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 【☆①】

 美術室に入ると、そこには一人の女子高校生が座っていた。
 長い黒髪がよく似合う少し幼げな後輩である。名前は神奈月遙で、今年の四月から俺は彼女にお世話になっている。

 俺に気づくと神奈月遙は人懐っこい笑顔を浮かべた。
 茶色のブレザーと赤を基調としたチェック柄のスカートがよく似合っている。しかし随分とスカートの丈が短い。

「さあ見てください!」

【☆②】

 次の瞬間、神奈月遙はいきなり足をおっぴろげた。ほとんどの男が反射的に目を覆うだろう。無論俺もドアを閉めた。

「……あのー先輩、ちゃんと見てくれません? 私がこういう事してるのは先輩のためなんですよ?」
「それはそうなんだが……」
「なんでやらないんですか? この前はやったじゃないですか!」
「いや心の準備が」
「ほうほう……つまり気分じゃないとか言うんですね、ヤル気がないって言いたいんですね! 私あなたのファンだからこんなことしてるのに……都合のいい時だけヤるなんてサイテーですよ!!」
「おい言い方ァ!!!」

 勢いでドアを開けながら俺は敗北を確信した。
 俺と相対した神奈月遙は「しめた!」と言わんばかりに、満面の笑みを浮かべて一言。

「はい! パンチラしてませーんw」

 意図せず制服のスカートから伸びる白い脚に、視線が吸い寄せられる。
 ハリのある瑞々しいふくらはぎ。細くて柔らかそうな太もも。それらが白のニーハイソックス包まれている。実に健康的で、それでいて美しい絶対領域を創り出していた。しかしパンチラはしていない。角度的に無理だ。

「で、これを見てください!」

 ニタニタしながら神奈月遙が取り出したのは俺が描いた漫画である。漫画家を目指してる俺に神奈月遙は協力をしているのだ。
 ちなみにそのページではまったく同じ構図でパンチラをしている。

「この姿勢じゃパンチラ無理ですねー、ふっふっー、作画崩壊はっけーんw」
「う、うるさい。俺の漫画はするんだよ」
「おれの漫画はするんだよ、キリッ。……そーですかそーですか、じゃあ先輩のジャンルはラブコメ改めファンタジーにしたほうがいいんじゃないですかw」
「あーもー腹立つなぁ! もっと敬えよ! 曲がりなりにも目上だぞ!!」
「はぁー、身体は大きいのに器量は小さいんですねぇ……それと」

 神奈月遙は今日一番の悪戯っぽい表情で言った。

「私は先輩を添削してあげてるんです。上下なんてありませんから!」

 ふふん、と均整のとれた胸を張る神奈月遙。
 たしかに彼女の言っていることは一理ある。よし俺は何も言わん。

「わっ」

 ……だが神は黙っていなかったようだ。

 一陣の風によって、今度こそ露わになる絶対領域のその先。どんどん顔が紅くなっていく神奈月遙。その姿を眺めながら俺は思い返す。

 どうしてこうなったのか。

 それを説明するには一週間ほど時間を遡る必要がある。


 三月の下旬
 進級が確定し、単位という呪縛から開放された生徒たちはみな往々にしてその自由を無駄にしていた。雑談にゲーム、何もしないと言うやつもいる、だが特に"恋愛"なんてものに現を抜かすのは愚の骨頂だ。
 だいたい恋愛なんて……一時の迷いで色々いたした挙句に別れるとお互い気まずくなっていつの間にか黒歴史と化すのが規定ルートの地雷じゃないか。そうだ、そうに決まっている。
 だが、そういう恋愛が無くならないのも事実だ。

 つまりチャンスなのだ。

 俺のカバンには自作漫画「曲がり角でぶつかったいけ好かない女が令嬢だった件」というラブコメが収納されている。奴らが好きそうなシチュエーションを詰め込んだ意欲作だ。
 そしてこの作品で俺は漫画家デビューを勝ち取るのだ。

 ♠♡♢♣♤♥♦♧

「お前さぁ……」

 教授が呆れて俺を見た。それから大きく息をつく。日当たりのいい研究室である。
 無精髭をかきながら教授は明らかにアルコール度数が高そうな酒を取り出した。
 現在午後の三時。

「どうすか?」
「どうもこうも、俺はゼミ生が一生懸命書いたレポート見るので忙しいの? お分かり?」

 教授はため息をついて酒をラッパ飲みしはじめた。ゼミ生が一生懸命書いたレポートに飲みこぼしがポタポタ垂れる。

「和田編集……そんな堅いこと言わずに」
「じゃあ言わせてもらうけどさ、担当編集にそういう言葉遣い駄目だと思うぜ? プラス俺はお前のゼミ教授でもあるわけ、人の倍敬え」

 この人は和田編集。この大学で特任教授として教鞭を取りながら、現役で出版社の編集もしてる。
 俺が高校生のときに新人賞で佳作入選して以来、専属の担当として面倒を見てくれているのだ。

「ゼミ教授なら生徒の悩みも聞いてくださいよ」
「俺は研究者だ。自分の研究を第一にしてる」
「特任教授は免除されてるの知ってんかんな」

 バツが悪くなったからか、和田編集はさも大きく咳払いをすると俺が描いた漫画を机に置いた。

「午前に送ってきたPDFで確認はしたさ」

 身体中に鳥肌が立った。和田編集の講評は厳しいことで有名だ。だからこそ得ることも多い。
 すかさずメモ帳を取りだした。

「強引すぎる。並のストーリーを展開するために何もかも振り回しすぎだ」
「うす」

 自分でもやや自覚があった部分だ。だが面と向かって言われると辛いものがある。

「でもこの前はもっと自由に描けって言ったじゃないすか」
「自由にキャラクターを束縛していいなんて言ってねぇぞ。お前はおままごとでもしに来たのか?」

 若干思うところもあったのでそのまま聞き続ける。

「お前の漫画はやりたいシチュエーションにするまでが力業なんだよ童貞作家」
「……今童貞は関係ないでしょ」
「いいや大アリだねむっつり童貞」
「せめて作家は残してください……」

 俺は上を向いた。けっして泣いた訳では無い。そう、眩しすぎて涙が出ただけだ。

「あとここぞと言うところで没入感に欠ける。もう少し読む側にリアリティのあるときめきを感じさせて欲しいんだ」
「リアリティのあるときめきですか」

 創作物にリアリティなんて必要なのだろうか。最近アニメ化した「竹取さんは告られる」とか「四千等身の花嫁」とかほとんどの有名ラブコメなんて、現実では有り得ない設定の連続じゃないか。それでも読者はときめくし売れている。

「俺は、お前が恋愛をすればリアリティのあるときめきを描けると思っている」
「恋愛? 冗談はやめてくださいよ時間の無駄です」
「だからお前はむっつり童貞に暗黒進化したんだよムッツリドウテーモン」
「変な呼び方増やさないでくれませんか。あと古いです。話戻しますけどリアリティのあるトキメキって具体的になんですか?」
「現実味のある恋愛劇だよ」
「現実にそんなものないですよ。理解出来ません」
「いきなり理解してもらうつもりはねーよ。あ、そうかこの手があったな……よし、お前に女子高校生を紹介してやる」

 こいつ今、思いつきで女を紹介したぞ?

「俺の人生破壊したいんですか!?」
「この俺がわざわざ恋愛相手を見繕ってやると言ってるんだ」
「嫌ですよ、そんな押し売り」
「そんなことないよー、可愛いし、おっぱい大きいよー」
「どこの客引きだよ……」

 まあ、なんだかんだ和田編集は信用出来る。何かしらのツテがあるんだろう。

「詳しく説明してください。どうやれば俺は和田編集の言うようなリアリティのあるときめきを描けるようになりますか?」
「簡単な話だ。そいつと実際に漫画のシチュエーションを再現するんだよ。そこでときめけばOK、しなかったらそのシチュはOUTだ」

 いや色々OUTすぎるだろ。ラブコメの展開を再現してくれる女の子? それこそリアリティに欠ける設定ってやつだ。

「和田編集……リアリティって知ってますか?」
「今年、隣の付属高等部に神奈月遙ってやつが入学する。お前のファンだそうだ」

 その時、俺はピーンと来た。ははーん今日の和田編集酔ってるな。こういう時は流れに任せて適当に退散するのが吉だ。

「俺のファンってまじですか!」
「そうそう、お前の創作活動に協力したいそうだ」
「そりゃ光栄ですね!」
「やけに食い付きがいいな。まあそういうことだ、神奈月遙ならお前の無理あるシチュ検証にも付き合ってくれるだろう。そうすりゃ多少はマシな漫画が描けるようになるはずだ。期間は次の読み切り迄、時間は金曜の放課後でいいか。サークルの美術室に呼ぶからバックれるなよ」

 そう言うと和田編集は添削したレポートを整理して帰ろうとする。

「お疲れ様でーす」

 俺は気の抜けた返事をした。
 すると和田編集は「お前まさか冗談と思ってないか?」と言いたげに振り向いた。

「……一応言っておくがマジだからな?」

 和田編集は酒に強くない。なので酔ってる時は顔が真っ赤になる。

 逆光のせいでしっかり顔が見えていなかったが、立ち位置が逆転したことで今ははっきり分かる……、素面だ。

「えっ…?」
「とにかく次の金曜行けよ。あと俺は四月から産休で一年間休むから今までみたいなサポートは出来ん、さらばだ」
「えっ、えっ、」

 軽くパニックになった俺は念押しのように親指を上げた和田編集に親指を上げて応え、それを肯定と取ったのか満足気にドアを閉める和田編集の背中を眺めたあと、一人になった研究室で、ようやく言葉を絞り出した。

「わお」

 四月一日
 浮き足立っている新大学生をかき分け俺はゼミ室へ急いでいた。
 ぶっちゃけ急ぐ必要はないのだが、急がなければ要らぬことを考えてしまいそうなので急いでいる。下手すれば六歳近く年の離れた異性と、しかも初対面なのにラブコメの相談をするというラブコメみたいなシチュエーションにいきなり放り出されたのだ。この状態に平静を保てるのはたぶんブッタかイエスだろう。

 だが投げ出すわけにもいかない。実際、今のラブコメでは連載に持っていけないのは理解した。このチャンスを無駄にはしたくないのだ。

 そうこうしているうちにサークル室こと美術室の前へきた。呼吸を整える。神奈月遙……一体何者なのか、教授の言ったことはどこまで本当なのか……。

 ともかく俺は神奈月遙を使って漫画家になるんだ。

 軽くノックをしたのちドアを開け中を確認する。

「いや良く考えればまだ昼飯も終わってないわ」

 現在午前十一時。高等部はがっつりホームルームの時間である。
 自覚以上に緊張していたようだ。

「まあいいか、神奈月遙が来るまで漫画を描くことにしよう」

 誰もいない部室に入るといつも座る席に座った。やはり定位置はいい、落ち着いて物事を進めることが出来る。久しぶりにいいネタが思いつきそうだ。

 しかしやっぱり落ち着きを取り戻せてはいなかったのだろう。俺は失念していた。
 こういう時、十中八九……俺は寝る。

 ♠♡♢♣♤♥♦♧

 やべぇ寝てた……。

 未だ浮いている意識を掻き集め、目を開く。描きかけのネームが無くなっていた。

「あの……、芥川先輩……すか?」

 声のするほうへ身体を向けると一人の少女がいた。

(おっぱいは大きくないな)

 長く美しい黒髪にガラス細工のようなくりくりの瞳。そして当たり前のように整った顔から零れる自然な微笑、それなのに子供のようなあどけなさも感じられる。
 外からの逆光と寝起きのぼやけた視界もあって一瞬天使と錯覚した。

「あぁ、そうだ」
「やっと……」
「?」
「あ、はじめまして私が神奈月遙です! すいません先輩が描いてた漫画読んじゃいました! なんというか下手くそですね!」

【☆】

 前言撤回、こいつ悪魔だ!

「なんだよいきなり!」
「和田センセの言う通りめっちゃくちゃ童貞臭いです!」
「お前、俺のファンって聞いたんだけど!?」
「ファンですよー? ファンだから駄目だしするんですよー! 愛のムチってやつです!」

 ぼやけた視界がだんだん回復してきたので改めて神奈月遙を見ると目が三日月だった、盛大にニタニタしてやがる! なにが愛のムチだ!
 俺が返答しあぐねていると神奈月遙は畳み掛ける。

「えー、おほん。私……留学することに決めたの――」

 妙に芝居がかって読み上げているのは俺が突っぱねられた新作の一部だ。

 ヒロインは重い病を患った妹がいる設定。
 主人公への恋心か海外留学かを悩み抜いた結果、留学先から提示された妹の医療費全額負担を選ぶ。
 そして空港でプレゼントのイヤリングを返して主人公に別れを告げるシーンだ。

「だから……これ返すね」

 神奈月遙は髪の毛を耳にかけると付けてたピアスを俺に渡して目配せした。俺に男役をやれということか?

(なるほどな、ここで神奈月遙をときめかせることが出来ればいいってわけか)

「分かった……でもこれは持っていてくれ」

 俺は神奈月遙からピアスを受け取り、漫画の展開であるピアスを付け直す体勢を取った。
 髪の毛をかきかげるとふっくらした耳たぶが目に映る。

 さて、さんざん童貞童貞と言われていた俺だが、実際のところは本当に童貞なのか疑問に感じている者もいるだろう。結論から言おう。
 俺は童貞だ。

「っ……!」

 無残にも俺の童貞バンドは神奈月遙の耳たぶに触れず、明後日の方向へ逃げてしまった。反動で身体まで後ずさる。

「……ふっ」

 神奈月遙はニタニタしながら近づいてきた。
 その反応を待ってましたとばかりに……。

「どーしたんですか先輩? まさか……ときめく以前にシチュ再現も出来なかった感じですかーw」
「む、虫が飛んでたんだよ」
「なるほどなるほど……じゃあ仕切り直しましょう、それっ!」

 神奈月遙は俺の手を引くと自分の耳たぶにまで持ってきた。
 冷たくて柔らかい感触が指に伝わる。

 あといい匂いもした。ねぇ俺たちって同じヒト科だよね?

「お、おい」
「あれもしかして先輩ピアス開けたことないんですか? 見たところ穴空いてないですよね、じゃあなんであんなシーン描いたんですかw」

 好き勝手言いやがって!!

「まったく仕方がないですねぇ」

 ピアスをこうやって付けるんですよ。と手を重ねて指導しはじめた。なんとも言えない浮ついた時間が部屋を包みこむ。

「この構図……見覚えありませんか?」

 ふと神奈月遙の呟きによって気づいた。そして絶句した。

「分かりましたか? この構図だとブラはどうやっても見れないんです。だって女の子の制服は全部右前なんですからw」

 たしかに言われて気づいた。俺の漫画は右からイヤリングをつけている時に、読者サービスとしてヒロインの服の隙間から下着が見えるように描いていた。しかし神奈月遙の言う通り制服の造り関係で物理的にそれは不可能だ。逆にする必要がある。

 だがそこでは無い。俺はそっと目を逸らした。

「目を逸らさないで下さいよー、人と話す時はちゃんと人を見て話さないといけないって教わりませんでした?」
「あのな神奈月……」
「なんですかー先輩w」
「下着……見えてるぞ」
「へっ……?」

 さっき神奈月遙が俺を引き寄せた時だろう。ぶつかった拍子に神奈月遙の第二ボタンは見事に吹っ飛び、見えるはずのない下着が露わになったのだ。

 下を向いた神奈月遙はそのまま固まった。身長の関係で表情は見えない。
 仮にも初対面の年上をここまで弄ったのだ。同情するが天罰だろう。少しは反省して欲しい。

「ラッキースケベおめでとうございます先輩!!」

 しかし神奈月遙が発した言葉には、そんな要素など一欠片も無かった。

「おっ、女の子のブラを見るなんて童貞の先輩には初めてなんじゃないんですかっ?」

 ばっ、と顔を上げた神奈月遙はニタニタした表情を出しながら捲し立てる。
 だが先程のような怒りは湧いてこない。

「あのなぁ」

 なぜなら弄り倒そうとする言葉とは裏腹に、神奈月遙の顔を真っ赤だったからだ。目も高速で泳いでいる。

「ねぇ! 先輩ったら!!」
「無理すんなって! 今日はもう帰れ!」

 だんだん居た堪れなくなってきた。しかしこのまま帰すとどうも具合が悪い。いや個人的にはとても趣きのある風貌なのでとても具合がよろし……って違う違う。

 うちの女子制服はブレザーとリボンだから隠して帰ることも難しいからだ。俺は着ているカーディガンを脱いだ。

「もうこれ着ろ! さっきのシチュと構図の修正がしたいから今日のところはひとまず帰ってくれ!」

 カーディガンを押し付けると、俺はネームと睨めっこを開始した。
 ……なんかもっと言い方があったんじゃない? という指摘には肯定しかないが、情けないことに膝がガクガクだったんだ、許してほしい。

「……分かりました」

 神奈月遙はブレザーを脱ぐとカーディガンを着て一番上までボタンを止めた。
 それからドアを開けると

「カーディガンありがとうございます」

 小さくお辞儀をして去っていった。
 足音が聞こえなくなったのを確かめると俺は大きくため息をした。

「流石にこれはなぁ……」

 もう神奈月遙は来ないだろう。お互いにいきなり踏み込みすぎた。
 しかも事故とはいえ事が事だ。謝らなければ、でもどうすれば……。

「あぁ…くそっ、さっきの光景が頭から離れねぇ」

 やっぱり俺は童貞だ。
 理性で目を離しても、罪悪感があっても、本能が脳みそに焼き付けようとする。ドキドキと送られてくる血液を全部、そのために使おうとしているのが分かる。

 その時、ポケットにあるスマホが鳴った。LINEだ。新しい友達に【神奈月遙】と表示されていた。


 ハル:来週も来るんでバックれないくださいねーw


「……あんのクソ編集ーーーーーーッ!!!!!」

 俺が和田教授に鬼LINEしたのは言うまでもない。
 ついでに罪悪感も無くなった。

 どうやらあのクソ編集は神奈月遙に俺が描いた今までの読み切りやネームを全部送ったらしい。いつかプライバシーの侵害で訴えてやる!

