2
「椎名さん……私……」
「俺、期待していい?」
「え?」
「今夜俺に電話してきて、こうして腕の中に居てくれるってことは俺は期待していいの?」
「あ……」
軽率な行動だった。恋人と別れたばかりで男性と二人きり。
私はただ、椎名さんに会いたかった。それしか考えていなかった。彼にはもう警戒なんてしないから。それが私の答えなんだと思う。
私の右手が椎名さんの左手に包まれた。泣いた私の手を握ったときのように、温かいその手の感触にドキドキする。
椎名さんは私の右手に口付ける。そのまま唇を手首に滑らせ、首にキスをする。
「んっ……椎名さん……」
「俺なら夏帆ちゃんの嫌なことはしないって誓うよ」
ブラウスのボタンを外して、修一さんに吸われた肌に椎名さんはそっと手を触れる。
「夏帆ちゃんを俺だけのものにしたい」
体が熱くなっていくのを感じる。無理矢理奪ったりはしないと言ったけど、励まされて、優しい言葉をかけられて、その手で優しく触れられたら、どんどんあなたを好きになってしまう。だってこの人はずっと私の味方でいてくれた。
「こんな私でいいんですか? ブスだし、暗いし、椎名さんに頼りっぱなしだし、すぐ泣くし……」
椎名さんは額にそっとキスをする。
「泣き虫でもいいよ。そのままの夏帆ちゃんがいい」
耳元で囁かれる言葉に体の力が抜けていく。
「弱いところ、俺には見せていいから」
「はい……」
椎名さんの傍にいたらどんな悩みも乗り越えられそうだ。
「夏帆ちゃん、このキスマーク消えたら、俺が新しく付けてもいい?」
大胆な言葉に顔が真っ赤になる。
「キ、キスマークだけなら」
「そうだね……首と、胸と、お腹。あとここにも」
握られていた手が腰まで下りた。そのままスカートの上から太ももを滑る。
「椎名さん……!」
嫌なことはしないと言ったのに早速手を出されている。呆れた私は椎名さんの手の皮膚をつまんだ。
「いてっ!」
椎名さんは慌てて体を離す。
「ごめんごめん」
椎名さんも顔が赤い。軽い言葉とは反対に照れている。
だからこそ、まだ駄目だ。椎名さんのものになるには早すぎる。
「もう少しだけ、待っててくれますか?」
この胸の痣が消えるまで、私はこの人に抱かれることができない。
「うん。もうだいぶ待ってるし、今更待てないなんてことないから」
「ありがとう……ございます……」
「夏帆ちゃん、頑張ったね」
椎名さんの手が頭を優しく撫でた。
ずっと頑張ってきた。ずっと耐えてきた。それを誉めてもらいたかったわけじゃない。でも「頑張ったね」の言葉が胸にしみる。
椎名さんの顔が動いて私の耳の上に唇が触れた。
「あの……椎名さんは女の子なら誰にだってこんなことするんですか?」
「は?」
椎名さんは赤い顔のままムッとした。
「前は遊びで付き合ってる子はいたけど……今はいないし……」
珍しく声には力が入っていない。
「だからこんなこと誰にでもするわけじゃないよ……」
「今日も女の子とご飯のつもりだったのかなとか思っちゃって……」
「違うよ、男とだから。同僚の」
ちょっと怒り気味に言うと、私と反対に顔を向けてしまった。
「女の子だったとしても、こうして夏帆ちゃん優先で来てるし……」
「そうですよね……ごめんなさい……」
まだ付き合ってるわけじゃないのに、こんなこと聞くなんてウザいよね。だけど不安になってしまう。まだ私が知らない椎名さんを。
「はい」
椎名さんはスマートフォンを私に渡した。
「俺の連絡先登録しといてよ。プライベートのやつ。誰にでも教えるわけじゃないから」
「はい……」
誰にでも教えるわけじゃない。でも私には教えてくれる。それを嬉しいと思ってしまった。
私のアドレス帳に新しく椎名さんが追加された。
「俺に女がいるかもって嫉妬してくれたんだ?」
