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蟲篭

  
  
「あの時にちゃんと断っておけばよかったわね、ごめんなさい」
 古式ゆかしい日本家屋の玄関先で老女が申し訳なさそうに頭を下げた。
 俺もあの時の話を本気で受け取っていたわけではなかった。だが、にっちもさっちもいかなくなり、思い切って来てみたのだ。

                  *

 この老女と出会ったのは一か月前。老女の幼なじみの家だった。俺は水道の修理工で、台所の水漏れ修理の依頼でそこに来ていた。
 数をこなしていれば自然と身に付くような技術で故障部分を直している俺をどう見たのか、老女二人は優雅に茶をすすりながら褒めちぎってくる。
「ねえお兄さん、ご結婚されてるの?」
 依頼主がきらきら瞳を輝かせて俺に聞く。
「いえまだっす」
「じゃ、彼女さんはいらっしゃるの?」
「ははは、いませんよ」
 手元に集中したまま俺は答えた。この質問も過去いくつもされた。中には無関心な人もいるが女性の年寄りには必ずと言っていいほど訊かれる。
「へえ、そう」
 そう返す依頼主は「ねえ、みいちゃんの孫娘、まだ独身なんでしょ」と今度は老女に訊ねた。
「ええまあ」
「このお兄さんいいんじゃない?」
 ほら来た。こういう会話も聞き慣れている。俺は無関心を装って仕事を続けた。どうせ茶のお供の一つだ。
「こういうのは縁だから」
「娘さん夫婦も亡くなったんでしょ。このままじゃお家絶えちゃうわよ」
「そんなたいそうな。まだまだ若いからあの子にはこれからもチャンスはあるわ。もしなくても二人暮らしていくだけの資産は十分あるし、跡継ぎなんていてもいなくても、もうどうでもいいし」
「みいちゃんがよくてもお孫さんが寂しいでしょ」
「あの子はいいのよ。一人が好きだから――んーでも、わたしが死んでいなくなったらどうなるのかしらって、ちょっとは考えるけどね」
「ほらぁ、ね、独り者のお兄さんがここに来たのも縁、あなたが居合わせたのも縁。こんなに縁があるじゃない」
 資産がある――それが耳に入ってから俺は作業しながら二人をそっと覗き見ていた。
 依頼主は我がことのように喜んで勧めているが、資産家らしい老女――みいちゃんは乗り気ではないみたいだ。それはそうだろう。どこの馬の骨ともわからない男をそうやすやす家に入れるわけにはいくまい。だが気にはなるのか、こっちをちらちらと窺っている。俺のことを値踏みしているのだろうか。
 こういう話を振られるだけあって、俺は見た目もまあまあイケてる。みいちゃんのほうもしわくちゃではあるが若かりし頃はかなりの別嬪だったのではないか、そう考えると孫娘も悪くないかもしれない。
 こりゃ、逆玉の輿か――
 だが、こういう話は本当に茶のお供で、本気にしたら恥をかく。
 上手い話なんかそうそう転がってるもんじゃないしな。
 そんなことを考えているうちに作業は終了し、請求書を書いて依頼主に渡した。
 料金はすぐ支払われ、領収書を渡すと同時にメモを突き付けられた。
「彼女の住所、ここから少し離れた田舎だけど」
 みいちゃんを指さして依頼主が微笑む。
「もう、いいって言ってるのに」
 深いため息をつき、みいちゃんは茶をすすった。
「気が向いたら訪ねて上げて。お見合いなんて思わず、ちょっと遊びに来ましたくらいの恰好でいいから」
「はあ」
「きっとよ」
 戸惑っているような雰囲気を醸し出しながら、ちゃっかり俺はメモを受け取った。信じたわけではなかったが、ここは良い青年でいることで、次の依頼にも繋がるという打算が働いた。
 だから、本気でみいちゃんを訪ねることはしなかった。
 だが、状況が一変した。
 遊び好きの俺には借金があった。ちゃんと返済しているので質の悪い借金取りに追われることはなかったが、代わりに家賃を滞納し、とうとうアパートを追い出される羽目に陥ってしまったのだ。
 強制退去まで数日という時に思い出したのが、あの時のメモだ。
 俺は仕事着のポケットを探った。洗濯は何度かしていたが、捨てた覚えはなかったから、運が良ければ残っているはずだ。
 果たしてポケットの底からしわしわになったメモが出てきた。うっかり触ればぼろぼろになりそうな紙をそっと広げる。油性のサインペンで書かれた住所が毛羽立った表面に辛うじて残っていた。
 そんなわけでバスを乗り継ぎ、書き写したメモを頼りにみいちゃんの家を探し出した。
 閑静な住宅街の一角、石垣を積み上げた重厚な塀と古風な日本屋敷が目の前に広がる。
 退去の期限は後二日。
 上手く行けばここを俺の住処にできる。転職を余儀なくされるかもしれないが――いや、十分な資産があると言っていた。借金も返せる上に、もうあくせく働かなくてもいいかもしれない――