 で、なんでそんなことを考えてるかって?

「よし行くぞ」
「了解です……」

 そのせいで今とんでもない事になってるからだよ。

 ♠♡♢♣♤♥♦♧

 三十分前、午後の五時半

 俺と神奈月遙は、シチュ検証のために高等部の教室に来ていた。
 今回の検証内容は教壇でのキスだ。二人で教壇の中に入ってイチャイチャする場面である。これは某ロッカールームに閉じ込められた系から派生した俺独自のシチュだ。

「なんというか…ロッカールームネタのパクリですね!」
「………ふんっ」
「なんすか先ぱ…いふぁい! いふぁいです! くひぃとへひゃう!!(痛い! 痛いです! 口とれちゃう!!)」

 気づかないうちに神奈月遙の口を引っ張っていたらしい。すぐに手を離した。

「すまん、うっかり殺意が」
「手が滑った感覚!? そんな気軽に殺意出さないでくれません!?」

 我ながら遠慮が無くなったと思う。この前の自分と比べてなんとも言えない感慨に浸る俺を他所に、神奈月遙はつかつかと教室に入って教壇の中を確認する。

「えっと構図としてはこうですね」

 漫画と実物を交互に見ながら、丁寧に教壇の下に入っていく。こういうところを見ていると神奈月遙の根の真面目さに気づく。こちらも応えねばならない。
 しかし。

「痛てててて! 無理だ! 首ツる!」
「やっぱりだっ! ほんとは入る前から薄々気づいてたんですけど、こんなスペースに二人も入りませんよw」

 ちくしょう……こいつ初めから知ってて俺を嵌めやがったな!

 天板に頭をぶつけないように出て、俺はため息をついた。

「ちっ、独創的なシチュだと思ったんだがな……」
「独創的かどうかも怪しいですけど、そもそもリアリティに欠けすぎですねー……あっ」
「ぼさっとすんな、さっさと出ろよ」

 ドゴンッ!

 分厚い本でも落としたような音がした。振り返ってみると、手足ともにバンザイして出迎える神奈月遙がこっちを見ていた。

「……ました」
「は?」
「おしりが嵌って動けなくなりました〜」
「嘘だろお前!?」

【☆】

 ジタバタする神奈月遙の状態を確認する。どうやら立ち上がろうとしたときに足を滑らせたらしい。見事に教壇の枠組みにおしりがホールインしている。

「と、とりあえずひっぱって貰えませんか?」
「お、おう」

 俺は神奈月遙の手首を握った。見た目よりもびっくりするくらい細かった。
 全力で引っ張ったら折れてしまいそうで、おっかなびっくりに力を加える。

「ちょ、ちょっとストップ!」
「な、なんだよ」
「やばいです! このひっぱり方だとスカートが脱げます! 見えるっ! ケツが!!」
「女の子がケツなんて言うな! はしたない!!」

「おい、誰かいるのか?」

 ふにゅん。

 つきたてのお餅ような感覚が頬に伝わる。
 これ如何に、と視線を向ける。

 気づくと俺は、さっき入れなかったはずの教壇に体をすっぽり収めていた。
 ついでに言うと、俺の顔が神奈月遙のおっぱいにすっぽり収まっていた。

「ぎゃああああ!! ――むごごっ!?」
「(ちょっと静かにしてください)」

 ぎゅううう

 神奈月遙はさらに俺を胸に押し付けた。
 目の前でおっぱいの形が変わる!

「んー! んんーっ!(お、おい神奈月!!)」
「(だから静かにしてくださいよ……あの生活指導の先生に見つかるとめっちゃめんどいんですから)」
「(分かったからちょっと離れろ! 当たってる! いろいろ当たってる!)」
「(なにが……、……ッ!)」

 目と目が合う。
 ぱちぱち、と神奈月遙はまばたきをする。それからみるみるとまぶたを見開かせた。
 あ、やばいやつ……。

「わああっ!! ――んんっ!!」
「(お前が声出してどうすんだよ!)」
「(こ、これは、わざと当ててんだし! 童貞の先輩にサービスしてるだけだし!)」
「(この期に及んでマウント取ってんじゃねえ!!)」

「ここか? 下校時間はとっくに過ぎてんぞー」

 ガラッ

「(ぎゃーーー!! もう終わりだーーーッ!!)」
「(せ、先輩、手を離してください! 名案があります!)」
「(マジだな? 信じるからな!)」
「(任せてください!せーの、)」

 にゃーん♪

「(アホーーーッ! こんなんで乗り切れるわけないだろぉ!)」

「なんだ猫か」

 ガラガラ……ピシャン

「乗り切りましたね……」
「いやうん、お前すごいよ」
「ぱぷぱふと合わせて貸し二つですからね」
「なんでだよ」

 貸し二つ程度では足りないくらいの凄まじい体験が出来ました。ありがとうございます。
 心の中で合掌……ってそんなことしてる場合じゃない。

 まだ根本的な問題が解決してないのだ。

「……どうやって脱出しましょうか」

 より深く嵌ってしまった神奈月を見て俺は考える。そして思いついた。

「俺に案がある。まず俺が出る、多分出れる」

 宣言通り俺は脱出に成功した。合気道を習っていてよかったと思う。

「で、次はどうするんですか?」
「……こうする」
「えっ、ちょ何を……ぎゃああああ!!?」

 神奈月遙の悲鳴を他所に、俺は教壇を横に倒した。
 さっき生活指導の先生がドアを閉めたおかげで外からは見えていない。

「俺は木枠から天板に向かってお前を押す、お前もスカートが引っかからないように同じ方向へ抜け出そうとしてくれ」
「なるほど……、おっぱいの次は私のけつ…お尻を触ろうって魂胆ですね……変態!」
「ちげえよ! 腰に手を回すわ! こっちの方が力入んだよ!」
「分かりました……まあお願いします」

 神奈月遙は、しぶしぶ了解した。
 怒ってるのか顔が真っ赤である。

「よし行くぞ」
「了解です……」

 しかし、俺は二つ失念していた。

 一つ目は、警戒すべきは生活指導の先生だけではないこと。
 二つ目は、ドアは視覚を遮断することが出来ても、音を遮断できる訳では無いということだ。

 もうお気づきだろう。
 ここからは、これを読んでる諸君にもわかりやすいように声だけで提供しよう。

「おい、変な力入れるなよ」
「痛いです! 早く(枠から)抜いてください!」
「だから力入れるなって! (枠から)出せないだろ!」
「下手ですか!」
「仕方ないだろ、初めてなんだから……あ、いけそう」
「あ、私もいけそうです!」
「よし、力入れろよ同時に行くぞ」
「いつでもいいですよ……!」

 部活帰りの生徒が偶然聞いたらしい。
 翌日、高等部では不純異性交遊の張り紙が貼り出され、緊急朝礼が開かれた。

 神は乗り越えられない試練を与えることない。

 夜なべして作ったレポートを提出した俺は、その言葉をひしひしと噛み締めた。

「ういーす」
「あ、先輩やっほー」

 部室へ向かうと、神奈月遙がいた。
 なにやら分厚い本を読んでいる。やけに楽しそうだ。

「何してんだ?」
「明日の体育のテストなんですよ」

 神奈月遙が見せた表紙には大きく『週刊プロレス地獄変』のロゴ。おおよそ女子高校生が読むものでは無い。

「なんでプロレス?」
「テストでやる技が教科書だと分からなくて……、探してみたらこれが出てきたんです!」

 危機察知とでも言うのだろうか。
 俺はこのとき神奈月遙がスパッツを履いていることに気づいた。

「ちなみに技は?」
「肘十時固めです!」
「テストっていつだっけ?」
「明日ですよ!」
「……ふーん、じゃあ頑張って」

 俺は素早く部室を出ようとした。しかし回り込まれてしまった。
 神奈月遙は俺の右腕に手を回すと、舐めまわすように見ながら言った。

「先輩の腕って、折り紙みたいでス・テ・キ♡」
「折るな折るな!」
「もしくは筆♡」
「物騒なこと言うんじゃねぇ!」

 作家生命潰えるわ!

 全力で振りほどこうとするが、負けじと神奈月遙も身体を密着させてきた。
 やめろ! 童貞には刺激が強すぎる!

 カーディガンを犠牲にようやく脱出した。

「うわっ、器用なことしますね」
「はぁはぁ……。これ俺がやる意味あるのか? 別に友達とかいるだろ……」
「うーん、できれば先輩がいいんですよねー」

 神奈月遙はさも意味ありげに腕組みをした。形のいい胸が腕に乗り、より強調される。

「なんで」
「気分」
「帰れ!」
「待って待って、冗談ですよ! 先輩、暴力系ヒロインを出した時に肘十時固めしてたじゃないですか! あの時主人公『やわらか!』『いい匂いがする!』ってモノローグがあったんですよ」
「それがどうした」
「おかしくないですか? 絶対痛くてそんな余裕ないでしょ」

 確かにそうだ。
 合気道にしているから分かるが、関節技は一度決まると想像を絶する痛みに襲われる。さらにタチが悪いことに自力で逃げられない。

 ここで再び危機察知。すかさず神奈月遙に視線を向ける。ああやっぱりだ、何かを企んでる。意地の悪い顔だ。

「……そうかもしれないな」
「ですよね! だからシチュ検証するべきだと思うんです!」

 俺は、敢えてその企みに乗ることにした。

「じゃあ横になってください」
「おう」

 俺が床に寝転ぶと、神奈月遙は左横にしゃがんだ。

 ククク……

 初心者の神奈月遙は失念している。
 関節技というのは経験者じゃないとそうそう上手くは決まらないのだ。

 上手くいかずにまごついている神奈月遙をどう煽ってやろうか。ことある事にクドクド弄り散らしやがって……、今回くらいは立場逆転と行かせてもらおうw

 神奈月遙が俺の左腕を掴んだ。すぐさま両足で腕を極める体勢に入る。

 ぷにゅん

 神奈月遙が着ているのは柔道着ではなく、普通の制服。しかも技をかけるためにブレザーを脱いでいる。対する俺も半袖だ。
 太ももの柔らかさと体温がダイレクトで伝わってくる。
 つまりどうなるかと言うと。

 やわらか!
 いい匂いがする!

 理性では御せない暴走。
 必死に頭でコントロールしようとすればするほど、俺の五感は今の感触を堪能しようと躍起になっていた。

 (うおおお落ち着け! 呑まれてはいかん! 呑まれては……うわっ腕が言いようのない多幸感に呑まれて…………違う! 無だ! 何も考えるな! 何もない白い空間を……わぁ白いマシュマロのような感触が上腕全体に……ぬ゛ああああ!!!)

 理性と感性が一進一退の攻防を続けるなか、その時は来た。

「じゃあ先輩行きますね! えいっ!!」

 ブツン…………ブチブチブチブチ!!!!!

 突如、関節が行き場のない痛みを訴える。骨が軋み、軟骨が削り落ちる音がした。

「ぎゃあああああああーーーッ! なんだこの痛み……初心者の出せる代物じゃねぇ!!」
「言ってませんでしたね……実は私、柔道をやってたことがありまして……」
「おおお、おいまさか……?」

 神奈月遙はニッコリして言った。

「加減が分からないので、練習しておきたかったんです♪」
「そんなバーサーカーみたいな理由あってたまるか!」
「まだ余裕がありそうですね、それっw」
「ぐわぁあぁぁあああぁあぁぁあぁぁあぁあぁぁ!!!」

 神よ仏よ獣王よ! 何故俺に試練を与えるのですか! 俺が何をしたって言うんだ!

「やっぱりこのシチュ、痛い以外なにも思いつかないですよねー」

 そうだった! シチュ検証だった!
 神様すいません! 俺が犯人でした! でもせめて慈悲をください!!

 しかし無情。腕の痛みは加速する。

 ミチミチミチッ……!

「゛あっははははははははははははは!!」
「いきなり笑い始めてとうとう気でも狂いましたか?」

 ちげーよ! ホントにやばいとき人は笑うんだよ!! 痛みの最終通告!! 折れる一歩手前!!

「折れる!! 折れちゃううう!!」
「どーしよっかなー」

 俺は力を振り絞って神奈月遙を見た。痛みさえなければ相当の絶景なんだろうが、今そんな場合じゃねぇ!

「マジでお願いしますっ!」
「うわ無駄にいい顔……。はあ、抵抗もしないなんて女々しいですね」

 ――いいのか?

 瞬間、俺の中にいた獣の王が告げた。

 ……本当にこれでいいのか?
 我が身可愛さに、女々しいとまで言われ……。
 男が、その誇りを失ってまで、許しを乞う必要があるのか?

「いいですよ解いてあげ――」
「……全力で来い」

 (ありがとう獣王、俺の心の迷いは晴れました!)

「はい?」
「全力(ギガブレイク)で来いって言っているんだ神奈月」

 俺は全筋力を左腕に集中、一気に解き放った。

「わわっ……や、やるじゃないですか! えっ、ちょ、あわわわわわわっ」

 神奈月遙も力を入れ始めたが、俺もそれ以上の力で対抗する。

 肘十時固めから抜け出す唯一の方法。強引に手繰り寄せる、それだけだ。

「ぬわああああああっ!!」

 今度は神奈月遙が必死の形相で叫び始めた。
 だがもう遅い。ここまで来ればもう俺の勝ち――

 むにゅう

 突然、素晴らしい感触が腕を包み込む。
 この感覚……知っている、太ももだ! 神奈月遙が太ももにめっちゃ力を入れている! なにこの抱擁力!?

 結果、驚いた俺の手は仰け反ってしまった。


 もにゅん


 次は手のひらに柔らかい感触。手に馴染むちょうどいい大きさだ。弾力も素晴らしい、打てば響くというのだろうか、揉めば程よい反発が返ってきそうな……、おいこれ……これって!?

 恐る恐る視線を向けた。俺の左手は神奈月遙の胸に実る果実をガッツリ掴んでいた。

 おっぱいじゃねーか!!!!

「うわあああ!!!」
「ひゃあああああああああああああああああああ!!!!!」

 お互い高速で距離を取った。
 試合中のプロレスみたいだって? やかましいわ!