意地悪く言うから私は「そうですよ」と答えた。素直な言葉にまた椎名さんの顔が赤くなったのを見逃さなかった。
「今日はどうする?」
「え?」
「もう終電ないよ」
スマートフォンを見ると確かにもう終電がない時間だ。
「タクシーで帰ります」
「ここに泊まっていきな」
「え!? か、帰ります!」
「タクシーじゃ料金すごいことになるよ。朝になったら車出すから」
「でも……」
「何もしないから」
椎名さんは困ったように笑う。
「じゃあ……お願いします……」
消え入りそうな声で答える。
「ベッド使っていいよ」
「いえ! 大丈夫です!」
「そう? 俺床で寝るよ?」
「ほんとに大丈夫です! 私が床で寝ますので!」
「そっか。じゃあ俺風呂入ってくるね。夏帆ちゃんも入る?」
「大丈夫です! お気になさらず!」
焦る私に笑顔を向けながら椎名さんはバスルームに行った。
スマートフォンで母に『友達の家に泊まる』と連絡する。だいぶ遅い連絡になってしまった。けれど就職してからは母も大人扱いしてくれるので外泊に抵抗はなくなっていた。
「ふぅ……」
自然と溜め息が出る。今日は疲れる一日だった。
明日からどんな顔して会社に行ったらいいのだろう。頑張れるだろうか。椎名さんがそばにいてくれたら……。
部屋を見回すと服も物もキレイに整頓されていた。本棚には植物や資格関連の本が並び、テレビの横には小さな観葉鉢が置かれていた。これは椎名さんが育てているものなのかな。本当に植物が好きなんだな。
仕事が楽しいと言っていたし、3年前は迷っていたけれどアサカグリーンに入社して良かったじゃない。
本棚の本と本の間から紙の端が出ているのが見えた。一部分だけ見える印刷された内容に見覚えがあり、勝手に取るのは失礼だとは思いつつも私はその紙を引っ張った。
それはハローワークで検索した時に印刷される求人票だった。3年前椎名さんが落として私が拾ったアサカグリーンの求人票だ。
あの時会った人にまた再会するなんて思ってもいなかったけど、椎名さんは今もこの紙を捨てずに取っている。折り目がついてボロボロになっても。本棚に求人票を丁寧に戻す。大事にしていることが嬉しいと思ってしまう。
「ん……」
ああ、すごく眠い……。椎名さんの部屋は椎名さんの匂いがいっぱいで安心する……。
「夏帆ちゃん?」
椎名さんの声がする。でも動けない……。
「……夏帆ちゃん、夏帆ちゃん」
「ん……」
「おはよう、朝だよ」
「え……あさ……朝?」
目を開けると目の前には椎名さんの顔がある。
「え……何で椎名さん?」
「寝ぼけてる?」
「えっと……」
意識がはっきりしてきた。かなりの至近距離に椎名さんがいる。
「何で椎名さんがいるんですか?」
「俺んちだからかな」
頭を上げて部屋を見回すと確かに椎名さんの部屋だ。
「完全に寝ぼけてるね」
「すみません……」
恥ずかしくてタオルケットを鼻まで引き上げる。
「今何時ですか?」
「5時」
「早い……よかった、仕事間に合いそう」
「一度家に送っていくね」
「ありがとうございます……でも私床で寝たはずですけど……」
「俺がベッドに載せた」
「え? じゃあ椎名さんも? 私と一緒に寝たんですか?」
「うん。俺んちタオルケット1枚しかないし、まだ夜は肌寒いかなと思って一緒に寝た」
「いつもなら……こうやって部屋に連れ込まれたりしないのに……」
「知ってるよ。断れない夏帆ちゃんの性格を利用してる」
いじわるな笑顔を向けるから恥ずかしくて頭までタオルケットに潜る。
「でも何もしてないから大丈夫だって」
頭の上から椎名さんの笑う声が聞こえる。
「寝顔は堪能したけど」
意地悪く言うからタオルケットを巻き込みながら椎名さんと反対に体をよじる。