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 話を聞いてみるとお互いの家が近いことも分かり、私たちは彼の勤める本屋のそばにある小さなバーに入った。
 グレイと黒が基調のシックな店内はカウンター席のみで、私たちは端の席に座った。
 どっしりとしたガラスの花瓶に生けられた色とりどりの花だけが色彩を主張していて、良い香りがする。
 ジャズピアノのBGMが控えめなボリュームで流れていて、こんなところでアイドルの話で盛り上がるのも、なんだか気が引けた。

「いらっしゃいませ。陽太さん、今夜は珍しくお一人じゃないんですね」
「どうもね。いつも一人寂しく飲んでるみたいに言うんじゃないよ」
「実際、そうじゃないですか。一緒にお酒を楽しめる女性がいらっしゃるなんて安心しました」

 彼はこの店の常連で顔見知りなのか、まだ若そうなバーテンと親しげに挨拶を交わしている。
 冗談を言い合って「ここのバーテンはしゃべり過ぎる」なんて笑いながら肩をすくめた。
 彼はハイボールを、私は花の香りから思い浮かんだバイオレットフィズを注文する。
 すぐにナッツの入った小皿と薄紫色に揺れるカクテルグラスがカウンターに並べられた。

「大翔くんの主演映画公開に」
「乾杯」

 いつも『秘密基地』か雑多な居酒屋でばかり飲んでいるせいか、なんだかちょっとだけ落ち着かない。
 隣の彼は本屋でも映画館でもこの店でも、同じように穏やかな笑みを浮かべている。

「まだ名乗っていませんでしたね。蜂谷 陽太といいます」
「はちや、さん」
「蜜蜂の蜂に谷で」
「あぁ。蜂谷さん。私は、酒井です。酒に井戸の井で」

 ぎこちない自己紹介をし合っていると、バーテンに「名前すら知らない間柄だなんて、蜂谷さんまさかナンパですか」とつっこまれる。
 それを苦笑しながらシッシッと手で払って蜂谷さんは「すいません」と私に詫びた。

「映画、すごく良かったですね。大翔くん、ラスト制服なんて言ってましたけど、まだまだいけるって思いましたし。明るめのヘアカラーも原作に忠実だけど、ばっちり似合ってて」

 蜂谷さんの口から繰り出される感想はどれも私が思っていたことばかりで、うんうんと何度も頷いてしまう。

「ですよね!本当にこれがラストなんてもったいないくらい、似合ってました!かっこよかった。壁ドンもやばかったですよね」
「ドンってきつつも、強引というよりは切なげな表情でね。顎クイもバックハグも大翔くんがやると本当に少女漫画から抜け出してきたみたいでした。あんなの僕とか、一般人の男がやったら目もあてられませんよ」
「やだ、やめてくださいよ」

 可笑しい。
 蜂谷さんも同じように私の感想に何度も頷いてくれるし、表情同様、穏やかな声と織り交ぜられる冗談も小気味いい。
 初対面での私の暴走のことを謝ると「あれにはまぁ、ちょっとだけ驚きましたけど、僕が酒井さんでも同じことをしたかもしれません。僕だって自分以外に大翔くんの男性ファンなんて身近にいないし」なんて笑ってくれた。
 グラスが空になる頃には、すっかり緊張もほどけて彼との会話を楽しんでいた。
 こんな風に仕事以外で男性と話すなんて、いつぶりだろう。
 蜂谷さんが「僕がお誘いしたので」と私の分も一緒に支払ってくれ、バーテンに「また二人でお越しください」なんてからかわれながら店を出た。
 通り雨でもあったのか、路面が濡れている。水たまりに街頭の灯りが反射していた。

「あの、もしよかったらまた飲みませんか?」

 蜂谷さんの声が少し、硬いような気がする。
 友人でもない、同僚でもない彼と、また会う、なんて。
 今夜は楽しかったし、貴重なヒロくんファンだけれど、私は思いあぐねて言葉につまった。

「あ、すみません。きっとご結婚されてますよね。こんな見ず知らずの男が誘ったらまずかったかな」

 そんな私に蜂谷さんは慌てたように言って頭を掻いた。
 ずっと穏やかそうだった彼の態度が変わって、ちょっと可笑しい。

「それを言うなら、今日だって」
「あ、いや、そうですよね。申し訳ない」

 すっかり困り果て、今にもぺこぺこ頭を下げだすのではないかという彼の様子に思わず笑ってしまった。
 今、笑うなんて失礼だとも思うのに、くすくすとこみ上げてくる笑いを止められない。