「ごめん! まじでごめん!!」

 俺は咄嗟に謝った。
 疲れと緊張で心臓がおかしなことになってる。息が上手くできない。

「い、いえ私こそお粗末なものを……」

 弄ってこないってことはアイツも似た状況か。両手で胸を隠し、肩で息をしている。
 顔も首まで真っ赤で、表情も、怒ってるのか照れてるのか、ここからじゃよく分からない。

「に、にしても先輩……やれば出来るじゃないですか! なんですかあの技?」
「いやあれは使っていいモンじゃねえから、事故ると掛け手受け手どっちも危険だ、し……」

 手に蘇るあの感触。
 はい墓穴掘りました。

「……じゃあ知ってて使ったんですね?」
「えっ」
「ひょっとして、狙ってやりました?」

 ずんずんと神奈月遙は近づいてきた。顔が朱に染っていることを除けば、いつもの弄りモードだ。

「いや違っ」
「へーんたい!」

 どーん

 強く突き飛ばされた俺は無残に尻もちを着いた。起き上がるまもなく神奈月遙が馬乗りしてくる。

「おいまさか…!」
「今度はあんなことさせませんからね」

 神奈月遙は俺の右腕を持つとすぐさま両足で挟み込んだ。しかも腕が曲がらないように固定もしている。

「や、やめっ」
「お仕置きです💢」

 ぎゅうううう

「ぎゃあああああああああああああああああああ!!!!!」

 その日、美術室からは絶え間なく男の悲鳴がこだましていたという。

「……先輩、今年の五月がどんな月か知ってますか?」

 いつもの放課後、神奈月遙は大きな紙袋を持ってきたかと思ったら、いきなり聞いてきた。

「はあ?」
「『一日も祝日がない月』なんです。祝日とか記念日とかぜ〜んぶ土日とぶつかっちゃったんですよ……」
「そりゃご愁傷さま」
「はぁーあ、ボッチで童貞の先輩には縁遠い話でしたね」
「ひとついいか、なんでボッチ属性を付与した?」
「六月も祝日ないんですよ」
「それは災難だな、そして俺の質問に答えろ」
「だからゲームしませんか! 家から持ってきたんですよ!」
「俺の話を聞けぇぇぇぇ!」

 ということで最近ブームになってる『フォールマンズ』をすることになった。

 このゲームはプレイヤーが「フォールマン(Fall man)」と呼ばれるキャラクターを操作し、ゴールを目指すというものだ。「レース」であれば規定順位以内にゴール、「サバイバル」であれば規定人数以内に条件をクリア。
 そして最後に「ファイナル」というステージで、一位となったプレイヤーが勝利するというものだ。

「あ、何も景品がないと面白くないので、こんなの用意しました! じゃっじゃーん!」

 神奈月遙が取り出したのは、【なんでも言うこと聞きます券】という手作り感満点のカードだった。そのくせ縁に柄を入れたりとやたら凝っている。

「肩たたき券かよ」
「ふっ、見た目に騙されるなんて、さすが童貞ですね。これは文字通り相手にどんな事でもさせられるんですよ? 先輩が使えば私にあんな服やこんな服や……、ヌードモデルだって仕方ないけどやってあげますよ!」
「ならお前はどう使うんだ?」
「先輩を下僕にして、なんでも言う事聞かせますけど」
「帰る」
「じゃあ不戦勝ですね! 下僕確て――」
「あーもー! やればいいんだろ! やれば!」

 神奈月遙は部室のテレビにゲーム機を接続して電源つけた。
 俺の横に座り、コントローラーを持つ。

 一瞬、懐かしい桃の香りがした。

「……?」
「どうしました先輩? あ、プレイヤーの名前勝手に決めちゃいました!」

【ハル】【ボッチ】

「おいぃぃぃい!」

 キャンセル連打虚しく、メニュー画面は切り替わり、アバターの選択画面になった。

「私これ結構強いんですよー、ハンデあげましょうか?」
「いや、これ俺ん家にもあるから別にいいよ」
「……あぁ、ボッチ故の寂しさを埋めるために……」
「お前それブーメランだからな?」
「私は妹とやってますぅー、ボッチじゃありませーん」

 神奈月遙はクマの着ぐるみを、俺は赤トンボの着ぐるみを選んだ。

【Are you ready?】

「長く生き残ったほうが勝ちでいいですね?」
「ああ、いいぞ」
「ふふん、吠え面かかせてやりますよ!」

【3】【2】【1】……【GO】

 勢いよく神奈月遙が先頭に出る。俺はあえて後ろに張り付いた。

「このまま勝ちはいただきですね!」

 そう言って神奈月遙は最初のカーブを曲がった。
 全身を傾けて。

 (それ初心者がやるやつ!!)

 まさかと思い、俺はおそるおそる前へ出た。するとどうだろう?
 いとも簡単に追い抜かせた。

「んな!?」
「そんじゃお先にー」
「なんのこれしき……ぎゃああああ!」

 後方を確認すると、神奈月遙のアバターが他のプレイヤーに押し出されて落っこちていた。無事スタートラインに逆戻りである。

 その間に俺は楽々ゴール。

「あっ、ちょ……こ、これくらいちょうどいいハンデだし!」

 ゴールした後にハンデとはこれ如何に。

 急いで追いかける神奈月は、相変わらず右へ左へ身体を揺らしながら進んでいく。形相だけ見てるとさながらオリンピックの代表選手だ。どんだけ負けず嫌いなんだよ。

 このステージ、神奈月遙は規定人数ギリギリでゴールした。

「やりますね」
「お前が勝手に自滅しただけだけどな」
「むっ、そういうこと言いますか? じゃあ奥の手を出しますよ……」
「奥の手?」

 その言葉に気を取られていると、ゲーム開始直後に神奈月遙が俺のアバターを掴んだ。
 
「おいまさか…!」
「堕ちろアカトンボ!」

 神奈月遥はいきなり俺を蹴り落とした。このゲームには妨害行為が認められており、神奈月遙はそれを行なったのだ。

「ちょ、お前!」
「勝てばよかろうなんですよ、勝てば!!」
「どこの悪役だよ! うわ、この」

 それだけにとどまらず、神奈月遙は周りのアバターも蹴り倒しながら俺の進路を塞いできた。

「へへーん、悔しかったから追いついてみろー!」

 神奈月遙は俺以外のプレイヤーも蹴落としながらずんずん進んでいく。
 結果、このステージは大混乱となった。

「悪運が強いですね」
「どこかのクマが途中でゴールしたおかげでな」
「ぐぬぬっ、こうなったら」

 三戦目、四戦目も神奈月遙は妨害戦法で俺との勝負を優位に展開し続けた。
 しかし俺もなんとか食い下がり、負けることはなかった。

「ぬぬぬ……地味に先輩強い」
「結構オンライン対戦してるからな」
「あ、やっぱりボッチで練習してるんですかw」
「怒るよ?」

 五戦目は、バトルロイヤルの玉転しになった。生き残りが三つのチームに分かれて競うステージだ。

「俺は青か」
「私は赤チームですね、今度こそ先輩を負かしてやりますよ!」

 そんな死亡フラグみたいなこと言っちゃて……ホントになっても知らないからな? と思った矢先。
 奇跡は起きた。

「なんで邪魔するの!?」

 一部のプレイヤーが、赤チームの大玉を止めに行ったのだ。
 予想外の妨害にパニックになる赤チーム。特に神奈月遙のフォールマンがタコ殴りされていた。

「やめてよ! どうしてこんなことするの!」

 神奈月遙は必死にコントローラーを操作する。しかし多勢に無勢、しまいにはリスポーン先にも待ち伏せされて[落下→リスポーン]の無限ループに陥っていた。

「ひっぐ……うぅうう……」

 そんなことが数分続き、とうとう神奈月遙は泣きだしてしまった。

 正直、朱が差した頬と涙をこらえる表情は、まるで恋愛映画のワンシーンみたいですごく画になっていた。悔しいが可愛いと思う。

 ……まあ、ゲームでボコボコにされたことを知らなければな。

 しかし冷静に見てみれば異様な光景だ。
 ボイスチャットもないこのゲームで、まるで意思疎通したかのように……どうして。

 戸惑っていると、言葉が聞こえてきた。

 ――このゲームが滅茶苦茶になるかどうか掛かってんだ!
 ――やってみる価値はありますぜ!

 瞬間、俺は理解した。

(これは、仲間の声……。そうか、そうだったのか!)

 そのままゲームは進んでいき、赤チームは一歩も動くことが出来ず敗北した。
 ゲームが終わったあと、ちらりと神奈月遙を見た。椅子からひっくり返っている彼女は、結果に納得いかないのか鼻をひくひくさせて不貞腐れていた。

「ノーカン! あんな妨害ノーカンですよ! 私は負けてない!」
「まだ分からないのか、神奈月。お前は俺に負けたんじゃない。俺たちに負けたんだ」

 俺は諭すように、言った。

「これが人の心の光だ」
「闇ですよ!?」

 その後、フォールマンズは「人の心の闇を体現したゲーム」として更なる人気を博したそうだ。

 ※ちなみに【なんでも言うこと聞きます券】俺のものになったが、使い道は保留になった。

 碓氷:アクタ今日の昼一緒に食べない?
 芥川:あー、そうだな
 芥川:ん、待って
 碓氷:どうしたの?
 芥川:ごめん野暮用っぽいわ

 俺はLINEを閉じた。

「あっ、先輩、やっほー」

 昼休み、階段を降りてると神奈月遙にばったり会った。

「ここ大学棟だぞ?」
「クラスの、課題提出ですよ、学級委員、なんでっ」

 両手にはクラス分のノートが積まれ、かなりの量だ。今も腕をぷるぷるさせながら俺と話をしている。

「重そうだけど大丈夫か」
「これくらいどう、ってことっ……!」

 言ってるそばからノートがジェンガみたく右に左に揺れ始めた。

 さすがに見ていられないので、半分くらい貰い受ける。そもそも学級委員だからって、女の子にこういうことさせるなよ。

 きょとんとした神奈月遙は、手元にあるノートと俺の手にあるノートを交互に見たあと少し驚いた顔をした。

「ありがとうございます」
「おう」

 今気づいたが、神奈月遙はポニーテールだった。どうりで表情がよく見える。

 ♠♡♢♣♤♥♦♧

 ノートを提出し、神奈月遙はいかにも「はあ疲れた」って顔で事務課から出てきた。
 そして俺を見つけると「ところで先輩」と一言。

「どうせ持つなら全部持ってくださいよーw」
「終わったあとに言うなや……!」

 こいつ、こういうところあるよなぁ……。

 これ以上言い返しても手酷いしっぺ返しが来そうだ。俺は諦めて階段を降りる。

「ちょっと先輩ー! そのくらいでしょげないでくださいよー!」
「しょげてない、俺、疲れてる」

 あと俺、学習してる。言い返しても無駄。

「へー、仕方ないですね。じゃあ癒してあげましょうか?」

 何言ってんの、と振り返る。
 ニタニタした神奈月遙が、足をピンと伸ばして階段を降りてきた。

「先輩、身長どのくらいですか?」
「175くらいだけど」
「私は160です。じゃあこの辺りかな」

 俺より三段上で立ち止まった神奈月遙は、バッと手を開いて言った。

「だいたい20cm、ハグに最適な身長差です!」
「……男女逆じゃね?」
「先輩疲れてるんですよね? だから私が癒してあげます!」
「届かねぇよ……」
「あー……」

 三段も離れれば横の距離もかなり遠くなる。既に俺たちは握手もできないくらい離れていた。

「でもハグの身長差か……」
「おやご興味がおありですかな?」

 ほんとはネットで調べても良かった。でも、ほんの少しだけ神奈月遙が残念そうな顔をしていた気がしたので、話を続けることにした。

「仕方ないですねー、先輩のお察しのとおりハグ以外にも色んな身長差があるんですよ!」

 例えば。
 神奈月遙は俺の横に来た。

「身長差15cm、これがなでなでの距離です。ちなみにキスの距離もこれだと言われてるんですけど……」

 神奈月遙は一段登って、背伸びした。

「私はこっちのほうが好みですね。だいたい5cm……、どうして逃げるんですか先輩?」
「いや別に……」

 どうしてこいつは急に距離縮めてくんの?

 そんな内心を察したのか、神奈月遙はまたニタニタした顔を作った。

 いやでもよく見ると"ニタニタ"より"によによ"か……? 今日はポニーテールなこともあって本当に表情がよく見える。

「あれー? もしかしなくても照れましたねw」
「だったらなんだよ」
「離れてあげます!」

 今度は一気に階段を駆け上がる。踊り場までつくと神奈月遙は勢いよく振り返った。

「これに見覚えありません?」
「……!」

【☆】

 すぐにピンと来た。主人公とヒロインの出会いの場所。踊り場から見下ろす形でヒロインが主人公に難癖をつけるシーンだ。

 この構図はどんなに描き直しても、ヒロインが浮いてしまうような感じになってしまい諦めて放置した。

「そうか、足の置き方か!」

 でも実際に見てわかった。つま先の位置がまるで違う。他にもくるぶしとか全体的な姿勢とか、描いてるだけじゃ気づけなかった粗がどんどん見えてくる。
 そして神奈月遙の下着も見えた。急いでそっぽを向く。ちなみに黒だった。

「うおっ」
「今頃気づいたんですかw」

 神奈月遙は今度こそニタニタしながら俺を見た。

「でもそんな童貞先輩に朗報です! これ水着なんですよ!」
「おおそうか安心安心……ってなるか! ……おい待て捲るな捲るな!」
「えー、先輩の漫画だとスカートもっと短かったですよね?」

 ヤバい、完全に神奈月遙のペースに流されている。今までは外野からのトラブルがあったけど今日は期待できそうにもない。だってここ普段誰も来ない最上階付近だし。

(ならもうヤケだ!)

 俺は鞄からノートと鉛筆を取り出した。

「ちょ、何してんですか先輩!?」
「アテを取ってんだよ!水着なら別にいいんだろ!」
「しゃ、写真でいいじゃないですか!」
「スマホ持ってない!」
「嘘だッ!」

 はじめは色々文句を言った神奈月遙だったが、黙々と描いていると根負けして大人しくなった。

 その間も俺は筆を走らせる。身体の輪郭、影の入り方、服のシワ………。

 気づくとアテだけじゃ満足できなくなっていた。

 想像の中でも、人形でも、出すことのできない本当の質感。それを一欠片も逃さないようにデッサンする。ふと表情も描きたいな、と思い神奈月遙を見た。

 さっきまで夢中に動いていた手が止まる。

 ほどよく見開いた瞳。
 ぎゅっと噤まれた唇。
 顔は、朱が滲んだようにすこし紅みがかっている。

 彼女の顔には、はじめ発露させてた怒りなどは微塵もなく、むしろ緊張と困惑と……あとほんの少し嬉しそう(?)、不思議な表情だった。

 その時である。

 キーンコーンカーンコーン

「うわやべぇ! 三限だ!」
「三限……? なっ、お昼休み終わってる!! 先輩何してくれてるんですか!」
「うるせえ! 元はと言えばお前がからかったからだろ!」
「絵のモデルをしてあげた人にいう言葉ですかそれ!?」

 急いで階段を降りる。
 悲しいかな、俺の方が先に息を切らした。一方、隣の神奈月遙はずいぶんと楽しそうだ。
 その日、俺は久しぶりに倒れ込むくらい走った。

 その後の放課後
 俺は昼に描いたスケッチの下書きをしていた。

 向かい側に座る神奈月遙は、印刷した俺の過去作を読んでいる。
 時折にやにやしているのは、弄るネタを見つけたからか、単純に面白かったからか。

「なあ……神奈月」
「なんですか先輩」
「なんでファンになったの?」

 前々から訊きたかった。普段は適当にからかわれてしまいそうで、なかなか訊けなかった。

 でも今日の神奈月遙は、どことなく大人しめに思えたのでチャンスだと思った。
 しかし。

「うーん、色々ですねぇ」
「色々って……おい寝るな」

 ゴンッ

 素直に答えてくれることを期待していたが、神奈月遙は机におでこを擦り付けて、唸るように、言った。

「今日プールだったんですごく眠いんです」
「なら帰れよ」
「気分じゃないので嫌でーす」

 机に頬をぺっとりくっつけたまま、神奈月遙は死んだ魚の目を向ける。

「それよりも先輩。私からも訊きたいことがあるんですけど、放課後どうやって帰ってます?」
「普通に一人で……」
「あぁ、やっぱり……」

 神奈月遙は心底残念そうな顔をした。

「お昼も一人で歩いてましたし、やっぱりボッチだったんですね……」
「いや一応、友達から飯の誘――」
「友達いたんですか!?」
「張り倒すぞ!」
「あ、ごめんなさい」

 ハッと口に当てながら謝罪された。
 こいつ、またからかって……無ぇな、………まじで驚いてる顔だこれ……。もっと癪に障る。

「……まあ話戻しますけど、先輩の漫画読んでるとたまに物凄く描写が乏しいんですよね、たとえばこことか」

 渡されたページには、主人公たちが家へ行くシーンが描かれていた。

「なんか問題ある?」
「……これだから先輩はボッチなんですよ」

 やれやれ、神奈月遙は呆れ顔で言った。さっきから失礼極まりないなこいつ。ここがアメリカだったらぶっ放してるぞ?

「普通、友達と帰るときは雑談とか寄り道をします」
「それは知ってる」
「なんでそこ描かないんですか! 読んでる漫画全部、冒頭が[学校→家]の直通なんて初めて見ましたよ!?」

 神奈月遙がドンドンドンと漫画を並べる。オーマイガー、全部同じ導入になってやがるぜHAHAHA。

 俺は天を仰いだ。

「……なんか遠い目してますけど」
「自分の愚かさに気づいてんだよほっといてくれ」

 まさか構図まで同じとはな……。
 呆れて声も出ない。

 神奈月遙も同じ心情らしい、何も言わなくなってしまった。

 しばらくの間、気まずい時間が漂う。

「…………」
「…………よし」

 沈黙を破ったのは神奈月遙だった。深く息を吐き、ググーっと伸びをして、俺を見た。

「先輩、今から一緒に帰りましょう!」

 ♠♡♢♣♤♥♦♧

 歩くたびにメトロノームのように揺れるポニーテールを眺めながら、俺は訊いた。

「で、どうやって帰るの?」
「普通ですよ、普通に話しながらファミレスに寄って駄弁ったり、お店とかで買い物したり」
「で、それを今日やると?」
「そうです」

 ポニーテールがぐるんと一周した。

「台風来てるのに?」


 びゅおおおおおお!


