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85 エーレvsアデリシア(1)

 不意にその手が、誰かに握りしめられていると、確かに感じ取った。
 さっきまでのような、ふわふわとした感覚ではなく――明確な、実感として。

「――っ‼」

 それと同時に、右肩にも、形容し難い激痛が走り、キャロル自身の口から、確かに声が漏れた。

「キャロル⁉」

 自分を呼ぶ声もハッキリと、自分自身の耳に届いている。
 ()()()()()と、自覚だけはする事が出来た。
 とてもじゃないが、目を開ける事は出来なかったが。

 実際に目が覚めるのとは、別の話だろうと言った、ランセットの言葉は、正しかったのかも知れない。
 ランセットは無事に、戻って来れているのだろうか。

「…私…死の国(ゲーシェル)……戻って来……も…う…大…丈夫……」

 切れ切れの言葉は、果たしてエーレに届いただろうか。
 
 そこで再び、キャロルの意識は途切れた。

 ただそれは、死の国(ゲーシェル)への(いざな)いではなく、体力を回復させる為の、眠りへの誘いだと、無意識の内に理解した。

 ――それが例え何時(いつ)になるかは分からなくとも。

*        *         *

「キャロル」

 時折聞こえるエーレの声と、髪や頬を撫でる手の感触が、キャロルをノンレム睡眠から、レム睡眠に引き上げている――そんな感覚が、しばらく続いていた。

 どうやら意識の回復には、話しかける事も大事だと、侯爵(レアール)家のかかりつけ医からは言われたらしく、エーレは、その日侯爵邸であった事や、自分がクーディアで目を醒ましてからの事などを、静かに、優しく、語りかけていた。

 少なくともデューイ・レアールがエイダル公爵邸から戻って来るまでは、自分がレアール侯爵領を預かると、キャロルが持ったままだった金璽と、首席監察官権限を楯に、強権発動もしたらしい。

 もともと、監察官業務で公都(ザーフィア)にいない事も多かった為、大抵の政務は、エイダル公爵さえ健在なら、問題なく回ると言うのが、今のルフトヴェークの実情なのだと、エーレは微笑(わら)う。

 ルスラン・ソユーズ所有の白隼(シロハヤブサ)も、不在が多いエーレとの緊密な連絡手段として、エイダル公爵とのやりとりが、普段から飛び抜けて多いらしく、最も確実で最速の、デューイへの緊急連絡手段として、今回は活用されたそうだ。

「外は雪がチラついているよ、キャロル。もうすぐ本格的な雪になるだろうけれど、レアール侯爵が、それでも…と、エイダル公爵邸を発ったそうだ。あと、ロータス執事長が、カーヴィアルのジルダール男爵領に避難されていた、母君達を迎えに行ったらしい。レアール侯爵よりは、かなり後になるだろうけれど、なるべく急いで侯爵領に戻る――と」

 そんなエーレの言葉が、確かにキャロルの記憶に定着していく。

 デューイが持ち込んだ書類と、エーレからの白隼に付けた手紙で、事態の成り行きを把握したエイダル公爵は、どうやら本格的に、ミュールディヒ侯爵領や、ルッセ公爵領、フェアラート公爵領の()()()を決意したようで、エーレはもちろんの事、デューイにも、キャロルの容態が安定したと分かれば、再度戻って来るようにと厳命したらしかった。

 それほどまでに、書類の威力は大きく――動ける人材にも限りがあるのだろう。

「君の目が醒めたら……話をしたい事が、たくさんあるよ、キャロル。アデリシア殿下からの手紙も届いているしね……」

*        *         *

〝ルフトヴェーク公国首席監察官エーレ・アルバートが、友人キャロル・ローレンスに、側妃立后の祝いを届けたくて、彼女を訪ねて来た。併せて、帝国()()()()と第一皇子の外遊に関する打ち合わせもしたい〟

 その先触れを出して、カーヴィアル帝国帝都メレディスの宮廷で、帝国宰相としての『アデリシア・リファール』に謁見を願い出たのは、他でもない、エーレだった。

 宛名に「カーヴィアル」を付けると、それは、帝国皇太子としてのアデリシアに用がある事になり、通される先が違ってくる。

 首席監察官として「ルーファス」の名を外して会うエーレは、アデリシアとも、対等な立場で会いたかったのだ。
 ――少なくとも、キャロルの事に関しては。

 意識が戻ったばかりで無茶だと、ルスランもヒューバートも、エーレが帝都(メレディス)に行く事をもちろん止めてきたが、キャロルをルフトヴェークへ向かわせてしまった事に、その時点で怒り心頭だったエーレは、聞く耳を持たなかった。

 貴婦人のコルセットもかくや、と言うくらいに傷口の包帯をキツく巻かせて、エーレはヒューバートと共に帝都(メレディス)に入った。

 アデリシアとの謁見を待つ間にぜひ時間を取って貰いたいと、典礼省首席書記官名での懇願もあり、典礼省と書庫の中を見学した。

「良い(かた)だね、リンデ首席書記官は。戻ったら、お互いの国の歴史が分かるような、希少書同士の交換を陛下に具申して欲しいと言われたよ。クルツ次席書記官も、口数は少ないけど、君の事は案じているようだったし…。と言うか〝手紙の君〟だ!って、あちこちで注目を浴びたのには、驚いた。何だい〝手紙の君〟って?次席書記官の(かた)からは、ずっと、あの書庫でルフトヴェーク語を勉強していたとも聞いたよ。あの書庫は凄いね。読んでみたくなるような本が溢れてた」

 書庫から宰相室へは、途中に近衛隊の訓練場を通るので、そこで副長と合流したい、と会談の書記予定のクルツに言われて、それに従って行ったが、そこでも窓の外に溢れんばかりの人が押しかけていたところを見ると、どうやら、わざわざその道を通ったとみて良さそうだった。

 人混みに紛れて、刃先のない訓練用のナイフを忍ばせている青年が中にいたので、試されていると分かっていて、()()()()をしたのは、ご愛嬌だ。もちろん、あの時点でまともに戦える筈もなかったので、それしかやりようもなかったのだが。

「トリエル…って、副長に呼ばれていたかな?もしかしなくても、隊長より強い?って呟いていてから『多分ね』って、答えておいたよ。『うわー…ハイスペック過ぎでしょ〝手紙の君〟』とか『隊長…めちゃめちゃメンクイじゃねぇか…』とか、色々聞こえてはいたけど……面白かったよ、君の隊」

 キャロルのこめかみに青筋が浮かんで見えたのは、エーレの気のせいだろうか。

「ただ、君の副長は…人気(ひとけ)がなくなった執務室前の廊下で、俺に頭を下げていたよ。隊長を止められるだけの力がなく、申し訳なかった…って。自分にもう少し力があれば、隊長を後宮に…なんて言う選択肢を取らせて、ルフトヴェークに向かわせる必要はなかったのに、とも。彼の気持ちは、俺も少し分かるよ。自分でもそれしか方法は思い浮かばないと、ルスランも言っていたし、頭では理解をしているんだ。君にその策を取らせてしまった自分が不甲斐ないと言うか…ね。君が書き置きしてくれた手紙、その時は思わず握り潰してしまった」


 最後に「隊長はいつだって、贈られた髪飾りを手放さなかった――宮廷を出た、最後の日も。俺に言われても気休め以下でしょうが、隊長の本当の気持ちは、そこにあったと、俺は思います」と、副長が告げてくれたのは、今は秘密だ。目が醒めたら、その「気持ち」は、本人(キャロル)に直接聞いてみたいと、エーレは思う。

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