「す、すみません。ちょっと、蜂谷さんの困ってるのが可笑しくて。独身です、私」

 それを聞いた彼の下がりきっていた眉が、ちょっとだけ上がる。

「よかった。酒井さんの旦那さんに不倫を疑われずに済みました」
「だーかーらー、旦那なんていないんですって」

 冗談のつもりなのか天然ボケなのか、蜂谷さんがそんなことを言うから二人で顔を見合わせて笑った。

「そういう蜂谷さんこそ、ご結婚は?」
「結婚してたら女性を飲みになんて誘えませんよ。いくら大翔くんのファンだとしても。バツイチなんです、僕。もう十年になるかな。それからずっと、独り身で」

 ――良かった。でもそっか、結婚、したことあるんだ。
 ん? なにが『良かった』?
 何故かその言葉に胸をなでおろした自分に気付いて、魚の小骨が喉に刺さったみたいに引っかかった。

「どうしました?」
「な、なんでもないです!」
「急にぼーっとするから、今度のコンサートの当落でも気になるのかと思っちゃいましたよ」
「いやいや!いくらオタクでも人と話してて当落が気になって心ここにあらずになる、なんてことないですから!」

 確かに、この夏のコンサートの当落発表は目前に控えているけども。
 どっぷりオタクだけれども。
 そんな理由を想像されるだなんて思ってもみなくて、また私は笑い声をあげた。
 うん、蜂谷さんといるの、楽しいかもしれない。

「いいですよ。ヒロくんのファン仲間として、また会いましょう」

 私が言うと、彼はまた眉尻を下げて安堵したように微笑んだ。

「良かった。ありがとうございます。来週にはCDが発売になりますね。また今度、その話でもしましょう」
「今日の主題歌、すごく良かったですよね。ヒロくんが主演してカラストが主題歌を歌うなんて。またCD聴いたら連絡します」

 スマホを振ってみるとか、そういう若者みたいな連絡先の交換がなんとなくできなくて、名刺を交換することにした。
 蜂谷さんは私の名刺を見て「さかい、れいかさん」と何故だか小さく名前を読み上げる。
 私も彼に倣って名刺に目を落とすと『蜂谷 陽太』と書かれていて、あぁようたって太陽をさかさまにしてるんだ、なんてぼんやり思った。

「じゃぁ、また」
「また連絡します」

 彼は穏やかな笑顔で小さく会釈して帰っていった。
 蜂谷さんも独身で、私の家とは駅を挟んで反対側にある実家で生活しているらしい。
「遅いので送ります」なんて言われなくて良かったと柄にもなく内心、ホッとした。

 月曜日。朝、職場の入っているオフィスビルの一階にあるスタバに立ち寄ると、前に春ちゃんが並んでいた。

「おっはよー」
「あ、おはようございます。酒井さんもコーヒーですか?」
「うん。給湯室のインスタント、美味しくないじゃん?」
「みんな飲んでるのに、そんなにはっきり言わないでくださいよ……。これはこれ。酒井さん、なんだかご機嫌ですね?」
「お、分かるか。先週末にヒロくんの映画が公開になって、明日、その映画の主題歌がリリースされるのよ。ヒロくん月間だね」

 嬉々として語る私に気圧されたのか、春ちゃんは苦笑している。

「相変わらずですね」
「うん。あ、そういえば。この前、話した本屋の店員、覚えてる?」
「あぁ、酒井さんがアイドルオタクだってバレた、例の」
「そうそう。彼もアイドルオタクだったっていうね。この前、その彼と二人で飲んだ」
「え」

 春ちゃんが虚を突かれたように、固まる。
 すると彼女の順番がきて店員に「お次のお客様ー」と声をかけられた。

「ほら、進んでる」
「わ。すいません。酒井さん、あとでその話、詳しく!」

 私は敢えて聞こえないふりをする。
 ぼんやりと急いで注文する春ちゃんのまとめ髪を眺めていたら、うなじに小さな赤い痕を見つけた。
 ――自分だって、やることやってるんじゃない。もしや、相手はあの犬か。
 コーヒーを受け取りにいく彼女とすれ違いざまに、肩をちょんちょんとつついて耳打ちする。

「髪、下ろした方がいいわよ。春ちゃんこそ、新しい男の話、詳しく」

 春ちゃんが目を見開いた。白い頬があっという間に真っ赤になる。
 彼女が何か言いかけるのを無視してレジに向かった。
 どうしよう。口元がにやける。

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