「……幸い雨は降ってません、ダッシュでファミレス行きましょう」

 しばらく走ったあと、繁華街にあるファミレスに入った。突如接近してきた台風のせいで店内はガラガラだ。

 とりあえずドリンクバーを頼んでそれぞれ食べたいものを注文した。
 ちょうどスイーツフェアだったので、俺はいくつか甘いものを頼んだ。

(そういや普通は駄弁るんだよな、えーっと)

「今日はお日柄もよく」
「なんですか急に!?」
「神奈月さんのご家族はどんな方なんですか?」
「落ち着いてください!」

 一分後

「雑談のつもりだったんです……」
「お見合いかと思いましたよ……、もう少し普通の話題とか思いつかないんですか?」
「つかないですねぇ……」
「友達いるんですよね? その時はどんな話をしているんですか?」

 思いつくのは、その日の講義の内容とか、見たアニメの感想。そうか共通の話題か。

 しかしである。

 神奈月遙との共通の話題がほとんど思いつかない。漫画関連の話を抜いてしまうと、俺はこいつのことを何も知らなかった。

 しばらく黙っていると神奈月遙は諦めた。

「あーもういいです。ボッチで童貞でエクストリームコミュ障の先輩には難しかったですね」

 そう言って俺が頼んだショートケーキを半分持っていった。

「おい待て」
「私、ショートケーキには目がないんです」
「そういうことは聞いてない」
「シェアですよ、シェア。先輩も私の注文したやつ食べていいですから」

 その空っぽのドリアを?

「仕方ないので放課後の話題を続けましょう。なんで私が先輩のファンなのかですよね」
「具体的にどういうところが好きなのかとか、そのあたりのことが知りたい」
「なかなか曖昧ですね……。うーんそうですね、先輩はたまにショートケーキみたいなんですよ」

 神奈月遙はパクパク食べながら続ける。

「そうそうこういうの! って思えるような王道をやってくれるのが好きです。他には……」

 今度はプリンパフェを器ごと持っていった。もちろん俺が頼んだやつだ。シェアすらせずそのまま食べ始める。

 俺はそっとソフトクリームをキープした。

「このパフェみたいに盛り付け上手です。たしかに無理な展開とか、冒頭の使い回しとかはありますけど、伏線とか上手く盛りこんでるのでラストの読後感がすごく爽快です。そう、このソフトクリームのように!」

 ばくんっ

 右腕が軽くなったような気がした。
 何事かと思い、確認する。

 ソフトクリームが、コーンだけになっていた。

「まあこんなところですね。ご褒美にそのホットケーキも食べていいですか?」
「お前どんだけ食うんだよ!」
「だって先輩が悪いんですよ、あのせいで私がお昼ご飯食べてないんですから〜」
「俺も食ってないわ……」
「それは自業自得では……。あ、どうせならこれも奢ってください!」
「シェアの概念はどこいった!?」

 結局のところ神奈月遙はホットケーキで我慢した。
 でもよく考えたらそれも俺が頼んだやつじゃん……。

 俺たちの帰り道はまだ続く。

『申し訳ありませんお客様、本日は台風のためもう閉めないといけないんです』

 現在、夕方六時過ぎ

「うぅ……お腹いっぱいです」
「あんだけ食べればな……」
「どこか休める場所……」
「まだ帰らないのかよ」

 ちらちらと街灯が点灯してるし、台風のせいで土砂降り。
 それでも神奈月遙はまだまだ寄り道をする気マンマンだ。折りたたみ傘で粘っている。

「門限とかないのか?」
「いいんですよ、ルールはたまに破るからいいんです」

 あるんかい。
 つかつかと歩くスピードを上げる神奈月遙。待て待て土砂降りなのにそんなに急いだら――

 ビュオー!

 そのとき今日一番の大風が吹いた。よろける神奈月遙の身体。俺は咄嗟に彼女を抱き寄せる。

「おい危な……」

 グシャ

 嫌な感触がした。おそるおそる確認すると、相棒のビニール傘が天寿をまっとうしていた。
 同時に曇天も好敵手の死を嘆く。そして大粒の雨を零した。こちとら葬式中じゃ! 静かにしてくれ!

 ほんの数秒で俺の服はびちょ濡れになった。

「先輩!」
「と、とりあえず傘に入れてくれ」
「あそこに雨宿りしましょう!」

 俺たちは、かつてないほどのコンビネーションを魅せて店の軒下に滑り込んだ。
 普段だったらこのあと相合傘したとかで、一悶着しそうだったがそれどころでは無い。

「うわズボンまで貫通してる」
「大丈夫ですか?」

 俺が壁になったことで、神奈月遙はあまり濡れてはいなかった。
 だが雨がおさまる気配はない。これ以上いれば神奈月遙もびちょ濡れになるだろう。

「気にすんな、元々これくらい濡れてた」
「……潮時ですね。解散しましょう」

 さっきまでの粘りはどこへやら、神奈月遙はあっさり帰宅を決定した。
 鞄に手を突っ込むと、もう一つ折りたたみ傘を取り出した。

「これ予備なんで使ってください」
「悪ぃな助かる……ん?」

 ……なんで二つも折りたたみ傘持ってるんだ?
 僅かな違和感。だが今までの経験が気のせいじゃないと警告する。
 俺は急いで折りたたみ傘を開いた。

『ハートフルチャーミング♪ フリキュア♪♪』

「お前なぁ!」
「ぷぷぷーっ、童貞の先輩には刺激が強すぎましたかw」
「取り替えろぉ! いや取り替えてくださいお願いします!!」

 必死の叫び虚しく、神奈月遙はもう地平線の彼方へダッシュを開始していた。

 しかしである。

「きゃっ」

 神奈月遙は水溜まりに足を取られた。美しい弧を描いてひっくり返る。
 間髪入れずに天然のシャワー。

 シャワァァァァ――――

 うわぁ……。こうはなりたくない。
 踵を返す。俺はこのままクールに去るぜ☆

「……たすけて」
「……」
「……今の私、透けブラですよ?」
「なにを交渉材料にしてんの?」

 しまった振り向いてしまった。神奈月遙は満足気にニンマリとしている。

 はあーあ、どうせ童貞はこういうのに弱いですよ。

 フリキュアの傘を片手に神奈月遙の救助を開始する。うわほんとに透けてるよ……、色は緑か。

「えっちw」
「冗談言ってる暇あったらさっさと起きろ」
「ありがとうございます」
「おう」

 軒下に戻った俺たちは再び雨宿りを開始した。いまだに止む気配はない。目に見える店もすべてが休業している。

「………うぅ、しゃがんでもいいですか?」

 神奈月遙は小さくうずくまると、自分の吐息に手を当てて暖を取り始めた。

 不味いな……。

 状況をまとめよう。
 幸いブレザーのおかげで背中はあまり濡れていない。でもそれ以外のところは絞れるほどに濡れていた。
 そして俺には、これ以上雨に濡れた女の子を放置するという選択肢は浮かばなかった。

「神奈月、もう少しだけ歩けるか?」
「……どうしました?」
「少しアテがある」

 ♠♡♢♣♤♥♦♧

 繁華街を歩くこと五分。
 外れにある映画館が見えてきた。最近やった補修工事で小綺麗にはなっているが、回転扉とかレンガで出来た壁とか、端々から今もレトロな雰囲気が漂っている。

「ここ映画館……? ぃっくし!」
「ヒロさん居ますかー、傑人です。開けてください!」

 しばらくして回転扉が動き出した。神奈月遙に入るのを促して俺も続く。

 神奈月遙をロビーに待せて奥へ進むと、初老の男性が出迎えてくれた。

「おうタク坊どうした、びしょびしょじゃないか」
「お久しぶりです、ちょっと台風で」
「まあ話はあとだ。バイト服があるから着替えろ」
「実はもう一人いて……」
「イオリか? あいつに合うサイズはなぁ……」
「いえ違くて……後ろの」

 ひょこ。

「あの……お邪魔してます」

 神奈月遙を見たヒロさんは固まった。

「タク坊……高飛び先はどこがいい?」
「なんで!?」
「人を見続けて二十年、言わなくても分かる。さしずめ親元から逃げ出してきたお嬢さんと駆け落ちしたんじゃろ?」
「ぜっんぜんっ違いますね! まず着替えさせてください!」
「じゃが詳しく話を」
「話はあと!!」

 閑話休題

「ふむふむ、本当に台風に巻き込まれただけなんじゃな?」
「「そうです」」
「家出もしてない?」
「「はい」」
「……ファイナルアンサー?」
「「みのもんたか(ですか)!」」
「親御さんにテレフォンしていいか?」
「「くどいわ(です)!」」
「……まあいいじゃろ。雨が止むまでここに居るといい」

 着替えた後、俺たちは事情を説明した。ヒロさんは「タク坊が女を連れ込むとは……」「これが青春か……」と誤解を孕んだままだったけど、もういいや説明めんどくさい。

 ヒロさんは温かいものを用意すると言って、席を外した。

「先輩、ヒロさんとどんな関係なんですか?」
「バイト先だよ、週末とか人が多いときに手伝ってんだ」
「おーい、暖かいもの持ってきたぞー」
「火鉢!?」
「贅沢言うなタク坊、儂の戦争頃はなぁ……」
「生まれてないだろ……」
「ふふっ……、二人とも仲がいいんですね」

 ふふっ……?

 俺は信じられないもの見るように横を向いた。整った顔にどこか見覚えのある自然な笑み……あ、思い出した、これよそ行きの顔だな?

 初めて神奈月遙と出会った、天使のような微笑みだ。

「そうかのう……?」

 目線を戻すと、いるのはすっかり鼻の下を伸ばしたヒロさん。神奈月、お前の前世は小悪魔か?

「……ちょっと飲み物買ってくるわ」

 俺は離席ついでに自動販売機へ向かった。

 歩きながら考える。

 そういや、神奈月遙はなんで今日帰りたがらなかったんだろう。
 フリキュアのくだりをやるため? 台風の日に? そんなことせずとも雨の日に俺のビニール傘を隠すなり、壊すなりすれば十分できる。

「それは流石にクレイジーすぎるか」

 それは置いといて、台風の日に家に帰らないのはおかしい。でも粘ってた割には最後あっさりと解散しようとしたし……。

「……解散」

 もしかしてまだ帰るつもりはなかった……?
 いやよく考えてみれば。

「あいつ、透けブラしたとき顔赤くなかったな」

 神奈月遙は自分の想定外のことが起きるとすぐに顔を赤くする。逆をいえば計画通りなうちは全然動揺もしない。

 あの時「えっちw」といった彼女は顔を赤くするどころか、笑っていた。こうなることが計画のうちだった……?

「意味がわからねぇ」

 深く考えるのは止めよ。
 神奈月遙が身体を冷やしてることは事実、なら温かいものを持っていこう。

『――――うわっ可愛い!』
『じゃろうじゃろう?』

 自販機から戻ると、いつの間にか神奈月遙とヒロさんが楽しそうに会話をしていた。

 こいつ猫かぶるの上手すぎねぇか?
 仮にもナイスミドルのおっさんと女子高校生って話の話題が合わないだろ。一体何の話をしてるのやら。

「何してんの」
「思い出話じゃよ」

 そこには俺の幼少期の写真があった。

「ホントに何してんの!?」
「子供の頃の先輩を愛でてただけですよーw」
「ヒロさん!?」
「いやのう……どうしてもハルちゃんが見せてくれと聞かんから」
「ヒロおじさん大好き♪」
「デヘヘ、そんな事言われても何も出んぞ。ほれ幼稚園の写真」
「出てんじゃねーか!」

 すっかり買収されてやがる!
 神奈月、お前……小悪魔どころじゃねぇよ、サキュバスだろ!?

「ぶわはははは! 砂場一人で遊んでる、めっちゃボッチw」
「おいこら返せッ!」

 格闘すること五分、ようやくヒロさんから全ての写真を回収した。「わしの写真なのに……」とかヒロさんはしくしくしてるけど自業自得だ。魅了が切れるまで没収しておく。

 ……ったく、こんなもの万が一だ、神奈月に持って帰られてみろ。一ヶ月はいじられ続ける。

 ふと外を見ると、いつの間にか雨は止んでいた。

「台風の目に入ったようじゃな、ほれ二人とも今のうちに帰れ」

 俺たちはヒロさんにお礼を言って、映画館を出た。

「いやー面白い人でしたね」
「こっちは疲れたけどな……、でも本当に親へ連絡しなくていいのか?」
「スマホまだ乾いてませんし、普通に帰った方がはやいです……それとも先輩と放課後デートしたって報告した方がいいですか?」
「はぁ!? デートってお前」
「冗談ですよw じゃあ私バス乗らないといけないので!」

 神奈月遙は、俺の言葉を待たずに走り出してしまった。さっき盛大に転んだことをもう忘れたのか。
 執拗にこっちを見てるのは、多分の俺の反応をみて楽しみたいからだろう。

 また転ばれても困るので、俺は踵を返した。
 歩きながらさっきの言葉を復唱する。

「デート……?」

 思い出されるファミレスや映画館での出来事。飯を食われて、写真を見られ、最後もからかわれて……。

「いやこれデートじゃねえだろ」

 あと普通でもねぇ。ほんとに何だったんだ今日は。でもまあ。

「ラブコメの参考にはなりそうだな」

 俺は一人帰路へ着くのだった。

 内容の描き始め、描いてる途中、描き終わった後。
 漫画家はいつ表紙を描くのか疑問に思ったことはないだろうか?

 結論から言おう。俺は描き終わった後だ。

 ということで、完成した読み切りと表紙の下書きを出した。今回はすこし構図の正確さにこだわっていきたいと思う。

「やっほー、先輩何してんですか?」
「読み切りの表紙描こうと思ってる」
「私モデルやりましょうか?」

 部室に入ってきた神奈月遙は近くにある椅子に座った。
 正直願ったり叶ったりな申し出だ。だが断る選択をした。

「いや遠慮しとく」
「あれ? いつもはなんだかんだで付き合ってくれるのに珍しいですね」

 近づいてくる神奈月遙。
 俺は意図的に距離をとった。それが悪かった。
 俺の意図を察した神奈月遙はニターっと笑みを浮かべて距離を詰めてくる。

「ちょっと見せてください!」
「ばっ、ちょっ!」
「……ぶははははは!!! なんですかこれw」

 ちょっとでも見れれば勝ちの神奈月遙と
 少しでも見られれば負けの俺。
 
 隠せるはずもなかった。
 案の定、漫画を見た神奈月遙は大笑い。

 そりゃそうだ。俺だって馬鹿だと思う。

「ひぃーお腹痛い。『世にも奇乳な物語』ってそれでも限度ってものが、ひひっ、変な声でるw」
「そういう目的で描いてんだからいいんだよ……」
「続き読んでいいですか?」

 ……「どこまでおっぱいを大きく描けるか」という疑問から描いたコレは、もともと落書きだけで終わる予定だった。
 しかし深夜のテンションというのは恐ろしい。描いているうちにキャラの背景とかストーリーまで浮かんできて、最終的に読み切りのボリュームになってしまった。

 そのまま捨てるのも勿体ないから和田編集に送ってみると大爆笑。編集部に送ってみるからちゃんと描いてみろと言われて現在。

「んふっ……! だめ……我慢すると可笑しくなるw」

 ……笑いの火力は充分なようだ。
 ちなみにどんな物語かというとあらすじはこうだ。
 貧乳に悩む女の子が悪魔との契約で「ありがとうと言われる度におっぱいが大きくなる」呪いをかけてもらった。はじめは上手くおっぱいを大きくしていったのだが、途中でつくった彼氏がとんでもないドM野郎でどんなことにも「ありがとうありがとう」と言うもんだから、あれよあれよとおっぱいがアメリカ大陸を覆ってしまった。
 周囲から非難とバッシングを受ける主人公だったが、ちょうど巨大隕石が急接近するという速報が入る。混乱する中で、主人公は世界中の人々と力を合わせて自分のおっぱいで巨大隕石を跳ね返すことを決意。
 そして地球サイズになったおっぱいで巨大隕石を逸らすことに成功、世界中が湧く中、みんなはうっかり言ってしまった「ありがとう」と。

「はぁー、ひどい漫画ですねこれ。本当に読み切りに出すんですか?」

 そう言ってる割にはずいぶんと嬉しそうな顔をしている。……なんで嬉しそうなんだ?

「別に連載とか考えてねえよ。編集部に俺の顔を覚えてもらうのが目的」
「でも出すんですね?」
「出すけど?」

 急に神奈月遙の顔が曇った。随分コロコロと表情が変化するなぁ……、怪人二十面相か?

