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「ごめんなさい……禅さんのシャツが、汚れちゃって」

 ようやく落ち着きを取り戻した環奈に、言われて初めて自分の着ているものに目をやると、禅一は大して気にも止めずに微笑んだ。

「着替えれば済むことだから。それよりも、環奈さんの方は大丈夫? お話する?」

 麦は単なる留守番だったらしく、禅一が戻ってくると帰り支度をしていた。

「じゃあ帰りますよ、禅一さん」
「ありがとね、麦ちゃんシフト入ってなかったのに。折角だから、このあともいてくれていいんだよ?」
「いえ、実はこのあと駅前に用があるので。じゃあまた」
「駅前?」
 禅一は駅から戻ってきたところだった。

「駅前で、たまにタンゴの演奏してて……あれ、アコーディオンじゃなくて、なんて言うんでしたっけ? ボタンが沢山ついてる蛇腹状の」
 禅一は一拍置いてから、すぐに思い当たる。
「バンドネオン?」
「あっ、そうそう。それです。珠雨さんとね、あと一人おじさんがいるんですけど、二人で弾いてるんですよ。片方の人は烈さんていう名前でやってる人で、バイオリン。珠雨さんはバンドネオン。さっきSNSで流れてきたので、行ってきます」
「――珠雨?」

 寝耳に水とはこのことだ。環奈もなんだか驚いたように立ち上がった。


 珠雨が駅前で演奏していると聞いたら、行かない選択肢はなかったが、環奈のことがあった。ちらりとさっきまで泣いていた少女に視線をやると、鏡を取り出して瞼が浮腫んでいないだろうかとチェックしている。

「あの……環奈さん。実は僕も行ってみたいんだけど、もし良かったら一緒に行く? 僕の自慢の子が弾いてるんだって」
「えっ、お子さんいたんですか?」
「いや、まあ、……違うけど子供みたいなものでね。ここのもう一人のアルバイトの……見たことあると思うよ」

 禅一に珠雨のような年の子供がいるとは、勿論環奈は思ってはいなかった。

「お店閉めて行くの?」
「やっぱり嫌だよね、ごめん。折角来てくれたのに」

 断られたのだと受け取り禅一は謝ったが、そうではなかった。
「あたしも行くので、閉めちゃいましょう。でもとりあえず禅さん、着替えた方がいいかも」
 自分で汚したシャツが、気になって仕方ないようだった。

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