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二章の八 文花、次朗に接触する。

 文花は食堂で、少々喋り過ぎた感があった。ただ、途中で邪魔が入って、最終的には喋り足りなさが尾を引いていた。
 製造部に研修へ来ていた関係上、意中の人物のスケジュールは把握できた。
 今日の一華は、十八時にあがるようだ。しかしながら今日は、もう一華とは接触したくない。急な弱みを見せたから、変に小っ恥ずかしいのだ。
 文花は、次朗をターゲットにする。途中で邪魔を入れた張本人で、喋り足りなさを解消させるには適任だった。
 今日の次朗は、十九時にあがる予定のようだ。
 文花は、製造部の仕事を十七時に切り上げると、自身が所属する技能部転写デザイン課へ戻り、前々から残っていた仕事を片づけた。
 そうこうしていると、ちょうどいい時間になった。ロッカー・ルームからタイムカードを押すまでと、正門まで行き着く時間を逆算し、次朗の距離を算出した。
 正門前から会社の駐車場は、目と鼻の先にある。知らない人間からしてみれば、ショッピング・センターの駐車場とごっちゃになるぐらい、ややこしい。
 同性の一華のときのように、正門前で待ち伏せするわけにはいかない。変な噂を立てられても困るから、駐車場内にある自分の車の中で待ち伏せをした。
 辺りは、駐車場の電灯と、ショッピング・センターの照明で、視界に不自由さを感じさせなかった。
 やはり文花の計算に、狂いはなかった。車内で待ち伏せて、それほど経っていない。
 文花の車の前を、少々猫背の次朗がとぼとぼと歩いている。文花は周りを確認し、急いで車外に出て、次朗に近づいた。

「次朗君、お疲れ様」

 文花が後ろから声を掛けると、びくっとしながらも、次朗は振り向いた。

「今、あがったの?」

 分かっているくせに、と文花は、自分でも笑っていた。

「ええ、今、あがって、帰るところです……」

 やっぱり、文花が睨んだとおりの「緊張君」でしかない。
 文花のいう「緊張君」は、簡単にいってしまえば、最高級の上玉を目の前にすると、もじもじしかできないムッツリ・スケベを指していた。この手のタイプは、よほどのことがない限り、関係発展などありえない。

「私もあがったところなんだ。ちょっと付き合ってくれない?」

 文花には自信があった。たとえ何かの用事があっても、必ず了解すると踏んでいた。

「え、今からですか?」
「緊張君」の特徴は、一度は常識を匂わす。ただ、押せばどうとでもなる。

「ねえ。行こうよ」

 文花は微笑み掛ける。次朗は「はい」と即答した。


 時間からして、夕食を食べてもよかった。たださすがに、次朗と夕食はないだろうと、お茶にした。
 文花は、一華のときと同じように、すぐそこのショッピング・センター内にあるスターバックスに誘導する。
 店内に入ると、我先にと次朗が、レジ・カウンターへと向かう。大して興味はなかったが、バニラ・フラペチーノを注文していた。
 文花は、スターバックスに詳しわけではなかったが、「あれは、甘い奴だ」ぐらいは、分かった。
 すぐ後に並んだ文花は、いつもどおりドリップ・コーヒーを注文した。
 席も、次朗が先に着く。追うように文花が、向いの席に着くと、次朗はすうっと俯いた。

(やっぱりね)と文花は、予測したとおりの行動に頷いた。
 文花は、テーブルの上に両肘を置き、手を重ねて手の甲に顎を乗せ、ぐっと顔を近づけた。

「次朗君とは、一度こうやって話したかったんだ」

 早速、決めに懸かる。文花にとって、これを言ったら、まず籠絡できるという絶対の自信があった。
 次朗は、バニラ・フラペチーノを、ごくごくと飲み始めた。文花は、典型的な「緊張君」の次朗を、可愛い奴と笑う。

「次朗君は、一華ちゃんとは長いの?」

 文花は、完全に手の内に入れていた。大抵の質問は、答えさせる自信がある。

「自分が会社に入ったばかりの頃。嫌な奴がいまして、自分はよく虐められていました。今は、そんな奴は、いないんですけど、当時、姉ちゃんが助けてくれたんです。逆に虐め返してくれて、本当に助かったんです。姉ちゃんには恩があります」

 なんか、しょっぱなから、いい話をし出した。ただ、虐められたとか、虐め返したとかは、聞きようによっては小学生のエピソードにも聞こえた。

「いい話だけど、その虐め返されて人は、今どうなったの?」

 どうしたって、恐る恐るになる。

「インドネシアの工場に行きました。みんな嫌っていましたし、みんなから囲われて居場所を失い、自分から転勤届けを出したのですが、どうやら今は、会社自体を辞めたそうです」

 さっき、可愛い奴扱いをした次朗が、悪い顔をした。
 結末が結末だけに、あまりいい話には思えなくなった。また、一華の剛腕ぶりが感じ取れた。深く考えれば、一華が怖くなる。

「一華ちゃんって、尾藤公季のファンじゃないの?」

 あまり深みに嵌りたくなかったから、話を切り替えた。なによりも、一番聞きたい話ではある。

「尾藤公季ですか。つい最近は、話も聞かなくなりました。以前は、追っかけ以上の熱の入れようで、自分も一回のライブのチケットを、十枚も買わされました」

 相変わらず、俯いたままの次朗であったが、会話自体はスムーズになっていた。少しだけ、文花に慣れてきたのだろう。
 文花も、いい女の空気を出すのを、止める。正直、疲れた。
 通常に戻すと、次朗をまじまじと観察できた。純朴そうで、悪い奴ではないと、すぐ分かる。
 はて、どこかで同じ雰囲気を感じたと、不思議に思う。どこかで、確かに感じたはずだ。別に、無理して思い出さなくてもいいはずなのに、妙に気になる。
 その後も、次朗との何気ない会話が続いたが、どうしても思い出せなかった。
         

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