「……先輩、いいんですか?」

 一枚一枚捲りながら、神奈月遙はさらに神妙そうに語りかける。

「もし成功しても……」
「しても……?」

 その顔がやけに深刻そうだからつられて俺も神妙な気持ちになる。

「……おっぱい作家として名が轟きますよ?」
「…………」
「お〜〜っぱ〜い〜さぁっかとして〜!!!!」
「聞こえてるわ!!!」
「てへ!」

 てっきり聞こえてないと思って! と、神奈月遙は悪戯っぽく舌を出した。俺が閻魔なら迷わず引き抜いてる。

 なんだよ、ヤバいことでもあったと思って心配したのに。

「でもこの表紙はダメだと思いますよ?」
「なんでだ?」

 机に放置していた表紙をつまみながら神奈月遙は続ける。

「なにを描いてるかよく分かりません。私が笑ったのって読み切りの最初のページですし」
「……詳しく頼む」
「うわいきなり食いついた」
「別にいいだろ」

 実を言うと二人で過ごした時間は案外ためになっている。
 神奈月遙に指摘されたり、実際に検証した部分のクオリティは確実に上がっている。
 添削だらけの修正版でも、神奈月遙との経験を参考にした部分だけは、よく褒められていた。

 そんなことを本人に言えばからかわれるので言わないけど。

「まあいいです、よく見てください。地球の隣に大きなおっぱい。ネタバレですし、初めて見る人には意味が分かりません。これって読み始めと読み終わりのインパクトが両方とも減るってことになりませんか?」

 言われてみるとそうだな……目先のインパクトに囚われすぎたか。

「なら描くべきはもっと王道の……、ヒロインの立ち絵だな」
「そうそう! だから私がモデルになってあげましょう!」
「いや……それは難しいんじゃねえかな」
「は?」
「だって胸のサイズがちょっと……」

 このとき俺が想定していたのは、中盤くらいのやや大きめな胸だった。
 それと比べると神奈月遙の胸は……なんというか少々控えめと言わざる得ない。服のシワとか影の関係で、今回に限っては神奈月遙にモデルを頼むのはあまり得策とは言えなかったのだ。

「ええ〜〜!!」

 珍しく神奈月遙は地団駄を踏んだ。

「じゃあなんで巨乳にしちゃうんですか!」
「これ奇乳の漫画だぞ!?」

 いきなり言われたもんだから、俺は反射的に否定した。

「だからって最初からネタバレする必要はないですよ!」

 待て待て論点がおかしくなってる。

「いやこれくらいはネタバレにならねえよ、そもそも変に胸を控えめにしたら変なミスリードにならないか?」
「そ、それは……、違う、そうじゃなくて……、ぅぅぅぅううううっ!!」

 自分の論が強引すぎるのに気づいたのか、神奈月遙は言葉にならない唸り声をあげた。
 でも気に入らないことがあるのだろう、何としても否定したいという感情が見え隠れしている。

 とりあえず神奈月遙を宥めなければ。

「まあ落ち着け神奈月、仮にこの読み切りダメでもまた次があるじゃないか」
「…………次?」

 言ってから自分でも納得する。ふむ、別にこの読み切りがコケたところで大きな問題は無い。
 修正点を解決して、また新しく描けばいいだけだ。

「だからそんなに気にすんなよ」
「……………………………………」

 ん、返答が来ないぞ?
 なんか俯いてぷるぷる震えてるし……あれ、もしかして………。

(これ…怒ってない…?)

「神奈月……さ」
「フシャーーーーーーーーーーーーーーーッ!!」
「何事!?」

 突如、神奈月遙は顔を振り上げた。
 潤んだ黒灼の瞳をこれでもかってくらい吊り上げ、まるで猛獣のように唸る神奈月遙。

 その姿、ボス猫の如し。

「もういいです! 先輩なんて巨乳に押し潰されちゃえ!」
「おい話――」
「ばーかばーか! 童貞! 童貞!」
「だから――」
「童貞おっぱい作家~~!」
「変な属性付けんじゃねぇ!」

 この日、俺と神奈月遙は初めて喧嘩したまま別れた。

 今日中に読み切りを提出する必要があった俺は、表紙は一旦保留して修正を開始した。

「……ん、これ改稿版じゃなくて添削版か」

 鞄から添削版を出そうとしたら改稿版が出てきた。机に放置していたほうが赤マルがついている添削版だ。

 ああ、だからあいつ嬉しそうだったのか。

 電話が鳴る。神奈月……じゃない、和田編集だ。

「今日はサービスして添削山盛りだぞ」
「その表現でなんとも言えない気持ちになったの初めてですよ」

 和田編集は「なんだ元気ねーな」と添えてから「そういや」と続けた。

「読み切り後について訊きたいことがあったんだが今いいか?」
「なんすか?」
「神奈月遙との協力はまだ続けるか? 一応、読み切りまでの話だった訳だが『ガンッ!』……おいなんだ今の音? 大丈夫か、聞いてるか!?」
「……大丈夫です、あとまだ神奈月の協力が欲しいんですけどいいですかね」
「そりゃ問題ないが、本人にも聞かねぇと……」
「分かりました、俺から訊きます。一度電話切りますね」

 電話を切った俺は、もう一度机に頭を打ち付けた。

 ガンッ!

「アホか俺は……」

 完全に忘れてた。点と点が繋がる。
 神奈月のLINEに電話を入れる。すぐには出ない。

「あいつにとってこの読み切りが最初で最後だった。なのに、何が『次がある』だよ」

 不在着信。
 もう一度かける。五コール目で繋がる。

「はいどちら様ですかぁ?」

 神奈月遙の声じゃない。

「あっ俺、芥川傑人っていいます。神奈月とは……」

 俺にとって神奈月遙ってなんだ?

「……ん〜もしかして先輩さんですか?」
「えっ、まあはい多分」
「やっぱりそうでしたかぁ。申し遅れました、ハルちゃんの保護者です。あれですよねぇ、先輩さんは凄い漫画家さんで、ハルちゃんとは新作を作るために協力してもらってるんですよね」
「そうです、それで――」
「それで〜、今進展はどうなんですかぁ? 聞いたところだと……ハルちゃん、絵のモデルとかシチュ…? えっと……漫画の場面のアドバイスとかしてるみたいですけど、あの子そんなに経験豊富じゃないし、まあスタイルはいいですけど、ちゃんと先輩さんのお役に立ってるのか、保護者としてとても不安で……」

 な、長ぇ……。

「え、えっと……」
「あら長話しちゃってごめんなさいねぇ、なにかハルちゃんにご用事?」
「あの、神奈月さんって今いらっしゃいますか?」
「あっ、もしかしてハルちゃんの心配をしてくれたんですかぁ? ありがとうございます、実はハルちゃん今日ご機嫌ななめみたいなんですよ。最近は先輩さんのおかげで凄く明るくなったのに、今日は昔みたいにまた――『おかーさん! 誰から―!?』……あぁ、先輩さんからよー!」

 遠くから神奈月遙の声が届いた。
 今は手が離せないのか?

「ごめんなさい、一回離れますね」

 神奈月の母親がスマホを置いたのか、そこからの声は途切れ途切れにしか聞こえなくなってしまった。
 一分後。

「じゃあ今からハルちゃんに変わりますね」
「ありがとうございます」

 ガチャ

「あぁ先輩ですか? いま手が離せないんで、手短にお願いします」

 声以外に水が流れる音とスポンジを擦る音がした。皿洗いか……?

「さっきは済まなかった」
「……何が? ですか」

 電話からでもムスッとしているのがよく分かる。しかも「何が?」と強調してるのが怖い。
 まあ元凶は俺なのだから仕方な――

「切りますよ?」

 俺は慌てて言葉を続けた。

「お前が協力してくれる期間を忘れてたんだ。だからさっき、その事を知らないまま『次がある』とか言っちまったんだ。お前にとっては最初で最後になるかもしれないのに、何言ってるんだろうな……本当に申し訳ない。えっと、それでだな……和田編集にも確認をとって――」

 あの、と神奈月が遮る。

「な・が・いです。嫌がらせですか?」
「いやそういう訳じゃ」

 勢いで電話かけたから何も考えてないんだよ。なんて言ったらまじで切られそうなので黙っておいた。

「男ならハッキリ簡潔に言ってください!」
「あ、えっ、その」
「あーもー! 十秒以内! 二十文字以内っ! はいどうぞ! いーち、にーい、さー……」

 おいおいおい!!

 理不尽な状況の中、不満も言わずに俺の脳は高速で言葉をまとめ始めた。

 なんだよやれば出来るじゃ――『ななー』ぎゃあああ!! もう時間がねぇ!! 早く完成させろこのポンコツ脳みそ!!

「きゅーう、じゅ――」
「これからも俺の漫画を添削してくれ!」

(二十文字以内だよな……? いやそもそも……)

 悲しいくらいに、ありきたりすぎる。伝えたいことはもっとあるだろうに……。

(漫画家志望の語彙力か? ……これが。)

 しばしの沈黙。
 神奈月遙は言った。

「つまり……?」
「今後も部室に来て、シチュ検証とか漫画の問題点を指摘してください……」

 自分の残念さと申し訳なさで、俺は消え入るように言った。もうやだ、来世はカタツムリになりたい……。

 ……………………………。

 また反応がないな。

「……神奈、月?」

 えっこれ通話切れてない? 嘘だろ!?
 急いで暗転している画面をタップしたとき。

「ぷっ、あははははははははははははは!」

 神奈月遙の甲高い笑い声が部室に響き渡った。くそっ、安心して涙が出てきそうだ。

「どうせそんな事だろうと思いましたよ、先輩すっごく鈍いしw」
「す、済まない」
「いやいや全然気にしてないんで……あれ? もしかして先輩、自責の念とかで泣いてます?」
「そんなことねぇよ!」
「ま、それは置いときます」

 神奈月遙は続ける。

「いいですか先輩、私はこんなところで添削係を辞めるつもりはありません」
「おう」
「先輩がデビューするまで添削(なお)させてもらいますからね!」
「ああ、望むところだ!」
「じゃあ指切りしましょ! 指を出してください!」

 俺は誰もいない部室で小指を立てた。

「立てましたか? それじゃあ行きますよ」

「「指切りげんまん嘘ついたら針千本のーます」」

 誰もいないはずの部室で、満面の笑みの神奈月遙が見えた気がした。

「「指切った!」」

【☆】

 ポチッ

 思いっきり指を振り下ろしたとき、なにかに触れる感触がした。
 ん、なんだ今の音。何気なくスマホを見る。

「……え」

 俺は絶句した。

 画面には神奈月遙がいた。髪は濡れており、周囲は湯気で白くくもっている。すこし目が赤いかもしれない。

 でも問題そこはじゃない。
 俺が絶句した理由は、神奈月遙が裸で湯船に浸かっているというシチュエーションだ。

【☆】

 その無防備な胸を視線が吸い寄せ――あ、神奈月遙も気づいた。
 みるみると顔全体が真っ赤になる。

「へっ……あっ、きゃぁぁぁああああああああああああああああああああああああああ!!」
「……う、うわあああああああああああああああ!!!」

 我に返った俺は、咄嗟にスマホから離れる。

(水が流れる音とスポンジを擦る音……。完全に風呂場の音じゃねーか!!)

「は、早く閉じてくださいよ!」
「何言ってんだ! 寄ったらもういっかい画面見ちゃうでしょーが!」
「私だって身体隠すので手一杯ですよ! 先輩が動いてくださいよ! こ、このヘタレ! 変た……あ゛っ」

 ぽちゃん……と言う音がした後、神奈月遙からの通話は無事(?)終わった。

 ♠♡♢♣♤♥♦♧

 翌週

 俺はいつもより早く部室へ来ていた。準備に時間が必要だからだ。

 鞄からちょっとした単行本くらいの厚みになったプロット書を取り出す。
 それから長机に一冊ずつ並べていく。

「まあこんなもんか」

 あの日から、ほぼ徹夜で書き上げた七つのプロット。この中の一つで次の読み切りは勝負したい。

「先輩やっほー……ってなんですかコレ」
「いま頭にあるプロットを全部書き起こしてみた。神奈月、なんかいいと思ったものを選んでくれ」
「そうですね……」

 神奈月遙は一つひとつ確認した。
 それから気になるものをいくつか手に取ると、ソファに座って読み始めた。

 しばらくして。

「先輩、これがいいです」

 神奈月遙が選んだのは、自分にとって最も因縁深いあのプロットだった。

「よし、じゃあこのシナリオで描いてくるわ」
「あ、でも待ってくださいよ。このプロットのここの部分、ちょっと強引すぎません? 他にもこことか……そことか……。うん、改めて読んでみるとめっちゃ童貞臭いですねw」
「これお前が選んだんだよな?」

 その後も神奈月遙は、自分で選んだくせにネチネチ……ネチネチ……、プロットの童貞臭い点について揚げ足を取るかのごとく指摘し続けた。

 ムカつくが全部メモを取った。

 およそ十分。

「……よし、こんな感じですかね」

 神奈月遙は「はぁーいい仕事した」とでもいいたげに額を拭った。そして。

「これからも頑張っていきましょう!」

 手を差し出された。
 俺も手を出し……「M」の軌道で避けた。

「なっ……!」
「まだ試用期間じゃボケぇ!」
「ちょ、今のは針千本案件ですよ!!!」

 桜が芽吹く頃に始まり、散る頃に変わったこの関係は、もう少し続きそうだ。


 和田編集:読み切りを会議に送った。
 和田編集:"キャラクターのポーズ"と"デートシーン"で粗が指摘されてたぞ。
 和田編集:つーわけで、ひとまずポージングの課題を出しとくから明日の朝までにやってこい。あとデートもなるはやで解決しろ。
 和田編集:P.S.神奈月遙にも伝えてある。

 ということで、俺は昼休み返上で課題に没頭していた。
 なのにである。

「先輩、白髪ありますよ! 抜きますね!」

 ブチッ

「痛てぇ!!」

 木曜日なのに神奈月遙がいた。友達との待ち合わせまで暇だから来たそうだ。

「あ、まだありました!」

 ブチッ!

「やめろ! 染めるから!!」
「ダメですよ、一本見つけたら三十本……放っておくと一気に増殖しますよ」
「ゴキブリと勘違いしてない!?」
「仕方ないですね……じゃあ念の為にもう一本」

 ブチンッ!

「ぎゃああああーーーッ!」

 そんなことがあったお昼。
 昼休み終了と同時に神奈月遙はどこかへ行った。色々行き詰まった俺も、図書館へポージングの資料を探すことにした。

「うーん……」

 雑誌に漫画、写真集……めぼしい物を片っ端から集めてみたが、どれもあまり参考になりそうにない。
 肩を落としながら俺は来た道を戻った。

「でも改めて思うが、セントラルブリッジ……やっぱ使い勝手いいな」

 うちの学校はかなり珍しい構造をしている。
 東から西へ幼稚園→初等部→中等部→高等部→大学と隣接。
 更に多世代交流を目的として、全構造物を貫くようにセントラルブリッジが配置されている。

 そのおかげで各建物に行き来が自由におこなえるのだ。

「まあ、そのせいで髪の毛を毟られたんだが……」

 まっすぐ伸びるセントラルブリッジには色んな光景が見える。ブリッジの端から端までかけっこする小学生。したり顔で外を眺める中学生。

 そしてイケメン大学生にお近づきになろうとする女子高生。

「あの……碓氷さん! この前の占いありがとうございます!」
「ボクがしたのはただの後押しさ」

 爽やか長身イケメンと女子高校生の組み合わせは、嫌でも画になる。

「お礼もしたいのでこの後、一緒にどうですか?」
「お礼なんていらないよ、それに今日は用事があるんだ……やあ芥川くん! 待たせたね!」

 イケメン(?)がこっちにきた。
 前髪は左に流し、後ろは一本結。長い睫毛の奥にはミステリアスな黝い瞳。身長も180センチとデカいが、胸もデカい。

「よおイオリ、今回も逃げてきたのか」
「お酒がない飲み会に興味はないからね。いてくれて助かったよアクタ」

 飄々と答えるコイツは、碓氷イオリ。
 黒のパンツと白のシャツという如何にもイケメンが着こなしそうな服を着ている。
 が、れっきとした女だ。

「ホント酒が好きだな」
「母さんがそうだったからね」

 イオリの母親は宝塚出身だ。つまり小さい頃から宝塚のイケメン英才教育を受け続けた結果が、今のイオリなのである。
 その点については本人も自覚しながら、ノリノリでイケメンをしている。

 詰まるところ、"女にモテる女"を演じているのだ。

「あと急な仕事が入ったし。はぁーあ、大変」
「自業自得だろ」

 イオリが言う仕事というのは占いで、主に恋愛系を生業にしている。

 だがその実態は、ただの探偵稼業だ。

 占いに必要だと言って依頼相手の一部を用意させて、さらに鑑定作業と称して一週間の猶予を得る。その間に依頼相手の身辺を調べて、あたかも占い結果のように告げる。

 むかし「普通に探偵稼業しないのか」と訊いたら「女の子は占いのほうが食い付きがいい」との事だった。

「ふふっ、キミも難儀してるみたいだけどね、不純異性交遊さん」
「お前それどこで!」
「風の噂さ。ようやく君にも春が来たんだねぇ……」

 イオリは大袈裟に涙を拭う仕草をした。もちろんコイツは涙など流してはいない。

 けど宝塚仕込みの演技力といったところか、男の俺でもドキッとしてしまう。まあイオリは女だから正しいには正しい。

 だが異性不純交遊は断固として否定する。

「違うからな?」
「確かに疑問も残るんだよ。だって奥手童貞のキミが女子高校生と付き合えるわけ無いもん」
「……キレてもいいよな?」
「ごめんごめん、アクタの浮いた話とかあの日以来聞いてこなかったから嬉しくて」

