぞれ、前方に背中を向けて座り、手綱を引いて馬車を出発させた。



 馬車が停車する。
 まだ、走り出してそれほど時間は経っていない。しかし、たしかに到着したのだろう。ちいさな川に囲まれた大きな神殿が、ワゴンの窓に突如現われた。
 これが『天海神殿』なのだろうか。目の前に座っている憲兵にわざわざ確認しなくても、その答えは、はっきりわかるほどの異質な外観をしている。
 馬車を降りると、そこには、まっすぐ登る勾配のきつい石階段があり、その先に、これまた石を削ってつくったであろう巨大な二本の柱が並んでいて、その間には、真っ黒に塗られた扉が鎮座していた。
「安心してください。ここは南ブロックの先端、リオグラード統制本部…… 通称『天海神殿』と呼ばれているエリアの南部支部です。役場から憲兵本部に、裁判所まで兼ね備えているもので…… 見た目や雰囲気が、少し恐怖感を覚えさせるでしょう。しかし、あなたは被害者の一人とみなされて、だれかに裁かれる心配もありませんから」
 ――たしかに、わたしが怖がる必要なんてない。だけども、異質な空間で、右斜め後ろを終始無表情の男がついてくる光景は、さすがに安心できない……。

 真っ黒な扉が開かれ、紅緋の絨毯が伸びている広間に入る。
 天井から吊り下げられた絢爛な装飾を纏った照明にわたしが見惚れているのを横目に、憲兵の男は、広間の中央から生えたような階段をのぼりはじめている。
「ついて来てください。取調室はこの先です」
 紅緋の床、茶色の壁、そして、鳥の子色に広がる照明。この不思議な空間を、わたしは、目に焼き付ける暇もないまま連れていかれた。
 憲兵の男は、古びた木製の扉を開け、部屋の中央に備えていた椅子に誘導した。
「さて、そのままはじめますね。取り調べと言ってもいくつか質問に答えていただく、それだけですので。ところで、自己紹介遅くなりましたが、私の名は、ロークと申します。もっとも、仕事上での呼び名ですが」
「はい…… わかりました。わたしは、レンです。よろしくお願いします」
 ロークは、部下であろう別の男から、辞書のように分厚い本を一冊受取りわたしの目の前に置いた。
「ではレンさん、この本を見たことありますか」
「いえ、はじめて見ました」
「では、この本の題名を聞いたことがありますか」
 本の表紙には『森のなか』と記載されていたが、当然身に覚えのないわたしは……
「いいえ。聞いたこともありません」
「では、作者名は知っていますか」
「知りません。この質問は何なんですか」
 わたしは、この時間が無駄に思えた。山を出てこの街に来ただけで、突然とこの街から出て消えていく子供たちとわたしに、何の関係があるのかと、ロークに疑問をうちあける。
「あなたの持っていた本がこちらです」
 ロークが、わたしのかばんから持ち出していた絵本を、『森のなか』の隣に並べ、さらにつづけた。
「作者名、見てください」
「あ……」
 作者名、”スウィン・ジョー” 机の上に、わたしの目の前に、並んだ本の作者は一致している。
 わたしの瞳孔が縮まり、顔の筋肉が硬直しているさまを、さすがの憲兵は見逃さなかった。
「気付かれたようですね。そして、共通点とはまさにこれです」
 そう言うとロークは、両手でほんの表紙を指さし、私の顔を見詰めた。
 ――わたしの絵本には、書影どころか、題名が書いていない…… たしかに、エイガル山に届いて、わたしは意識していなかった……。 
「行方不明になった子たちのもとには、決まってこの作者の絵本が届けられているんです。そして、題名も表紙もないただの厚紙…… それを読んだ子たちはこの街から消えていく。とはいっても、本を手にしてすぐ消えた子も、読後二、三日経ってこの街から消えた子も、みなバラバラです」
 自分の行動と、すでに行方不明になった子たちの情報が擦り合うことに、震えがわたしの身体を纏う。偶然にしては出来過ぎている。
 何かの間違いであってほしい…… わたしはもうすぐ、この街から消えてしまうのか……
 そんな脅えた表情を、知ってか知らずか、ロークは話続ける。
「スウィン・ジョーの描いた絵本。みな、これを持って消えています。私たちは、いえ、私はここにさまざまな疑問と回答が表裏一体となっていると思っています」
「疑問と回答……」
「ええ、まずは、スウィン・ジョーという人物。この人物は過去に、子供を主人公とした書籍を多数出版しています。しかし、どれも小説で、一冊でも絵本が出版されたという記録はありません。つまり、レンさんや、他の子たちに届いた絵本というのは、すべて未発表の作品なのです」
「じゃあ、わたしたちにこの絵本を届けたのは、作者本人ということですか…… それなら、その作者を捕まえて話を聞けばいいのではないでしょうか」
 ロークは、両手の肘を机に乗せ、拳を額に当てて一息のため息をしてから、またわたしに顔を向け
「スウィン・ジョー本人に話を聞けるなら初めからそうしていますよ。彼は、十五年前に、この世を去っています。私が、レンさんに見せたこの本『森のなか」こそが、彼の、世に出た最後の作品です」
 送り主不明の絵本が届き、その作者は小説家で、十五年前に死んでいる…… この世に残した最後の作品『森のなか』という小説。
 考えれば考えるほど、理解という言葉をあざ笑っているように、不可解な事例が並んでいる……
「レンさん、あなたはこの絵本とどこで出会って、そして絵本を読んでみて、どんな感情を浮かべましたか」
「わたしは、元々エイガル山で暮らしていました。いつかこの場所を離れたいと、そう思って生活していました。そんなときに、この絵本が届いたんです。絵本を読んでみても内容はいまいち理解できないというか、物語としては物凄く退屈だったんですが、なぜか、この本の送り主を見つけ出したいという気持ちが強くなりました。おそらく、わたし以外の子たちも同じ感覚になって送り主や作者を探しに行ってしまったのではないでしょうか」
 ロークは頷きながらわたしの話に付け加える。
「送り主を探す旅に出た。レンさん、あなた以外の子たちは行方不明。なぜ、レンさんは行方不明にならずに、私の目の前にいるんでしょうかね」
「わたしは、元々リオグラードの人間ではなく、この街が出発点ではないからですかね」
「いえ、出発点ということでしたら、他の街でも同様の事件が起きていますが、この街に辿り着く子供は、あなたが初めてなんです。つまり、絵本を持った子たちは、どこで暮らしていようが、あなた以外全員消えているんです」
 嫌な目で見詰められる。憲兵という立場がそうさせているのか、冷たく、わたしの身体を見透かすようなその目は嫌い。
「わたしを疑っているんですか」
 ロークは、はじめて笑った…… これまでの無表情と冷めきった態度からは、まるで想像できないほどのやさしい笑顔を、わたしに見せて……
「まさか。あなたは大切な生き証人です。レンさんを疑ったりはしませんよ」
「なぜ、わたしは、ここに辿り着いたのでしょうか」
「それについて、レンさんからお話を聞けば、何かしらの糸口が見つかるかと思っていたんですが、実際は、本人にもよく理解できていないご様子で」
 わたしと被害者。現時点で、『被害者』と呼ぶことはふさわしくないのかもしれない―― 消えた存在と現れた存在。この違いとは…… 道を分けた原因とは…… 

