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「あ、ありがとうございます……」

女はか細い声でそう言うと、俺の顔を見て自分の顔を赤らめ下を向いた。
こういう地味な女は男に慣れていないんだろうな。
俺は無言で地味女から離れて検索コーナーを出た。

ロビーを歩きながら、そういえば俺だってWordもExcelも文字の入力程度しか使えないじゃないかと思い至った。スーパーの正社員時代は発注などの簡単な入力しかできなくても問題なかった。
俺も一応力入れとくか……。
引き返して窓口で講習の申込書をもらった。
あの子に影響されたのは癪だが、少しだけ自分も未来に目を向けられた気がした。





講習の休憩時間にロビーでコンビニのパンを食べた。
あー……目が疲れる……。スマホ見てるより疲れる。
この講習を受けても仕事決まらなかったら俺もうずっとフリーターでいいや。
そんなことを思っているとロビーに地味子、北川夏帆がやって来た。
俺が座る向かい側のソファーに座り、コンビニで買ってきたらしき菓子パンを食べ始めた。俺はその様子をぼんやり見ていた。

高校生……な訳ないか。思えば高校生が昼間からこんなとこ来ないだろうし。フリーターか? まだ未成年に見えるけど。
惜しいな。あの黒縁メガネをはずして化粧をしたら少しはマシになるんじゃね? 顔は悪くないのにずれてるんだよな……。

「ここいいですか?」

北川夏帆の隣に同じく講習を受けている二十代後半くらいの女が座った。

「あなたも事務系を考えてるの?」

「一応……」

女は北川夏帆に話しかけ始めた。グレーのパーカーにジーンズという地味な服装の北川夏帆とは逆に、女は明るいワンピースを着こなしていた。

「私前職はアパレルだったんだけど、30歳目前でこれでいいのかって思っちゃってー。事務系なら出産後も働けそうだしね」

「そうですね」

「やっぱExcelくらい使えなきゃねー」

「そうですね」

北川夏帆は見た目通りに面白味のない言葉しか言わなかった。

「学生さん?」

「いえ、今はフリーターです。つい最近までは学生だったんですけど……」

「そっか……」

踏み込んでもいけないと思ったのか、女はそれ以上の質問をしなかった。

中退でもしたのか? まあ俺みたいに適当に学生やってたくらいなら就職した方が賢い生き方だよな。
こんな地味女を気にしている場合ではない。休憩時間はあと20分。俺もそろそろ本気を出さないと生活できなくなる。頭から北川夏帆の存在を消し、スマートフォンで求人サイトを開いた。





複数の企業に履歴書を送ったが半分以上送り返され、面接をした企業全てから不採用通知が届いた。
そろそろ貯金も底をつく。自分の見通しの甘さが嫌になる。

もう俺を採用してくれる企業なんてないんじゃないか……? 特技もやりたいこともない、こんなつまらない俺を誰も必要とはしないんだ。
全て悲観的にしか考えられない。無計画に仕事を辞めたことを後悔していた。

ハローワークの廊下で盛大に溜め息をついた。
カサっと紙が擦れる音がして顔を上げると、俺以外誰もいないと思っていた廊下にもう一人いた。向かいのイスに座って俺を見ているのは北川夏帆だった。
俺と目が合うと慌てて下を向いて書類を整理し始めた。
いつからいたのだろう。溜め息を聞かれたことが恥ずかしくなった。この子には余裕のなさを見られたくない。
そう思ったとき廊下に携帯の鳴る音が響いた。俺のではないこのシンプルな着信音は北川夏帆の携帯だった。慌ててカバンからスマートフォンを出すと、音が出たことを申し訳なく思ったのか俺に軽く頭を下げて電話に出た。