 親友なんだからさ、とイオリは付け加えた。
 くらっと来そうな眩しい笑顔に、俺はため息で応えた。

 ♠♡♢♣♤♥♦♧

「付き合ってくれて嬉しいよ」

 次の講義がない俺は、イオリに誘われて学生食堂へ向かった。

 カレーを取ってきたあと、イオリと合流する。席の空きは他にもあったがイオリはあえて六人席のテーブルを選んだ。

 ただ、空いてると言っても、いつもより人が多い。しかも高等部の連中だ。

「あいつら授業どうしたんだ?」
「今日は午前授業らしいよ」
「詳しいな……」
「それも含めて学食誘ったからね」

 ああ仕事か、よく見ればちょうど周りから見えにくい位置に座っている。

 しばらくするとイオリが「伏せて」と言って俺を抱き寄せた。
 そのときイオリの女性らしい色んなところが当たったし、いい匂いもした。でも悲しいかな、ポジションが逆な気がする。

「ターゲットが来たのか?」
「キミも見るかい」
「……、神奈月!?」


 イオリが指さす方向には、神奈月遥を含めた四人のグループがいた。一人は大学生だ。だいぶチャラチャラした風貌で……こいつどっかで見た気が……。

(あ、コイツやばい奴じゃん)

 幸いこちらには気づいていない。
 イオリに伝えようとしたが、彼女は人差し指を俺の唇に当てた。なんだその指はぺろぺろすんぞ。

「聞きなよ」
「はいはい」

 数分とりとめのない雑談をした後。
 大学生(以降、チャラ男と呼ぶ)の取り巻きが本題を切り出した。

『――でさ、カズキさん漫画描いてるんスよね』
『おいおい言うなって……ま、そうなんだけどね』
『わあ凄いです!』
『へーそうなんですか』

 ちなみに「へーそうなんですか」と言ったのが神奈月遥だ。

 凄まじく嫌な予感がする。
 何故かって?
 神奈月遥の性格上、盛大にいじるのが目に見えてるからだ。

『半月かけた力作が形になったんだよねぇ』

 チャラ男は、鞄から原稿を取り出した。なぜか取り巻きは席を外す。

『読んでみる?』

 一応問いかけてはいるがその口ぶりは完全に「読んで褒めてくれ!」と言っているのが伝わる。
 残念、その可能性は万に一つしかない。

『ほら最近テンプレだらけでつまんないでしょ、だから敢えてアンチテンプレにしてみたんだよね』

 遠目にも分かる線の薄さ。ネームの段階だろうか。半月にしてはだいぶ筆が遅い。
 しかも二ページ目からは文字だけのプロットになっていた。

『実は明日あの集雄社に持ち込みするんだよね』

(……おい冗談だろ)

 こんな状態で持ち込むのか?
 小説志望の間違いだろ。

 聞き間違えかと思ってイオリにアイコンタクトを送ったが、イオリも「やばいね」と辟易していた。極めつけは、神奈月遥の友人らしき女の子すら「や、やばい〜」と言って食器を片付けに行った。
 結果、神奈月遥とチャラ男のみ。とてもやばい状況が完成した。

 この後のことを思うだけで、自然と十字を切ってしまう。

「何してんのアクタ?」
「いや、こいつ酷い目にあうだろうなぁって」

 しかし、漫画もといプロットをペラペラめくり終えた神奈月遥は、にやにや………ではなく気だるげに口を開いた。

『これ小説じゃないですか?』
『そうなんだよね~、はじめは小説だったんだけど、どうしても書けない描写があってさ〜』
『じゃあ、この文字だけのコマはなんですか?』
『僕の画力だと上手く描けないから、あえて小説的な表現を選んだんだよ』
『上手く描けないから、ですか』
『ま、味になればいいかなって。それを含めてどうかな……?』

(……………あれ?)

 俺の想像に反して、神奈月遙は抑揚のない声で話している。
 つらつらと無表情に。

『自分の技術不足から目を背けるのって凄くダサいですよ?』
『えっ』
『上手く描写が書けないから漫画にする、絵が上手くないから文字だけでお茶を濁す……。両方に失礼だと思いませんか?』
『そ、それは』
『少なくとも私はそんな気持ちで作られた作品なんて読みたくないです』

 すっぱり言いきった神奈月遙は、席を立ち上がった。

 だがその手をチャラ男が掴む。

『な、なるほど! 僕は創作から逃げてしまっていたようだね! 気づかせてくれてありがとう!』

 嘘っぱちだな。
 テーブルで上手く隠しているが、コイツの反対の手は青くなるほど握られている。

 (そこまでキレてんのに、どうして食い下が……、そうだった! こいつ"チャラ男"だ!)

『ちょうど画力の練習にモデルを探していたんだよ。ここまで言ってくれた君だ、是非協力してくれないか?』

 忘れてた、こいつ高校の頃から有名なヤリチン野郎だ!

 咄嗟に俺は立ち上がろうとする。でもイオリがそれを止めた。

「(おいっ…!)」
「(分かってるから、もうちょっと)」

『アナタと私ってそんな親しい仲ですか?』

 思わず振りかえる。
 そこには恐ろしいほど冷たい顔の神奈月遙が居た。並の人間なら腰抜かすと思う。

 さすがのチャラ男も思わず手を離した。そしてひっくり返った声で一言。

『い、いえ違います』
『そうですか、じゃあ友達が待ってるので失礼します』

 神奈月遙は、ちょうど帰ってきた友達に手を振ると、今度こそテーブルを後にした。

 イオリに退席を促され俺もその場を後にした。呆然と座り尽くすチャラ男が妙に印象に残った。

 ♠♡♢♣♤♥♦♧ 

 その場を離れたあと、イオリが素早く電話をかけていた。連絡先は学生生活課。そこで俺はピンと来た。

「もしもしイオリです――」

 電話口から漏れる言葉から答え合わせすると、チャラ男の被害が学校にも届いていたらしくイオリがその調査を請け負っていたらしい。

 イオリが電話をかけ終えると、眩しい笑顔を向けた。

「ほんと助かったよ」
「俺要らなくね?」
「ほらボクって可愛いでしょ? あの人がボクにターゲティングしちゃうとしっかり調査できないじゃん?」
「そうだろうか……」

 問答しているとイオリのスマホが鳴った。また学生生活課からだ。

「――はい、分かりました。……っと、ごめんアクタ、戻らなくちゃ」
「いいよ、また今度な」
「うんまた今度!」

 くらっとくる笑顔の後、イオリは角を曲がるまで手を振っていた。

「さて一人になった訳だが、今日は特に用事もないし帰るか――」
「だーかーらー、勝手にセッティングに巻き込むな!」
「ギブギブ! バイバイする! 手があたしからバイバイしちゃうぅぅぅ!」
「……何してんだお前」

 声の先にいたのは、友達に十字固めしてる神奈月遙だった。

「ややっ、そこのナイスな大学生殿! 何卒助けてはくれませぬか!」
「よく分からんけど離してやれよ」
「仕方ないですね……。流石の先輩も、ワコちゃんのワンコパンツ見たら、気分を害するでしょうし」
「そんなパンツ履いてないぞよ!?」

 解放された神奈月遙の友人は深々とお礼をした。
 神奈月遙よりも二回りくらい小さい代わりに、胸が二回りほど大きい。お辞儀をしたとき、犬の耳のように垂れたカチューシャが揺れる。なんというかコアな層に人気が出そうな容姿をしていた。

【☆】

「あたし犬見ワコ(いぬみわこ)と申します! 先程はありがとうございまする!」
「アレ痛いもんな」
「で、先輩はここで何してたんですか?」
「さっき食堂に――」

 あ、やべ

「…………向かおうとしてたとこだ」
「妙な間があきましたね?」
「それは惜しかったですね先輩殿! もう少し早ければ合コンに出席できたかもしれないのに!」
「だーかーらーアレは合コンでもなんでもないし巻き込むな!」
「わーー! トレードマークのカチューシャがぁ!!」
「えい」

 ぽいっ。

 犬耳カチューシャはフリスビーのようにクルクル回りながら、廊下の向こう側にまで飛んでいった。

「待ってぇ! あたしのアイデンティティー!!」

 犬見ワコもすっ飛んで行った。その姿はまさにワンコだった。

「まったく大きなお世話です……」

(神奈月のやつ随分と苛立ってるな……)

 まあそうか。初対面の男にナンパされた上、いきなり絵のモデルになれなんて言われたら……そうもなるか。
 よし、今日くらいはその労をねぎらって。

「神奈月、今度絵のモデルになってくれないか?」


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(…………何言ってんだ……俺?)

 さっきまでの考えていたことが、全部嘘だったんじゃないかと思うくらい真逆の言葉。
 でも、どちらも本音であることはすぐ理解できた。

 神奈月遙にとって、俺は親しい仲なのか。それともチャラ男と同程度なのか。
 神奈月遙のことをほとんど知らない俺は、この問い掛けでそれを見極めたかったんだと思う。

 視線を向ける。そこにはニヤニヤでも恐ろしげでもない、やや目を逸らして唇をツンと尖らせている神奈月遙がいた。

「……いいですよ」
「いいのか?」
「"いいのか"って、必要だから頼んでるんですよね? もしかしてネタで言ったんですか、シバきますよ?」
「そういう訳じゃなくて、ほら添削に付き合ってもらってるにしてもまだ日が浅いし」
「この前私の全裸見たくせに、いきなり変な気を遣わないでくださいよw」
「あれは事故ッ!」
「まあ別にいいです。今日〆ですよね、今からワコちゃんに言って時間空けて――」
「がるるるるるっ!」
「何事!?」
 
 さっきまでチワワな感じだった犬見ワコが、今度は猟犬のような鋭い眼光を飛ばしていた。

「ワコちゃん聞いちゃいましたよ! 付き合って全裸まで見た仲だって! この裏ぎ……うらやましいぃいい! ぜひ見学させてください!」
「何言ってんのこの子?!」
「ここ学校だよ! やると思ってるの!?」
「イケナイ場所だからこそアタシ、興奮します!」
「「なにカミングアウトしてんの(よ)!?」」
「兎に角です! 二人が営むまで離れません!」

 犬見ワコは、がっしりと神奈月遙の腕をつかんで徹底抗戦の意思を表明した。「ちょっと離して!」と神奈月遙が手を振り回すが、大きな胸がぺったんこになるほどの拘束には無力だった。
 その姿、まさに警察犬の如し。

 仕方ない、俺も手伝うか。

「触ったら叫びますぞ!」
「過信してたようだな、己の力を」
「諦めないでくださいよ!?」
「ぬははははっ! さあ諦めてさっさとぉおおぉおっとっと――」

【数分後】

 犬見ワコはまだ神奈月遙から離れてはいなかった。

「先輩、とりあえず帰ってください……」
「おう、部外者がいたら面倒だもんな……、看護師さん後はよろしくお願いします」
「軽い脳震盪ですかね……それじゃ担架持ち上げますよー! せーの」

 不慮の事故だった。
 抱きつくのに必死だった犬見ワコは、足を滑らせ壁に頭を激突してしまったのだ。

 神奈月遙が様子を見つつ、俺が大学の保健室に駆け込んで現在。

 モデルどころではなくなってしまった。
 俺は帰路に着くことにした。課題は仕方ない、ひとまず自力で描くことになる、はずだった。

 ♠♡♢♣♤♥♦♧

 その夜、デッサン人形を使いながら四苦八苦していたころ、神奈月遙からLINEが来た。

 ハル:先輩いますか?
 芥川:居るけど
 ハル:遅くなっちゃいましたけど、課題やりましょう!
 芥川:今やんの!?
 ハル:先輩がポーズ指定してくれたらその自撮り送るんで
 芥川:なるほど……。ちょい待って

 まだ描けていないポーズを確認してみる。まだだいぶ残っているが、全部お願いするのも忍びないので、自力で描けないものだけをピックアップする。

 ・膝裏
 ・足裏
 ・足組み
 ・ヒップ
 ・たくしあげのヘソ
 ・腋

「……ド変態では?」

 いや違う、よく考えてみて欲しい。
 ド変態じゃないから描けないのだ。逆にド変態だったら描けてた。そう言い聞かせながら俺は上のメモを送信した。

 ピロン、と返事が来た。


 ハル:ド変態ですか?


 俺は目をかっぴらいた。

 芥川:違うから! 
 芥川:ド変態じゃないから頼んでるの!
 ハル:ド変態になるために描くんですね
 芥川:違ぇよ! ド変態から離れろ!
 ハル:じゃあ脱童貞
 芥川:はっ倒すぞ!
 
 と問答をしている間に、神奈月遙はもう自撮りを送ってきた。部位は膝裏だ。

 踝からふくらはぎ、そして膝裏へ、なぞるように視線を動かしていく。ふっくらと柔らかそうな太ももに目が吸い込まれそうになったところで、ルームウェアが現れた。

 ハル:どうですか?
 芥川:ありがとう、充分使えると思う。
 ハル:次いきますね

 上はTシャツ、下はルームウェア。随分ちぐはぐな服装だなと思ったら、後方に脱いだばかりと思われるスキニーパンツが置かれていた。

「わざわざ着替えたのか」

 普段はからかってばかりだが、何だかんだ漫画のサポートを第一考えてくれているんだな。

 と、思った矢先。下着が丸見えの自撮りを送ってきた。

【☆】

「ホントお前さぁ!」

 芥川:見えてんぞ!
 芥川:インナー!
 ハル:見せブラなんで大丈夫ですよー!
 ハル:あとインナーとか遠回しに言うところめっちゃくちゃ童貞臭いですw

「ぐっ……」

 突然の童貞指摘に俺はダメージを受けた。その間にもピロンピロンと連続して写真が送られてくる。どれもこれも必要以上に際どい。

 俺だって男だ。ついその魅惑の先へ目が行っちま………って止まれ止まれ。そういうのはダメだ。

 激しく頭を振ると、俺は神奈月遙に電話をした。そうでもしないと刺激が強すぎる。

「どうしたんですかムッツリ先輩?」
「お前いい加減にしろよ!」
「はてなんのことやら」

 (くそっ。顔が見えないから、神奈月遙の思惑が分からねぇ)

 一応オーダー通りだし、むしろかなりいい素材だから「真面目にやれ」とは言えない。

 仕方がないので社会常識を盾に話を進めた。

「はあ……少しは危機感持てよ、もし俺がこの写真を悪用したら――」
「しませんよ、先輩なら絶対。私信頼してますから」
「即答って……お前」

 あっ、なるほど。ここで俺は察した。
 こいつ俺が童貞だからこういうことを言うのか。

「あのなぁ、神奈月。仮に俺が童貞だとして「いや童貞ですよね?」うるせえ! 童貞だって男だし善人でもない、いつ何をするか分からないんだ、だから最低限の危機感くらいは持ってくれ」
「……………………」

 謎の沈黙が流れる。これ最近もあったな…………。

(すごい嫌な予感がするッ!)

「あのー、神奈月さ」
「ぷっ、あはははは! すいません。急に先輩がらしくないこと言ったんで笑いをこらえてました」
「全然こらえてないじゃん……」
「うーん、まあ分かりました。先輩の言ってることにはすっごい異議を唱えたいんですけど、アプリの情報漏洩とか怖いですし消しましょう」
「お、おう」
「でも撮り直すの面倒なので消す前に保存してくださいね」
「なんだって!?」
「消すまで残り、じゅ〜、きゅ〜」

 やっぱりキレてんじゃん!

 マジで消されたら困る。俺は急いで画像を保存した。
 十秒が経つと本当に画像は削除されて、神奈月遙がぶっきらぼうに言ってきた。

「ちゃんと保存出来ましたか?」
「一応」
「じゃあ私は寝るんで課題頑張ってください」

 俺の返事も待たずに神奈月遙は通話を切った。
 「またね」というスタンプが送られてくる。

「何なんだよ今日は……」

 俺神奈月遙の自撮りを画材フォルダに入れて、俺は課題に取り掛かることにした。

 ♠♡♢♣♤♥♦♧

「童貞だから、か……」
「そういう意味で言ったんじゃないんだけどなぁ、私」

 昼前、部室の前まで行くと見覚えのある女の子がいた。

 明るい茶色のミドルツインテール。小動物のようなくりくりした瞳。子どもっぽい容姿に似合わず、見事に実る大人の胸。

 間違いない。脳震盪で保健室送りになった犬見ワコだ。

 何故か犬見ワコは制服の上にエプロン、手には買い物袋を持ち、ドアの前でそわそわしている。

「ややっ先輩殿! 待っていましたぞ!」

 俺に気づくと、犬見ワコは主人を出迎える犬のように駆け寄っていた。
 唯一違うのは、彼女が動く度にたわわに実った果実がぶるんぶるん揺れている事だ。

「犬見さん、だっけ? こんな所で……、"待ってた"?」
「先日は助けていただきありがとうございまする! お昼を作らせてください!」
「いやちょっと話の流れが掴めない」
「一宿一飯の恩義ってやつですぞ! 材料は用意してあるのでどうかどうか!」

 にへーっと、犬見ワコはゴールデンレトリバーのような人懐っこい笑顔をうかべた。その表情があんまりにも無害そうだったので、つい俺は彼女を部室に招いてしまったのだった。

 既に神奈月遙がいるとは知らずに。

「ふぅーん、とうとうワコちゃんも部室に連れ込んだんですね先輩?」

 こちらも、にへーっと笑っているが意味がまったく違う。目が怖い、目がめっちゃ怖い。

「ま、待て。これには訳が……」

 今日の神奈月遙は凄まじく不機嫌だ。
 童貞だって分かる。これは地雷だ、決して踏まないようにして……ん?