                  *

「俺――あ、僕も本気じゃないって思ってはいたんです。でもあれからどうも気になって気になって――こういうの運命って言うんでしょうか、そんな感じがして。こういう気持ちって大切ですよね。こういうことがなければ恋人を作ることもできませんし」
 意味があるようでないようなわけのわからない言い分を玄関先でまくし立てる俺をじっと見て、みいちゃんはほうっとため息を吐いた。
「ここではなんですし、まあ中へ」
「お、お邪魔します」
 俺は心の中でガッツポーズしながら後についていった。
 長い廊下の手前にある応接間に通された。
 外観とは違い内装も家具もシックな洋風で、座ってと手振りした後、みいちゃんは少しの間姿が見えなくなった。
 いきなり孫娘に合わされるのかと一瞬緊張したが、茶の準備をして戻ってきたので、ちょっと残念なようなほっとしたような心持ちでふかふかのソファに尻を沈めた。
「ごめんなさいね。急なお客様だから何もなくて」
 そう言いながらティーセットを載せた盆をテーブルに置く。高級そうなカップには紅茶、お揃いのトレーにはクッキーが載っていた。どちらも今までの俺には縁のないものだ。
「どうぞ、召し上がって」
 勧められるまま紅茶を飲む。高級な味過ぎて美味いのか美味くないのかよくわからない。
「すみません、急に来てしまって。自分の心に正直になろうと思ったとたん、居ても立ってもいられなくて――」
 俺は頭を下げた。ここまで来たらとことん純朴な青年になりきってこの家に入り込んでやる。
「来られるのは構わないのよ。わたしも暇だから――あ、こんなお婆ちゃん相手にしてもねぇ。ふふふ、でも、孫娘の婿にという話は気が進まないの」
「そうですよね。どこの誰ともわからない僕なんて――冗談を鵜呑みにして、のこのこやって来る男なんて信用置けませんよね」
「まあ普通ならそうね――でもそういう意味じゃないのよ。友達が勧めてくれたのも冗談じゃないわ。彼女は本当にわたしや孫娘を心配してくれているの。
 あれからもあなたのことを感じが良いってずいぶん褒めてたし、わたしもあなたを良い人だって思ってる。
 だからこそ、あなたはこちらを疑ったほうがいいと思うの」
「そ、そんな――疑うなんて――こんな立派な屋敷を持つ立場のある方を――もうそれだけで信用に値します」
「そうかしら? わたしはあなたのためを思って言ってるんだけど――でもそこまで思ってくれるのなら、孫に会ってみます?」
 にっこり微笑むみいちゃんにうなずいて襟を正した。
「じゃ、こちらに」
「え?」
「あの子の部屋に案内するわ」
 てっきり孫娘を応接間に呼ぶのだとばかり思っていたが。
「あ、は、はい――」
 いきなりの展開に戸惑いつつも後について応接間を出る。
 心臓がバクバク跳ねる。
 深窓の令嬢は病弱なのか、それとも部屋に閉じこもってただ本を読んだり絵でも書いているのか。
 まさか引きこもり? 人前に出られないほどブスとか?
 長い廊下は日本庭園のような中庭を横切り、さらに奥に続いていた。
 屋敷の広さや価値の高さが窺えて高揚するも、不安も大きくなってくる。
 いくつか障子の前を通り過ぎ、突き当りのお洒落な洋風ドアの手前で、みいちゃんが立ち止まった。
 ドアにつけられたフックには『亜耶香のへや』と書かれたプレートがかかっている。
 ノックしてからみいちゃんはそっとドアを開けた。
 ぷんと甘い芳香剤に混じって何とも言えない臭いがして、俺の不安はマックスに達した。