「もしもし……はい、そうです……はい……はい……」

北川夏帆は俺に遠慮してか小さい声で話していた。地味女の電話に興味はない。俺は先程印刷した求人票に目を通した。

「え? はい……はい! ありがとうございます!」

一転して明るくなった声音に俺は顔を上げ北川夏帆を見た。

「はい! ありがとうございました! 失礼致します」

通話を終えた北川夏帆はスマートフォンを握り締め、見たこともない笑顔を見せた。

ああ、この子仕事決まったんだ……。

自分の置かれた境遇を思うと一瞬妬む気持ちが湧いたが、就活から解放され安心した表情に俺もつられて笑ってしまった。

北川夏帆は今度は自分から電話をかけ始めた。

「あ、もしもしお母さん? あのね、決まったよ! 採用してもらえたの!」

俺の存在を忘れてしまったかのように、北川夏帆の声は喜びと未来への希望を含んで廊下に響いた。それをうるさいとは思わなかった。
今にも泣きそうな北川夏帆の顔からして、電話の向こうの母親の喜ぶ姿も想像できた。

「これで千秋の入学金も払えるね! ……うん!」

入学金? この子は家族の生活もかけて仕事を探していたのだろうか?

「今から帰るね。じゃあね」

再び通話を終えると、北川夏帆は安心からか先程の俺よりも大きく息を吐いた。

「あっ……」

やっと俺の存在を思い出したのか、「すみません……うるさくしてしまって……」と謝った。こんな俺にすら気を遣う北川夏帆に微笑んで「おめでとう」と心から言った。

「ありがとうございます……」

顔を赤くして下を向く姿は見慣れてしまった。その態度をバカにすることはもうしない。今の北川夏帆は俺なんかよりもキラキラと輝いていた。

俺は帰るために立ち上がった。
もう北川夏帆と会うことはないだろう。自分がつまらない人間だと思い知らされる機会も減ってくれる。

「あの、落としましたよ……」

か細い声に振り返ると北川夏帆が床に落ちた紙を拾うところだった。俺が膝に置いていた求人票が立ち上がった拍子に落ちてしまったのだろう。

「ありがとう」

俺は求人票を受けとると、近くにあるゴミ箱へ近づき捨てようとした。

「待って!」

大きな声に思わず手が止まった。

「捨てちゃうんですか?」

「ああ……うん。どうせ受けても不採用だろうし」

「その会社が一生勤められる会社かもしれないですよ……」

北川夏帆は顔を真っ赤にして俺に訴えた。

「捨ててもいいんだ。事業内容に興味がないから。面接してもらったって、先方は俺の態度を見抜くよ」

求人票の会社は植物を扱う。今まで植物に興味があったことがないし、これからも好きになるとは思えなかった。

「それでも新しい発見があるかもですし、この会社が自分を必要だって思ってくれるかもしれないから……」

そう言う北川夏帆の顔は更に赤くなった。前向きすぎる言葉に俺は笑ってしまった。
地味女のくせにポジティブだな。本当に君はキラキラしてる。
今日は北川夏帆に何度も笑顔にさせられた。

俺は求人票を持つ手をゴミ箱の上から引っ込め、俯く北川夏帆に近づいた。顔を覗き込み「ありがとね」と優しく言った。

「いえ……」

恥ずかしそうに笑う顔を見て心が揺れた。
やっぱりメガネをはずした方が可愛いかもしれない。
触れようと思わず伸ばした手の先に彼女はもういなかった。真っ赤な顔のまま俺の横を抜け、早足で階段を下りてしまった。
宙に上げたままの手をゆっくり下ろした。北川夏帆に向かって手を伸ばした自分の行動に動揺した。

地味で暗い、男慣れしてない女だろ? 完全に俺の趣味じゃない。いつもなら気にも留めずすぐに忘れてしまうような女だ。それなのに…
…。

俺は階段を駆け下り北川夏帆の後を追った。自動ドアから外に出ても、もう彼女の姿はどこにもなかった。

駅の方かバス停か、それとも自転車か? そもそも追いかけてどうするんだ? 連絡先を聞いたとして、あの子が俺と付き合ってくれるとでも? 今の俺は北川夏帆に釣り合うような男じゃないのに……?

俺は再びハローワークの建物の中に戻ると、窓口で手に持っている求人票の会社を紹介してもらった。
この会社が俺でもいいって思ってもらえたなら……。


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