 (……なんで二股かけた男みたいなってんだろ、俺)

 地雷(神奈月遙)の前で黄昏ていると、犬見ワコが喋りだした。

「ハルちゃん! 今回は譲りませんぞ!」
「なぜ踏み抜いた!?」

 しかも犬見ワコは「これはあたしのだ!」と主張するように腕に巻きついてきた。
 こいつ……、地雷の上でタップダンスしてることに気づいてねぇ!

「ちょっとストップ!」
「嫌です! 先輩殿に付き合ってもらうのはあたしなんです!」

 その言い方はやめてくれ! そして「ですよね先輩殿?」みたいな表情でこっちを見るな!
 俺じゃなくてあっちを見ろ! ハイライトが消えてる! 神奈月遙の目から光が消えてる!!

「へぇ」

 神奈月遙が睨む。一瞬地獄かと思ったよ、目の前に閻魔いるもん。
 犬見ワコも圧を察知したのかチワワのように震え始めた。

「まあ別にいいです。私もやらないといけないことを思い出したので行ってきます」
「あっハルちゃん行かないで! ほんとはハルちゃんにもカレー食べて欲しくて……」
「だからですよ!」
「きゃんっ!」

 パァァァん!

 神奈月遙はプロレスラー並のビンタを犬見ワコの胸にお見舞いした。巨乳アイドルも裸足で逃げ出す乳揺れが炸裂する。

 無意識に俺はガン見した。
 いやだって、見ろって言ってるじゃん! 胸が!(開き直り)

「せーんぱい」

 その視線を察知したのか神奈月遙がこっちにやってきた。

「これには誤解が」
「はい、知ってますよ」

 ガシッ

 神奈月遙はヤクザばりの眼光を飛ばして言った。

「どうぞ、楽しんでくださいね」

 言ってる意味が怖い方にしか聞こえないんですけど……。
 神奈月遙は俺たちに一瞥したあと、肩を揺らしながら退出した。

「……よし。始めますかね!」
「切り替えが早いなお前……」

 犬見ワコはメニュー表を渡してきた。 ラミネート加工までされている本格的なものだった。

「凄いなこれ」
「あたしの家って定食屋さんなんですよー!」

 犬見ワコは足早にキッチンへ行き、食材を広げた。
 なんで部室にキッチンがあるかと言うと、一部の画材には調理のような処理が必要だからである。

「何を食べまするか?」
「じゃあカレー」
「承りましたー!」

 犬見ワコは意気揚々と手提げから包丁やピーラーを取り出した。……さすがに剥き身の包丁を持参すんなよ、ズボラどころじゃないぞ。

「よーし、とんとんとん……」
「(なぜ口で言うんだ)」
「グツグツ……あれれ?」
「(今"あれれ"って言わなかった?)」
「最後に隠し味を〜、ぼちゃん」

 三分後

「できましたー!」

 絶句した。
 皮を剥ききれてない人参。丸ごと入ったリンゴ。ところどころ散見する茶色い塊は溶け残ったルーだろうか。

「い、いただきます」

 俺は迷わず白米に逃げ場を求めた。しかしである。

「うっ……」

(に、煮えてない……。てかなんだこの異様な苦味は……、しかもなんか泡立ってるんだけど!? 口の中が食洗機みたいになってる!)

「食洗機ってまさか……おい犬見、お米洗った?」
「はい! しっかり洗剤で洗いましたぞー!」

 俺は天を仰いだ。オーマイガー。
 それ初心者がやるやつ。

「今まで作った料理は?」
「……ねるねるね」
「それを料理とは言わない」
「うぐっ」

 さっきまでの元気はどこへやら、犬見ワコはしゅんとうな垂れた。
 そして泣き出した。

「ふえええん……これでもあたし一夜漬けだけど一生懸命三分クッキングで勉強したんですよ!」
「よりによって三分クッキング……ん?」

 ふと神奈月遙の「どうぞ、楽しんでくださいね」が頭をよぎる。

 なるほど。理由はともかく神奈月遙は、わざとこうなるように犬見ワコの料理を食べさせたのか。

「おい、犬見ワコ」
「ぅう、なんですかぁ」
「料理を教えてやるよ」

 何かしらのシチュエーション練習なのか、それとも単純に嫌がらせがしたいのか……、仮に後者ならそうは問屋が卸さない。

 犬見ワコのお料理トレーニングが始まった。

 俺たちは、残った食材で料理の練習をすることになった。
 まあその前にやることがあるのだが。

「えっ、ルーも捨てるんですか」
「野菜はどうやって洗った?」
「……洗剤です」

 俺は構わず寸胴鍋をひっくり返した。隣で犬見ワコが「ぎゃー! ジョンー! ジャッァーク!! ジョニィー!!!」と叫ぶ。いやお前食べ物にいちいち名前つけてたんかい。

「まず、野菜は基本水洗いだけだ」
「ぐすん……了解ですぞ。では一分ほど待ってくだされ! すぐに野菜の皮を――」
「三分クッキングから離れろ!」

 俺は三分クッキングが本来三分では無いことを伝え、ゆっくり野菜の皮剥きの手本を見せた。

「先輩殿〜、ヘタのあたりが上手く取れないですー」
「そこはピーラーの横にある突起を使って……」
「あっ、これですな! ありがとうございまする!」

 犬見ワコは俺の手の動きを真似て、器用にピーラーでヘタを取った。

「お、要領いいじゃん」

 犬見ワコは照れくさそうに笑うと「よしこの調子でやっていきますぞよ〜」と、トマトを手に取った。

「違う違う! トマトには必要ない!」
「もしや先輩殿知りませんね、トマトは野菜なんですぞ?」
「無駄に博識!」

 今完全に上手くいくフラグ立ってただろ!

「むぅ先輩殿、もっと分かりやすくお願いします〜」
「え、これ俺が悪いパータン? 常識から教えないとダメなやつ?」

 その後も逐一丁寧に教えて言ったが、ちょっとしたミスが続き、想像以上に時間がかかってしまった。

 時刻はもうおやつの三時を通り越して、四時に差し掛かっていた。今は鍋のルーが煮えるのを待っている。
 すると。

「ありがとうございます、芥川先輩」

 突然犬見ワコが標準語で喋り始めた。

「……犬見が喋った」
「あたしはクララですか。別にこれくらいなら話せますよ」
「なんで、あんなややこしいキャラやってんだ?」
「あたしってズレてるんです」
「知ってる」
「話を聞いてください! 外国人なんです、あたし!」

 犬見ワコが語り出した話は、お世辞にも耳障りが良いものではなかった。

 在日イギリス人の犬見ワコは、存在しているだけで軋轢を生んだ。

 小さい頃から何かと色眼鏡で見られがちで、本人も親が外国人ということもあり、少し価値観が周りとズレていたそうだ。

 つまりイジメの格好の的。小学校高学年になってすぐ、その容姿を気に入らない女子の連中から嫌がらせを受けるようになった。
 助けを求めたくても元々距離を取られていた犬見ワコには友達はおらず、ほどなく孤立無援となった。

「(まあよくある話……で、当事者は片付けていいもんじゃねえなよな)」
「そんなときハルちゃんが、助けてくれたんですよ」

 中学のときに出会った神奈月遙は、犬見ワコにあえて浮くことをアドバイスしたという。いわゆるクラスのムードメーカー&不思議ちゃん枠だ。
 元々容姿がいいこともあって、すぐにそのキャラは定着して今に至るらしい。

「小学校のいじめっ子はどうしたんだ?」
「ハルちゃんには逆らえないので何もしてきませんでした。女のヒエラルキー舐めないで欲しいです」
「うわ」

 想像できるか出来ないかと言われれば、出来る。

「でもなんでこの話を俺にしたんだ」
「芥川先輩ってハルちゃんと付き合ってるんですか?」
「なんで!?」

 話がいきなり飛んだぞ!
 でも犬見ワコは真面目な顔してんな、たしかに価値観ズレてるわ。
 
「最近ハルちゃんが可笑しいんですよ。部活辞めたり、遊びに誘ってくれなかったり……、あっでも誘ったら来てくれます!」
「それで?」
「あたし確信したんです。男が出来たって!」

 犬見ワコは真剣さ通り越して険しい表情を作った。おう、顔だけなら金剛力士像とタメ張れるぞ。
 だが。

「完全に誤解だな」

 俺は一から神奈月遙との関係性について説明した。

「――というわけで、毎週マンガの練習のために協力して貰ってるから、お前との付き合いが悪くなったんだ。他意はねえよ」
「なーんだ、そうだったんですね……! そっかぁ……よかったぁ……」

 犬見ワコはその場にへたり込んだ。

「おい大丈夫か?」
「ホッとしたら腰抜けちゃって……」

 今まで胸に目が行きがちで気づかなかったが、彼女の黒目は潤み、今にも涙が溢れてきそうだった。

 黒目……?

 疑問を口にしようとする寸前で俺は口を噤む。少し考えればすぐに分かることだ。

 カラコンを付け、髪を染め、日本人っぽくした容姿。唯一の理解者である神奈月遙との関係が無くなってしまうことを極度に恐れているような素振り。

 さっこの犬見ワコは改まって言葉を変えたんじゃない。俺にすらキャラを保てなくなるくらいに心が乱れていたんだ。

 ふと乳ビンタされる直前に犬見ワコが零した言葉を思い出す。

「……ちょっと神奈月呼んでくるわ」
「えっ、あっはい」
「いい匂いがしたら火を止めればいいから」
「了解です!」

 部室を出た俺は、急いで神奈月遙にLINEを送った。もしかしなくても帰ってるだろこれ!

「うわ、LINE来てる。ん、先輩からだ」

 そしたら突き当たりの曲がり角から神奈月遙が出てきた。

「やっほー先輩。胃薬持ってきま……って大丈夫ですか!? 顔面ドブ色ですよ!?」
「洗剤カレー食ったんだよ」
「まさか食べ、洗剤!?」
「お前知らなかったのか」
「原因までは知らな……って、今それどころじゃないですよ! 病院行きましょ早く!」
「カレー食ってからでいい。もう完成する」
「そんなこと言ってる場合ですか、私も病院までついて行きますから」
「頼むから」
「いつになく強情ですね……、あっもしかして私にも洗剤カレー食べさせようとしてません?」

 その手には乗りませんよー、と神奈月遙は戯ける仕草をとった。

「犬見が一人になるぞ」

 人は立ち直りかけが一番脆い。俺はそれをよく知っている。犬見ワコはまだその途中だ。

「なんですかそれ」

 神奈月遙がじっと俺を見る。
 夕日の逆光で顔に影が入ってるせいで、物凄くムスッとしてるように感じた。

「ぷっ、そんなに私がカレーを食べてるところを見たいんですね。性癖インド人ですか」
「知らねぇよ」
「まあいいです。さっさと食べて、さっさと病院に行ってください」
「分かった分かった」

 神奈月遙は足早に部室へ入った。同時に犬見ワコが嬉しそうな声で「待っていましたぞー!」と笑う。二人とも笑顔だ。

 なんかとてもいい事した気がする。

「えっ凄く美味しい!?」
「先輩殿は大盛りでよろしいですな!」

 犬見ワコが駆け寄ってくる。でもその手を俺を引き寄せるようなことはせず、ぎゅっと握った。

「芥川先輩、今日は本当にありがとうございました」

 また標準語に戻ってる?

「いやまあ、良かったな」
「カレーを食べてもらう前に訊きたいんですけど」
「おう」
「芥川先輩って童貞ですか?」

 一瞬思考が停止した。

「……はい?」
「ねぇねぇワコちゃんお代わり! あと先輩はバキバキに童貞ですw」
「ちょ、神奈月!」
「そっかー、良かったー!」
「良かったってなに!?」

 二人は微笑みながら俺から離れていく。不意に腹がキリキリと痛みを訴え始める。

「ふっ」

 ちょっと叫んでいいかな?

「お前ら年上をおちょくりすぎじゃコラーーーーーーーーッ!」

 その後程なくして俺は病院へ行った。
 それはそれとしてカレーは美味かった。


 和田編集:デートシーンが全然良くなってない
 和田編集:既存の漫画の焼き回し
 和田編集:部室に助け舟を置いといたから、後で確認するように

 LINEを閉じて、俺は窓を見た。

 絵の具をぶちまけたような曇天。今の俺の心情を表した天気と言える。

 最近筆があまりのらない。
 読み切り会議で指摘されたデートシーンの粗が全く改善しないのだ。とりあえず有名どころのラブコメから発想を得ようとしたが、実体験がないため元ネタ以上のものを作ることが出来ない。

 完全にどん詰まりだった。曇天だけに。

「…………寒っ」

 激しく身震いをしてから俺は部室へ急いだ。

 扉を開けるとカーテンが締め切られていた。おかげでほとんど見えない。

「ん、なんだこれ」

 電気を付けようとしたら何かにぶつかった。
 目を凝らすと置いてある椅子の上に何かが座っている。人型だ。
 俺が入ってきても微動だにせず、静かにこうべを垂れている。

「マネ……キン……?」

 これが和田編集の助け舟? 意図がわからない。
 とりあえずどかさないと照明を付けられないので、俺はおもむろにマネキンを抱き抱えた。

 ふにっ

「えっうわっ凄っ」

 やけにリアルな質感に驚きながら電気をつける。
 いつもと変わらない室内。そして手元には顔を覆ってる神奈月遙がいた。

「……ふふっ。デートシーンが上手くいかなくて、お困りのようですね! どやっ!」
「今の状況ほどじゃない」
「どうやら私の出番のようですね!」
「よくその恰好で言えるな」
「ならさっさと下ろしてください!」

 ゆっくり着地した神奈月遙は、顔を仰ぎながらぱっと二枚の紙を取り出す。真っ赤な顔と正反対な透き通った水色のチケットだ。

「さっき和田編集から水族館のペアチケットを頂きました!」

 和田編集のことだ。神奈月遙と実際にデートしてこいという魂胆だろう。

「なるほどな。じゃあ、いつ行……あっ、おい」

 神奈月遙はチケットをひらひらと靡かせた。

「ちゃんと誘ってください」
「……?」
「はあ、これだから先輩は頭童貞なんですよ」

 頭どころか全身童貞だよ。

「いいですか先輩。デートは誘うところから始まるんです」

 神奈月遙が言うには、デートのシーンが上手く描けないんだから、一からしっかりシチュエーションをやりましょう、という意味だった。

「私が行きたいと思えるような魅力的な誘い方をしてくださいね」
「舐めるなよ。これでもラブコメ作家だぞ、この頭脳にはありとあらゆるデートの誘い文句がインプットされている……!」
「アウトプットしたことは?」
「……ない!」
「それ言ってて悲しくなりません?」
「お前が思ってる百倍は悲しい」

 はあ、神奈月遙はため息混じりに椅子へ座り、クイッと顎をしゃくった。
 御託はいいから誘ってこい、ってことか。

 なら見せてやる。アウトプットした事ないが、数々の漫画で使われてきた王道の誘い文句を……!

「イルカを見に行かないか?(イケボ)」
「却下。声がキモイです。あと何番煎じですかそれ」

 真顔で断られた。
 おぉ、シンプルに死にてえ。

 思わず膝をつく。何番煎じはともかく渾身のイケボが「キモイ」で一蹴されたのが凄まじく辛い。

「心にもないこと言わないでくれませんか? 何となくわかるんですよ、そういうの」

 俺は姿勢を正し、ひとつ深呼吸をしてから切り出す。リベンジだ。
 次は心を込めて……。

 ――何を込めればいいんだ?

「デートに行きませんかッ!」
「声込めればいいと勘違いしてません!? もちろん却下です!」
「なら、どうすりゃいいんだよ!」

 立膝着いたまま俺は天を仰いだ。その姿はさながらロックミュージシャンだ。
 ママ〜、僕は童貞な自分をぶっころしたいよー!