 心が押しつぶされそうで今にも逃げ出したいのに、この家の主になれるという打算が働いて足は動かない。
「亜耶香ちゃん。お客様が会いに来てくれたのよ」
 みいちゃんは奥に向かってそう声をかけてから「どうぞ」と微笑んでドアの前から退けた。
 もう後には引けない。
 心臓バクバクのまま俺は会釈すると部屋の中に足を一歩踏み入れた。
 甘い香りがさらに濃厚になる。
 何かわからない臭いは薄くなったが消えたわけではなく、かすかに自己主張をしていた。
 窓には重々しいカーテンが引かれ、部屋の中は暗かった。だが、隙間から微かに光が漏れ入り、真の暗闇ではなく、この部屋の内装が完全な洋風だと見て取れた。
 高価そうなシャンデリアがぶら下がっているのに点けてくれもせず、中にも入らないでみいちゃんはドアをばたんと閉めた。
「あ、ちょ――」
 初対面で二人きりにされても――
 そう訴えようとしたが、さっきのようにお茶を持ってきてくれるのだろうと考えた。
 天蓋付きのベッドには白いレースのカーテンが張り巡らされ、もぞもぞと夜具の中から起き出してくる人影がその奥に見えた。
 きっとすごくきれいなお嬢様だ――きっとそうだ。
 自分を納得させながら、
「あの――いきなり来てすみません――えっと――」
 一歩一歩踏み出したものの、何をどう言えばいいのかわからず言い淀む。心臓が口から出そうだ。
 みいちゃん早く来てくれ。
 心の底からそう願って、ベッドのそばまで近づいた。
 衣擦れが聞こえ、髪の長い細身のシルエットが動く。
「俺――いえ僕――ええっと――」
 そう言いながらカーテンを開こうと手を伸ばした。
 キチキチキチキチ
 何かの鳴き声がした。
 キチキチキチキチ
 虫?
 素早く辺りを窺ったが、薄暗いとはいえ仄かに浮かび上がる調度品の中には虫篭や飼育ケースの類はない。
 キチキチキチキチ
 鳴き声がカーテンの中から聞こえてくるとわかった瞬間、俺は慌てて後退った。
 鼓動に合わせこめかみが脈打ち、眩暈もする。
 なんだなんだなんだ――
 カーテンの隙間から黒い虫の鉤手が出てきた。人の手のように大きい。
「ひぃっ」
 だが、そう見間違えただけで、実際は華奢な左手だった。黒く見えたのは黒いレースの手袋をはめていたからだ。その手がカーテンをつかんでゆっくり開いていく。
 中から出てきたのは同じ黒いレースの寝間着を着た痩せこけた女だった。両目は焦点が合っておらず、どこを見ているのかわからない。
 キチキチキチキチ、キチキチキチキチ
 女は右手に持っているカッターの刃を出し入れしながら呆然と突っ立ったままの俺に飛び掛かってきた。
 ガリガリの女を振り払うのは簡単だと思った。だがなぜか足元がふらつき、跪いてしまった。
 あのばばあっ。なにか薬を盛ったな。
 動悸や眩暈は緊張のせいだと思っていたが、そうではなかったのだ。
 立ち上がらなければと踏ん張ったが脚に力が入らず、倒れ込んでしまった。女はすかさず俺の上に圧し掛かってくる。
 キチキチキチキチ
 全刃の出たカッターが目の前できらめき、その瞬間首筋が熱くなった。
 キチキチキチキチ、キチキチキチキチ、キチキチキチ
 女の深いほうれい線が持ち上がる。
 キチキチキチキ、チキチキチキチキ、チキチキチキチ
 目の前が真っ暗になってきた。
 キチキチキチキチ――
 音もだんだん小さ――な――て――――――

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