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94 エイダル公爵邸(1)

 ルフトヴェーク公国のイメージはスイス、公都ザーフィアは、さしずめチューリッヒのイメージだったと、()()()()()のランセットは、出発前にこっそりと説明してくれた。

 冬場の最高気温がマイナス1~2℃、20cm程の積雪が基本と言う事らしい。

 志帆(カレル)には、今回の事が落ち着いたら、ランセットの事も話をして、お茶をしようと決めて、公都(ザーフィア)行きに関しては、馭者に徹していた。

 ペルシュロン種の、足が太めの馬車馬によって引かれた馬車は、思ったより安定していた。馬車や人によって踏み固められた雪道が、予想外に馬車の揺れを防いで、キャロルやランセットの負担を減らしたのだ。

 キャロルの愛馬は、長距離走駆も出来るが、馬車を引く事には不向きなため、今回は自らが手綱を取れない事を説明して、侯爵邸での留守番を説得したキャロルだったが、愛馬(ユニ)()()()

 馬留めで、何度も足を踏み鳴らして、ごねにごねたが、キャロルの怪我の理解もしたのだろう。妥協案として、護衛のヘクターを乗せる事で、ついて行く事を押し通した。

 馬車があるため、馬単独よりは、やや日数がかかり、10日ほどかけて、侯爵(レアール)領から公都(ザーフィア)へと一行は辿り着いた。

「レアール侯爵閣下。遠路ご到着早々、誠に恐縮なのですが、(あるじ)が、ご到着されましたら、すぐにでも宮殿へお越し頂き、式典当日の打ち合わせをさせて頂きたいと申して――」

「知らんな。私は、公爵が楽をするために、わざわざ領から出てきた訳ではない。何故、警備責任者の如く、打ち合わせなどに出なければならない」

 公爵邸の執事長とは、デューイも面識がある。その気安さもあって、返す言葉で話を切って捨てたデューイに、相手も苦笑を閃かせた。

「その…ご息女の為にも、当日の警備体制を把握しておかれる事は、重要ではないか、とも、おっしゃっておいででしたが……」

「後で警備責任者を捕まえて聞けば済む話だ」

「……申し訳ありません。既に責任者のお名前は、侯爵になっているようで……」
「…っ!あのエイダル公爵(クソオヤジ)……」

 公爵家、侯爵家、双方の執事長共、礼儀正しくそこは黙殺した。
 拳を握りしめているデューイに、キャロルがやんわりと話しかけた。

「お父様、行って下さい」
「しかし、キャロル――」

「もし、公爵邸で動きがあるとしたら、恐らく、公爵がお戻りになられた日の夜になるかと。その方が、動く側からすれば、一石二鳥ですから。それまでは、体力を温存しておきます」

「……是非もない、か」

「お戻りの際は、その警備案、私にも教えて下さい。その方が式典中、目も配りやすくなります。強制参加の元は、たっぷりぶん取って来て下さい。期待してます」

「ははっ…確かにな!」

 次期皇帝が、自ら望む侯爵家の姫が、どれほどの深窓の令嬢かと身構えていた使用人達は、明らかに目の前の光景に、ついていけずにいた。

 目の前にいるのは、公国内でも指折りの地位を持つ侯爵と、対等な目線での会話を交わす――男装の麗人だ。

「仕方がない。行ってくる。戻るまで、カレルとデュシェルを頼む」
「分かりました。お父様も、お気を付けて」
「ああ」

 ――護衛として、ロータスを連れて出ざるを得なかったデューイは結局、その夜、公爵邸に戻っては来なかった。

*        *         *

 執事記録――レアール侯爵一家滞在初日。

 エイダル公爵邸の使用人達は、予め屋敷の主人から、到着した侯爵家の姫君が、どれほどの我儘を言おうが、一時の事だから、耐え忍ぶように…と言われていた。

 ところが現れたのは、明らかに飾り剣ではない、実剣を腰に差した男装の麗人で、宝石ひとつ、ドレス1着持って来ていなかった。

 持参したドレスらしい衣装は、侯爵夫人の正装だけだ。

 5歳になると言う令息の服装も、5歳児は式典に参加出来ないにしろ、実用重視の飾り気ゼロの着替えが数点あるだけである。

 しかも「この度はお世話になります」と、まるで近衛か軍隊に属していたかのような礼をとる「姫君」が、到着後最初に望んだのは、執務室への案内と、公爵邸の見取り図を持って来る事だった。

「寝室は、母と弟にとって居心地が悪くなければ、基本的にはお任せしますが、とは言え、侵入しやすい部屋では困りますので、まずは見取り図をお願いします。あと、公爵の執務室をお借りする事に問題は?見取り図を見たり、護衛と打ち合わせをするのには、他の部屋では色々不向きだと思うので……。あ、紙とペンも、羊皮紙でなくて構わないので、お借り出来ると有難いです」

「―――」

 果たしてこれは「姫君の我儘」で良いのか。

 エイダル公爵家公都邸宅の執事長・グレイブは、表情には出さないまま、悩みに悩み、結局はその要望を認めた。

 普段から、執務室の掃除は許可されているため、誰が入ったところで、問題のある書類はないだろうとの判断だった。

 そんな彼らの想定外の衝撃は、まだまだ続いた。

「それと食事に関しては、こちらは食客でも賓客でもないので、不要です。後で街に出て、適当に食しますから。ああ、お勧めの、地元料理が味わえるような食堂だけ、どなたか教えて頂けますか?小さい子でも入れる所だと、なお有難いですね」

「は?いやいや、お待ち下さい!仮にも侯爵ご一家が、街の食堂などと!既に厨房には、主人の命により、皆様の分の食材も取り揃えておりますので、さすがにそれは、我々としても頷けません!」

「……そうなんですか?じゃあ…母と弟には、それでお願いします。あ、ダイニングとかではなくて、皆さんと一緒に、使用人の食堂に用意して頂いて構いません。と言うより、父もこの屋敷の主人である公爵も不在の今、無駄にダイニングルームや食器の掃除の手間を増やさなくても良いでしょう。母も弟も、ポツンと2人で食事をするのも寂しいでしょうし」

「使用人食堂ですか⁉︎」

「侯爵領でも、父が不在の時には、母と弟は、よくそうしていたようですから、そこはお気になさらないで下さい。あと、私は――別に手間をおかけする事にはなりますが、執務室で打ち合わせをする人数分の、サンドイッチと紅茶をお願い出来ると助かります。あまり遅くならない内に、護衛全員に、見取り図は把握させておきたいですから、食事の時間は短縮(ショートカット)します」

「―――」

 絶句するグレイブの手から、邸宅の見取り図を受け取ったキャロルは、書類だらけの執務室を見て、軽い苦笑を閃かせた。

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