「何って、たとえば私の好みとか考えるくらい思いつきませんか普通……」
「仕方ねぇだろ、俺はお前のこと全然知らないし。好みなんて尚更だ」
「それですよ!」
「へっ……?」
「私のことを何も知らないんですよね?」
「……………あ、そうか。お前のことをもっと知りたい、デートしてくれ!」
「いや、ヤケクソ生返事……。せめて言い直してくださいよ」

 こりゃ失敬と、一呼吸置く。
 答えを掴んだと焦る気持ちに蓋をして、ゆっくり言葉を選んでいく。込める心は見つけた。あとは言語化、漫画家を目指す俺にできないわけが無い。

「神奈月、お前のことがもっと知りたい一緒に遊びに行かないか?」

 ベタだが、及第点ではあるはずだ。しかし返答がない。
 神奈月遙を顔を伺うと、豆鉄砲食らったみたいに硬直していた。

「…………。ぁ……ぅぅ」
「ダメか?」
「……ぅひぁ!? ま、まあいいでしょう。次は日取りを決めましょうか」
「妙な間が怖いんだけど」
「き、気にしないでください!」

 いやすごく気になるんだが、まあ神奈月遙が合格と言うなら良しとしよう。
 お互いのスケジュールを確認したところ、ちょうど直近の日曜日が空いていた。

「待ち合わせは明後日の十時でいいですか?」
「わかった」
「アニメキャラがプリントされたTシャツとか却下ですからね」
「わかってるわ!」
「よし、そんな感じで明後日よろしくお願いします!」
「おうこちらこそ」

 こうして俺たちはデートをすることになった。

 家を出て、のんびり駅までの道のりを歩く。

 絶好のデート日和とはまさにこのこと。ほどよい日差しが、心地よく身体を温める。

 ちらりと時刻を確認した。現在朝の八時。

 諸君らは「童貞ががっついてんなーw 気合入れすぎィ!」とか思っているかもしれないがそれは違う。
 これには明確な目的がある。
 待ち伏せだ。

 さて諸君らよ、デートの一番はじめに起こりうるシチュエーションについて考えて頂きたい。

 そう、待ち合わせである。基本待ち合わせの場合必ず「待つ人」と「待たせる人」が発生する。

 再び諸君らよ、今一度神奈月遙という人物について思い返して頂きたい。彼女ならば待つ人、待たせる人、どっちに転んでも確実にからかってくるだろう。

 よし、シミュレーションしてみよう。
 
 シチュ① 俺が早く来た場合。

『うわ先輩どんだけ早く来てるんですか、童貞の極みですよw』

「うるせぇーーーーーッ! 時間を守って何が悪いんじゃこらーーーッ!!!」

 時間厳守は社会の基本だろーっ!!
 てか社会人は常に三十分前行動じゃあああああ!!

「ぜえ、ぜえ……、よし次だ」

 シチュ② 逆に遅く来た場合。

『……彼女役の私を待たせましたね? これだから先輩は童貞なんですよw』

「うるせぇ、こっちだって好きに童貞やってんじゃないんだよ……ちくしょう……」

 くそっ……地味に堪える。"単純な遅刻"と"童貞"をからかうとか、事実ダブルパンチで逃げ場がねえよ……。
 悲しさのあまり俺はさめざめ泣いた。

「おかーさん。あのおにーちゃんさっきから怒ったり泣いたりへんだよー」
「見ちゃいけませんっ」

 泣いてる場合じゃねえ、このままじゃ不審者扱いされてしまう。

 俺は足早に、待ち合わせ場所へ向かった。
 だが多分気づかずにガチダッシュしていたのだろう。一時間で着く予定が三十分で着いてしまった。

 現在八時半。さすがに早く来すぎた……。

 はずなのだが。

「なんでもう居んの?」

 神奈月遙は待ち合わせのポチ公前をぐるぐると歩き回っていた。たまに立ち止まったかと思えば、再び歩き始める。それの繰り返しだ。なんだか落ち着きがない。

 俺はバレないようにファストフード店に入って様子を伺うことにした。

 七分袖のパフスリーブの白いロンTにミニ丈の黒いショートパンツ。そして肩から腰にかけて伸びるポーチがいいアクセントになっている。
 少し大人びて見えるのは足元のインヒールスニーカーのおかげだろう。

 知らない神奈月遙を見たような気分になった。あと素直に綺麗だ。

 なので単純に声をかけにくい……!

 だが結局は声をかけなければいけないし、ここに居るのがバレたらもっとからかわれると思ったのでかなり早いが声をかけに行くことにした。

 と、思った矢先。

「へーい、そこの彼女もしかして一人?」
「もしかしなくても女子高生?」
「JKふぅー!」

 ……は?

「いや人待ってるんですけど」
「なら尚更放っておけないぜ」
「ここ意外と危ないからさ。待ち人さんが来るまで喫茶店で休まない?」
「休むぜふぅー!」

 元気なチャラ男、理知的なチャラ男、馬鹿なチャラ男。
 そんなチャラ男大全集みたいな奴らが神奈月遙に声をかけていた。

「大きなお世話です」
「いやマジで」
「――おい、俺のツレに何か用か?」

 ほぼ反射的に、俺は元気なチャラ男の手首を捻りあげていた。

「おっと、もしかしなくても」
「待ち人さんですかね?」
「待ってたぜふぅー! ……ということで待ち人警護を終了します」
「はい?」
「あ、お兄さん説明いいですかね?」

【閑話休題】

「……つまり、まじでナンパから神奈月を守るために声掛けてたってこと?」
「ま、そういうこと。ほらこれ自治体からの証明書」

 と、見せてきた手帳にはしっかりと治安ボランティアという文字。

「だろ?」

 しっかり日焼けした肌から覗く大理石のような歯見せて笑う元気なチャラ男。

 いやどう見てもナンパ男にしか見えません。ありがとうございます。

「それならすいませんでした」
「慣れてるから気にすんな。それよりもお兄さん大学生?」
「まあはい」
「おいおいJKと大学生のカップルかよー」
「年の差ふぅー!」
「このご時世色々あるかもしれないが頑張れよあんちゃん!」
「俺らは応援してるぜ!」
「頑張れふぅー! ……まあ法律上は問題ないんで大丈夫です」

 そう言ってチャラ男大全集は、滑らかに雑踏へ姿を消した。本当に慣れてるんだな。ナンパにしか見えないけど。

「先輩」

 ふと神奈月遙が俺の服の端っこを、ぎゅっと握っているのに気づいた。

「……一応、お礼はしときます。助けてくれてありがとうございました」
「必要なかったみたいだけどな。にしてもずいぶん早く来たなお前」
「それブーメランですよ先輩」
「うるせえ」
「まあいいです。さっさと行きましょう!」

 足早に水族館へ向かう神奈月遙を見て思う。

 チャラ男大全集には感謝しなくては。
 おかげで、からかわれなかった。


 待ち合わせ場所から歩くこと五分。
 予定の水族館が見えてきた。

「先輩、ちゃんとチケット持ってきてますか?」
「んなベタなことしねぇよ」

 懐を確認する。よし確実に持ってきているな。
 順風満帆、一切の問題なし。

 しかし、俺たちはまだ気づいていなかった。そのチケットにこそ重大な問題点があったことに。

「……ん、先輩ちょっと見せて……、これカップル割専用のですよ!?」
「は?」

 チケットの裏を返す。右下にしれっと「カップル割限定」と書かれていた。

「やりやがったなあのクソ編集!」

 どうせ「デートにハプニングは付き物だろ?」とか笑ってるに違いない。冗談はその勤務態度だけにしろ。

 俺は頭を抱えた。
 なぜなら意図的なカップル割には、意図する理由があるからだ。たとえば記念撮影したり、手を握ったり、受付員にカップル宣言したりと……。

「えっと、カップル割を使う際は受付で"手を握って"、"カップル宣言"しながら"記念撮影"をするそうです」

 全部かよ!

「し、仕方ないですね。ほら先輩いきますよ」

 神奈月遙が手を差し伸べてきた。でも顔がそっぽ向いてる。

「なにしてんの」
「寝違えた首が急に痛くなって、あいたたたた(棒)」

 迫真の三文芝居だった。
 そりゃそうだ。今回のデートもあくまでシチュ検証のためだ。こんなこといくらシチュ検証といっても、神奈月遙にとっては本意なことでは無いだろう。そう思うと急に申し訳なくなってきた。

「すまん神奈月」
「なんで謝るんですか。早く行きますよ」

 口ではああ言っても相当怒ってるな。まあカップル宣言なんて適当に誤魔化せばいいだろ。

 と、思ったのだが。

「チケットの提示を……って、アクタ?」
「えっ」

 イオリ?

 普段は結っている髪の毛を全部下ろし、水族館のスタッフ服を華麗に着こなしているイオリが、きょとんとした顔で俺たちを見ていた。

「お前ここで働いてたのか」
「うんバイト。それで、アクタ達は……」
「あぁ……これは」

 目に見えてイオリは言葉に詰まっていた。そりゃそうだ、イオリからしてみればかなり謎な組み合わせだろう。
 幸い、相手が神奈月遙だという事には気づいていないらしい。

「とりあえずチケット出すわ」
「そ、そうだね」

 俺は、チケットを取りだしてイオリに見せた。

「えっとカップルチケットだね。あぁそういうこと!」

 しまった、カップル割なの忘れてた!

「なら説明はいらないね! じゃあカップル宣言をお願いします!」

 イオリが悪意0パーセントの笑顔を向けてくる。眩しいったらありゃしない。

「親友のよしみでスルーさせては……」
「親友だからこそだよ。こういうチャンス逃すのは勿体ないよ? ねぇ彼女さん?」

 咄嗟に神奈月遙を見た。なんてこった、耳まで真っ赤になってる! めっちゃキレてる!

「ほ、ほら俺たちカップルでーす! これでいいだろイオリ!」
「まだ彼女さんが言ってないなー!」
「そぅ、ですね」
「神奈……ぃてでででででて!!」

 神奈月遙がぎゅうううと俺の手を握ってきた。うっかり名前を言いかけたせいだろう。

 しかし、イオリはそんなことに気づけるはずもなく。

「ふふっ緊張しちゃって可愛い」
「っ……!」

 ぐりゅ。
 メキメキメキメキッ……!

「ぐわぁあぁぁあああぁあぁぁあぁぁあぁあぁぁ!」

 やべぇ! 怒りのあまり神奈月遙が、握撃をマスターしやがった!

「私たちは、カップル…………で……ぅ……っ」
「声が小さいよ?」
「カッ……! プルっ……です」
「はい、はじめからどーぞ」
「……………………ッ!」

 ブチンっ
 切れたのは、堪忍袋の緒なのか俺の筋肉なのか。

【☆】

「あーもぅ! 私たちは付き合ってます! カップルですっ!!」

 さっきまで口篭っていたのが嘘みたいな大きな声。ここは裸電球が穏やかに照る小空間。
 もちろん神奈月遙の声は反響した。

 爽やかな店員さんや楽しげなファミリーが全員こっちを見た。驚きと生暖かい目線がぐさぐさ刺さる。

「わ、わあ。そこまで大きくなくても良かったんだけど」

 極めつけは、あのイオリがお口あんぐりだ。初めて見た。

(すげーよ神奈月、お前がナンバーワンだ)

「いつまでボケっとしてるんですか先輩! さっさと行きますよ!」
「あっ、ちょ」

 ぐいっ。
 手を離さないまま動いたせいで、お互いの足並みがもつれる。

「〜〜〜〜! いつまで手を握ってるんですか、バカ!!」

 強引に手を振りほどくと、神奈月遙はずんずん奥へ進んで行った。

 俺は盛大に鬱血した右手を見る。
 じんじんと感触が残っていた。

 |私《・》|た《・》|ち《・》|は《・》|付《・》|き《・》|合《・》|っ《・》|て《・》|ま《・》|す《・》|!《・》 |カ《・》|ッ《・》|プ《・》|ル《・》|で《・》|す《・》|っ《・》|!《・》

 なんか凄くドキドキしそうになる。
 でもそんな無粋な感情を持ち込むべきでは無いので、頭を横に振ってその感覚をかき消した。

 さっきの一件でいろいろ疲れた俺たちは、あてもなく水族館を散策することにした。
 ちょうどシーズン外れだったこともあって、あたりは思ったよりしんとしている。

 神奈月遙は依然として黙ったままだ。

「スケッチブック持ってくればよかったな」

 ふと、そんな言葉が零れる。

 のんびりと水槽を眺める神奈月遙は、それくらい魅力的だった。
 色味のついた光に照らされて、幻想的に浮かび上がる白亜の少女。首元にあるネックレスが光の具合で七色に輝いている。

 人魚姫――月並みな言葉しか浮かばないくらいにあいつは綺麗だった。

「先輩」

 神奈月遙が足を止めた。

「さっきの言葉聞こえましたよ」
「げっ」
「あのですね、一応デート中ですからね。スケッチ以前にやることありますよね?」
「ぐうの音も出ない」

 はあーあ。神奈月遙は大きくため息をついた。

「……気にしてた私がバカみたい」
「え、ごめん。なんて?」
「なんでもないです! それよりも先輩、デート誘う時に言ったこと覚えてますか?」
「えっ、ああ、お前のことをもっと知りたい的な」
「それです。一つクイズをしましょう」

 ゲーム内容は神奈月遙が決めた「好きな動物」を当てるという、至ってシンプルなものだった。

「なんとなく分かった」
「話の話題とか、目線とか、そういうので判断してみて下さい」
「おう」

 それから俺と神奈月遙は、床にある矢印に沿って歩き始めた。
 
「知ってます? コバンザメってサメじゃないんですよ」
「おう」
「あそこにあるチョウザメも」
「おう」
「話聞いてます?」
「おう……痛ッ!!」

 げしっ!
 げしっ!

 神奈月遙が俺の足を連続で踏んづけてきた。

「さっきから目線ばっかり気にして、人の話聞いてます!?」
「ちゃんと聞き流してる!」
「流すな!」

 だんっ! ぐりぐりぐり……。

「痛てでででででて! やめろ! 踏むな!」

 下手にインヒールだから面で痛てぇ! つま先全部痛てぇ!
 堪らず俺は膝をついた。

「私とのクイズに集中してくれるのは嬉しいですけど、あくまでデートなんですからもっと楽しんでください」
「た、たしかに」

 そういやデートのシチュエーションを学ぶために来たんだった。

「ありがとう、根本的なとこ忘れてた」
「分かれればいいんです」

 神奈月遙は、つかつかとレストランへ入っていった。現在正午。お昼時である。

「この期間限定のやつ全部ください」

 遅れて俺も入ると、神奈月遙がスイーツを爆買いしてた。

「そんなに注文して大丈夫なのか?」
「言い忘れてましたけど、和田センセから諭吉さん五人貰ってるんで大丈夫です」

 何それずるい。なんで俺にはくれないの? Why?

 間もなくケーキだけでテーブルが埋まった。神奈月遙はケーキを秒で食べていき、空いた皿を次々に重ねていく。

 ここ回転寿司だっけ?

「さて次はどれにしましょうか」

 再びメニューを広げる神奈月遙。
 あ、今チャンスかもしれん。

「えーっと。神奈月、今どれ見てんの?」
「チンアナゴのちんすこうです」

 ……うん、これではないな。

「ふーん、どれ頼もうとしてんの?」
「じゃあ、チンアナゴのちんすこう」

 ……これではない。

「本当は……?」
「ちんすこうですっ」
「お前ふざけてるだろ!」
「そんなことないです! へいっ店員さん、ちんすこう二キロ!」
「食えるかぁ!」

 その後も俺たちはイルカのショーや、ペンギンの散歩に見たりと、普通に水族館を満喫した。でも神奈月遙の好きな動物が何かはまだ分からなかった。

(二つまでには絞れたんだが……)

「ちょっとお手洗い行ってきます」
「いってらー」
「あとでクイズの答え聞きますからね」
「゛うっ」

 さて現在午後の三時五十分、閉館は四時だ。恐らくフリーで居られる最後の時間だろう。

 俺はお土産店に足を運んだ。

 数分後

「さて先輩、答えをどうぞ」
「……イルカか?」
「そうです! やればできるじゃないですかー!」
「まあ午後でだいぶアピールしてたからな。あっぶねぇ……引っ掛けかと思った」
「ん? 私引っ掛けなんてしたつもり無いですけど」
「え、そうなの」
「ちなみもうひとつの候補はなんだったんですか?」
「ダイオウグソクムシ」
「……っ!」

 神奈月遙がオセロのように目をぱちくりさせた。

「……なんでそう思ったんです?」
「この前一緒に帰ったとき、お前好きなもの順に食べてたろ? ほらショートケーキ」
「あっ……」
「今日のお昼でダイオウグソクムシのシュークリームとイルカのプリンアラモードがあったじゃん。お前先にダイオウグソクムシから食べてたから、こっちが本命かと」

 俺は紙袋からイルカのイヤリングを取りだした。

「でもまあ良かった。これ日頃のお礼なんだけど受け取ってくれ」
「……」
「神奈月?」
「これってダイオウグソクムシのも買ってるんですか?」
「あるけど」
「それください」
「ダイオウグソクムシを?」
「ダイオウグソクムシも、です!」

 欲張りか!

「いや使い道ないからいいけど」

 紙袋ごと渡すと、神奈月遙はイルカをしまってダイオウグソクムシのイヤリングをしげしげと見つめた。

「ねぇ先輩、私たちが初めて会ったときのこと覚えてますか?」
「あー、いきなり読み切りダメ出ししたやつな」
「あれは添削です! ……あの時のリベンジしてくださいよ」
「は?」
「付けてください」

 そう言って神奈月遙は付けてたピアスを外した。そしてダイオウグソクムシのイヤリングを俺に手渡す。

 なんか企んでそうだけど、構図の復習になるからいいか。

「あんまやった事ないから動くなよ」
「知ってますよー、先輩は童貞だから経験ないことくらいw」
「お前さぁ!」

 髪の毛をかきかげるとふっくらした耳たぶが目に映る。

(つい数ヶ月前の俺はここでギブアップしたんだよな)

 あの時のような緊張はない。そっと触れると柔らかな弾力が指に伝わってくる。
 俺は落ち着いてイヤリングを付けた。

「似合ってますか?」

【☆】

 そう言って微笑む彼女の姿は、信じられないほど綺麗で

「そうだな」

 初めて絵になんかしたくない。ずっと自分の心の中に留めておきたい。
 そう思った。



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