 勢いよく扉が開く。
「ローク殿、足取りが掴めました」
 ロークの部下のような女が、慌ただしく部屋に駆け込んできた。
 その一報が部屋に響くと、わたしは、ロークの顔を見詰めた。ロークは眉間に皺を寄せながら部下に尋ねた。
「まさか、あの場所か」
 あの場所。ロークがどこを指した言葉なのかは、わたし以外のその場にいる憲兵たちには通じたらしい。そして、わたしも、それがどの場所なのかを知るまでの時間は数秒の間しか必要としなかった。
「はい…… 灯幻の森です……」
 灯幻の森。わたしの暮らしていたエイガル山の北のふもとには、今いる『大都市リオグラード』そして、南のふもとからぐるっと広がるは、『灯幻の森』つまり、リオグラードの視点からすると、リオグラードの南にそびえるエイガル山があり、その奥から、リオグラードとエイガル山を囲んでいる森こそが、消えた子たちの行きつく森なのだ。
 山の頂から、をして、自然の中で暮らしたわたしの目から見ても、あの森は異質な雰囲気が森全体を覆ている。
「やはり灯幻の森か…… 厄介な場所だ」
「ええ、あの森に近づくとなると、それこそ姿消えてしまいそうで」
 ふたりが頭を抱えて話し込んでるさまを、わたしは目の前で眺めているだけだったが、そのとき……

 ――行かなきゃ。いますぐ、行かなきゃ。
 ――おいで。みんな君を待っているんだよ。

 わたしは、名もなき絵本の表紙を見詰め、そして、手を伸ばした。
「おい。何をしているんだ」
 ロークが声を荒げたと同時に、わたしは一瞬、我に返って
「え…… いま…… すみません」
「呼ばれたか」
「はい…… 多分…… 頭の中でわたしのことを……」
 ロークは、わたしを見据える。この先のわたしがとる行動に、もしくは、わたしの口から出ていく言葉に、彼は身構えているようだ。
 落ち着かない。ここに居てはいけない気がする。はやくこの部屋から…… この街から…… あぁ、わたしの頭を両手で握ってくる。首筋を這い、肩に到達した嫌悪の掌は、背中と胸に枝分かれして、わたしの全身を包んでいく。
 視点が揺れ、重力の正しい方向さえ見失ったわたしは、天井を見詰めたまま前後左右に振られる……
「おい……」
 ロークと目が合う…… 彼の口元は忙しそうだ。聞こえない…… 音のない…… 光も薄れていく…… わたしは、このまま侵されていくことは理解できているけど、どうしようもできない。もう心も身体も離れた人格をわたしに突きつける…… まるで、鏡を見詰めていたら、鏡の中から自分が出てきたような、わたしは、彼女と話しているんです。どうか…… どうか、邪魔をしないでください。



 ――ごめん。ごめん。
 ――なぜ、なぜ謝る。
 ――わからない。でも、わたしは、あなたを裏切ってしまった気がするの。
 ――そうか。
 


 瞼が開き、角膜に光が届く。
 白く塗られた天井を、ようやく認識できる。
 身体が動かない…… 縛られているのかな、わたしは、ここに運び込まれたのか、力ずくで閉じ込められたのか、記憶のまったく無い間に、この状態にされたことだけは、理解できる。
「気分はどうですか」
 ロークの声がする。天井をひたすら描写しているわたしの視界に、彼の顔が映り込んだ。
「え……その顔……」
 ロークの顔面は、赤黒く腫れ上がっている。
「あなたを取り押さえるのは、とても苦労しましたよ」
「ごめんなさい」
「その言葉は聞き飽きました。あなたは、私を殴打しながら謝り続けていましたから」
「そんな、ほんとうにごめんなさい」
 ロークは、わたしに対して、気にするなという素振りを続けた後に、徐に立ち上がり、わたしから目線を外して本題を話し始めた。
「ところで、レンさんは、灯幻の森に足を踏み入れたことはございますか」
「え…… いえ、この街とあの森とでは、方向が真逆ですから……」
「行ってみたいと思いませんか、あなたが、先ほど呼ばれた森へ」
 趣旨が理解できない。今はもう、そんな気はさらさら起こりはしない。ということをロークに伝えると、彼はうっすら笑いながら目線を下げる。
「それでは困るんです。私たちは、レンさん、あなたを、あの森へ連れていきたいんです」
 ロークは取り調べの初めに、わたしに見せたスウィン・ジョーの最後の作品を手に持ち、話を続ける。
「ここで、いくらあなたを見張っていても、質問を繰り返しても、おそらく答えは『森のなか』でしょう」
 ――そうか、たしかにここに居て、またいつあの嫌悪に支配されるか、わたしにもわからない。それが、森へ行くまで続くとするなら…… わたしは、森へ行かない限りことは収まらないといわけか。
 恐怖、拒絶、興味、真実、わたしの求める答えはいったい何なのか。わたしが外の世界に何を求めたのか、森へ行かなければ、わたしは一歩も進むことはできない。
「わかりました。わたしに絵本が届いた瞬間から、わたしの行く先は決まっていたのですね」

 ロークとわたしは『例の絵本』だけを手にし、その他の荷物、その他の憲兵をその場に置き去り、ふたりだけで『灯幻の森』へと向かった。
 憲兵を連れてこない理由は、万一の事態が起きた場合に損害が大きいという理由から。あとは、人員が増えると統率に時間や体力を割き、かえって小さな変化にも気づけないからだと、ロークは話した。
「あの森が『灯幻の森』と呼ばれる理由を知っていますか。政府が定めた地名ではありません」
 わたしからすれば『灯幻の森』という呼称さえ、この街に来てはじめて耳にしたことをロークに伝える。
「密集した木々に光が散乱する。その光は土へと降り注がれる。うっすらと灯を宿し、霧の揺らぐ森には魂宿る…… 昔からの言い伝えです」
 多くの木に反射して、陽の光が散乱するさまが、まるで、暗闇の中のろうそくの火のように、薄暗くぼんやり照らすらしい。そこに、地形による濃い霧が重なったとき、人々に幻想を映し出すと言われていることが『灯幻の森』の由来だと、彼は付け加えて説明してくれた。

 そんな話を聞いているうちに、南門が見えてきた。
 つい数時間前に、わたしが通ってきた場所だ。わたしはここからリオグラードに足を踏み入れ、そして、ここから、足を踏み出していく。
 ――またあとで。
 エイガル山を出ていくときもそんなことを言っていたな。外の世界を何も理解できていないまま、別れだけは続けてやってくるんだと、そんなことを思いながらリオグラードを後にした。

しおり